[南北朝(386〜589)]
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[東魏(534〜550)]
孝静帝(元善見)
竇泰(?〜537)
  字は世寧。大安郡捍殊の人。北魏の末年、破六韓抜陵の乱で父兄を失い、骸骨を背負って爾朱栄に帰順した。邢杲討伐に従って、広阿子の爵を賜った。高歓が晋州に鎮すると、鎮城都督となった。御史中尉に累進した。妻の婁氏は高歓の妻の姉妹で、勲戚として百官におそれられた。永煕二年(533)、并州刺史爾朱兆を討ち、功により侍中に進んだ。東魏の天平三年(536)、丞相高歓に従って潼関から出て西魏を討った。翌年、西魏の宇文泰に敗れて自殺した。

段栄(478〜539)
  字は子茂。武威郡姑臧の人。若くして暦術・星象に通じた。はじめ杜洛周に投じ、のちに爾朱栄に従った。大都督高歓とともに山東を平定する策を定め、各地を転戦した。高歓の軍の軍資をまかない、高歓の妻の姉をめとって、深い信任をえた。高歓が鄴を討つと、信都に留守し、鎮北将軍・定州刺史に任ぜられた。高歓が入洛すると、済州刺史をつとめた。高歓が関西征討を図ると、時期ではないと反対した。高歓は敗れて、段栄の言を用いなかったことを後悔した。天平四年(537)、山東大行台・大都督に上った。元象元年(538)、儀同三司に任ぜられた。

万俟普(?〜?)
  字は普抜。太平の人。匈奴の出身。破六韓抜陵が起兵すると、ともに立ち、太尉に任ぜられた。のち北魏に降った。永煕三年(534)、孝武帝に従って入関し、司空・秦州刺史に任ぜられ、覆靺城に鎮した。東魏の天平三年(536)、子の万俟洛とともに高歓に降り、河西郡公に封ぜられ、太尉・朔州刺史に累進した。

万俟洛(?〜?)
  字は受洛干。太平の人。匈奴の出身。万俟普の子。破六韓抜陵や父とともに起兵し、のち北魏に降った。爾朱栄の軍に投じ、汾州刺史となった。高歓が爾朱氏を討つべく起兵すると、高歓に通じた。孝武帝に従って入関し、尚書左僕射となった。東魏の天平三年(536)、父とともに高歓に帰順した。元象元年(538)、東西の魏軍が邙山で戦うと、東魏の諸師は敗北し、争って渡河したのに対して、ひとり整然と部隊を保った。西魏軍もかれを畏れて退いた。高歓はかれを激賞し、その宿営地を「回洛城」と呼んだ。興和初年に没し、太師・大司馬を追贈された。

曇鸞(476〜542)
  雁門の人。幼いころに出家し、はじめ四論宗・仏性を研究した。一時は道士となり、陶弘景と交友した。洛陽に行き、インドの僧・菩提留支に会って『観無量寿経』に感化を受けて、浄土教に転じた。東魏の孝静帝の尊崇を受けて、「神鸞」と称された。并州大寺に住持した。晩年は汾州玄中寺に移り住んだ。浄土宗の第三祖とされる。『往生論註』。

尉景(?〜543)
  字は士真。善無の人。性格は温厚で、侠気があったという。北魏の孝昌年間、六鎮の乱が起こると、高歓とともに杜洛周に投じ、のちに爾朱栄に帰順した。普泰元年(531)、高歓とともに信都で起兵し、爾朱氏を討った。翌年、高歓が洛陽に入ると、鄴に留守した。高歓の姉の常山君を妻とし、勲戚として重んじられた。冀州刺史となり、収賄にふけって、たびたび高歓に譴責された。東魏の太保・太傅に上った。のち青州刺史に任ぜられた。死後に長楽王に追封された。

婁昭(?〜?)
  字は菩薩。代郡平城の人。高歓の妻の弟にあたる。北魏の末年、高歓とともに信都で起兵し、中軍大都督に任ぜられ、爾朱兆征討に従った。済北公に封ぜられ、まもなく濮陽郡公にうつり、領軍将軍となった。孝武帝が高歓に二心を抱いているのを察知し、病と称して辞任し晋陽に去った。のちに高歓の入洛に従った。孝武帝が関中に逃れると、兗州刺史樊子鵠が瑕丘に拠って高歓に刃向かったので、婁昭は東道大都督として兵を率いてこれを討ち平らげた。大司馬・司徒に転じた。東魏の武定三年(545)、定州刺史として出向した。のちに定州において病没した。

李元忠(486〜545)
  趙郡柏人の人。はじめ、北魏の清河王元懌の参軍・主簿をつとめた。孝荘帝のとき、南趙郡太守に任ぜられたが、酒におぼれて治績を上げなかった。爾朱兆が孝荘帝を殺すと、官を捨てた。高歓が河北に入ると、縦横の策を献じて嘉された。挙兵して殷州刺史爾朱羽生を捕らえて殺し、行殷州事の命を受けた。東魏の天平四年(537)、使持節・光州刺史となり、糧穀十五万石を放出して民の救恤にあたった。位は侍中・驃騎大将軍・儀同三司に上った。のちに衛尉卿を兼ねた。

高歓(496〜547)
  字は賀六渾。北斉の高祖神武帝と追尊された。渤海郡脩県の人とされるが、おそらく虚伝で、鮮卑の出身。北魏末の六鎮の乱に参加し、杜洛周、次いで葛栄に従ったが、降伏して爾朱栄の麾下に入り、晋州刺史に上った。爾朱栄が孝荘帝に殺されると、信都に拠って自立した。爾朱一族の内紛を好機として、山西を奪った。永煕元年(532)、爾朱兆を討ち、洛陽に攻め入った。元修(孝武帝)を擁立して、大丞相を称し、北魏の実権を握った。帝が長安の宇文泰のもとに逃げると、孝静帝を鄴に擁立して東魏を建て、その専権を握った。西魏の宇文泰と対峙したが、河東奪回の作戦中、陣中に没した。

温子昇(495〜547)
  字は鵬挙。済陰郡冤句の人。はじめ北魏の広陽王元淵に仕えた。元淵に従って、葛栄の討伐におもむき、敗れて捕らえられた。のちに上党王・元天穆に従って、孝荘帝が爾朱栄を殺す陰謀に加わった。散騎常侍・中軍大将軍・領本州中正などを歴任した。東魏が建国されると、高澄のもとで諮議参軍をつとめた。のち高澄に疑われて、晋陽の獄に下され、餓死した。『温侍読集』。

孫騰(481〜548)
  字は龍雀。咸陽郡石安の人。北魏の正光年間、乱を避けて秀容にいたり、大都督爾朱栄の入洛に従った。冗従僕射に任ぜられた。まもなく高歓のもとで都督府長史となった。高歓が信都で起兵すると、謀議にあずかり、策を献じた。侍中・尚書左僕射に進んだ。元朗を帝として擁立して号令をかけるよう建議した。孝武帝が立つと、斛斯椿とともに機密に預かった。斛斯椿に憎まれて晋陽に逃れた。東魏の初年、尚書令・司空に上った。高岳・高隆之・司馬子如らとともに四貴と称され、収奪を好み、すこぶる醜聞が多かった。高歓がしばしば譴責したが、態度は改まらなかった。死後、太師の位が追贈された。

高澄(521〜549)
  字は子恵。北斉の世宗文襄帝と追尊された。高歓の長男。天平元年(534)、尚書令・大行台・并州刺史に任ぜられた。のちに領左右・京畿大都督を加えられた。興和二年(540)、大将軍・領中書監・吏部尚書を加えられた。武定五年(547)、高歓が没し、侯景が梁に降って東魏に叛すると、慕容紹宗を遣わして侯景を討たせた。また梁と修好して、侯景を孤立に追い込んだ。東魏の大丞相・都督中外諸軍事に上り、渤海王に封ぜられた。七年(549)、相国に上り、斉王に封ぜられた。酒乱による暴虐がつのり、梁からの降人・蘭京らに殺された。

慕容紹宗(501〜549)
  字は紹宗。昌黎郡棘城の人。前燕の慕容皝の後裔にあたる。北魏末の大乱で爾朱栄に投じ、并州刺史に累進した。のちに高歓に帰順した。天平元年(534)、東魏が鄴に遷都すると、尚書右僕射の高隆之とともに府庫の図籍を掌握した。揚州・青州・晋州・徐州の刺史を歴任し、たびたび戦功を挙げた。武定五年(547)、尚書左僕射に上り、燕郡公に封ぜられた。大都督高岳らとともに軍を率いて侯景を破り、梁の貞明侯蕭淵明を捕らえた。のちに穎州が西魏の大将軍王思政に囲まれたとき、これを偵察しようと舟を出し、漂流して敵営に近づきすぎた。捕虜になるのを免れるため、投水死して果てた。

陳元康(507〜549)
  字は長猷。広宗の人。北魏の正光五年(524)、尚書令李崇の北伐に従い、軍功により臨清県男の爵を賜った。東魏の初年に司徒高昂のもとで記室参軍となり、のちに高歓のもとで相府功曹参軍に転じて、機密に参与し、寵遇を受けた。侯景が叛くと、その討伐に徐州刺史慕容紹宗を推薦した。西魏の王思政が穎城に入ったとき、陳元康は高澄の親征をあおぎ、穎城を抜くことができた。高澄が東魏に代わって帝を称そうと望んだとき、ひとり反対したため、敬遠された。高澄が殺されたとき、身をもってかばおうとし、重い刺傷を負ってその夜に没した。

王則(?〜549)
  字は元軌。太原の人。若いころから武芸にすぐれた。はじめ叔父の広平内史王老生に従って戦い、軍功により給事中に任ぜられ、白水子の爵位を賜った。北海王元が洛陽に入城すると、王老生とともに元に降った。元は王老生を疑い、殺してしまった。王則は広州刺史鄭先護のもとに逃れ、ともに元を阻んだ。元が敗れると、征虜将軍となり、東徐州防城都督として赴任した。徐州刺史爾朱仲遠に従い、のち高歓に帰順した。東魏の天平初年に荊州刺史をつとめ、元象初年に洛州刺史に転じた。性格は貪欲で、官にあって不法に蓄財し、仏像を壊し鋳銭して「河陽銭」と称した。収賄の罪で捕らえられ晋陽に送られたが、高澄によりその罪を赦された。

楊衒之(?〜?)
  陽衒之の誤りともいう。北平の人。博学で仏典に通じた。北魏に仕えて、孝荘帝のときに撫軍府司馬・秘書監・期城郡太守をつとめた。東魏の孝静帝が高歓に迫られて鄴に遷都し、洛陽が兵火にかかるのを目撃した。武定五年(547)、洛陽の旧聞を集めて『洛陽伽藍記』を撰した。

元暉業(?〜551)
  字は紹遠。済陰王元弼の子。拓跋晃の玄孫にあたる。父の済陰王の爵位を叔父の元麗に奪われたため、建義元年(528)に上訴して復爵した。東魏のとき、司空・太尉・領中書監・録尚書事に累進した。ときの丞相高澄に逆らい、曹操・司馬懿に喩えてそしった。北斉が建てられると、美陽県侯に降封され、開府儀同三司・特進となった。晋陽にあって北魏・東魏の藩王歴代を記録した『辨宗録』を撰した。天保二年(551)、かつての東魏の彭城王元韶が文宣帝(高洋)に屈従していることを痛罵して、文宣帝に殺された。

元韶(?〜559)
  字は世冑。元劭の子。北魏孝荘帝の甥にあたる。爾朱栄が洛陽に入ると、嵩山に避難した。孝荘帝により彭城王に襲封を受けた。孝武帝が関中に奔ったのち、孝武帝の皇后高氏をめとったため、北魏の奇宝の多くを入手した。太尉・侍中・録尚書・司州牧を歴任し、太傅に上った。北斉の天保元年(550)、県公に降爵された。かれは温順で儒学を好み、高氏の婿として寵遇された。文宣帝(高洋)はかれの髭を剃り、顔に白粉を塗り、婦人の服を着せて侍従させた。このため元氏の軟弱をそしられた。十年(559)、北斉における元氏の後裔はことごとく誅殺され、かれも牢の中で餓死した。
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