[南北朝(386〜589)]
⇒北朝(北魏,東魏,西魏,北斉,北周),南朝(,斉,,),柔然,高昌
[斉(479〜501)]
高帝(蕭道成)武帝(蕭サク)鬱林王(蕭昭業)海陵王(蕭昭文)明帝(蕭鸞)東昏侯(蕭宝巻)和帝(蕭宝融)
蕭道成(427〜482)
  斉の高帝,太祖⇒
褚淵(435〜482)
  字は彦回。河南郡陽翟の人。宋の文帝の娘の余姚公主をめとり、著作佐郎に任ぜられた。明帝が即位すると、吏部尚書に累進した。元徽二年(474)、桂陽王劉休範が乱を起こすと、袁粲とともに宮中を護衛した。蕭道成と結んで後廃帝(劉c)を廃した。荊州刺史の沈攸之が叛したとき、袁粲らが宮中で呼応するのを警戒するよう蕭道成に進言し、的中して袁粲らは敗れた。斉が建てられると、侍中・録尚書事・司空・驃騎将軍に上った。死に臨んで家に余財がなかったという。

王僧虔(426〜485)
  琅邪郡臨沂の人。王曇首の子。はじめ宋の秘書郎に任ぜられた。御史中丞・会稽太守にまで累進したが、阮佃夫らの佞臣に追従するのを潔しとせず、ひとたび免官された。のち侍中に進んだ。明帝のとき、湘州刺史・尚書令などを歴任した。昇明年間、朝廷礼楽について正典からの逸脱が多くなっていたので、非違を改めるように上表して容れられた。斉に入って、侍中・特進・左光禄大夫に任ぜられた。隷書をよくし、文史に通じ、音律を解した。また古今の書家の優劣を詳しく論じた。『論書』、『書賦』。

周顒(?〜485)
  字は彦倫。汝南郡安成の人。はじめ海陵国侍郎をつとめた。建元初年、山陽令となる。のち、国子博士・著作に上った。『三宗論』、『四声切韵』。

王倹(452〜489)
  字は仲宝。琅邪郡臨沂の人。王僧綽の子。幼くして父が殺され、叔父の王僧虔に養われた。宋に仕えて秘書郎となり、秘書丞に進んだ。宋の明帝の娘の陽羨公主をめとった。『七略』より『七志』四十巻を撰し、また『元徽四部書目』を撰した。蕭道成に引き立てられて、右長史となった。斉が建国されると、尚書右僕射に上り、吏部を領した。儀礼制度を議して、意見の多くは容れられた。高帝(蕭道成)が崩じると、遺詔により侍中・尚書令となった。永明三年(485)、国子祭酒を領し、また太子少傅を領した。宋のときには国学が頽廃していたが、かれが経学を提唱し、自宅に学士館を開いたので、儒学はここにおいて大いに興ったという。七年(489)、中書監を領した。この年に病没した。

蕭嶷(444〜492)
  字は宣儼。斉の高帝(蕭道成)の次男。母は劉氏。はじめ宋の太学博士となった。沈攸之の乱が平定されると、江州に出て、次いで荊州に鎮した。州にあって刑罰を寛大に夫役を減らすようつとめ、すこぶる民心をえた。斉に入って豫章王に封ぜられ、揚州刺史となり、次いで南蛮校尉をつとめ、荊湘二州刺史となった。沈攸之の余党の張群を平定した。父高帝が崩ずると、耳目から血を流して哭したという。武帝が立つと太尉となった。永明五年(487)、大司馬に上った。

王奐(435〜493)
  字は道明。琅邪郡臨沂の人。王粹の子。はじめ宋に仕えて著作佐郎となり、侍中・祠部尚書を歴任した。昇明初年、丹陽尹に遷った。のち吏部に転じた。斉の武帝のとき、累進して尚書右僕射となった。雍州刺史として赴任したが、寧蛮長史劉興祖と馬が合わず、永明十一年(493)に劉興祖を殺した。帝は曹道剛・曹武を遣わして王奐を収監しようとしたが、子の王彪が兵を率いて門を閉ざしてこばみ、兵敗れて、親子ともに殺された。

王融(467〜493)
  字は元長。瑯邪郡臨沂の人。秀才に挙げられ、中書郎となった。永明九年(491)、武帝が朝臣とともに芳林園に宴を開いたとき、「曲水詩序」をなした。詩文にすぐれ、「竟陵の八友」のひとりとなる。鬱林王が立ったとき、蕭子良を擁立しようとして殺された。

蕭子良(460〜494)
  字は雲英。武帝(蕭サク
※1)の次男。母は裴氏。はじめ宋の会稽太守となった。斉が建国されると、聞喜公に封ぜられ、丹陽尹に任ぜられた。武帝の即位後、竟陵郡王に封ぜられ、南徐州刺史・南兗州刺史を歴任した。護軍・司徒に上り、西州に鎮した。朝政にあっては、税制の改革に努力した。また学問・文学に熱心で、「八友」と呼ばれる文士を集えた。仏教を篤く信仰し、名僧をまねいて経典を講じさせた。文恵太子の死後、彼は世子に立てられず、太孫の蕭昭業が世子に立てられた。補弼の任を命じられたが、これを固辞した。『四部要略』、『浄住子』。
王晏(?〜497)
  字は休黙。琅邪郡臨沂の人。はじめ宋に仕えて建安国左常侍となり、のち蕭サク
※1に従って、湓城に鎮した。斉が建国されると、太子中庶子となった。蕭サク※1が斉の武帝となると、侍中祭酒に遷った。司徒左長史・丹陽尹・江州刺史・吏部尚書を歴任した。武帝の死後、鬱林王が立つと尚書左僕射となった。蕭鸞とともに廃立を図り、蕭鸞が明帝として立つと、功により驃騎大将軍となった。のちに明帝に謀反の志があると疑われ、誅殺された。
謝チョウ
※2(464〜499)
  字は元暉。陳郡陽夏の人。はじめ豫章王太尉行参軍をつとめた。永明年間に竟陵八友のひとりとなる。隆昌初年、中書郎・宣城太守に任ぜられた。明帝の建武年間、南東海太守・行南徐州事となった。永泰初年、王敬則の謀反を告発した功績で、尚書吏部郎に進んだ。永元元年(499)、始安王・蕭遙光を擁立しようとした事件に連座して、殺された。詩文にすぐれ、謝霊運とともに二謝と称された。沈約らとともに永明体を創始した。『謝宣城集』。
徐孝嗣(453〜499)
  字は始昌。東海郡郯県の人。宋の孝武帝の娘の康楽公主をめとった。斉に入って、晋陵太守から諸官を歴任して尚書令・丹陽尹に上った。連年にわたる北魏との戦いで軍資が欠乏していたので、建武四年(497)に淮南で屯田を布くよう上表した。東昏侯が即位すると、帝が凶暴で殺人を好んだため、虎賁中郎将の許淮に廃立を勧められたが、逡巡して決断できないでいるうちに殺害された。

祖沖之(429〜500)
  字は文遠。范陽郡逎県の人。数学・暦法・天文に優れた。はじめ宋の孝武帝に仕えて、南徐州で公府参軍をつとめた。婁県令・謁者僕射・長水校尉などを歴任した。ときに「元嘉暦」がすでに実体から乖離していたので、「大明暦」を作って、一年を365.24281481日と計算した。また円周率を精密に計算して、3.1415926と3.1415927の間であると求めて、「祖率」と称された。ほか指南車・欹器などを作ったという。『綴術』、『九章術義注』、『駁議』。

崔慧景(438〜500)
  字は君山。清河郡東武城の人。はじめ宋の国子生となり、のちに南蛮府長史に任ぜられた。斉が建てられると、輔国将軍となり、梁南秦二州刺史をつとめて、梁州の李烏奴を平定した。永明四年(486)に司州刺史となり、十年(492)に豫州刺史をつとめた。州にあって蓄財し、州刺史をやめるごとに財数百万を朝廷に献上したので、武帝に賞された。建武四年(497)、度支尚書・太子左衛率となり、北魏の兵を撃つべく軍を率いて襄陽に向かったが、ケ城で敗れた。永元二年(500)、東昏侯が凶暴であったため、広陵で挙兵して乱を起こし、江夏王蕭宝玄を奉じて建康を囲んだが、豫州刺史蕭懿に敗れ、単騎で逃れて蟹浦にいたったところ、漁民に殺された。

蕭懿(?〜500)
  字は元達。南蘭陵郡蘭陵中都里の人。梁の武帝(蕭衍)の長兄にあたる。はじめ斉の安南邵陵王行参軍となった。永明末年、梁南秦二州刺史をつとめ、北魏の侵攻を南鄭で防ぎ、歴城など六つのとりでを奪った。永元二年(500)、豫州刺史の裴叔業が叛くと、崔慧景とともにこれを鎮圧した。崔慧景が広陵で叛いて首都を囲むと、精鋭三千を率いて豫州より救援した。崔慧景の乱が平定されると、功により尚書令・都督征討水陸諸軍事に上った。東昏侯に忌まれて殺された。のちに長沙郡王を追贈された。

陳顕達(427〜500)
  南彭城の人。宋の孝武帝のとき、右衛将軍張永のもとで前軍幢主となった。宋末に蕭道成に従い、左眼を失いながらも奮戦して、桂陽王劉休範をはばんだ。功により豊城侯に封ぜられ、遊撃将軍に任ぜられ、広州刺史に転じた。斉が建てられると、護軍将軍となり、益州刺史として赴任した。武帝のとき、鎮西将軍に進み、益州の大度村獠を討ち、苛烈な粛清をおこなって西南諸族を畏服させた。明帝の永元元年(499)、侍中・太尉に進み、軍を率いて北魏を討ち、襄陽を恢復したが、南郷で大敗して軍を失った。江州刺史に転じた。ときに東昏侯が立ち、建康で大臣貴戚の多くが殺戮されるにおよんで、湓城で挙兵して叛いたが、丹陽の西州で敗死した。

孔稚珪(447〜501)
  字は徳璋。会稽郡山陰の人。若いときから学問・詩文に優れた。宋のときに秀才に挙げられ、安成王のもとで車騎法曹行参軍となった。斉に入って永明年間に王植の『晋律』修訂に参与した。永明九年(491)、『律文』『録書』を上表した。十一年(493)、鬱林王が即位したとき、王融を告発して死にいたらしめた。明帝の建武初年、南郡太守となった。永元年間、太子・事に上り、散騎常侍を加えられた。「北山移文」は名篇として知られた。

[註]
1.サク=サク

2.チョウ=チョウ
↓次の時代=梁

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