[南北朝(386〜589)]
⇒北朝(北魏,東魏,西魏,北斉,北周),南朝(,,,),突厥,高昌
[北斉(550〜577)]
文宣帝(高洋)廃帝(高殷)孝昭帝(高演)武成帝(高湛)後主(高緯)安徳王(高延宗)幼主(高恒)
高洋(529〜559)
  
北斉の文宣帝,顕祖⇒
厙狄干(?〜553)
  善無の人。北魏の正光初年、乱を討って将軍となり、宮中に宿衛した。孝昌元年(525)、北辺で乱が起こると、郷里から雲中に逃れ、爾朱栄に帰順した。爾朱栄の入洛に従った。のちに高歓の起兵に従って、都督となった。韓陵において四胡を破ると、広平県公に封ぜられ、まもなく郡公に進んだ。東魏の天平三年(536)、高歓に従って西魏の夏州を襲い、これを破った。元象元年(538)、河陰で西魏軍と戦ったとき、諸将が大勝をおさめたのに、ひとり敗れて軍を退いた。高歓はかれの旧功を思って、責任を取らせなかった。高歓の妹の楽陵長公主をめとった。武定元年(543)、高歓に従って叛将高仲密を討ち、勝利した。凱旋して定州刺史となり、太師となった。北斉が建てられると、章武郡王に封ぜられ、太宰に転じた。書を知らず、「干」と署名するときの筆順を逆上がらせるように書いたので、ときの人がこれを「穿錐」といった。

司馬子如(489〜553)
  字は遵業。河内郡温県の人。晋の南陽王司馬模の八世の孫にあたる。はじめ北魏の懐朔鎮にあって、高歓と深くよしみを結んだ。孝昌年間、爾朱栄に礼遇を受け、その上洛に従って司馬・仮平南将軍をつとめた。建興太守となり、のち鄴を守って行相州事となった。爾朱栄が誅されると、爾朱世隆に従って京師に迫った。前廃帝により侍中・驍騎大将軍に任ぜられ、陽平郡公に進んだ。高歓が信都で起兵すると、爾朱世隆に疑われ、南岐州刺史に左遷された。高歓が入洛するとこれに従い、大行台尚書として軍政に参与した。東魏の天平初年、尚書左僕射となり、高岳・孫騰・高隆之らとともに四貴と称され、朝政を牛耳った。のちに収賄の罪で崔暹に弾劾され、官爵を奪われた。まもなく行冀州事となり、行いを改めたので、官爵を復した。北斉が建てられると、司空に任ぜられた。崔暹・崔季舒を讒言して文宣帝の譴責を受けた。太尉となり、まもなく没した。

高隆之(494〜554)
  もとの姓は徐。字は延興。洛陽の人。一説に高平郡金郷の人ともいう。北魏の汝南王元悦のもとで司州戸曹従事をつとめた。于暉の下で行台郎中となり、南征に従った。高歓が起兵するとこれに従い、大行台右丞となった。御史中尉・行相州事・驃騎大将軍を歴任した。并州刺史となり、平原郡公に封ぜられた。ときに給田において、貴豪が良田を占め、貧寒が痩田を受ける傾向がみられたが、高隆之はこれを取り替えて財産の均平をはかるよう訴えた。また営構大将となり、十万人を動員して洛陽の宮殿を鄴にうつし、南城を増築し、漳水を城のまわりに引き込んだ。武定年間、領軍将軍・録尚書事となり、侍中を兼ねた。行青州事として出向し、また太子太師・尚書左僕射・吏部尚書となり、太保にまで上った。北斉が建てられると、爵位は王に進み、録尚書事・大宗正卿・監国史となった。文宣帝(高洋)をあなどり、楊愔とも不和で、のちに文宣帝の命を受けた壮士に殴殺された。

高岳(?〜555)
  字は洪略。渤海郡蓨県の人。高歓の従弟にあたる。幼くして父を失い、母とともに洛陽で貧しい生活を送った。高歓が信都で起兵するとこれに従い、散騎常侍となった。韓陵の戦いで戦功を挙げて、衛将軍に任ぜられた。太昌初年、車騎将軍となり、清河郡公に封ぜられた。東魏の天平二年(535)に侍中となり、のち京畿大都督となった。興和初年、冀州刺史・晋州刺史として出向した。高歓の死後、諸軍を率いて侯景を討ち、太尉に任ぜられた。武定六年(548)、西魏の荊州刺史王思政を穎川で水攻めにし、高澄の来援を受けて王思政を捕らえた。北斉が建てられると、清河郡王に進んだ。天保五年(554)、太保の位を加えられた。まもなく西南道大行台となり、江陵に向かって梁の元帝を救援しようとしたが、果たさなかった。翌年、郢州を攻め取り、梁将の陸法和を捕らえた。功績があまりに高く、文宣帝(高洋)の忌避を買い、毒殺された。

陸法和(?〜558)
  はじめ江陵百里洲に隠れ住み、苦行僧のように暮らした。のちに荊州に入り、汶陽郡高安県の紫石山に住み、道術の修行にはげんだ。北斉の天保二年(551)、侯景が任約を遣わして梁の江陵を攻めさせると、陸法和は諸蛮の弟子八百人を集めて湘東王蕭繹(のちの元帝)に助勢し、任約の軍を撃ち破った。また蕭繹を助けて武陵王蕭紀を破った。蕭繹が即位すると、郢州刺史となった。元帝に対して臣を称することなく、自ら司徒を称した。元帝はかれに司徒の位を加えて追認した。六年(555)、高岳が軍を率いて南進してくると、州を挙げて北斉に降った。文宣帝(高洋)により、都督十州諸軍事・大尉公・大都督・西南道大行台に任ぜられた。賜った奴婢二百人をすべて放免し、銭帛百万を散じて仏寺を営んだ。弟子に死期を予言し、没後に文宣帝が棺を覗いたところ遺体は消え失せていたと伝えられる。

杜弼(491〜559)
  字は輔玄。中山郡曲陽の人。北魏の孝昌初年に太学博士となり、光州曲城県令にうつった。東魏のとき、侍御史となり、丞相高歓に任用されて、大行台郎中となり、機密に預かった。ひそかに高歓に簒奪を勧めたが、容れられなかった。武定七年(549)、高澄が穎川で西魏の大将軍王思政を討ったとき、その軍需をつかさどった。まもなく中書令に上った。北斉が建国されると、衛尉卿となり、長安県伯に封ぜられた。治政にあたって漢人を登用するよう主張した。侍中高徳に誣告されて、臨海鎮に流された。まもなく海州にうつされた。のち膠州刺史となったが、文宣帝(高洋)の命により殺された。『新注義苑』。

崔暹(?〜559)
  字は季倫。博陵郡安平の人。若くして書生となった。渤海にうつり、司空高乾を頼った。高歓の弟の高琛とよしみを結び、定州で開府諮議として召された。晋陽で高歓と語り、丞相長史に任ぜられた。高琛が罪をえると、かれもまた免官された。のちに高歓の子の高澄に重んじられ、高澄とともに鄴都に鎮した。東魏の興和三年(541)、吏部郎となって「麟趾格」の制定を主導した。武定元年(543)、妹の夫の高慎が叛いて西魏に走ったため、殺されそうになったが、高澄に救われた。御史中尉となり、司馬子如らを弾劾して、信任をえた。高澄のとき、度支尚書・右僕射となった。北斉文宣帝のとき、勲貴の恨みを受け、馬城に流されて苦役に服した。また謀反の罪で誣告されて、鎖につながれ晋陽に送られた。無実が判明して釈放された。まもなく太常卿となった。天保八年(557)、尚書右僕射となった。のちに病死し、開府を追贈された。

王マ(?〜559)
  字は元景。北海郡劇県の人。王雲の子。前秦の丞相王猛の六世の孫にあたる。はじめ北魏の汝南王元悦のもとで騎兵参軍をつとめ、東莱太守に進んだ。太昌初年に洛陽に戻り、常侍・金紫光禄大夫となった。東魏の元象元年(538)、魏収とともに梁に使した。北斉のとき、七兵尚書に任ぜられ、宜君県男に封ぜられた。永嘉王蕭荘が梁に入るのを送った。ひとたび幽州に流されたが、銀青光禄大夫として復活した。のち、郭子默の讒言を受け、文宣帝の怒りを買い、病と称して朝宴に赴かず、捕殺された。

楊愔(511〜560)
  字は遵彦。弘農郡華陰の人。幼いころから経史に通じた。北魏の孝昌初年、父に従って定州にいたった。杜洛周が起兵して、家人もろとも捕らえられた。のち葛栄のもとに移ったが、病を理由に仕えなかった。永安初年、洛陽にいたり、散騎侍郎に任ぜられた。のちに乱を避けて嵩山に隠れた。普泰元年(531)、高歓に帰順し、行台郎中・大行台右丞などをつとめ、公文書の起草にあたった。のちに兄が直言のため殺され、連座の処罰を恐れて光州に逃亡し、劉士安と名を変えて講学にあたった。高歓の訪問を受け、原職に復帰した。北斉の文宣帝(高洋)が即位すると、尚書令に上り、開封王に封ぜられた。文宣帝が死にあたって、高殷の補佐を遺嘱され、常山王・高演を除こうとして、事が洩れて殺された。

斛律金(488〜567)
  字は阿六敦。朔州の人。勅勒族の出身。騎射に優れ、用兵は匈奴の法を学び、柔然の阿那瓌をも感服させた。北魏の末年、軍主となり、破六韓抜陵の起兵に従い、王号を称した。まもなく北魏に降り、第二領民酋長に任ぜられた。秋には洛陽に入朝し、春には部落に帰って、雁臣と号した。杜洛周に敗れ、部衆は離散したため、爾朱栄に従って別将となった。孝荘帝が立つと、寧朔将軍・屯騎校尉となった。葛栄・元を破るのに戦功を立て、鎮南大将軍となった。普泰元年(531)、高歓とともに起兵して、爾朱兆を討滅した。汾州刺史に任ぜられ、侯に進んだ。天平四年(537)、西魏討伐に従って、沙苑に敗れた。武定元年(543)、河陽城を守って西魏軍をはばみ、高歓が到着するとこれを破った。東魏の大司馬となり、石城郡公に封ぜられた。四年(546)、高歓に従って玉壁を攻めたが、西魏の韋孝寛の堅守にはばまれ、勝利できず退いた。北斉が建てられると、咸陽郡王に封ぜられた。天保三年(552)、太師に任ぜられた。五年(554)、文宣帝に従って山胡を討ち、これを大いに破った。左丞相に任ぜられた。子や孫はみな侯に封ぜられ、将軍に上った。一門から一皇后二太子妃を出し、三公主を一門に迎えて、貴寵をほこった。

和士開(523〜571)
  字は彦通。清都郡臨璋の人。はじめ国子学生だった。琵琶・胡舞などの遊戯技芸に通じて、長広王高湛(のちの武成帝)に仕えた。天保元年(550)に高湛が長広王に封ぜられると、開府行参軍となった。文宣帝にそのなれなれしさを譴責されて、長城に移された。乾明元年(560)、常山王高演が楊愔を殺し、廃帝高殷を廃すると、京師に召還された。翌年、高湛が北斉の帝位につくと、黄門侍郎・侍中に上った。武成帝の寵信を受けて、朝政を専断した。また胡皇后の寵を受けて私通していたといわれる。武成帝が退位して太上皇となり、後主が即位すると、趙郡王高睿に弾劾されたが、帝と太后の信任により免れた。右僕射・尚書令・録尚書事などを歴任し、淮陰王に封ぜられた。他人の妻妾を奪うなど醜行が多く、忠直な人士に恨まれた。武平二年(571)、高儼・庫狄伏連らによって弾劾・逮捕されて処刑された。

(496〜?)
  字は子才。河間郡鄚県の人。若くして文才を知られ、陽固・裴伯茂・陸道暉らと交遊して、詩を賦した。北魏宣武帝のもとに郎として召され、奉朝請に任ぜられ、著作佐郎に進んだ。孝明帝のとき、典朝儀となった。文章は典雅で、一文を出すごとにみなが求めたので、このために京師の紙価を高らしめたという。袁翻・祖瑩に憎まれて、身の危険を感じ、求めて青州司馬として赴任した。建義元年(528)、従兄の邢杲が河北の流民を率いて青州を攻めると、旧友の東莱太守王マを頼って逃れた。東魏の孝静帝のとき、丞相高澄に任用された。北斉が建てられると、太常卿・中書監・国子祭酒に累進した。のちに特進を授けられ、没した。書三十巻があり、明の人が『邢特進集』としてまとめた。

魏収(507〜572)
  字は伯起。鉅鹿郡下曲陽の人。魏子健の子。はじめ武芸を志したが、鄭伯にあなどられて、読書に励むようになった。北魏で太学博士・司徒記室参軍・散騎侍郎・修国史などを歴任した。温子昇・邢子才とともに三才と号された。東魏の孝静帝のとき、梁に使いして、武帝に重んじられた。帰国後、司馬子如の推薦で晋陽に赴き、中外府主簿として高歓に仕えた。北斉が建国されると、中書令・著作郎に任ぜられた。天保二年(551)から三年をかけて、北魏の歴史をつづった『魏書』を撰した。河清二年(563)、尚書右僕射に上った。のち、汚職のため免官された。翌年、また用いられて清都尹となり、斉律の修定と『御覧』の監撰にあたった。

斛律光(515〜572)
  字は明月。朔州の人。勅勒族の出身。斛律金の長男。若いころから騎射をよくし、「射雕手」と称された。高澄の下で落雕都督を号し、左衛将軍を兼ねた。文宣帝(高洋)によって北斉が建てられると、開府儀同三司を加えられた。天保三年(552)、塞外に出征して多数の敵を斬首し、雑畜をえて凱旋した。功により晋州刺史に任ぜられた。七年(556)、北周の天柱・新安・牛頭の三鎮を落とし、王敬儁らを破った。九年(558)、北周の絳川・白馬・澮交・翼城の四鎮を取り、朔州刺史となった。乾明元年(559)に并州刺史に転じ、皇建元年(560)に鉅鹿郡公に進んだ。大寧元年(561)、尚書右僕射となった。河清二年(563)、勲掌城を築き、また長城二百里を築いて、十三戊を置いた。三年(564)正月に北周の達奚成興の侵攻を撃退し、三月に司徒に進んだ。同年冬、北周の尉遅迥・宇文憲らが洛陽に迫ったが、邙山で兵五万を率いて迎撃し、尉遅迥らを破り、北周の柱国可叱雄を射殺した。天統三年(567)、太保・咸陽王・第一領民酋長に上った。武平元年(570)、北周の斉国公宇文憲の軍を潰滅させ、洛陽の囲みを解いた。翌年、北周の州刺史韋孝寛を汾水の北で破った。また宜陽城下で戦い、四鎮を取った。太尉・左丞相になり、清河郡公に封ぜられた。娘は後主の皇后として入内し、勢力をふるった。不安を感じた後主はかれを殺させた。北斉が滅びた後、北周の武帝によって上柱国・崇国公の位を遺贈された。

高長恭(?〜573)
  一名に孝瓘。渤海郡蓨県の人。高澄(文襄帝)の四男。蘭陵王に封ぜられ、并州刺史に累進した。容貌が美しく、勇猛であった。突厥が晋陽を攻めたとき、抗戦につとめた。河清三年(564)、北周が兵を発して北斉を攻め、洛陽を包囲したときに、斛律光らとともに援軍を率いて五百騎で包囲を破り、洛陽城に至った。しかし味方であることが分からなかったので、兜を脱いで顔を示し入城した。このとき北斉の兵士は「蘭陵王入陣曲」を作って舞いかつ歌って高長恭の勇武を讃えたという。尚書令・太尉にまで上った。のちに後主の猜疑を受けて、毒殺された。

王琳(526〜573)
  字は子衍。会稽郡山陰の人。姉妹が梁の湘東王蕭繹(のちの元帝)のもとに入内したため、弱冠にして蕭繹の側近となった。王僧弁に従って侯景を討ち、湘州刺史となった。元帝に忌まれて、承聖三年(554)に広州刺史として出された。この年、江陵が西魏に攻められたので、援軍を率いて長沙までいたったが、すでに江陵は陥落して元帝は殺されていた。翌年、長沙王蕭韶や上游の諸将に推されて盟主となった。太平元年(556)、西魏の宇文泰と通じ、西魏より大将軍・長沙郡公を授かった。北周が建てられると司空となった。梁が滅びると、永嘉王蕭荘を荊州で擁立し、北斉に降った。永定三年(559)、陳の武帝が崩じると、永嘉王蕭荘を奉じて、兵を率いて東下した。翌年、蕪湖において大敗し、北斉に奔った。皇建二年(561)、北斉の驃騎大将軍・揚州刺史となり、寿陽に鎮した。武平四年(573)、陳将の呉明徹に敗れ、城を陥されて捕殺された。

元景安(?〜577)
  河南郡洛陽の人。代郡公元永の子。拓跋什翼犍の五世の孫。はじめ爾朱栄の大将軍府の参軍をつとめた。永煕三年(534)、高歓が洛陽に入ると、京畿都督となった。のち孝武帝の入関に従ったが、天平末年に東魏に帰順した。北斉の天保初年、興勢伯に封ぜられ、高姓を賜った。従兄の元景晧が姓を変えるのを肯んぜず、かれがこのことを文宣帝に密告したため、元景晧は処刑された。天統四年(568)、豫州刺史に任ぜられた。行台尚書令に上り、歴陽郡王に封ぜられた。辺州に長く在任して、諸族に恩威を及ぼした。武平末年、領軍大将軍となった。北斉を滅びると、北周に仕え、建徳六年(577)には大将軍として稽胡を討ったが戦死した。

王晞(511〜581)
  字は叔焉B北海郡劇県の人。前秦の丞相王猛の後裔。若いころから才能があると評判だったが、固辞して仕えなかった。のち高歓に従って晋陽にいたり、高歓の子の常山公高演と友になり、中外府功曹参軍をつとめた。北斉の天保初年、高演に従って太原郡の行政を代行した。高殷が即位すると、帝を廃して自立するよう高演に勧めた。高演が崩じ、高湛が立つと、東徐州刺史として出された。武平初年、大鴻臚に進み、儀同三司を加え、起居注を監修し、文林館で詔を待った。北斉が滅びると北周に仕えて儀同大将軍・太子諫議大夫となり、隋の初年に洛陽で没した。
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