[南北朝(386〜589)]
⇒北朝(北魏,東魏,西魏,北斉,北周),南朝(,,,),柔然,高昌
[西魏(534〜556)]
文帝(元宝炬)廃帝(元欽)恭帝(元廓)
元孚(?〜540)
  字は秀和。若くして名声あり、尚書右丞に累進した。胡太后が称制すると、『古今名妃賢后』四巻を献上して、尚書左丞に進んだ。ときに柔然の阿那瓌が衆を率いて塞内に入り、ほどこしを求めた。命を受けて救恤にあたったが、かえって柔然に捕らえられた。ほどなく解放されて帰還したが、流罪に処された。のち冀州刺史として復活した。農業養蚕を勧奨し、民衆に讃えられた。葛栄が乱を起こすと、捕らえられた。帰還して再び冀州刺史に返り咲いた。孝武帝の入関に従い、尚書左僕射に任ぜられ、扶風郡王に封ぜられた。監修国史となり、司空を経て、太傅に上った。

王羆(?〜541)
  北魏に仕え、氐・羌の反抗を鎮圧して、冠軍将軍となった。梁州に鎮して、梁将・曹義宗が荊州を攻めたのに対して援軍を率いて撃退し、荊州刺史・撫軍将軍となった。車騎大将軍・霸城県公に上った。西魏のとき、華州に鎮し、東魏の丞相・高歓もあえて進攻しなかったという。

賀抜勝(?〜544)
  字は破胡。神武尖山の人。高車族の出身。弓射をよくした。軍主となって、父度抜のもとで懐朔鎮を守った。のち爾朱栄に帰順し、別将・都督となって、葛栄討伐や北海王元の平定に従った。真定県公に進んだ。普泰元年(531)、車騎大将軍に進んだ。ときに高歓が爾朱氏討伐を進めると、爾朱仲遠に従って高歓をはばんだが、敗れて高歓に降った。太昌元年(532)、孝武帝が高歓を除こうと計画して、賀抜勝を都督三荊二郢南襄南雍七州諸軍事に任じて出向させ、勢援とした。任地でしばしば梁軍を破った。永煕三年(534)、孝武帝が関中に逃れたころ、宇文泰との連係を勧める助言を退けて、自力で高歓と対抗しようとした。侯景に敗れて、南朝梁に降った。大統二年(536)、梁を脱して西魏につき、太師となった。翌年、蒲坂を囲んでその地の十万戸あまりを帰順させた。のち、高歓が東方に残された諸子を殺し尽くしたとの報を聞き、憂憤のあまり病を発して亡くなった。

蘇綽(498〜546)
  字は令綽。武功の人。はじめ、西魏の宇文泰の行台郎中となった。大行台左丞に任ぜられ、戸籍の法を改訂した。大統三年(537)、宇文泰に従って、東魏の竇泰を潼関で破った。衛将軍・右光禄大夫を加えられた。十年(544)、度支尚書・司農卿に上った。宇文泰を助けて、国政の改革にあたり、官員を減らし、二長を置き、屯田を置いて、軍事力の増強を図った。『周礼』をもとに官制の改革に着手して、中途で没した。『仏性論』、『七経論』。

韋祐(?〜549)
  字は法保。京兆山北の人。北魏の正光末年、員外散騎侍郎となる。孝武帝が西遷すると、長安に赴き、右将軍に任ぜられ、固安県男に封ぜられた。西魏の初め、東洛州刺史となり、兵を率いて東境を守った。のち河南尹に上った。大統九年(543)、車騎大将軍となり、九曲城に鎮した。十五年(549)、驃騎大将軍を加えた。東魏の輸送隊を宜陽で邀撃して、転戦数十里、流れ矢に当たって、陣中に没した。

宇文導(511〜555)
  字は菩薩。北魏の末年、宇文泰に従って入関し、連年にわたって征戦に従った。永煕三年(534)、原州都督となり、侯莫陳悦を牽屯山に追撃した。功により饒陽県侯に封ぜられた。西魏の文帝の即位に功があり、公の爵位を受けた。大統三年(537)、左右の禁旅を率いて東魏の高歓と沙苑で戦い、これを大いに破った。翌年、華州刺史となり、趙青雀らの叛乱を平定した。章武郡公に封ぜられ、驃騎大将軍を加えられた。召されて長安に帰り、大将軍・三雍二華等二十三州諸軍事に任ぜられ、咸陽に駐屯した。宇文泰が出征するたびに留守を預かり、吏民をよく統御した。

宇文泰(505〜556)
  字は黒獺。北周の太祖文帝と追尊された。代郡武川の人。はじめ鮮于修礼に従い、次いで葛栄のもとで戦った。爾朱栄が北鎮の乱を平定すると、爾朱栄の部将の賀抜岳に従った。万俟醜奴を破り、隴右を平定した。太昌元年(532)、賀抜岳が関西大行台となると、その左丞・領台府司馬をつとめ、その軍政の議決に参与した。永煕三年(534)、賀抜岳が殺されると、その軍衆に推されて、軍権を引き継ぎ、秦隴に鎮した。関西大行台となり、高歓の専横を除くことを誓った。洛陽から逃れてきた孝武帝を迎えたが、これを毒殺して、元宝炬(文帝)を擁立し、西魏を成立させた。大将軍・丞相に任ぜられた。大統元年(535)、都督中外諸軍事・大行台となり、安定公に封ぜられた。十四年(548)、太師・大冢宰に進んだ。李弼・独孤信らの北人を軍中より抜擢し、蘇綽らの漢人儒士を任用して、国政の改革にあたった。均田制を施行して税収の安定をはかった。また軍を十二軍に再編して、八柱国に統率させ、府兵制を創立して軍事力の増強につとめた。西魏の執政の座にあること二十余年で、のちの北周の基礎を築いた。
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