⇒歴代皇帝(秦,漢,三国,晋,北朝,南朝,隋,唐,五代,宋,元,明,清)
[北宋(960〜1127)]
趙匡胤(927〜976)
北宋の初代太祖。在位960〜976。涿郡の人。趙弘殷の次男。母は杜氏。洛陽東郊の夾馬営に生まれた。後唐の荘宗(李存勗)に見出され、その禁軍に入った。後漢の乾祐元年(948)、郭威の幕下に投じた。広順初年、滑州副指揮に任ぜられた。後周の世宗(柴栄)に従って北漢を防ぎ、淮南を征し、殿前都点検・宋州節度使の要職に上った。顕徳七年(960)、契丹(遼)に対する遠征の途上、いわゆる陳橋の兵変により、推戴されて帝位についた。酔って眼を覚ますと黄袍を着せられていて、将兵から万歳の歓呼を浴びたという。禁軍を強化して、天下平定の戦いを進め、呉越・北漢を除く地方独立国を次々と征服。武官専横の社会から文治政治の社会への転換を図り、科挙官僚を登用して要職にすえた。中央の門下省を廃して、六部を皇帝に直属させ、皇帝権力の強化を図った。また地方の節度使の軍権・徴税権を回収して、中央の直轄とし、文官の知州を派遣して治めさせた。
趙匡義(930〜997)
北宋の二代太宗。在位976〜997。趙弘殷の三男で、趙匡胤の弟にあたる。陳橋の兵変において、兄太祖即位の立役者であった。建隆元年(960)、殿前都虞侯となり、兄の諱を避けて光義と改め、泰寧軍節度使に任ぜられた。翌年、開封尹となる。開宝六年(973)、晋王に封ぜられた。九年(976)、兄の跡をついで帝位につき、Qと改名した。いわゆる「燭影斧声千古の疑」で兄殺しの疑惑をかけられたまま玉座に上った。太平興国三年(978)に平海軍節度使の陳洪進や呉越の銭俶が相次いで入朝し、翌年には親征して北漢を平定して、中国は再び統一の時代を迎えた。勝利に乗じて遼を攻めたが、高梁河の戦いで大敗して帰還した。太祖の創業を受け継いで、科挙官僚を登用し文人政治を推進した。武徳司という監察機関を皇城司と名を改めて強化し、皇帝の独裁権力を強化した。崇文院を建てて、『太平御覧』などの書を編纂させ、文を重んじる気風が強まった。文治の推進にともなって武力は低下し、燕雲十六州の奪回は困難となり、また西夏の勃興を防ぎきれなかった。ほか異母弟の秦王廷美や太祖の子の徳昭や徳芳らを害して、内紛の芽を断った。淳化年間に王小波や李順の乱を鎮圧した。
趙恒(968〜1022)
北宋の三代真宗。在位997〜1022。太宗(趙Q)の子。太平興国八年(983)に韓王に封ぜられ、端拱元年(988)に襄王に封ぜられ、淳化五年(994)に寿王に封ぜられて、開封尹に任ぜられた。至道元年(995)、太子となり、判開封府事をつとめた。三年(997)、太宗が崩ずると、即位。当初は政治に精励し、全国を十五路に分けて、各路の転運使に京師への物流路を確保させた。景徳元年(1004)、遼軍が南下すると、寇準にうながされて親征し、遼との間に澶淵の盟を結んで講和した。のちに王欽若を信任して、財政は放漫となり、民衆の負担は増加した。五年(1008)、天書を迎えたてまつって、大中祥符と改元した。東に泰山で封禅をおこない、西に汾陰で封祀し、曲阜の孔子廟や亳州太清宮に詣でた。
趙禎(1010〜1063)
北宋の四代仁宗。在位1022〜1063。真宗(趙恒)の子。大中祥符八年(1015)、寿春郡王に封ぜられた。天禧二年(1018)、升王に封ぜられ、太子に立てられた。乾興元年(1022)、真宗が崩ずると、即位した。はじめ劉太后が垂簾聴政し、寇準・丁謂らが輔政して成果をあげた。明道二年(1033)、太后が亡くなると、親政をはじめ、韓g・范仲淹・欧陽脩らが輔政して、治世の中期には慶暦の治と称される一時期を現出した。康定元年(1040)、宋と西夏の間に戦いが起こると、宋軍は三川口の戦い、好川口の戦い、定川砦の戦いと大敗を重ねた。慶暦三年(1043)、絹十三万疋・銀五万両・茶三万斤を歳賜として西夏に供与し、李元昊を夏王として認めることで、講和が成立した。その前年、遼が宋夏間の紛争に乗じて圧力をかけ、歳幣額に絹十万疋・銀十万両を上乗せしている。軍費の増大など、年ごとに歳出は増大して、改革の必要性が認識されるようになった。
趙曙(1032〜1067)
もとの名は宗実。北宋の五代英宗。在位1063〜1067。濮王允譲の十三男。嘉祐七年(1062)、皇子に立てられ、曙と改名し、鉅鹿郡公に封ぜられた。翌年、仁宗が崩ずると、帝位についた。病のため、曹太后が垂簾聴政した。治平元年(1064)、病が癒えると親政をはじめた。三年(1066)、西夏が宋を攻めると、使者を送って詰問させ、和平を回復した。司馬光が『通志』八巻を撰して献上すると、書局を置き官を設けて編纂を継続させ、のちに『資治通鑑』として結実した。
趙頊(1048〜1085)
北宋の六代神宗。在位1067〜1085。英宗(趙曙)の長男。嘉祐八年(1063)に淮陽郡王に封ぜられ、治平元年(1064)に穎王に封ぜられた。三年(1066)、皇太子に立てられた。翌年、英宗が崩ずると即位。煕寧二年(1069)、王安石を参知政事に任じ、翌年には宰相に起用して、新法による改革を断行。旧法党による猛烈な反対を受け、二度王安石を宰相から去らせた。新法の改革は財政的には一定の効果を上げた。しかし、新旧両党の党争を生み出したことは、のちの宋朝の土台を揺るがす禍根となった。元豊三年(1080)、官制を改革し、元豊の改制と称される。また王韶に命じて煕・洮五州を開拓させ、煕河路を置いて西夏に対する防御を強化した。しかし元豊四年(1081)、霊州の戦い及び永楽城の戦いで西夏に敗れ、打撃を受けた。在位十九年、三十八歳の若さで夭逝した。
趙煦(1076〜1100)
北宋の七代哲宗。在位1085〜1100。神宗(趙頊)の六男。元豊五年(1082)、延安郡王に封ぜられた。八年(1085)に太子に立てられ、同年三月に神宗の跡を継いで即位した。ときに幼年だったため、高太皇太后が垂簾聴政した。元祐元年(1086)、旧法党の司馬光・呂公著・文彦博らを起用して相とし、新法党をことごとく左遷して、王安石の新法は全面的に撤廃された(元祐更化)。八年(1093)、太皇太后が亡くなると、親政をはじめた。紹聖元年(1094)、范純仁・呂大防・蘇轍らの旧法派を罷免し、新法党の章惇を相とし、曾布・蔡卞らを執政として、新法を次第に復活させた(紹聖紹述)。
趙佶(1082〜1135)
北宋の八代徽宗。在位1100〜1125。神宗(趙頊)の十一男。哲宗(趙煦)の異母弟にあたる。元豊八年(1085)に遂寧郡王に封ぜられ、紹聖三年(1096)に端王に封ぜられた。元符三年(1100)、哲宗が崩ずると、嫡子がなく、向太后の支持により即位した。はじめ向太后が摂政して新旧両法を折衷した政治をとった。太后が没して親政を開始すると、新法を採用して、蔡京らを重用した。道教を尊崇し、教主道君皇帝を自称した。宮殿や人工庭園を作り、多くの道観を建てたりして、国費をついやした。また花石綱と呼ばれる珍木奇石を開封に運ばせたり、画院を盛大にして院体画の隆盛を招いたりした。自らも詩文・書画・音楽にたくみであった。とくに書法は自ら一家を創始し、痩金体と称され、「千字文巻」などの書跡が後世に伝わった。文化史上に宣和時代といわれる盛世を現出した。しかし、北方の遼の圧迫から逃れるため、金と結んで遼を挟撃し、燕雲十六州を一時回復したが、のちに金と紛争を生じた。宣和七年(1125)、金軍が開封に迫り、皇太子(欽宗)に譲位した。翌年、開封は陥落。靖康二年(1127)、徽宗は欽宗や后妃・皇族らとともに金軍の捕虜となって北方に送られた(靖康の変)。五国城に抑留されて、その地で没した。
趙桓(1100〜1161)
北宋の九代欽宗。少帝。在位1125〜1127。徽宗(趙佶)の長男。建中靖国元年(1101)に京兆郡王に封ぜられ、大観二年(1108)に定王に封ぜられた。政和五年(1115)、太子に立てられた。宣和七年(1125)、金軍が侵入すると、開封牧となり、徽宗より帝位を譲られた。靖康元年(1126)、太原・中山・河間の三鎮を割譲して金との和平を成立させたが、まもなく和約は破れ、開封を攻め破られた。翌年、徽宗らとともに北方に連行され、北宋は滅んだ。五国城に抑留されて、その地で没した。
[南宋(1127〜1279)]
趙構(1107〜1187)
南宋の初代高宗。在位1127〜1162。徽宗の九男。欽宗の異母弟にあたる。大観二年(1108)に広平郡王に封ぜられ、宣和三年(1121)に康王に封ぜられた。靖康元年(1126)、金軍が開封を陥れて、翌年に徽宗・欽宗の二帝を北方へ連行していくと、南京で帝位につき、建炎と改元した。建炎三年(1229)、苗傅・劉正彦らが叛逆して、いっとき退位したが、張浚・韓世忠らがこれを討ったため復位した。翌年、金軍が江南に来攻し、臨安・明州・譚州などを陥れたため、海上に逃れた。その後、韓世忠らが金軍を撃退し、叛乱を平定したので、紹興八年(1138)には臨安を行在に定めた。十一年(1141)、宰相の秦檜と図って、金に対して臣と称し、歳貢銀二十五万両・絹二十五万疋を贈ることで金と講和した。三十一年(1161)、金の海陵王が大軍を率いて侵入してきたが、虞允文が采石磯にこれを破って安泰せしめた。翌年、養子の孝宗に位を譲った。内政においては秦檜の専横があったが、田地の開墾を奨励し、総制銭・和買折帛銭を設けて財政を確立し、会子などを発行した。このため江南の開発は進んで、経済発展の基礎が築かれた。
趙シン※1(1127〜1194)
字は元永。南宋の二代孝宗。在位1162〜1189。父は秀王子称。太祖(趙匡胤)の七世の孫にあたる。高宗(趙構)に子がなかったため、紹興二年(1132)、選ばれて禁中で育てられた。十二年(1142)、普安郡王に封ぜられた。三十年(1160)、皇子として立てられ、建王に封ぜられた。三十二年(1162)、太子に立てられ、高宗から帝位を譲られた。即位後、張浚を起用し、岳飛の名誉を回復するなど、失地回復の意欲を見せた。北伐の戦況は思わしくなく、乾道元年(1165)に金と和約を結んで、歳幣銀二十万両・絹二十万疋とし、両国の関係を叔姪の関係に改めた。帝の治世の二十七年間は南宋の全盛期と評価されている。淳煕十六年(1189)、光宗に帝位を譲って太上皇となった。
趙惇(1147〜1200)
南宋の三代光宗。在位1189〜1194。孝宗の三男。紹興三十二年(1162)、恭王に封ぜられた。乾道七年(1171)、太子に立てられた。淳煕十六年(1189)、孝宗より帝位を譲られた。紹煕元年(1190)、皇后李氏が嘉王趙擴を太子に立てるよう請うたが、太上皇が許さなかった。五年(1194)、太上皇が崩ずると、病と称して朝に出ず喪に服した。太皇太后呉氏が趙汝愚らの言を容れて、嘉王趙擴を即位させると、太上皇となった。
趙擴(1168〜1224)
南宋の四代寧宗。在位1194〜1224。光宗(趙惇)の次男。淳煕十二年(1185)、平陽郡王に封ぜられた。十六年(1189)、嘉王に封ぜられた。紹煕五年(1194)、光宗が病と称して朝に出なくなると、趙汝愚・韓侘冑らによって帝位につけられた。翌年、趙汝愚を罷免し、道学(朱子学)を禁止し、韓侘冑に執政させた。岳飛を鄂王に追封し、秦檜の封号を奪うなど、歴史の再評価をおこなった。開禧二年(1206)に金を攻める詔を出したが、翌年に北伐は挫折して講和を求めた。金が首謀者の処罰を求めたため、楊皇后・史弥遠らが韓侘冑を殺害した。嘉定元年(1208)、韓侘冑の首級を献じて金との間に和議を結んだ。こののち、史弥遠が専権をふるった。
趙ホ(1205〜1264)
もとの名は与莒。南宋の五代理宗。在位1224〜1264。趙希瓐の子。太祖(趙匡胤)の十世の孫にあたる。嘉定十四年(1221)、選ばれて宮に入り、貴誠の名を賜り、沂王の後嗣となった。十七年(1224)、寧宗が崩ずると、丞相の史弥遠に擁立されて帝位についた。紹定六年(1233)、史弥遠が没すると、親政をはじめた(端平更化)。端平元年(1234)、蒙古と結んで蔡州で金を破り、滅ぼした。その後も三京の収復を謀り、北方国境は安定しなかった。開慶元年(1259)、蒙古兵が鄂州を囲み、朝野は動揺した。宰相の賈似道が蒙古に貢納して退かせながら、朝廷には勝利と偽って報告し、この後賈似道の専権が強まった。帝は朱子学を推奨し、国家の学問としての地位を確立した。
趙キ※2(1240〜1274)
南宋の六代度宗。在位1264〜1274。栄王与芮の子。淳祐十一年(1251)、建安郡王に封ぜられた。宝祐元年(1253)、皇子として立てられ、永嘉郡王に封ぜられた。翌年、忠王となる。景定元年(1260)、太子に立てられた。五年(1264)、理宗が崩ずると、即位した。賈似道が専横をきわめ、辺患は日増しに深刻になった。帝は酒色にふけり、決断力に欠けた。咸淳九年(1273)、襄陽と樊城が相次いで元軍に攻略され、朝野は震駭し、国勢は一気に敗亡へと傾いた。
趙ケン※3(1271〜1323)
南宋の七代恭宗。在位1274〜1276。度宗の子。咸淳九年(1273)、左衛上将軍となり、嘉国公に封ぜられた。翌年、度宗が崩ずると、四歳にして即位し、謝太后が垂簾聴政した。ときに元軍に鄂州を破られ、宋朝は危機に瀕していた。詔して天下に勤王の兵を募ったが、応じる者は少なかった。徳祐元年(1275)春、賈似道の軍が蕪湖で潰滅し、長江沿岸諸郡の臣は元に降る者あり、逃亡する者ありで、宋朝を見捨てていった。数度にわたって元軍のもとに講和の使者を送ったが、面会を許されなかった。翌年正月、元に降る表をたてまつった。三月、元軍が臨安に入った。五月、帝は北方に連れ去られ、瀛国公に封ぜられた。のちに出家して僧となり、法名を合尊といった。吐蕃薩迦寺に住持した。元の至治三年(1323)、元の英宗の命により殺された。
趙昰(1269〜1278)
南宋の八代端宗。在位1276〜1278。度宗の庶子。はじめ建国公に封ぜられ、恭宗が立つと吉王となった。徳祐二年(1276)正月、元軍が臨安に迫ると、益王に改封され、判福州・福建安撫大使となった。五月、丞相陳宜中らに擁立されて福州で即位した。景炎と改元し、楊淑妃が垂簾聴政した。元軍が福建に入ると、海上に逃れた。景炎二年(1277)十二月、井澳にいたり、颶風に遭って病にたおれた。翌年三月、占城に向かおうとして果たせず、コウ※4洲にたどりついた。翌月、病死した。
趙ヘイ※5(1272〜1279)
南宋の九代衛王。在位1278〜1279。度宗の庶子。はじめ永国公に封ぜられ、恭宗が立つと、信王に封ぜられた。徳祐二年(1276)正月、元軍が臨安に迫ると、広王に移封された。五月、端宗(趙昰)が福州で立つと、衛王に封ぜられた。景炎三年(1278)四月、端宗が崩ずると、陸秀夫・張世傑らに擁立されて帝位についた。五月、祥興と改元した。六月、克Rにうつった。翌年二月、海上で元軍に敗れ、陸秀夫が帝を背負って投水死した。南宋はここに滅んだ。
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