[隋(589〜618)]
南北朝,隋末唐初群雄,,突厥,高昌,吐谷渾
文帝(楊堅)煬帝(楊広)恭帝(楊侑)恭帝(楊侗)
楊堅(541〜604)
  隋の文帝⇒
李徳林(530〜590)
  字は公輔。博陵郡安平の人。幼くして五経や古今の文集を暗誦し、文才で知られた。北斉の任城王高湝に召されて州館に入った。武成帝(高湛)のもとで中書舎人・侍郎に累進し、中書侍郎・修国史となった。北周に入って、内史上士となり、詔の起草をつかさどった。楊堅の輔政のもとで、軍機に参与し、布告文の起草にあたって、重用された。隋が建てられると、高熲とともに律令の修訂にあたった。陳平定の策を献じ、陳が滅ぶと、柱国に任ぜられた。郷里制の設置にひとり反対し、のちに改廃が問題になると、朝令暮改をそしって、文帝の怒りを買い、懐州刺史に左遷された。北斉史の編集を命ぜられたが、完成せず、子の李百薬の代に『北斉書』として完成した。

韓擒虎(538〜592)
  もとの名は豹、字は子通。河南郡新安の人。北周に仕えて、新安太守・永州刺史・和州刺史を歴任し、しばしば南朝陳の軍を破った。隋が建てられると、廬州総管となった。開皇九年(589)、晋王楊広の下で、軍を率いて陳を討った。兵五百人を率いて長江を渡り、采石にいたり、南路をとって建康に侵攻し、陳の後主を捕らえた。凱旋後、賀若弼と功を争い、位は上柱国に進んだ。兵の掠奪を制しなかったため、爵位は加えられず、官は涼州総管となった。のち京師に召され、大興城で病没した。

慧可(487〜593)
  俗姓は姫。幼名は神光。洛陽武牢の人。はじめ儒学や老荘を学んだ。のちに竜門香山に行き、宝静によって永穆寺で受戒した。正光元年(520)に達磨に師事して禅を学んだ。迫害を受けながらも、伝道につとめた。僧弁和に憎まれて、地方官に捕らえられて処刑された。禅宗の第二祖とされる。

信行(540〜594)
  俗姓は王。魏州の人。幼いころに出家し、相州法蔵寺・光厳寺に修学した。北周の武帝のときの廃仏に際していったん還俗した。隋代になってふたたび僧となり、やがて三階教団を創立して長安で布教した。その教えは異端視されて禁圧された。

(538〜598)
  俗姓は陳、字は徳安。荊州華容の人。陳起祖の子。はじめ梁の元帝(蕭繹)に仕えたが、西魏軍の攻撃でその政権が滅びると、父母を失い江湖をさまよった。人生の無常を悟って、長沙果願寺に出家した。光州大蘇山で慧思に師事し、法華三昧を修めた。建康瓦官寺で法華経を講じ、のちに天台山に上って国清寺を開き、修禅にはげんだ。晩年、隋の晋王・楊広に招かれ、智者大師の尊号が与えられた。『維摩経疏』。

顔之推(531?〜604)
  字は介。琅邪郡臨沂の人。幼くして父母を失い、長兄の顔之儀に育てられた。はじめ梁の湘東王蕭繹(のちの元帝)に仕えた。元帝が即位すると、散騎侍郎に上った。侯景の乱に巻き込まれて、虜囚となった。脱出して、北斉の都・鄴にいたり、北斉に仕えて、文林館待詔・黄門侍郎に上った。北斉が滅んで、北周により関中に連行されて、不遇な生活を続けた。隋が起こると、太子学士に任ぜられた。『顔子家訓』。

楊勇(?〜604)
  字は睍地伐。隋の文帝(楊堅)の長男。学問を好み、詞賦をよく作った。北周のとき、洛州総管・上柱国・大司馬となり、禁衛をつかさどった。隋が建てられると、皇太子に立てられた。国政に参与し、建議することが多かった。猜忌を受けて、弟の楊広に皇太子の位を奪われた。開皇二十年(600)、庶人に落とされた。文帝が崩ずると、死を賜り、房陵王に追封された。

楊諒(?〜604)
  字は徳章。隋の文帝(楊堅)の末子。開皇元年(581)、漢王に封ぜられた。十七年(597)、并州総管として出向した。太子楊勇や蜀王楊秀が廃されるのをみて、禍が身に及ぶのをおそれ、謀反を準備した。突厥に対する防衛を名目に、民衆を徴発し、器械を修理し、亡命者を受け入れた。仁寿四年(604)、文帝が崩じて煬帝が立つと、粛清をおそれて起兵し、十九州が呼応した。煬帝が楊素を遣わして攻めさせたため、窮して降を請うた。宗籍を削られて民とされ、幽閉されて没した。

劉方(?〜605)
  京兆郡長安の人。北周のとき、軍功によって上儀同となった。韋孝寛に従って尉遅迥を相州で破った。隋に入って、河陰公に封ぜられた。開皇三年(583)、衛王楊爽に従って突厥を白道に破り、大将軍に進んだ。甘・瓜州刺史を歴任した。仁寿二年(602)、軍を率いて交州俚帥の李仏子を破った。大業元年(605)、歓州道行軍総管に任ぜられ、兵を率いて林邑王梵志の象軍を破り、林邑国都を陥した。凱旋途中で没した。

煬帝(569〜618)
  
楊広⇒
楊素(?〜606)
  字は處道。弘農郡華陰の人。楊敷の子。北周の明帝のころに宇文護に重用されていたため、武帝が即位すると家は零落した。かれの父が死後の追封を受けていないことを上訴したため、武帝の怒りを買って処刑されるところだったが、「臣は無道な天子につかえ、死に場所を得ただけだ」と壮語を吐いて、かえって赦免された。隋初に上柱国・御史大夫に上ったが、妻の鄭氏といさかい、「もし自分が天子となったら、お前は皇后の資格はあるまい」と放言したため、一時免官された。行軍元帥となり、四川から水軍を率いて東下し、陳朝討伐にあたった。功により越国公に封ぜられた。開皇十二年(592)、尚書右僕射に上った。高熲とともに朝政をつかさどった。翌年、仁寿宮の建造にあたった。十九年(599)、行軍総管に任ぜられて、軍を率いて突厥に遠征し、達頭可汗の軍を破った。文帝の晩年、皇太子位をめぐって暗闘があったが、かれは公に態度をはっきりさせなかった。しかし揚勇の悪い流言を流して廃嫡に追い込み、楊広(のちの煬帝)の立太子に協力した。仁壽元年(601)、尚書左僕射となり、また雲州行軍元帥に任ぜられて遠征し、翌年また突厥を破った。文帝の死後、楊広と共謀して詔書を偽造し、煬帝即位を演出した。漢王・楊諒の叛乱を鎮圧し、司徒に上り、楚国公に封ぜられた。しかし煬帝の猜疑を受け、大業二年(606)に憂悶のうちに病没した。

高熲(?〜607)
  またの名は敏。字は玄昭。渤海脩の人。高賓の子。はじめ北周に仕えた。北斉との戦いで活躍し、また尉遅迥の叛乱を平定するのに功績を挙げた。隋が起こると、尚書左僕射に上り、納言を兼ねて、隋臣最高位に就いた。しかし開皇十九年(599)、文帝が太子楊勇を廃して楊広を立てようとするのに反対したため、尚書右僕射から罷免された。文帝が尉遅迥の娘を寵愛し、それを嫉妬した独孤皇后がこの娘を殺したとき、文帝は「吾貴くして天子となるも自由を得ず」と叫んだが、このとき高熲が「陛下豈に一婦人を以て天下を軽んぜんや」と言ったため、独孤皇后に恨まれて失脚したともいう。煬帝の即位後に、太常卿として再び起用された。大業三年(607)、煬帝の奢侈な生活を諫め、時政を批判したため、人に告発を受けて誅殺された。国人でその死を惜しまないものはなかったという。

賀若弼(544〜607)
  字は輔伯。河南郡洛陽の人。賀若敦の子。若くして大志をいだき、驍勇にして弓馬をよくし、書史に博通した。はじめ北周の斉王宇文憲に召されて記室となった。宣帝が即位すると、韋孝寛に従って南朝陳を攻め、戦功を挙げて、寿州刺史に任ぜられた。隋に入って呉州総管となった。陳を平定することを自分の責務と定め、平陳十策を上奏した。開皇九年(589)、行軍総管となり、晋王楊広の節度を受け、軍を率いて陳を討った。長江を渡り、京口を抜き、北路より建康を攻め、蒋山で陳軍主力を大破し、陳将蕭摩訶らを捕らえた。陳が滅んだのち、韓擒虎と功を争い、上柱国の位を加えられ、右武候大将軍に転じ、宋国公に封ぜられた。功をほこって楊素・高熲の下に立つのを潔しとせず、文帝の怒りを買って庶民に落とされた。のちに復爵したが、任務を与えられなかった。大業三年(607)、煬帝の北巡に従って楡林にいたり、高熲らとともに朝政を誹謗した罪で処刑された。

薛道衡(540〜609)
  字は玄卿。河東郡汾陰の人。はじめ北斉の武帝に召し出され、諸儒と五礼を修定した。ついで北周の武帝に仕えた。隋代には陳の征討に功績を挙げて、上開府となった。内史侍郎・司隷大夫を歴任した。煬帝を批判して憎まれ、自殺した。楽府・詩を残した。

劉焯(544〜610)
  字は士元。信都郡昌亭の人。儒学を修めた。開皇年間に進士に及第した。国子において諸儒と古今の疑義を論じて有名となった。劉Rとともに他の学者を激しく論難したため、恨みを買って官を奪われ庶人に落とされたこともあった。煬帝の即位後、太学博士に上った。『暦書』、『五経述議』。

牛弘(545〜611)
  もとの姓はォ。字は里仁。安定郡鶉觚の人。牛允の子。鬚貌雄偉で、性格は寛厚、広く学問に通じた。はじめ北周に仕え、中外府記室・内史上士などを歴任し、文章の起草をつかさどった。隋が建てられると散騎常侍・秘書監に任ぜられた。開皇三年(583)、散逸した典籍を蒐集するよう上表し、民間からの献書の道を開いた。奇章郡公に進んだ。礼部尚書となり、五礼を修定し、蘇威とともに新律を定め、刑罰を簡素化した。九年(589)、許善心や虞世基らとともに雅楽を定めた。まもなく吏部尚書にうつり、文才より徳行を優先して官吏を任用した。煬帝のとき、輿服・儀衛の制度を定めて、「大業律」十八篇五百条を撰した。煬帝に従って江都に下り、そこで没した。『隋開皇四年書目』。

宇文ト(555〜612)
  字は安楽。朔方郡の人。代々武将の家に生まれた。隋が建てられると、営新都副監に任ぜられ、大興城の造営・区画割りを取り仕切った。大業年間、営東都副監・将作大匠を歴任し、洛陽城の造営にあたった。工部尚書に上り、民衆を徴用して広通渠を開鑿させた。大業三年(607)、煬帝の北巡にあたって、器械・車輌を動員して、数千人が座ることのできる帳を造作したという。『東都図記』、『明堂図議』、『釈疑』などの著があったが、失われた。

楊玄感(?〜613)
  弘農郡華陰の人。楊素の子。読書を好み、弓馬に長じた。若くして柱国に任ぜられ、郢州刺史として治績をあげた。鴻臚卿・礼部尚書を歴任し、楚国公まで上った。煬帝の第二次高句麗遠征のとき、糧食の補給を担当したが、任が果たせず、咎められることをおそれて叛乱を起こした。秦王・浩を擁立し、洛陽攻略を目指して果たしえず、軍を転じて長安に向かう途中、官軍に包囲されたため弟の楊積善と刺し違えて死んだ。

房彦謙(547〜615)
  字は孝冲。斉州臨淄の人。房玄齢の父にあたる。幼くして孤児となり、尹琳に師事した。五経に通じ、文章を作り、草書・隷書をよくした。北斉に仕えて、斉州刺史主簿となると、政は簡素で法を守り、州境は粛然とした。北斉が滅ぶと郷里に帰った。隋の開皇七年(587)、奉承郎に任ぜられ、まもなく監察御史となった。煬帝のとき、黄門侍郎張衡に信書を送り、刑名法制と治乱興衰の策を論じたが容れられず、官を辞して隠居した。のち召されて司隷刺史となった。大業九年(613)、高句麗遠征に従軍して、監軍をつとめた。官は陽令のとき、没した。

宇文述(?〜616)
  もとの姓は破野頭。字は伯通。代郡武川の人。騎射をよくした。北周に仕えて、開府より英果中大夫に累進した。韋孝寛に従って尉遅迥を討ち、上柱国に進んだ。隋に入って右衛大将軍となった。南朝陳を平定する戦に参加し、行軍総管として、三万を率いて六合より出兵し、東呉の地を平らげた。功により安州総管となった。楊素とともに晋王楊広が太子位を奪う謀を助けた。煬帝が即位すると、左衛大将軍に任ぜられ、許国公に封ぜられた。北巡に従って楡林に、西巡に従って張掖におもむき、たびたび吐谷渾の軍を破った。大業八年(612)、煬帝が高句麗を攻めると、扶余道の軍将を任され、戦い敗れて庶民に落とされた。翌年、官爵を復し、再び高句麗を攻めた。まもなく楊玄感の乱が起こると軍を東都に帰し、叛乱を討って楊玄感を斬った。のちに煬帝に従って江都に下り、まもなく病没した。かれは広く賄賂を集めて、金宝を収蔵し、家僮は千余人におよんだという。

張金称(?〜616)
  大業七年(611)、煬帝の高句麗遠征に反抗して、長白山を拠点として逃亡兵・貧農らを率いて挙兵した。山東・河北の郡県を荒らし、殺掠をほしいままにした。楊義臣率いる隋軍に攻撃されて敗走。楊善会に捕らわれて磔にかかった。

楊義臣(?〜?)
  もとの姓は尉遅。代郡の人。隋の文帝のとき、その父の功により楊姓を賜った。宮中で養われ、成長すると陝州刺史に任ぜられた。騎射をよくし、将才があった。軍を率いて突厥の達頭可汗を破った。仁寿初年、朔州総管となった。仁寿四年(604)、煬帝が即位して、漢王楊諒が并州で叛くと、これを討伐した。勝利して上大将軍に進み、相州刺史となった。吐谷渾や高句麗への遠征に従った。軍を帰して河北で転戦し、向海明・高士達の乱を討った。大業十二年(616)、朝廷に召されて兵権を奪われ、礼部尚書に任ぜられた。在官のまま没した。

張須陀(565〜616)
  弘農郡閿郷の人。隋に仕えて不遇であった。斉郡の丞を務めていたとき、飢饉が起こり、無断で官庫を開いて民衆に施した。そのため誣告されたが、かえって煬帝に称揚された。王薄・郭方預・左孝友・盧明月らの叛乱を討伐するため転戦し、連勝した。河南討捕大使に上った。李密率いる瓦崗寨軍と戦って敗れ戦死した。

王須抜(?〜617?)
  上谷の人。隋の大業十一年(615)、起兵して隋にそむき、十数万の人々を集めて、漫天王を称し、国号を燕とした。北は突厥と結び、幽州を攻掠した。流れ矢に当たって戦死し、部衆は魏刀児に引き継がれた。一説に竇建徳に敗れて突厥に亡命したともいう。  

魏刀児(?〜618)
  上谷の人。隋の大業十一年(615)、王須抜に従って起兵し、歴山飛を自称した。十数万の衆を集め、突厥と結び、河北・山西の間で活動した。翌年、部将の甄翟児を遣わして太原を攻めさせ、隋の潘長文を殺した。王須抜が戦死すると、余衆を率いて深沢に拠り、魏帝を称した。のちに竇建徳に敗れて殺された。

来護児(?〜618)
  字は崇善。江都の人。開皇初年、大都督に任ぜられた。南朝陳平定の戦に従い、功により上開府に進んだ。開皇十年(590)、楊素に従って高智慧を討ち、戦功を挙げた。泉州・建州・瀛州に鎮した。煬帝のとき、右驍衛大将軍となった。大業末年、三たび高句麗遠征に従い、左翊衛大将軍に転じた。楊玄感の乱が起こると、宇文述に従ってこれを撃破した。江都で兵変が起こると、宇文化及に殺された。

王通(584〜618)
  字は仲淹、私諡を文中子という。太原の人。王隆の子。幼若のころから勉学に励み六経に通じた。長安に上って文帝に謁し、「太平策」十二を奏した。楊広に異志があるのを見て、郷里に帰った。予見は的中して楊広は父を拭して皇帝として立った。以後、招聘を固辞しつづけ、門人への教育に専念した。『中説』。

沈光(591〜618)
  字は総持。呉興の人。若いころから敏捷で、十数丈の高さまで竿をのぼって縄をかけ、肉飛仙と号された。大業年間、高句麗遠征に従軍して、衝梯で城を攻めるところ、竿をかけて城にとりつき、十数人を殺傷してみせて、煬帝を喜ばせた。その日のうちに朝請大夫に任ぜられ、まもなく折衝郎将となった。のちに江都で煬帝が殺されると、帝の復仇をはかって麦孟才らとともに宇文化及の暗殺をたくらんだが、事が洩れて殺された。

元文都(?〜618)
  元孝則の子。北周のとき、右侍上士となった。隋の開皇初年、内史舎人に任ぜられた。庫部・考功二曹郎を歴任し、尚書左丞に進み、太府少卿に転じた。煬帝が即位すると、司農少卿・司隸大夫に転じ、まもなく御史大夫となった。事件に連座してひとたび免職されたが、再起して太府卿となった。大業十三年(617)、煬帝が江都に幸すると、段達らとともに東都留守をつとめた。煬帝が宇文化及らに弑されると、王世充・皇甫無逸らとともに東都で越王楊侗を擁立した。内史令・開府儀同三司・光禄大夫・左驍衛大将軍・摂右翊衛将軍に上り、魯国公に封ぜられた。李密の扱いをめぐって王世充と対立し、盧楚らとともに王世充の排除を謀ったが、先手を打たれて殺害された。
李密(582〜618)
  
李密⇒
宇文化及(?〜619)
  宇文化及⇒
王世充(?〜621)
  王世充⇒
蘇威(540〜621)
  字は無畏。京兆郡武功の人。蘇綽の子。北周のとき、大冢宰宇文護の娘婿となった。宇文護が殺されたのち、病にかこつけて長らく出仕しなかった。楊堅が大丞相となると、高熲に推挙されたが、楊堅に周を簒奪する意志があるのを知ると、郷里に逃げ帰った。楊堅が隋の文帝として即位すると、太子少保に任ぜられ、邳国公の爵位を賜った。まもなく納言・民部尚書を兼ねた。節倹と軽徭薄賦を主張して、文帝に重んじられ、高熲とともに朝政をつかさどった。大理卿・京兆尹・吏部尚書などをつとめ、刑律の修訂にあたった。開皇九年(589)、尚書右僕射となった。十二年(592)、朋党の罪で免官された。十四年(594)、納言として復帰。突厥の都蘭可汗への使者に立った。また文帝が京師を離れると、留守を預かった。煬帝のとき、宇文述・裴矩らとともに五貴と称された。農民叛乱が各地に起こったとき、朝臣はあえて帝に報じなかったので、かれは盗賊を赦免して高句麗遠征に従軍させるよう建議した。このため官爵を奪われ庶民に落とされた。のちにまた起用された。煬帝が江都で殺されたのち、宇文化及により光祿大夫に任ぜられた。宇文化及が敗れると李密に降り、李密が敗れると王世充に降って太師に封ぜられた。王世充が敗れると、唐に投じたが用いられなかった。長安で没した。
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