⇒歴代皇帝(,,三国,,北朝,南朝,,,五代,,,,
[遼(916〜1125)]
耶律阿保機(872〜926)
  漢名は億。遼の初代太祖。在位916〜926。契丹の迭剌部の出身。長じては長身九尺の偉丈夫となった。はじめ痕徳菫可汗に仕えて軍功を立てた。とくに南方を経略して奚部族を従え、さらに華北に侵入して多くの漢人を契丹内地に遷した。韓延徽らの漢人を登用して漢文化を摂取。ついに契丹諸部族を統一し、汗位についた。諸部の大人たちに迫られて一度は汗位を譲ったが、間もなく諸部の大人らを誘殺して、契丹諸部を統合した。916年、皇帝を称し、国号を契丹とし、神冊と建元した。西方に遠征して、突厥・吐渾・タングート・沙陀など諸部族を征討し、外蒙古から東トルキスタンまでを征服した。次いで東方に兵を出して、926年に渤海国を滅ぼした。凱旋の途中、扶余府でにわかに没した。

耶律徳光(902〜947)
  契丹名は堯骨。字は徳謹。遼の二代太宗。在位926〜947。太祖(耶律阿保機)の次男。天賛元年(922)、天下兵馬大元帥となり、太祖の出征に従った。天顕元年(926)、太祖が崩ずると、母の述律氏の称制の後、長兄の耶律倍に譲られて帝位についた。中国文化の摂取につとめ、唐に倣って百官の制を整え、衣冠・服飾を改めた。また中原の経略に力をそそぎ、十一年(936)には石敬塘の後晋建国を助け、燕雲十六州の割譲を受けた。後晋が遼に従わなくなると、会同十年(947)、南征して後晋を滅ぼし、華北一帯を占領した。しかし、漢人の叛乱が続発し、また熱暑に悩まされたため、軍を本国に帰す途中、病にたおれて欒城で没した。

耶律阮(918〜951)
  契丹名は兀欲。遼の三代世宗。在位947〜951。耶律倍の子。会同九年(946)、太宗(耶律徳光)に従って後晋を攻めた。翌年、永康王に封ぜられた。太宗が崩ずると、鎮陽で群臣に擁立されて即位した。ときに祖母の述律太后が上京で太祖(耶律阿保機)の三男の李胡を立てていたので、帝は兵を率いて北に帰り、潢河にいたると、太后と李胡は降った。天禄四年(950)、兵を率いて後漢を攻めた。翌年、後周を攻めた。軍が帰化州祥古山にいたると、察割によって殺された。

耶律m(931〜969)
  契丹名は述律。遼の四代穆宗。在位951〜969。太宗(耶律徳光)の長男。会同二年(939)、寿安王に封ぜられた。天禄五年(951)、世宗(耶律阮)の南征に従った。世宗が察割に害されると、兵を率いて察割を誅殺し、帝位についた。在位中、王室の内部でたびたび謀反事件が起こった。対外的には北漢を援助して後周と対抗した。応暦十九年(969)二月、近侍の小哥ら六人に殺された。

耶律賢(948〜982)
  字は賢寧。契丹名は明扆。遼の五代景宗。在位969〜982。世宗(耶律阮)の次男。応暦十九年(969)、穆宗が弑されると、群臣の勧進を受けて帝位につき、天賛皇帝を号した。保寧と改元した。保寧二年(970)、南院枢密使で漢人の高が、蕭海只・海里らを使って北院枢密使の蕭思温を刺殺させた。八年(976)に高を罷免し、のち殺させた。漢人の韓匡嗣・韓徳譲親子を任用して、前後して南院枢密使をつとめさせた。翌年、一貫して支援してきた北漢が宋に滅ぼされた。耶律沙が宋軍と高梁河で戦い、後退したところ、耶律休哥・耶律斜軫が宋軍に横撃を加えて大いに破った。乾亨二年(980)、兵を率いて親征し、宋軍を瓦橋関の東で破った。四年(982)、雲州で病のため崩じた。

耶律隆緒(971〜1031)
  契丹名は文殊奴。遼の六代聖宗。在位982〜1031。景宗(耶律賢)の子。乾亨四年(982)九月、景宗が崩ずると、十二歳で帝位についた。統和と改元し、承天太后が摂政した。統和元年(983)、国号を大契丹と改めた。二十二年(1004)、承天太后に従って宋を攻め、宋との間に澶淵の盟を結んで帰還した。二十七年(1009)、承天太后が病没すると、親政をはじめた。法律を修訂し、奴隷を赦免し、二十四部を設置し、燕薊の漢人良工を招いて中京城を建てさせた。西方の韃靼を破り、甘州や西州の回鶻を来貢させた。東は高麗に侵入し、和平を結んだ。在位は四十九年におよび、遼の全盛期であった。

耶律宗真(1016〜1055)
  字は夷不菫。契丹名は只骨。遼の七代興宗。在位1031〜1055。聖宗(耶律隆緒)の長男。母は蕭氏(耨斤)。斉天皇后(菩薩哥)に養育された。三歳で梁王に封ぜられ、太平元年(1021)に皇太子に立てられた。十一年(1031)六月、聖宗が崩ずると、十六歳にして即位した。景福と改元した。生母の耨斤が皇太后となり、摂政した。重煕元年(1032)、皇太后が斉天皇后を誣告して上京にうつし自殺させた。三年(1034)、皇太后を慶州七括宮に幽閉し、親政をはじめた。十一年(1042)、西夏と交戦中の北宋に圧力をかけ、歳幣に絹十万疋・銀十万両を上乗せさせた。また十三年(1044)、西夏を討って称藩させた。二十四年(1055)八月、秋山の行帳で病のため崩じた。

耶律洪基(1032〜1101)
  字は涅鄰。契丹名は査剌。遼の八代道宗。在位1055〜1101。興宗(耶律宗真)の長男。興宗のとき、総北南院枢密使事・尚書令をつとめ、天下兵馬大元帥に進んだ。重煕二十四年(1055)、興宗が崩ずると、帝位についた。清寧と改元した。興宗の弟の耶律重元を皇太叔とし、天下兵馬大元帥の号を加えた。清寧九年(1063)、重元が帝位を奪おうと謀ったので、耶律仁先・耶律乙辛らを派遣して乱を平定させ、重元を自殺させた。咸雍二年(1066)、国号を大遼に改めた。この後、耶律乙辛が専権を握り、宣懿皇后を誣告して陥れたり、皇太子耶律浚を謀殺したりした。大康七年(1081)、乙辛の党を誅殺した。在位は四十五年に及び、漢文化を愛好し、儒学を学んだ。詩賦を多く作って『清寧集』を編したが、今は散佚している。

耶律延禧(1075〜1128)
  名は阿果。字は延寧。遼の九代天祚帝。在位1101〜1125。耶律濬の子。道宗(耶律洪基)の孫にあたる。乾統元年(1101)、道宗の死後に即位した。天慶四年(1114)、女真の完顏阿骨打が遼にそむいて起兵し、翌年に金国を建てて皇帝を称したため、軍を率いて金を攻めたが、かえって大敗した。六年(1116)、渤海人の高永昌が東京に拠って遼にそむき、金に救援を求めた。金軍は勢いに乗って東京を取り、遼東の五十四州の地を席巻した。保大二年(1122)にいたって、遼の上京・中京・西京・南京は相次いで失陥した。天祚帝は西京より入夾山に逃げ、さらに天徳軍に逃げて、雲内州にいたった。残軍を率いて東進し、再起を図ろうとしたが、また金軍に敗れた。五年(1125)、応州の東で捕らえられ、遼は滅んだ。金に降ったのち、海濱王に封ぜられた。のち病死した。

[金(1115〜1234)]
完顔阿骨打(1068〜1123)
  漢名は旻。金の初代太祖。在位1115〜1123。完顔劾里鉢(世祖)の次男。母は拏懶氏。生女真の按出虎水完顔部の首長の家に生まれた。父・叔父・兄に従って、完顔部の勢力拡大に尽力した。天慶三年(1113)、兄の烏雅束の跡を継いで首長となり、都勃極烈の地位についた。翌年、遼に叛旗を翻して寧江州を占領した。さらに翌年、女真人による民族国家建設を宣言して、皇帝に即位した。国号は金。収国と建元した。同年、遼の天祚帝の大軍を護歩荅岡で撃破した。宋と結んで遼を挟撃することが議され、天輔五年(1121)には遼の中京、西京を陥し、翌年には燕京を陥落させた。さらに遼の天祚帝を追討しようとしたが、発病したため会寧府に帰還する途中、部堵濼で没した。統治者としては、上には勃極烈制を設けて中央統治組織を固め、下には猛安・謀克制を布いて女真人の行政・軍事組織を整えた。

完顔呉乞買(1075〜1135)
  漢名は晟。金の二代太宗。在位1123〜1135。完顔劾里鉢(世祖)の四男。母は拏懶氏。収国元年(1115)、太祖(完顔阿骨打)の建国を助け、諳班勃極烈となる。天輔七年(1123)八月、太祖が崩ずると、九月に即位した。天会三年(1125)、遼を滅ぼし、遼の天祚帝を捕らえた。同年十月、南下して宋を攻めた。四年(1126)、汴京に入り、北宋を滅ぼした。五年(1127)、宋の徽宗・欽宗二帝を北に連れ去った。まもなく大挙して南宋に攻め入り、連年兵を用いた。勃極烈制度を改革し、中央軍政機構とした。燕雲の漢人地域には漢官の制を採用した。汴京地域には劉予に斉を建国させて藩国とした。科挙を実施して漢人の官僚を採用したほか、軍事制度も遼や宋の旧制をまねて、元帥府を設け、諸軍に都監を置いた。女真人は漢地にうつらせ、漢人や契丹人を東北に移住させた。

完顔合剌(1119〜1149)
  漢名は亶。金の三代熙宗。在位1135〜1149。完顔宗峻の長男。天会十年(1132)、諳班勃極烈に立てられた。十三年(1135)、太宗(完顔呉乞買)が崩ずると、帝位についた。勃極烈制を廃し、中国的官制を採用して、皇帝権を強化した。劉予の斉国を廃して、河南・陝西を直接統治下においた。会寧府を築いて、上京とした。朝中の貴族間で紛争し、完顔宗磐・完顔希尹らが相次いで害され、政権は完顔宗弼の手に落ちた。皇統二年(1142)、南宋との間に銀二十五万両・絹二十五万疋を歳貢として納めさせる講和を結んだ。宗弼の死後、完顔宗敏・完顔宗本・完顔勗・完顔亮らがまた権を争った。帝は飲酒にふけり、近臣を殺して人望を失った。九年(1149)、帝は完顔亮らに寝所で殺害された。

完顔迪古乃(1126〜1161)
  漢名は亮。字は元功。金の四代海陵王。廃帝亮。在位1149〜1161。完顔宗幹の次男。母は大氏。熱烈な中国文化愛好者であった。熙宗(完顔合剌)のもとで平章政事に上った。熙宗が酒乱によって人望を失うと、皇統九年(1149)末に熙宗を殺害して帝位に就いた。即位後、完顔秉徳・唐括弁・宗懿および太宗の子孫七十余人を殺した。漢人・契丹人・渤海人を多く登用して、中国化政策を進めた。天徳二年(1150)、行台尚書省を廃した。貞元元年(1153)、上京会寧府から燕京に遷都し、中都と称した。五京の制を定めた。正隆元年(1156)、正隆官制を公布し、大量の交鈔を印刷し貨幣を鋳させ、女真人を南方に遷して耕作に従事させた。六年(1161)、群臣の反対を押し切って南宋討伐の軍を起こし、三十二総管の兵を率いて長江岸まで親征したが、戦果が上がらなかった。西北では契丹が叛乱を起こし、東北においては東京留守の完顔烏禄(のちの世宗)が自立した。迪古乃は、叛乱した完顔元宜のため、揚州の陣中において殺された。世宗は、迪古乃を海陵郡王に封じ、のち庶人の地位に落とした。

完顔烏禄(1123〜1189)
  漢名は雍。金の五代世宗。在位1161〜1189。完顔宗輔の子。はじめ葛王に封ぜられ、海陵王(完顔迪古乃)のときに東京留守に任ぜられた。正隆六年(1161)十月、遼陽において帝を称した。まもなく中都を占拠してここに拠った。南征軍が海陵王を殺すと北帰させた。即位後、契丹人の叛乱を鎮めるなど、国内秩序の回復をはかった。大定五年(1165)、南宋と講和した。官費を倹約し、官員を減らし、租税を軽減して、民生をはかった。政治に精励して小堯舜と称された。

完顔麻達葛(1168〜1208)
  漢名はm。金の六代章宗。在位1189〜1208。金蓮川麻達葛山で生まれたため、名づけられた。完顔允恭の子。大定二十五年(1185)、父が薨ずると、原王に封ぜられた。翌年、尚書右丞相となり、皇太孫に立てられた。二十九年(1189)、世宗が崩ずると、帝位についた。礼楽を定め、官制を改め、世宗朝の各種制度を改廃した。帝は漢文化を愛好し、書籍や名人書画を蒐集した。科挙を実施し、孔子廟を建て、『遼史』を編纂させた。完顔襄らに韃靼諸部を攻めさせ、国境に濠をめぐらせた。僕散揆らが南宋を破り、金宋間の盟約を復活させた。後世に「尚志の君」と称されるが、治世は奢侈の風が強く、財政も悪化し、金朝の衰運がすでにあらわれていた。

完顔永済(?〜1213)
  金の七代衛紹王。在位1208〜1213。世宗(完顔烏禄)の七男。世宗のとき、衛王に封ぜられた。章宗に子がなく、後嗣に立てられた。太和八年(1208)、章宗が崩ずると、帝位についた。太安三年(1211)より連年にわたって蒙古軍の侵入を受け、金軍はしばしば敗れた。至寧元年(1213)八月、胡沙虎が兵を率いて宮中に入り、帝を捕らえ、宦官の李思中に殺させた。在位五年。貞祐四年(1216)に、衛王に追復された。

完顔吾睹補(1163〜1223)
  漢名はc。金の八代宣宗。在位1213〜1223。完顔允恭の長男。豊・翼・邢・升王などに封ぜられ、彰徳軍を掌握した。至寧元年(1213)、胡沙虎が衛紹王を殺すと、彰徳府に迎えがよこされて帝に擁立された。即位後、蒙古に使者を送って講和を求めると、蒙古軍は北帰した。貞祐二年(1214)五月に汴に遷都すると、蒙古の怒りを買い、翌年には中都を失陥した。この後、河北・山西の重鎮は連続して蒙古に落とされ、対宋・対西夏の戦争も失敗つづきで、国勢は日々衰えた。

完顔寧甲速(1198〜1234)
  漢名は守緒。金の九代哀宗。在位1223〜1234。宣宗(完顔吾睹補)の三男。貞祐四年(1216)、太子に立てられた。元光二年(1223)、宣宗が崩ずると、軍を率いて兄の完顔守純を捕らえ、帝位についた。武仙らの地方武装集団を招撫し、対宋戦争を停止するなどして、蒙古に対する防御に全力を傾注した。正大九年(1232)、三峰山の戦いに大敗して、汴京が囲まれた。汴京を捨てて蔡州に入ったが、蒙古と宋の両軍に囲まれた。天興三年(1234)正月戊申夜、完顔承麟に譲位した。翌日、自ら縊死した。

完顔承麟(?〜1234)
  金の十代末帝。在位1234。哀宗のとき、東面元帥となった。天興三年(1234)正月、哀宗から帝位を譲られた。宋軍が蔡州城に入ると、乱兵によって殺され、金は滅んだ。

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[元(1271〜1368)]
フビライ(1215〜1294)
  忽必烈。元の世祖。セチェン・ハーン(薛禅合罕)。聖徳神功文武皇帝。在位1271〜1294。チンギス・ハーンの末子トゥルイの四男。南宋攻略の総督となって遠征した。1256年、東モンゴルに開平を建設。1259年、南宋遠征の前線で、兄モンケ・ハーンの訃報を受けると、大軍を率いて北帰。翌年、開平でクリルタイを召集し、モンゴル帝国の第五代のハーン位に推戴された。一方、帝都カラコルムでは、末弟アリクブカがハーン位に推戴された。フビライは北中国の支配権を背景に、軍事的優勢に立ち、1264年アリクブカを屈服させた。燕京を中都、開平を上都として、モンゴル高原と北中国に覇権を確立した。だが、モンゴル帝国の解体は進んだ。弟のフラグによるイル・ハン国の統治権を認めて、これと結び、オゴタイの孫のハイドゥを首領としてキプチャク・ハン国、チャガタイ・ハン国が結んだ連合軍と四十年にわたって抗争した。1271年、国号を元とし、中国風の国家建設を目指した。翌年、中都(燕京)を大都と改めた。1276年南宋首都の臨安を陥落させ、1279年南宋の残党を広東克Rの海上で滅ぼした。高麗を従属させ、二回にわたって日本遠征(1274年,1281年)をおこなったが、失敗。統治手段としては、モンゴル人・色目人(西域人)・漢人(金の遺民)・南人(南宋の遺民)の身分階級制を作った。また、チベット仏教に傾倒して、パスパを国師と拝した。チベット文字をもとにパスパ文字と呼ばれるモンゴル新字を作らせた。
テムル(1265〜1307)
  鉄穆耳。元の成宗。オルジェイト・ハーン(完沢篤合罕)。欽明広孝皇帝。在位1294〜1307。世祖(フビライ)の太子チンキムの三男。至元三十年(1293)、皇太子となり、北辺の兵を統括した。翌年、世祖が崩ずると、帝位についた。諸王投下の権力を制限し、江南の賦税を減免した。甥のカイシャンを西北戦線に投入し、ハイドゥとの戦争に勝利し、ドゥア、チャパルを服従させた。病弱で、晩年は皇后のブルガン・カトン(卜魯罕)が執政した。

カイシャン(1281〜1311)
  海山。元の武宗。クルク・ハーン(曲律合罕)。仁恵宣孝皇帝。在位1307〜1311。ダルマバラ(荅剌麻八剌)の長男。母はコンギラト(弘吉剌)氏のダギ(答己)。北辺の兵を統括し、ハイドゥを迎え撃って、これを連破した。大徳八年(1304)、懐寧王に封ぜられた。十年(1306)、オゴタイ・ハン国に進攻し、ハイドゥの子のチャパルを逐った。十一年(1307)、成宗(テムル)が崩ずると、兵を率いて東上し、上都で帝位につき、弟のアユルバルワダを皇太子とした。至大二年(1309)、尚書省を立てた。在位中、賞賜を濫発し、至大銀鈔や至大銅銭を発行した。元朝の最盛期をもたらすとともに、その放漫財政は元朝を蝕む宿痾となった。四年(1311)正月、病のため急死した。

アユルバルワダ(1285〜1320)
  愛育黎抜八達。元の仁宗。ブヤント・ハーン(普顔篤合罕)。聖文欽孝皇帝。在位1311〜1320。ダルマバラの次男。母はコンギラト氏のダギ。幼くして李孟に師事し、儒学を学んだ。大徳九年(1305)、母とともに懐州に流された。十一年(1307)、成宗(テムル)が崩ずると、大都に帰り、右丞相ハラハスン(哈剌哈孫)と謀って安西王アナンダ(阿難答)らの自立の陰謀をくじいた。兄のカイシャン(武宗)が兵を率いて東上すると、迎えて皇帝に立てた。自分の死後は兄の子を立てることを約して、その皇太子となった。至大四年(1311)、武宗が崩ずると、帝位についた。尚書省を廃止し、尚書省の諸臣たちを殺して、李孟ら漢人儒臣たちを任用した。延祐元年(1314)、科挙を実施した。西北に出兵してチャガタイ・ハンのエセン・ブカを破った。武宗の子を立てるという約定を破り、自分の子のシディバラを皇太子に立てた。

シディバラ(1303〜1323)
  碩徳八剌。元の英宗。ケゲーン・ハーン(格堅合罕)。在位1320〜1323。仁宗の子。幼くして漢儒に従い、経史を学んだ。延祐七年(1320)三月、帝位についた。バイジュ(拝住)を左丞相に任じ、廃立をはかった罪で太皇太后ダギの倖臣の黒驢・失烈門・亦烈失八や前左丞相の阿散らを処刑した。また右丞相テムデル(鉄木迭児)を遠ざけた。至治二年(1322)、ダギやテムデルが相次いで病没すると、バイジュを右丞相とした。翌年、大元通制を公布した。八月、御史大夫テクシ(鉄失)らに南坡店で刺殺された。仁宗と英宗の治世は、帝自身が儒学を学び、科挙が小規模ながらも再開されたため、史書に美化される傾向が強い。

イスン・テムル(1293〜1328)
  也孫鉄木児。元の泰定帝。在位1323〜1328。晋王カマラ(甘麻剌)の子。大徳六年(1302)、父の跡を継いで晋王となった。至治三年(1323)、英宗が害されると、御史大夫テクシらによって帝に擁立された。まもなく英宗殺害の罪を問うてテクシらの党を誅罰し、仁宗のときに流されていた諸王を赦した。科挙を廃止してモンゴル色の強い政権を作った。ウイグル人のタオラジャ(倒剌沙)を寵遇して相とした。致和元年(1328)九月、病のため上都で崩じた。

アリギバ(1320〜?)
  阿剌吉八。アスキバ(阿速吉八)、ラジャピカ(羅闍畢迦)ともいう。元の天順帝。在位1328。泰定帝(イスン・テムル)の子。泰定元年(1324)三月、皇太子に立てられた。致和元年(1328)七月に泰定帝が崩ずると、翌月に上都で丞相のタオラジャらによって帝に擁立された。大都に立ったトク・テムル(文宗)と争ったが、敗れた。その後は知られていない。

コシラ(1300〜1329)
  和世ラ
※6。元の明宗。フトゥクト・ハーン(護都篤合罕)。在位1329。武宗(カイシャン)の長男。延祐三年(1316)、周王に封ぜられ、雲南に流された。赴任途中の延安で叛乱をはかったとして襲撃され殺されかけた。西方はアルタイ西麓に逃れ、西北諸王を帰順させた。致和元年(1328)七月に泰定帝(イスン・テムル)が崩ずると、弟のトク・テムルが大都に入り、皇太子アリキバを討った。天暦二年(1329)正月、カラコルムの北で帝位についた。四月、トク・テムルを皇太子に立てた。八月、エル・テムルに毒殺された。
トク・テムル(1304〜1332)
  図帖睦爾。元の文宗。ジャヤート・ハーン(札牙篤合罕)。在位1328〜1329、1329〜1332。武宗(カイシャン)の次男。母は唐兀氏。英宗(シデバラ)のとき、海南島に流された。泰定帝(イスン・テムル)が即位すると、京師に召され、懐王に封ぜられた。泰定二年(1325)、建康にうつり、のち江陵にうつされた。致和元年(1328)七月に泰定帝が崩ずると、八月に上都で皇太子アリキバが擁立された。大都ではキプチャク貴族のエル・テムルによりトク・テムルが擁立される。十月に上都を陥落させた。天暦二年(1329)正月、兄のコシラが東上し、カラコルムで帝を称した(明宗)。四月、トク・テムルは明宗に玉璽を譲り、皇太子となった。八月、上都で兄弟が対面したが、まもなく明宗は崩じた。このため再び帝位についた。四川・雲南における諸王の叛乱を鎮圧した。奎章閣や学士院を建て、名儒を招聘し、儒学を講義させ、『経世大典』を編纂させて、朱子学を唱導した。また仏戒を受けて、仏教を尊崇した。朝政はエル・テムルらの貴族によって牛耳られた。上都で病のため崩じた。

イリンジバル(1326〜1332)
  懿璘質班。リンチェンバル(額琳沁巴勒)。元の寧宗。在位1332。明宗(コシラ)の次男。母は八不沙后。天暦三年(1330)、鄜王に封ぜられた。至順三年(1332)八月、文宗(トク・テムル)が崩ずるにあたって、明宗の子を立てるよう遺命が残されていた。十月、エル・テムルに擁されて帝位についた。十一月、在位四十三日にして崩じた。享年七歳だった。

トゴン・テムル(1320〜1370)
  妥懽帖睦爾。元の順帝。ウハート・ハーン(烏哈噶図合罕)。廟号は恵宗。在位1333〜1370。明宗(コシラ)の長男。明宗が害されると、広西の静江に流された。至順三年(1332)、文宗・寧宗が相次いで世を去り、文宗の后はかれを立てることを求めたが、権臣エル・テムルが先延ばしにしていた。エル・テムルが亡くなると、上都で即位した。右丞相バヤン(伯顔)がエル・テムルの旧党を除き、専権をうち立てた。至元六年(1340)、帝はトクトを支持し、バヤンを逐った。トクトが政治改革に当たったが、すでに元朝の積年の病弊は膏肓に入っていた。至正十四年(1351)、白蓮教の叛乱が起こり、争乱が拡大した。十四年(1354)、トクトが張士誠の討伐に兵を発し、高郵を囲んだが、自立の野心ありと疑われて帝の命により捕らえられ、トクトは失脚した。二十八年(1368)、明軍が大都に迫ると、応昌に避難した。二年後、病のため崩じた。皇太子のアユシリダラが継ぎ、以後は北元として明と対抗することとなる。
歴代皇帝(明)

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