[南北朝(386〜589)]
⇒北朝(北魏,東魏,西魏,北斉,北周),南朝(,,,),突厥,高昌
[北周(557〜581)]
孝閔帝(宇文覚)明帝(宇文毓)武帝(宇文邕)宣帝(宇文贇)静帝(宇文衍)
宇文覚(542〜557)
  北周の孝閔帝⇒
李弼(494〜557)
  字は景和。遼東郡襄平の人。北魏の末年、爾朱天光・賀抜岳・侯莫陳悦らに従った。永煕三年(534)、侯莫陳悦が賀抜岳を殺すと、その不義に憤激して、宇文泰に帰順した。西魏の大統年間に東魏の竇泰を平定し、趙郡公に封ぜられた。各地を転戦して、軍功を挙げ、司空・太尉・柱国大将軍を歴任した。廃帝元年(552)、徒河氏の姓を賜った。太傅・大司徒に進んだ。宇文護の執政のもと、枢機に参与した。北周の孝閔帝が即位すると、太師に上り、趙国公に封ぜられた。

独孤信(503〜557)
  もとの名は如愿。雲中の人。鮮卑族の出身。はじめ爾朱栄の別将となり、賀抜勝に従って荊州に鎮した。永煕三年(534)、賀抜勝の弟の賀抜岳が侯莫陳悦に殺されると、余衆を率いて宇文泰に投じた。北魏の孝武帝が高歓のもとより逃げると、単騎で従侍して浮陽郡公に封ぜられた。衛大将軍・都督三荊州諸軍事・荊州刺史に任ぜられ、東魏の荊州刺史の辛纂を破った。功績により、車騎大将軍に上った。大統六年(540)、李弼とともに侯景を荊州に破った。のち、隴右十州大都督・秦州刺史に任ぜられた。農業を勧奨し、帰服する流民が数万家にのぼった。宇文泰はその功績を嘉して、信の名を与えた。北周の孝閔帝が即位すると、太保・大宗伯に上り、衛国公に封ぜられた。趙貴が宇文護を殺そうとした事件に連座して、自殺に追い込まれた。娘のひとり(のちの独孤皇后)は、楊堅(のちの隋の文帝)に嫁いだ。

趙貴(?〜557)
  字は元貴。天水郡南安の人。北魏の末年、葛栄の軍に入った。葛栄が敗れると、爾朱栄の別将となり、賀抜岳の下で関中平定にあたった。永煕三年(534)、賀抜岳が侯莫陳悦に殺されると、部下を率いて侯莫陳悦に偽降し、賀抜岳を手中におさめ、夏州刺史宇文泰を迎えて、侯莫陳悦を誅した。宇文泰の命により孝武帝を関中に迎え、孝武帝の死後は西魏の文帝を擁立するのに功があり、爵位は公に進んだ。岐州刺史・大丞相府長史となった。宇文泰に従って東魏を攻め、弘農を恢復し、沙苑で戦って、侍中・驃騎大将軍に任ぜられた。河橋で戦い、玉壁を救援し、邙山で戦って、柱国大将軍となり、乙弗氏の姓を賜った。北周の孝閔帝が即位すると、太傅・大冢宰に進み、楚国公に封ぜられた。のちに宇文護誅殺をはかって失敗し、殺された。

李遠(507〜557)
  字は万歳。隴西成紀の人。北魏の末年、爾朱天光に従って転戦し、伏波将軍・原州大中正となった。のちに宇文泰に帰順して寵遇をうけた。東魏の竇泰を攻めて、弘農を恢復し、殊勲を挙げて原州刺史に任ぜられた。西魏の大統三年(537)、沙苑の戦いの功績で車騎大将軍となり、陽平郡公に進んだ。九年(543)、東魏の北豫州刺史の高仲が降伏を求めると、即座に兵を発してこれを迎え、帰順させた。のち尚書左僕射に上った。北周の孝閔帝柱国大将軍に進んだ。のちに宇文護誅殺をはかって失敗し、殺された。

王勇(?〜?)
  もとの名は胡仁。代郡武川の人。若くして雄健で弓馬をよくした。北魏の永安年間に、官軍に従って万俟醜奴を討ち、功により寧朔将軍に任ぜられた。宇文泰が西魏の丞相となると、引き立てられて直蕩都督となり、包信県子に封ぜられた。東征に従って、竇泰を潼関に捕らえ、弘農を収復し、沙苑に戦って、気は衆軍を覆い、当たるところ必ず破ったという。功績により公爵位に進んだ。邙山の戦いでは、西魏軍は緒戦で利を失ったが、かれと王文達と耿令貴の三人のみが奮戦し、殊功を挙げた。雍州刺史に任ぜられ、勇の名を賜った。恭帝元年(554)、趙貴に従って柔然を破り、新陽郡公に進み、庫汗の姓を与えられた。大将軍に上った。北周の初年、侯莫陳崇に辱められ、慚恚のうちに背中に疽ができて没した。
宇文邕(543〜578)
  
北周の武帝,高祖⇒
王悦(?〜561)
  字は衆喜。京兆郡藍田の人。はじめ爾朱栄のもとで騎兵参軍をつとめた。宇文泰が入関すると、郷勇を募ってこれに従い、戦功を挙げた。西魏の大統四年(538)、東魏の将侯景が洛陽を攻めると、宇文泰に従って救援に赴いた。十三年(547)、侯景が河南に拠って東魏に叛き、西魏に救援を求めたが、王悦は救援しないよう宇文泰に諫言して容れられた。のち京兆郡守・散騎常侍・大行台尚書となった。十七年(551)、達奚武に従って梁州・漢中を攻め、城主の楊賢を降し、白馬に拠って、梁州を平定した。梁州刺史を代行した。廃帝二年(553)、大行台尚書に復任したが、行台の改組にともなって、かれの領する兵を故郷に帰され、不満を抱いた。またかれの子の王康も驕慢放縦であった。このため父子ともに官を削られ、辺境防戌に配された。北周が建てられると、官に復し、郢州刺史となり、のち持節・驃騎大将軍・開府儀同三司・大都督となり、宇文姓を賜って、河北県公の爵位を賜った。保定元年(561)、在官のまま没した。

賀蘭祥(515〜562)
  字は盛楽。代郡武川の人。北魏の末年、宇文泰に従って入関し、侯莫陳悦討伐に従った。北魏孝武帝を迎えて、功により撫夷県伯に封ぜられた。西魏の大統三年(537)、沙苑の戦いのとき、長安の留守を守った。河橋・邙山の戦いに従軍し、戦功を立てて驃騎大将軍に進んだ。十四年(548)、都督三荊等十二州諸軍事・荊州刺史に任ぜられ、博陵郡公に封ぜられた。州にあって善政を布いた。十六年(550)、大将軍に上った。また富平堰を改修し、水・渭水の水を引いて灌漑をおこなった。北周の初年、柱国に進み、大司馬となった。趙貴の誅殺や孝閔帝の廃位に関わり、宇文護を助けた。武成の初年、吐谷渾を討ち、西土を安撫し、涼国公に封ぜられた。のち病没した。

侯莫陳崇(?〜563)
  字は尚楽。代郡武川の人。驍勇にして騎射をよくした。若くして賀抜岳に従い、葛栄・邢杲の討伐に参加して建威将軍に進んだ。北魏の建明元年(530)、賀抜岳に従って関中に入り、万俟醜奴を捕らえた。賀抜岳が侯莫陳悦に殺されると、諸将とともに夏州刺史宇文泰に帰順した。侯莫陳悦が誅されると、征西将軍となった。西魏の大統元年(535)、州刺史となり、公の爵位をうけ、驃騎大将軍となった。三年(537)、宇文泰に従って東魏を討ち、竇泰を捕らえ、弘農を恢復し、沙苑を落とした。翌年、河橋で戦い、連戦して功績を挙げた。七年(541)、稽胡が叛くと、兵を率いてこれを平定した。十五年(549)、柱国大将軍・大司空となった。北周の孝閔帝が即位すると、太保を加えられ、大宗伯・大司徒を歴任した。保定三年(563)、宇文護に迫られて自殺させられた。

豆盧寧(500〜565)
  字は永安。昌黎郡徒何の人。慕容氏の末裔。北魏の末年、爾朱天光に従って入関し、万俟醜奴を討った。爾朱氏が敗亡すると、宇文泰に帰順した。西魏の大統元年(535)、撫軍将軍に任ぜられ、公の爵位をうけた。三年(537)、宇文泰に従って東魏を討ち、竇泰を捕らえ、弘農を恢復し、沙苑を落として、車騎大将軍となった。まもなく北華州刺史となり、私欲なく公平な統治で知られた。七年(541)、于謹に従って稽胡を討ち、上郡の劉平伏を破った。九年(543)、邙山で東魏と戦って、范陽郡公に進んだ。北周の孝閔帝が即位すると、柱国大将軍に任ぜられた。武成初年、同州刺史として赴任し、大司寇を兼ねた。州において没した。

元定(?〜567)
  字は愿安。河南郡洛陽の人。北魏の永安初年、爾朱天光に従って東征し、邢杲を討った。永煕三年(534)、賀抜岳が侯莫陳悦に害されると、夏州刺史宇文泰に従って侯莫陳崇を討ち平らげた。西魏の大統三年(537)、東征に従い、東魏の竇泰を潼関に捕らえ、弘農を収復し、沙苑を破り、河橋に戦い、邙山を攻め、いずれも先鋒をつとめて勇略を示した。自らの功績を誇ることがなかったので、諸将の尊敬を受けた。車騎大将軍となり、公に進んだ。廃帝の二年(553)、建城郡王に封ぜられた。北周の明帝の初年、岷州刺史に任ぜられた。天和二年(567)、宇文直に従って後梁を助けるべく出兵し、陳将の徐度・呉明徹らと郢州に戦って敗れ捕らえられた。数ヶ月後、憂憤のすえ病没した。

宇文貴(?〜567)
  字は永貴。昌黎郡大棘の人。騎射をよくした。北魏の末年、前後して源子雍・爾朱栄・元天穆らに従い、連戦した。功により郢州刺史・武衛将軍に任ぜられた。永煕三年(534)、北魏の孝武帝の西遷に従い、化政郡公に封ぜられた。西魏の大統三年(537)、車騎大将軍に任ぜられ、東魏の将の堯雄と穎川で激戦し、寡勢で衆を制し、堯雄軍を大いに破った。侍中・驃騎大将軍に進んだ。十六年(550)、大将軍に上った。廃帝のとき、都督益潼等八州諸軍事・益州刺史をつとめた。北周の孝閔帝が即位すると、柱国となった。武成初年、吐谷渾を討った功により許国公に封ぜられた。大司空・大司徒・太保を歴任した。のちに張掖で没した。

楊忠(507〜568)
  字は揜干。弘農郡華陰の人。隋の文帝(楊堅)の父にあたる。年十八にして泰山に遊び、梁の兵に捕らえられた。北海王元の北還に従って洛陽に入り、直閣将軍となった。元が敗れると、爾朱度律に従った。北魏の永煕三年(534)、孝武帝の西遷に従い、侯の爵位をえた。独孤信に従って東魏の荊州刺史辛纂を攻め、三荊を定めた。のちに東魏に迫られて独孤信とともに梁に降った。西魏の大統三年(537)、北帰し、丞相宇文泰に従って東魏を攻め、竇泰を捕らえ、沙苑を破り、河橋に戦った。功績により雲州刺史・大都督に上った。邙山で戦い、長江・漢水の流域を経略し、都督三荊等十五州諸軍事に累進し、穰城に鎮した。安陸を攻め、梁将の柳仲礼を捕らえた。十七年(551)、梁の邵陵王蕭綸や安楽侯蕭ムらを捕殺し、漢東の地を定めた。恭帝元年(554)、普六如氏の姓を賜った。北周の武成元年(559)、隋国公に進んだ。保定三年(563)、突厥と連係して北斉を討ち、二十余城を抜いた。天和三年(568)、病のため長安に帰り、まもなく没した。

于謹(493〜568)
  字は思敬。河南郡洛陽の人。鮮卑族の出身。若いころから『孫子』を好み、謀略に富んだ。北魏末に六鎮の乱の鎮圧戦に従った。高歓が起兵すると、爾朱天光に従って高歓と戦ったが、韓陵山で敗れた。入関して衛将軍・咸陽郡守に任ぜられた。宇文泰が夏州にいたると、防城大都督・兼州長史となった。永煕三年(534)、孝武帝の入関に従った。宇文泰の東征に従って、潼関を抜き、回洛城を破った。車騎大将軍・北雍州刺史に上った。西魏の大統元年(535)、驃騎大将軍に任ぜられた。のち常山郡公に封ぜられ、尚書左僕射となった。十五年(549)、柱国大将軍に進んだ。恭帝の元年(554)、大軍を率いて梁を攻め、江陵を陥し、十余万の衆を虜にし、府庫の珍宝や宋の渾天儀などを収めて帰還した。北周の孝閔帝が即位すると燕国公に封ぜられた。太傅に進み、李弼・侯莫陳崇らとともに朝政に参議した。保定四年(564)、宇文護に従って北斉を攻めた。天和二年(567)、雍州牧を授かった。翌年、病没した。

達奚武(504〜570)
  字は成興。代郡の人。北魏の末年、賀抜岳の別将となった。賀抜岳が侯莫陳悦に害されると、趙貴とともに宇文泰に帰順した。西魏の大統三年(537)、東魏の高歓が来攻すると、宇文泰に従って竇泰を討ち、これを潼関に破った。弘農を収復し、高陽郡公に進んだ。翌年、東魏の司徒高敖曹を討って、驃騎大将軍となった。まもなく大将軍に任ぜられた。十七年(551)、軍を率いて漢川を攻略し、梁将の楊乾運を破り、剣閣以北の諸城をことごとく平定した。北周の孝閔帝が即位すると、柱国・大司寇となった。武成初年、大宗伯に転じ、鄭国公に封ぜられた。保定年間に二回にわたって北斉を攻め、太保・同州刺史・太傅を歴任した。

宇文護(495〜572)
  字は薩保。代郡武川の人。宇文泰の甥にあたる。西魏の大統初年、宇文泰に従って、東魏の竇泰を討った。戦功を重ね、征虜将軍を経て、鎮東将軍・大都督に上った。大統八年(542)、車騎大将軍に進んだ。十二年(546)、驃騎大将軍となり、中山公に封ぜられた。恭帝の三年(556)、宇文泰が没すると、宇文覚(孝閔帝)を擁立し、大司馬に上り、晋国公に封ぜられた。翌年には趙貴らを殺し、大冢宰に任ぜられて、朝政を専断した。宇文覚を廃殺し、宇文毓(明帝)を迎え、太師に任ぜられた。武成二年(560)、明帝の聡明さを恐れて毒殺し、宇文邕(武帝)を立てた。翌年、都督中外諸軍事となった。権勢をたのんで賢臣を遠ざけ私欲をむさぼり、民衆に害を加えたといわれる。天和七年(572)、武帝によって誅殺された。

王褒(513〜576)
  字は子淵。瑯邪郡臨沂の人。梁の武帝に仕えて、秘書郎・太子舎人をつとめ、南昌県侯に封ぜられた。蕭子雲に草書・隷書を学んで、師とともに名を知られた。梁の元帝が即位すると、吏部尚書・右僕射に上った。承聖三年(554)、西魏が江陵を落とすと、長安に抑留された。官は少司空に上った。北周が建国されると、石泉県子に封ぜられた。明帝に近侍し、詩を賦し、談論に興じた。のち宜州刺史として出された。顧野王とともに二絶と称された。

韋夐(502〜578)
  字は敬遠。京兆郡杜陵の人。北魏の正光年間、召されて雍州中従事となったが、職務が肌に合わず、病と称して辞職した。前後十回にわたって官に招かれたが、応じなかった。西魏のとき、丞相宇文泰が使者を遣わして招いたが、また従わず、居士と称された。北周の武帝と儒仏道の優劣を論じ、『三教序』を作った。

王傑(515〜579)
  もとの名を文達。金城郡直城の人。北魏の末年、孝武帝の西遷に従い、都昌県子の爵位を賜った。宇文泰がその才を愛し、「万人に敵する」武勇の持ち主と賞讃した。潼関収復の戦に従い、沙苑を破り、河橋に争い、邙山に戦って、勇名を轟かせた。宇文姓を賜り、岐州刺史に任ぜられ、公の爵位に進んだ。侍中・驃騎大将軍に累進した。西魏の恭帝元年(554)、于謹に従って江陵を囲み、多大な戦功を挙げた。北周が建てられると、大将軍に進み、のち州総管となった。州府にあって、すこぶる民心をかちえた。宣帝が即位すると、上柱国に任ぜられた。

王軌(?〜579)
  小名は沙門。太原郡祁県の人。後漢の司徒王允の後裔と称したが、鮮卑族。北周の武帝が即位すると、前侍下士となり、内史下大夫に遷り、日増しに寵遇篤くなった。帝を助けて権臣宇文護を排除し、内史中大夫に進んで、軍事・国政に参与した。建徳五年(576)、対北斉戦に従い、功により上大将軍となり、郯国公に封ぜられた。翌年、陳の司空呉明徹と淮口で戦い、俘虜三万余を得て、呉明徹を捕らえた。柱国・徐州総管・七州十五鎮諸軍事に進んだ。武帝に対して宇文贇が太子として不適格であると奏上していたため、宇文贇が即位すると忌避され、徐州において殺された。

尉遅迥(?〜580)
  字は薄居羅。代郡の人。鮮卑族尉遅部の出身。宇文泰の甥にあたる。西魏の初年、宇文泰のもとで都督となった。転戦して功績を重ね、尚書左僕射・大将軍に累進した。廃帝元年(552)、梁の武陵王・蕭紀が蜀で帝を称すると、翌年に軍を率いて蜀を攻めて制圧した。その功績により、大都督・十八州諸軍事・益州刺史に上った。北周が建国されると、柱国大将軍に上り、蜀公に封ぜられた。のち、相州総管となった。大象二年(580)、随国公・楊堅を討つべく、大総管を称して挙兵した。鄴城で大戦に及んだが、敗れて自殺した。

韋孝寛(509〜580)
  名は叔裕。京兆郡杜陵の人。はじめ北魏に仕えて、潼関ついで穣城に鎮した。西魏の初年、南兗州刺史に進んだ。大統八年(542)、晋州刺史に転じ、玉壁に鎮した。東魏の高歓率いる軍が西進して城を重囲下においたが、五十日の籠城戦の末、これを退却に追いこんだ。この功績で驃騎大将軍に上り、建忠郡公に封ぜられた。恭帝元年(554)、尚書右僕射に任ぜられた。北周の保定元年(561)、玉壁の地に州を置き、その刺史となった。天和五年(570)、国公に封ぜられた。建徳年間に、武帝に対して北斉討伐のための三策を述べた。大司空・延州総管を歴任し、上柱国に上った。大象元年(579)、十一州十五鎮諸軍事、徐州総管となり、淮南を経略した。翌年、病没した。

庾信(513〜581)
  字は子山。南陽郡新野の人。庾肩吾の子。若いときから群書に通暁し、とくに『春秋左氏伝』をよくした。はじめ蕭綱(のちの梁の簡文帝)の下の文人集団に属した。散騎常侍に累進した。東魏に使いし、鄴の城下にも文名が知られた。帰国後、東宮学士・領建康令を歴任した。侯景の乱が起きると、江陵に移り、蕭繹(のちの梁の元帝)のもとに身を寄せた。乱の鎮圧後、元帝の命で長安に使者としてとどまる間に、梁が滅び陳に代わったため、そのまま長安に抑留されてやむなく西魏に仕えた。さらに北周に仕えて、驃騎大将軍・開府儀同三司に上った。明帝・武帝が文学を好んだため、格別の寵遇を受けた。とくに「哀江南賦」が有名。

于翼(?〜583)
  字は文若。河南郡洛陽の人。鮮卑族の出身。于謹の子。西魏の大統十六年(550)、大都督となり、郡公に進み、宇文泰に侍して兵を領し宿衛した。宇文覚が北周を建てると、渭州刺史となり、治績をあげた。武帝が即位すると、大将軍となった。建徳二年(573)、安随等六州五防諸軍事・安州総管となった。四年(575)、荊楚の兵を率いて北斉を攻め、城十九を取った。翌年、宜陽総管に転じ、陝州に移鎮した。出兵して河南九州三十鎮を取った。大象初年、大司徒に上り、詔を受けて長城を巡り、亭障を設立して辺境を安んじた。楊堅が執政すると、上柱国に進み、任国公に封ぜられた。北周に代わって隋が建てられると太尉に上った。

盧思道(535〜586)
↓次の時代=隋

人物事典トップへもどる