[柔然(蠕蠕)]
丘豆伐可汗(社崙)−藹苦蓋可汗(斛律)−歩鹿真−牟件紇升蓋可汗(大檀)−敕連可汗(呉提)−處可汗(吐賀真)−受羅部真可汗(予成)−伏名敦可汗(豆崙)−候其伏代庫者可汗(那蓋)−他汗可汗(伏図)−豆羅伏跋豆伐可汗(醜奴)−阿那瓌−弥偶可社句可汗(婆羅門)−阿那瓌−鉄伐−登注−庫提−菴羅辰
社崙(?〜410)
  郁久閭氏。柔然の初代丘豆伐可汗(キュテレブリ・ハーン)。在位402〜410。縕紇提の子。弟の曷多汗が北魏の長孫肥に敗れて死ぬと、匹侯跋のもとに逃れ、ついで高車斛律部のもとに拠って匹侯跋を殺した。南に北魏道武帝の討伐を退け、北に高車諸部を討ってこれを併せた。西に匈奴の余種を討ち、東に朝鮮まで勢力を広げた。豆代可汗を称して、モンゴル高原に柔然勃興の基礎を築いた。弱洛水の河畔に王庭を築き、漢制を模し、軍法を立てた。天興五年(402)と永興元年(409)の二度にわたって塞内に侵入し北魏を攻めた。北魏の明元帝の逆撃を受けて逃走中に没した。

豆崙(?〜492)
  柔然の伏名敦可汗。在位485〜492。予成の子。父が亡くなると、位を継ぎ、太平と改元した。太平二年(486)、北魏に遣使した。ときに鉄勒が叛いたので、兵を率いて西漠まで追討した。性格は残酷粗暴で、しばしば謀反の罪を着せて大臣を殺したので、部衆の心は離れていった。高車の阿伏至羅に離反され、追撃をかけたが敗れた。在位八年にして部下に殺された。

醜奴(?〜520)
  柔然の豆羅伏跋豆伐可汗。在位508〜520。伏図の子。父が亡くなると、位を継ぎ、建昌と改元した。しばしば北魏に朝貢した。建昌九年(516)、西征して高車を大いに破り、その衆をことごとく併せて強勢となった。十三年(520)、高車王阿伏至羅が来攻してきたので、出撃したが敗れて帰還し、母と大臣に殺された。


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