[西夏(1038〜1227)]
景宗(李元昊)−毅宗(李諒祚)−恵宗(李秉常)−崇宗(李乾順)−仁宗(李仁孝)−桓宗(李純祐)−襄宗(李安全)−神宗(李遵頊)−献宗(李徳旺)−末主(李睍)
李継遷(963〜1004)
西夏の太祖、光孝皇帝と追尊された。チベット系タングート族拓跋部の出身。李光儼の子。開宝七年(974)、宋の定難軍管内都知蕃落使に任ぜられた。太平興国七年(982)、族兄の李継捧が夏・綏・銀・宥・静の五州を宋に献じて開封にうつると、継遷は夏州の東北三百里の地にうつって自立した。宋に対して叛服常ならず、在地豪族と結んで力をつけた。雍煕二年(985)、銀川を根拠地とし、定難軍留後を自称した。のちに遼に対して臣を称し、義成公主の降嫁をうけて、夏国王に封ぜられた。タングート族の勢力を結集して、宋・遼に対抗し、西夏の基礎を築いた。淳化初年には宋に帰順して銀州観察使となり、趙保吉の姓名を賜った。至道二年(996)には、宋軍を浦洛河に迎え撃ち、霊州を囲んだ。三年(997)、宋の夏州刺史・定難軍節度使となった。咸平五年(1002)には霊州を陥れて、西平府と改め、都とした。景徳元年(1004)、西涼府を攻めて、吐蕃の潘羅支の襲撃を受けて矢に当たり没した。
李徳明(981〜1032)
西夏の太宗、光聖皇帝と追尊された。李継遷の長男。母は野利氏。景徳元年(1004)、李継遷が亡くなると、跡を継いだ。天禧四年(1020)、懐遠鎮に遷都して、興州と改めた。遼・宋と和平して二国の封爵を受けた。河西を開拓し、回鶻に戦勝して、甘・瓜・涼州を奪って版図を広げた。
李元昊(1003〜1048)
西夏の初代景宗。武烈皇帝。在位1038〜1048。李徳明の子。母は衛慕氏。チベット系タングート族拓跋部の出身。若くして兵法・仏教・法律・漢文に通じた。天聖六年(1028)、ウイグルの夜洛隔可汗を襲って甘州を奪った。明道元年(1032)、父の跡を継ぎ、検校太師・侍中・定難軍節度使となり、西平王に封ぜられた。嵬名吾祖と自ら号した。吐蕃・ウイグルを討って、河西回廊を占拠し、興慶府に都を置いた。天授礼法延祚元年(1038)、帝位について、国号を夏とした。これが西夏の建国である。官制を整備し、西夏文字を制定し、二十二州を置いた。前後して三川口・好水川・定川砦において宋軍に勝利し、賀蘭山で遼に勝って、宋・遼・西夏の鼎立の形勢をつくった。十一年(1048)、皇族の激しい権力闘争のさなか、子の寧令哥に刺殺された。
野利仁栄(?〜1042)
タングート族の出身。西夏景宗皇后野利氏の一族であった。西夏が建国されると、没寧令に任ぜられ、政治を主導し、典章制度の制定に力を尽くした。大慶元年(1036)、景宗(李元昊)に国字を定めるよう命ぜられ、いわゆる西夏文字を制定してこれを施行させた。同年、蕃漢二字院を新設して、これを主導した。延祚二年(1039)、命を受けて蕃学(西夏学校)を建て、『孝経』『爾雅』『四言雑字』などを西夏文に翻訳し、官員の子弟たちに教育した。党項族の官員の中で学識がもっとも高く、西夏の政治や文化の建設に対する貢献はきわめて大きかった。死後に富平侯を追贈された。天盛十四年(1162)、西夏の仁宗(李仁孝)により広恵王を追贈された。
没蔵太后(1047〜1056)
西夏の景宗(李元昊)の妃。タングート族の出身。はじめ大臣野利遇乞の妻となったが、遇乞が処刑されたのち、李元昊にとついだ。皇后野利氏に憎まれて興慶府の戒壇寺で尼となった。延祚十年(1047)に李諒祚(のちの毅宗)を産み、兄の没蔵訛龐の家で養った。没蔵訛龐は国相に上った。翌年、李元昊が太子の寧令哥に刺された傷がもとで亡くなると、没蔵訛龐が寧令哥を殺して李諒祚を擁立し、没蔵氏は太后として立ち、兄妹が西夏の国政を専断した。彼女は仏教を深く信仰し、多くの寺を建てて、仏事を盛大に営んだ。数万の軍民を徴発して承天寺を修建し、五年を費して出費は莫大なものとなった。福聖承道四年(1056)、臣下に刺殺された。
李諒祚(1047〜1068)
西夏の二代毅宗。昭英皇帝。在位1048〜1068。景宗(李元昊)の子。母は没蔵氏。二歳で即位し、母太后と舅の訛龐が政権をにぎった。奲都五年(1061)、国相訛龐父子の陰謀を察知し、訛龐父子と皇后没蔵氏を処刑し、梁氏を皇后に立てた。親政をはじめ、蕃礼を去り、漢礼を採用した。翌年、宋に遣使して九経・唐史・『冊府元亀』などの書籍を賜うよう求めた。宋にならって官制をしき、官職を増設して漢人を任用し、州軍を整えた。拱化年間、宋を連年にわたって攻めたて、また河州吐蕃・青唐吐蕃を帰順させた。拱化五年(1067)、宋の神宗(趙頊)のもとに謝罪使を送り、講和した。
梁太后(?〜1085)
西夏の毅宗(李諒祚)の皇后。タングート族の出身。李秉常(のちの恵宗)を産んだ。拱化五年(1067)、恵宗が八歳で即位すると、彼女は摂政となり、弟の梁乙埋が国相となった。大安二年(1075)、恵宗が親政をはじめると、宋の降将の李清を重用し、蕃礼に代えて漢礼を採用し、外戚勢力の弱体化を図った。梁太后は李清を殺し、恵宗を幽閉した。宋が西夏の内紛を機に兵を五路に分けて来攻したが、西夏軍は宋軍を国土深く誘い入れて補給を断ち、宋軍に撤兵を強いた。翌年、兵を発して永楽城を攻め、勝利をえた。九年(1082)、恵宗を復位させたが、なお国政の権要を手放さなかった。のちに病没した。
李秉常(1061〜1086)
西夏の三代恵宗。康靖皇帝。在位1068〜1086。毅宗(李諒祚)の長男。八歳で即位したが、幼少のため母の梁氏とその弟の梁乙埋が執政した。漢礼を廃して蕃礼を採用し、連年にわたって宋と交戦した。太安二年(1075)から朝政をみたが、なお梁太后が実権を握っていた。六年(1079)、蕃礼を廃止して、再び漢礼を採用しようとしたが、母の党派に反対された。七年(1080)、李清の建議により、宋と修好し、梁氏の権力を弱めようとしたが、事敗れて捕らえられた。九年(1082)、復位した。治世のあいだ、国政は梁氏の手により操縦されつづけた。
李乾順(1084〜1139)
西夏の四代崇宗。聖文皇帝。在位1086〜1139。恵宗(李秉常)の長男。母は梁氏。三歳で即位し、梁太后と兄の梁乙逋が政権をにぎった。天祐民安五年(1094)、梁乙逋が梁太后と権力を争い、叛乱の陰謀があって、処刑された。永安二年(1099)、遼の支持のもと、梁太后を毒殺した。三年(1100)、遼の成安公主を后に迎えた。貞観元年(1101)、薛元礼の建議により、蕃学の外に国学を建て、漢学を教授させた。中華の諸侯制度にならい、宗室を王の爵位をもって封じた。金が勃興すると、金と連合して、遼を滅ぼし宋を圧迫する政策に転換した。宋の領域を侵し、版図を拡大させた。
李仁孝(1124〜1193)
西夏の五代仁宗。聖祖皇帝。在位1139〜1193。崇宗(李乾順)の長男。母は曹氏。十六歳で即位し、金朝に藩属した。濮王任忠・焦景顔・熱辣公済・斡道冲らの大臣を任用して文治につとめ、学校を建て、科挙をおこない、儒学を推奨した。人慶三年(1146)、孔子を尊んで文宣帝とした。礼楽と法律を改革して、新律を修訂した。天盛年間に「天盛年改新定律令」をまとめた。乾祐元年(1170)、金の力を借りて任得敬の自立の陰謀を阻止した。在位は五十五年間にわたり、西夏の社会経済は繁栄し、文化も発展した。
任得敬(?〜1170)
もとは宋の西安州通判だった。西夏の崇宗(李乾順)の軍が西安州を破ると、西夏に降った。娘を献じて妃とし、静州防御史に抜擢された。娘が皇后となると、静州都統軍となった。仁宗(李仁孝)が立つと、夏州統軍蕭合達の乱を鎮圧して、翔慶軍都統軍となり、西平公に封ぜられた。天盛元年(1149)、晋王李察哥に賄賂を贈り、尚書令となった。翌年中書令に転じた。八年(1156)、国相に上った。十二年(1160)、楚王に進んだ。十七年(1165)、役夫十万人を動員して霊州城を築き、翔慶軍司を宮殿とした。自らは霊・夏州に拠り、仁宗を瓜・沙州に置いて国土の分割を謀ろうとしたが、殺された。
斡道衝(?〜1183)
字は宗聖。霊武の人。のちに興慶府にうつった。史官の家に生まれた。幼いころから聡明で、八歳にして童子挙に及第した。儒学の理解は深く、西夏文と漢文にともに通じた。『論語小義』を撰し、『周易卜筮断』を著した。天盛三年(1151)、蕃漢教授となった。剛直で知られ、外戚の任得敬の専横と国土分割に反対した。任得敬が殺されたのち、乾祐二年(1171)に中書令に上った。西夏の内政の安定と文化の発展に尽くした。またかれの施政下で大量の書籍が印刷刊行された。死去したとき、家に蔵書は多かったが、財産はなかったという。
李純祐(1177〜1206)
西夏の六代桓宗。昭簡皇帝。在位1193〜1206。仁宗(李仁孝)の長男。母は羅氏。十七歳で即位し、金に従属しつつ、南宋との和平も進めた。金の冊封を受け、夏国主となった。天慶十二年(1205)、蒙古が西夏に侵入すると、力吉里砦を破られ、瓜・沙の諸州が蹂躙された。蒙古軍が退くと、諸城堡を修復し、領内で大赦をおこない、都を興慶府から中興府にうつした。翌年、母の羅氏と鎮夷郡王李安全(襄宗)の共謀により廃位され、暴疾のすえに亡くなった。
李安全(1170〜1211)
西夏の七代襄宗。敬穆皇帝。在位1206〜1211。越王李仁友の子。崇宗(李乾順)の孫にあたる。天慶三年(1196)、父が病没すると、越王の爵位を継ぐことを求めたが、桓宗(李純祐)は許さず、鎮夷郡王に封ぜられた。十三年(1206)、桓宗の母羅氏とともに桓宗を廃して自ら立った。金に冊封を請い、夏国王に冊された。応天四年(1209)、蒙古による第三次攻撃を受け、中興府を囲まれ、娘を差し出して講和した。皇建二年(1211)、斉王李遵頊(神宗)により廃された。
李遵頊(1162〜1126)
西夏の八代神宗。英文皇帝。在位1211〜1223。斉王李彦宗の子。若くして学問を好み、群書に広く通じた。天慶十年(1203)、廷試において進士第一となり、斉王の爵位を継いだ。大都督府主に進んだ。皇建二年(1211)、襄宗(李安全)を廃して、自ら帝位についた。蒙古に従属し、金に対抗する政策に改めた。光定七年(1217)、中興府が蒙古軍の包囲に遭い、西涼府に逃れた。再び金に従属し、蒙古に抵抗しようとしたが、金の拒絶にあった。宋と連合して金を攻めたが、金に敗れた。十三年(1223)、金と和平するために、太子の李徳任を廃した。とかく政策に一貫性を欠き、国勢はますます衰退に向かった。李徳旺(献宗)に譲位して、上皇を自称した。
李徳旺(1181〜1226)
西夏の九代献宗。在位1223〜1226。神宗(李遵頊)の次男。光定十三年(1223)十二月、帝位についた。漠北諸部に遣使して外援とし、蒙古に対抗した。乾定二年(1224)、蒙古に敗れ、軍隊に数十万の死傷者を出した。右丞相高良恵の策を容れて、金と和平し互助共援を約した。四年(1226)春、チンギス・ハーンの軍が来襲し、城邑は次々と陥落して、恐懼のうちに没した。
李睍(?〜1227)
西夏の十代末主。在位1226〜1227。清平郡王の子。献宗(李徳旺)の甥にあたる。南平王に封ぜられた。四年(1226)、擁立された。蒙古兵が城下に迫り、中興府を死守した。食糧が尽きて援軍も途絶え、降伏して殺された。ここに西夏は滅んだ。
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