[北宋(960〜1127)]
⇒北宋(太祖太宗期,真宗仁宗期,英宗神宗期,哲宗徽宗期),南宋(高宗期,孝宗光宗期,寧宗理宗期,度宗期以後),西夏,大理
太祖(趙匡胤)太宗(趙匡義)真宗(趙恒)仁宗(趙禎)英宗(趙曙)神宗(趙頊)哲宗(趙煦)徽宗(趙佶)欽宗(趙桓)
呂大臨(1040〜1092)
  字は与叔。京兆藍田の人。呂大忠・呂大鈞の弟にあたる。蔭官により出仕し、太学博士・秘書省正字となった。兄とともに張載の門人となり、張載が亡くなると、程・程頤に師事した。謝良佐・游酢・楊時と併称される程門の四子のひとり。煕寧九年(1076)から藍田に郷約を組織し、民間の教化・互助に尽力した。『考古図』、『易章句』、『大易図像伝』、『孟子講義』。
沈括(1031〜1095)
  字は存中。杭州銭塘の人。嘉祐年間に進士に及第した。神宗のとき、王安石の変法に参与した。太子中允・提挙司天監・太常丞・河北西路察訪使などを歴任した。熙寧八年(1075)、遼に使いして、遼による領土要求をしりぞけた。翌年、翰林学士・権三司使に任ぜられた。元豊五年(1082)、西夏に敗れた責任を負って、均州団練副使に左遷された。晩年、潤州に夢渓園を築き住んで、当時の科学知識を集成した『夢渓筆談』を著した。
文彦博(1006〜1097)
  字は寛夫。汾州介休の人。天聖年間に進士に及第した。慶暦七年(1047)、枢密副使・参知政事に任ぜられた。王則の乱を貝州で鎮圧して、同平章事を加えられ、のちに潞国公に封ぜられた。煕寧年間、王安石の新法に反対して、左遷された。元祐初年、平章軍国重事として復活し、ことごとく新法を廃した。五年(1090)、致仕した。『潞公集』。
秦観(1049〜1100)
  字は少游、または太虚。高郵の人。元豊八年(1085)、進士に及第した。蘇軾の推薦で、元祐三年(1088)に太学博士となった。国史院編修官となって『神宗実録』の編纂にあたった。紹聖元年(1094)、旧法党に属したため、新法党の攻撃を受けて、杭州通判に左遷された。さらに『神宗実録』を増損したという罪で監処州酒税に落とされ、禄を削られてチン州に流され、官職を削られて雷州まで流された。徽宗が即位すると、宣徳郎に任ぜられたが、召還される途中、藤州で没した。蘇門四学士のひとり。『淮河集』。
蘇軾(1036〜1101)
  字は子瞻、号は東坡居士。諡は文忠。蘇洵の長男。母は程氏。眉州眉山の人。郷里で学問に励み、嘉祐二年(1057)に進士に及第した。しかし、母が没したため帰郷し、喪に服した。嘉祐六年(1061)、弟の蘇轍とともに制科を受験して及第。鳳翔府判官事に任ぜられて赴任した。治平二年(1065)、判登聞鼓院に任ぜられて都に戻り、次いで直史館・監官誥院を歴任した。神宗が即位すると、王安石の新法に反対してたびたび上書した。謝景温に弾劾されて疑惑が晴れず、煕寧四年(1071)に杭州通判に左遷された。望湖楼に遊び、西湖に宴し、詩を詠んで心を癒した。密州・徐州・湖州の知事を歴任した。元豊二年(1079)、詩文の中で曲筆をもって朝政を誹謗したと告発され、御史台の獄に下った。翌年、黄州に流され、家族とともに窮乏した生活を送った。このころ「赤壁賦」を詠んだ。のちに汝州に移され、哲宗が即位すると名誉回復されて、登州知事・礼部郎中・起居舎人・中書舎人・翰林学士・知制誥・杭州知事などを歴任した。元祐七年(1092)には兵部尚書、次いで礼部尚書に上った。証聖元年(1094)、朝政誹謗の罪に問われて恵州流罪となった。四年(1097)、さらに瓊州(海南島)に流された。元符三年(1100)、哲宗が崩じて徽宗が立つと許されて北帰。常州で致仕し、没した。唐宋八大家のひとり。『東坡集』など。
陳師道(1053〜1101)
  字は無己、号は後山居士。彭城の人。若くして曾鞏に文章を学んだ。王安石の新政を喜ばず、科挙受験を断念した。曾鞏は修史にかれを推薦したが、用いられなかった。元祐初年、蘇軾に推挙されて徐州で教授となった。また梁Zに推挙されて太学博士となった。元符三年(1100)、召されて秘書省正字となった。翌年、病没した。家は貧しく、清廉を旨とした。詩作は杜甫や黄庭堅の影響を受け、苦吟の作を多くなし、江西派を代表する詩人となった。『後山集』、『後山叢談』。
陸佃(1042〜1102)
  字は農師、号は陶山。越州山陰の人。若くして学問につとめ、王安石に経書を学んだ。煕寧年間に進士に及第した。蔡州推官から国子監直講となった。元豊年間、中書舎人に抜擢された。哲宗の初年、吏部侍郎となる。『神宗実録』の編纂に参与し、范祖禹・黄庭堅と議論して合わなかった。地方官を歴任して、治績を挙げた。徽宗が即位すると、『哲宗実録』の編纂に参与した。吏部尚書に転じ、遼に使者として立った。尚書右丞に任ぜられ、尚書左丞に転じ、元祐の人材を登用するよう主張し、旧法党への迫害に反対した。このため知亳州に左遷された。学術面では王安石の影響を受けながら、新法党に属さなかった。『埤雅』、『陶山集』。
謝良佐(1050〜1103)
  字は顕道、号は上蔡先生。程・程頤に師事した。游酢・呂大臨・楊時らとならぶ程門四弟子のひとり。元豊年間に進士となり、州県を歴仕した。『論語説』を著して『論語』を禅学で解釈し、人の欲を捨てて本真の心を回復させることが聖人の求めるところだと主張した。天理と人欲はあい対するもので、一分の人欲があれば一分の天理を滅却し、一分の天理があれば一分の人欲に勝つと唱えた。二程子の格物致知の論を継承し、「究理」の説をなし、朱熹の先駆となった。『上蔡先生語録』。
舒亶(1041〜1103)
  字は信道、号は懶堂。慈谿の人。治平二年(1065)、礼部の試験に首席で及第した。煕寧七年(1074)、新法を批判した鄭侠の事件で、馮京や王安国を罪に陥れた。この功で太子中丞となった。元豊二年(1079)、集賢校理の官にあって、蘇軾流刑の片棒を担いだ。のち御史中丞となったが、裁判に私情を交えること甚だしかったという。崇寧年間に南康軍知事となり、竜図閣待制となった。
黄庭堅(1045〜1105)
  字は魯直、号は山谷道人。諡は文節。洪州分寧の人。黄庶の子。治平四年(1067)、進士に及第した。詩を蘇軾に認められて名を挙げ、校書郎となり、『神宗実録』の編纂に参加した。起居舎人・鄂州知事となったが、旧法党に属したため、新法党の攻撃を受けて、涪州別駕・黔州安置に左遷された。徽宗の時代になって、起監鄂州税・知舒州として一時返り咲いた。崇寧元年(1102)、趙挺之に「荊南承天院記」の一文を咎められ、官位を剥奪されて宜州に流された。配所で没した。詩と書にすぐれ、詩は蘇軾に師事して、蘇門の四学士・蘇門の六君子のひとりに数えられる。禅語や典故を尊び、難解な作品を残した。書家としては、草書に巧みで、超俗的な書風をもち、北宋四大家のひとりに数えられる。『豫章黄先生文集』。
李公麟(1049?〜1106)
  字は伯時、号は龍眠。舒州舒城の人。煕寧三年(1070)、進士に及第した。中書門下刪定官をつとめ、のちに朝奉郎に上った。元符三年(1100)、官を辞して龍眠山に隠居し、画に打ち込んだ。とくに白描画にすぐれた。古典調の写実的作品を残した。「五百応真図」、「維摩演教図」。
晏幾道(1030?〜1106?)
  字は叔原、号は小山。撫州臨川の人。晏殊の七男。官歴は不明。『小山詞』。
程頤(1033〜1107)
  字は正叔、号は伊川。洛陽の人。程の弟にあたる。周敦頤に師事した。二十四歳のころ上京して、太学で胡瑗に師事した。哲宗のとき、司馬光らの推薦により、秘書省校書郎・崇政殿説書などを歴任した。紹聖年間、政見が合わず、涪州に流された。徽宗が即位すると、峡州に移された。まもなく官に復したが、致仕し、亡くなった。兄程の理の説を発展させ、理と事(現象)の合一を説いた。道学を確立した。兄が大程と称されたのに対し、小程と称され、合わせて二程と称された。北宋の五子のひとり。『易伝』、『文集』、『経説』など。
曾布(1036〜1107)
  字は子宣。建昌軍南豊の人。曾鞏の弟にあたる。嘉祐年間、進士に及第した。神宗のとき、集賢校理に任ぜられた。はじめ変法を支持して王安石の信任をえて、呂恵卿とともに青苗・助役・保甲・農田水利の法を作った。翰林学士・三司使に進んだ。のち市易法をめぐって王安石と隙を生んだ。呂恵卿が相となると、その新法をはばんだため、知饒州に左遷された。哲宗が親政をはじめ、章惇が政権を握ると、同知枢密院事に任ぜられて、新法の復活に参与した。これを紹聖の紹述という。哲宗が崩ずると、向太后の意向におもねって徽宗の擁立に加わった。徽宗が立つと、右僕射となり、新旧折衷の政治をすすめた。蔡京と合わず、左遷されて潤州で没した。
米芾(1051〜1107)
  字は元章、号は海岳外史。太原の人。のちに襄陽に移り住んだ。秘書省校書郎を初任として、南方の地方官を歴任し、崇寧二年(1103)には太常博士に上った。翌年、書画学博士となり、礼部員外郎に挙げられた。知淮陽軍を最後の官として没した。書画にすぐれた。とくに山水・樹石を得意とし、文人画に新生面を開いた。また金石古器を蒐集し、とくに奇石を好んだ。奇行が多く、「米顛」と称された。蔡襄・蘇軾・黄庭堅とともに宋の四大家のひとりに数えられる。『宝晋光英集』、『画史』。
晁補之(1053〜1110)
  字は無咎、号は帰来子。済州巨野の人。若くして文章をよくし、蘇軾の賞賛を受けた。元豊二年(1079)、進士に及第した。澧州司戸参軍・北京国子監教授を歴任した。元佑初年、太学正に任ぜられ、のちに秘書省正字・校書郎に転じた。秘閣校理・通判揚州・著作佐郎などをつとめた。紹聖年間、新法派により排斥され、知斉州として出された。『神宗実録』の編纂にからんで、弾劾され、毫州通判に左遷され、さらに監処信二州酒税に左遷された。徽宗が即位すると、吏部員外郎として召され、礼部郎中・国子編修に任ぜられた。崇寧四年(1105)、蔡京により元佑の奸党に列せられ、知河中府として出され、ついで知湖州・知密州にうつされた。さらに主管鴻慶宮に左遷された。官を退いて帰郷し、帰来園を居とした。大観四年(1110)、党籍を出され、知達州・知泗州をつとめて、官舍で没した。張耒・秦観・黄庭堅とともに「蘇門の四学士」と称された。詩文や書画に秀でて、とくに詞は格調高く評価を受けた。『鶏肋集』、『晁氏琴趣外篇』。
蘇轍(1039〜1112)
  字は子由、号は潁浜遺老、または欒城。蘇洵の子、蘇軾の弟にあたる。眉州眉山の人。嘉祐二年(1057)、進士に及第した。王安石の青苗法に反対して、河南推官として出され、陳州教授、斉州掌書記、南京判官などを歴任した。兄に連座して筠州に流された。哲宗が即位すると、右司諫となり、新法党を排斥した。哲宗が親政をはじめると、紹聖の紹述の禍に遭い、知汝州に左遷され、さらに化州別駕、雷州安置に流された。唐宋八大家のひとり。『欒城集』、『竜川略志』。
徽宗(1082〜1135)
  趙佶⇒
元照(1048〜1116)
  俗姓は唐、字は湛然。杭州余杭の人。允堪の弟子となる。天台の教理を学びながら、同時に諸宗を広く究めた。杭州霊芝崇福寺に三十年あまり住持して、霊芝律師と称された。戒律と浄土をともに重んじるよう主張し、天台の教義で律部を解釈して、律宗の中興をなした。紹興年間に大智律師と追諡された。『行事鈔資持記』、『戒疏行宗記』、『芝園集』。
何執中(1044〜1117)
  字は伯通。処州竜泉の人。煕寧年間に進士に及第した。紹聖年間に王府記室・侍講に任ぜられた。徽宗が即位すると、宝文閣待制となり、中書舎人に転じた。旧法党の士人の多くを京師から追放した。崇寧四年(1105)、尚書右丞となり、中書門下侍郎に進んだ。大観三年(1109)、左僕射・門下侍郎となった。政和二年(1112)、太宰となった。蔡京とともに宰相となり、蔡京の施策に忠実に従った。六年(1116)、太傅の官を最後に致仕した。
蔡卞(1058〜1117)
  字は元度。興化軍仙游の人。蔡京の弟で、王安石の娘婿にあたる。煕寧年間、進士に及第した。起居舎人・同知諫院・侍御史を歴任した。哲宗が立つと、礼部侍郎に転じた。遼に使者としておもむき、礼遇を受けた。つづけて外州の知事を歴任した。紹聖元年(1094)、中書舎人・国史修撰となった。神宗の時代を「千古に卓絶する」とたたえる上疏をおこない、新法の復権をはかった。四年(1097)、尚書左丞に任ぜられた。徽宗のとき、諫官に弾劾されて、池州に左遷された。まもなく知大名府として復権し、知枢密院に上った。蔡京が相となると、協調を欠き、知河南府として出向した。のちに鎮東軍節度使となった。『毛詩名物解』。
黄伯思(1079〜1118)
  字は長睿、号は雲林子。邵武の人。元符年間、進士に及第した。通州司戸・河南府戸曹参軍を歴任した。古文奇字を好み、公卿の古器の落款を鑑識した。古文の名家として知られるようになった。書法にもすぐれ、各書体いずれも絶妙で、ただの書きつけであっても人の宝となったという。校書郎に転じ、また秘書郎にうつった。官府の蔵書を読んで、学問は大いに進んだ。『東観余論』、『法帖刊誤』。
方臘(?〜1121)
  一名に方十三ともいう。睦州青渓の人。マニ教に帰依し、その指導者となり、禁教を破って衆に広めた。宣和二年(1120)、重税に反抗して青渓県で挙兵した。多数の農民・群盗が合流して勢威を振るった。聖公と自称し、方肥を宰相とし、永楽と建元した。翌年正月に童貫が宋軍十五万を率いて南下してくると、四月には青渓帮源洞に退いて防戦したが、腹背に敵を受けて敗れ、捕らえられた。八月、京師において刑死した。残部は呂師嚢に率いられて抵抗を続けたが、四年(1122)三月に潰滅した。
周邦彦(1057〜1121)
  字は美成、号は清真居士。銭塘の人。若いころ汴京に遊学し、「汴都賦」を献上して神宗に賞され、太学正に抜擢された。徽宗の代になると、徽猷閣待制に上り、大晟府提挙をつとめた。のちに順昌・処州の知事を歴任。官を退いて明州に没した。詞・曲を作ることに巧みであった。『清真詞』。
鄭居中(1059〜1123)
  字は達夫。開封の人。進士に及第した。崇寧年間、貴妃の従兄として抜擢され、礼部員外郎・起居舎人・中書舎人・直学士院・給事中・翰林学士を歴任した。大観元年(1107)、同知枢密院となったが、外戚のため罷免され、資政殿学士となった。蔡京が相を辞めると、蔡京が為政にあたって過失がなかったと力説した。政和年間、知枢密院に復し、太宰に任ぜられた。金に遣使して遼を挟撃し燕雲を恢復する策に反対した。のちに急死した。
蔡京(1047〜1126)
  字は元長。興化軍仙游の人。煕寧三年(1070)、進士に及第した。累進して知開封府となった。司馬光が差役法を復活させるとき、五日と期限を限ったが、かれは独力で期限どおり実行した。紹聖初年、権戸部尚書となり、章惇が新法を復活させるのを助けた。徽宗が即位して向太后による新旧折衷の政がおこなわれると、中央から逐われたが、童貫と結んで再起をはかった。崇寧元年(1102)、右僕射となり、まもなく太師となった。新法を復活する名目で、元祐の諸臣をことごとく左遷し、「奸党」と名指しして党人碑を立てた。逐われた旧法党人は三百余人におよび、その子孫も禁錮された。二十年余にわたり輔政の地位にあった。書画をよくして徽宗に寵愛された。「豊亨豫大」の説をとなえて、大土木工事をおこない、財政を放漫化させ、民衆を労役と増税で苦しめた。金と結んで遼を討つ策を推進し、そのため金の侵入を招いた。靖康の変のとき、儋州に流刑と決まり、移送途中に潭州で病没した。北宋の六賊のひとり。
童貫(?〜1126)
  字は道夫。開封の人。宦官。徽宗に迎合することで信任を受け、蔡京と協力を約した。蔡京が相となると、推薦を受けて西北辺軍の監察にあたった。武功により武康軍節度使となった。契丹に使して帰還し、開府儀同三司・領枢密院事となった。権力は宰相と並び、兵権を二十年にわたって掌握し、驕恣専横はきわまった。はじめ遼との宥和を支持したが、のちに金と結んで遼を討つ策を謀った。方臘の乱が起こると、鎮圧のために大軍を発し、叛乱者を殺し尽くした。宣和四年(1122)、遼を攻めて失敗すると、ひそかに金人と会談して、歳幣賄賂と引き替えに檀・順・景・薊の四州の空城を受け取った。これを失地回復の功績と言い立てて、広陽郡王に封ぜられた。靖康元年(1126)、金軍が宋に侵入すると、太原から都に逃れ、徽宗とともに鎮江に避難した。欽宗が即位すると、英州に配流となり、のち処刑された。北宋の六賊のひとり。
王黼(?〜1126)
  字は将明。開封祥符の人。崇寧年間に進士に及第した。蔡京の宰相復帰を助けて、校書郎から御史中丞に上った。蔡京が引退すると、その後を継いで宰相となった。私腹を肥やし他人の妻妾を奪うなど横暴で、のちに北宋の六賊のひとりに数えられた。金と結んで遼を討つ策を支持し、それを口実にさらに搾取を強めた。徽宗を廃して趙楷を擁立しようと画策したことが露見して、解任された。金の侵攻後に逃亡したが、のちに雍丘で捕らえられて処刑された。
↓次の時代=南宋

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