[北宋(960〜1127)]
⇒北宋(太祖太宗期,真宗仁宗期,英宗神宗期,哲宗徽宗期),南宋(高宗期,孝宗光宗期,寧宗理宗期,度宗期以後),西夏,大理
太祖(趙匡胤)−太宗(趙匡義)−真宗(趙恒)−仁宗(趙禎)−英宗(趙曙)−神宗(趙頊)−哲宗(趙煦)−徽宗(趙佶)−欽宗(趙桓)
蘇洵(1009〜1066)
字は明允、号は老泉。眉州眉山の人。二十七歳のとき、発憤して学問に志した。進士に及第せず、文安県主簿に任ぜられ、『太常因常礼』の編纂に参加した。唐宋八大家のひとり。『蘇老泉先生全集』、『嘉祐集』。
蔡襄(1012〜1067)
字は君謨。興化軍仙游の人。天聖年間に進士に及第した。慶暦三年(1043)、知諫院となり、慶暦の新政を支持した。翌年、知福州として出向し、福建路転運使に任ぜられ、減税政策を奏上した。皇祐四年(1052)、京師に召し戻され、知制誥・知開封府などを歴任した。また知泉州となり、泉州湾上に全長三百丈におよぶ万安橋を築いた。また七百里にわたって道路に松を植えた。福建の農民は、石碑にかれの功徳を讃えたという。嘉祐五年(1060)、翰林学士として中央に戻った。英宗朝で三司使となったが、母の老病を理由に求めて知杭州となった。書法にすぐれ、詩文は清妙であった。『茶録』、『荔枝譜』、『蔡忠恵集』。
劉敞(1019〜1068)
字は原父、号は公是。慶暦年間、進士に及第した。吏部南曹・知制誥などを歴任した。契丹に使いして、山川地理の知識が豊かだったため、契丹人を感嘆させた。帰国後、知揚州として出向し、鄆州兼京東西路安撫使に転じた。まもなく京師に召し戻され、刑獄のことを監察したが、諫官の攻撃にあったため、自ら願い出て知永興軍として出向した。一年余で病のため召喚された。朝廷にあっては言行があり、地方にあっては治績があった。春秋学に長じ、伝注にこだわらず、漢儒先声を評議するさきがけとなった。『春秋権衡』、『春秋伝』、『七経小伝』、『公是集』を著した。また弟の劉攽や子の劉奉世とともに『漢書標注』を著した。
神宗(1048〜1085)
趙頊⇒。
欧陽脩(1007〜1072)
字は永叔、号は酔翁。諡は文忠。欧陽観の子。母は鄭氏。吉州廬陵の人。幼くして父を失い、母とともに随州で貧しい少年期を送った。韓愈の詩文を愛したという。天聖八年(1030)、進士に及第した。翌年、西京留守推官に任ぜられた。館閣校勘に上って、『崇文総目』の編纂に参加した。景祐三年(1036)、范仲淹を弁護したため、夷陵県令に左遷された。京師から夷陵までの紀行を『于役志』に著した。夷陵にいたころ『五代史記』(『新五代史』)の編纂をはじめた。光化郡乾徳の県令に遷り、また武成軍節度判官に遷った。康定元年(1040)に館閣校勘に復職し、次いで集賢校理に遷った。滑州の通判として赴任したのち、また中央に戻って知諫院・右正言・知制誥などを歴任して慶暦の変法に関与した。変法は士大夫の反発を受けて成功せず、仁宗の不信を買った。「朋党論」を上書して弁護したが、慶暦五年(1045)にジョ州の知事に左遷された。このころ「酔翁亭の記」を書いた。八年(1048)に名誉回復され、揚州・潁州・応天府の知事を歴任した。母の死に遭って郷里に帰り、服喪した後、朝廷に復帰。『新唐書』の編纂に加わった。翰林学士・史館修撰、次いで翰林侍読学士・集賢院修撰を歴任。嘉祐二年(1057)、権知礼部貢挙に上り、科挙試験を監督した。五年(1060)には枢密副使、翌年には参知政事に上った。晩年、致仕を請うて許されず、亳州・青州・蔡州の知事を歴任した。煕寧四年(1071)、王安石と意見が衝突したため致仕を許され、潁州に隠棲した。六一居士と称して余生を楽しんだが、翌年没した。性剛直にして不正を許さず、しばしば諫言した。史学にすぐれ、また周・漢以後の金石文を注解した『集古録』を著して、金石学の祖とされる。韓愈の文章を高く評価し、古文復興に尽くした。著述は、周必大の手で『欧陽文忠公全集』にまとめられている。
宋契嵩(1007〜1072)
周敦頤(1017〜1073)
もとの名は惇実。字は茂叔、号は濂溪。道州営道の人。幼くして両親を失い、叔父の鄭向に育てられた。景祐三年(1036)、将作監の主簿となり、南安軍司理参軍・虔州通判などを歴任した。煕寧初年、知郴州となった。四年(1071)、知南康軍に転じた。翌年、致仕して、盧山の濂溪書堂に隠棲した。名理を談じ、『易』にもっとも通じた。宋学の始祖とされ、その学問は二程子に受け継がれた。北宋の五子のひとり。『太極図説』、『通書』、『雑著』。
韓g(1008〜1075)
字は稚圭。相州安陽の人。天聖年間に進士に及第した。経略安撫紹討使となる。のち陝西四路経略安撫紹討使をつとめた。范仲淹とともに国境防備にあたって、西夏の侵入を防いだ。嘉祐元年(1056)、枢密使に任ぜられ、三年(1058)には同中書門下平章事にまで上った。神宗が即位すると、司空・侍中をつとめた。王安石の政策に批判的で、とくに青苗法の施行に反対した。『安陽集』。
郭煕(1023〜?)
字は淳夫。河陽温県の人。李成に山水画を学んで、北宗画を大成した。煕寧年間に御画院芸学となった。「早春図」、「関山春雪」、「幽谷」などの作品が世に伝わった。著に『山水訓』、『画意』、『画訣』、『画題』があり、子の郭思が整理して『林泉高致』にまとめた。
畢昇(?〜?)
平民の出身で、杭州の書店で刻工をつとめた。慶暦年間に活版印刷術を発明した。膠泥に字を刻んで焼き固めたものを字印とし、松脂や蝋・紙灰を塗った鉄板の上に字印を敷きつめ、鉄板を火で焙って松脂や蝋を溶かし、平らな板でおさえつけたあと板を冷やすと版が完成した。字印は再利用でき、音韻ごとに配列された。その技術が普及しないうち、およそ皇祐年間に没したとみられる。
邵雍(1011〜1077)
字は堯夫。諡は康節。范陽の人。邵古の子。父に従って共城に遷った。はじめ蘇門山に読書しながら暮らした。李之才に師事して、易に精通した。のちに各地を遍歴し、三十九歳のときに洛陽に移住した。官に推挙されたが、病気を理由に任官しなかった。北宋の五子のひとり。『皇極経世書』、『漁樵問対』、『伊川撃壤集』。
張載(1020〜1077)
字は子厚、号は横渠。開封の人。鳳翔に移り住んだ。嘉祐二年(1057)、進士に及第した。祁州司法参軍に任ぜられたのをはじめとして、著作佐郎・簽書渭州軍事判官公事などを歴任した。煕寧二年(1069)に神宗に召されて、夏殷周の政治を理想とし、古代井田制を復活することを唱えた。崇文院校書となったが、王安石と意見が合わず帰郷した。煕寧十年(1077)、再び神宗に召されて同知太常礼院となったが、ほかの礼官と意見が合わず退官した。帰郷の途中、臨潼で没した。太虚即気の論を唱えた。北宋の五子のひとり。『正蒙』、『経学理窟』など。
張先(990〜1078)
字は子先。烏程の人。天聖八年(1030)、進士に及第した。地方官を歴任した。治平元年(1064)、郎中を最後に退官した。以後は郷里に隠居し、八十五歳でなお妾を持ったので、蘇軾にからかわれたという。多くの詞を残した。
曾公亮(998〜1078)
字は明仲、号は楽正。泉州晋江の人。曾会の次男。天聖二年(1024)、進士に及第した。会稽県令をつとめたとき、鑑湖の水を引いて曹娥江に流しこみ、水害の原因を除いた。端明殿学士・吏部侍郎などを歴任し、王安石の新法を支持した。嘉祐六年(1061)、同中書門下平章事に上った。煕寧元年(1068)、門下侍郎・史部尚書を加えられ、英国公に封ぜられた。『英宗実録』、『元日唱和詩』、『勲徳集』、『武経総要』。
宋敏求(1019〜1079)
字は次道。趙州平棘の人。宋綬の子。宝元二年(1039)、学士院の試に応じ、進士を賜った。館閣校勘となったが、蘇舜欽の上奏に与して集慶軍判官に左遷された。のち編修官となり、『新唐書』の編纂に参与した。同知太常礼院・通判西京・度支判官・知亳州などを歴任した。治平年間に知制誥・判太常寺に上った。知絳州に左遷され、のち召しもどされたが、王安石の人事に反対して、右諫議大夫奉朝請の官に終わった。龍図閣直学士を加えられ、『両朝正史』を編纂した。家の蔵書は三万巻におよび、すべて読みならっていた。朝廷の典故に通じ、著書は多かった。『春明退朝録』、『長安志』、『唐大詔令集』。
文同(1018〜1079)
字は与可、号は笑笑先生。梓州梓潼の人。皇祐年間に進士に及第した。漢州通判や陵州・洋州などの知州を歴任した。元豊元年(1078)、尚書司封員外郎・充秘閣校理・知湖州に任ぜられた。蘇軾と義兄弟となり、交誼はきわめて厚いものがあった。詩にたくみで文章をよくし、篆刻・隷書・行書・草書すべてこなした。画竹をもっともよくした。『丹淵集』。
呉充(1021〜1080)
字は沖卿。建州浦城の人。呉育の弟にあたる。宝元元年(1038)、進士に及第した。国子監直講・呉王宮教授となった。『六箴』を作って献上した。知陝州や京西・淮南・河東の転運使を歴任した。英宗が立つと、権塩鉄副使となった。煕寧元年(1068)、知制誥となる。河北で水害・地震が起こると、安撫使として赴任した。八年(1075)、検校太傅・枢密使に進み、王安石に代わって同中書門下平章事となった。王安石とは姻戚であったが、その変法に与せず、司馬光らを召還するよう請願した。元豊三年(1080)、宰相を退き、観文殿大学士・西太一宮使となった。
富弼(1004〜1083)
字は彦国。洛陽の人。天聖八年(1030)、茂才として挙げられた。累進して知諫院に抜擢された。慶暦三年(1043)、枢密副使に任ぜられ、范仲淹らとともに慶暦の新政を推進した。まもなく中傷の流言を恐れて地方官の職を求め、河北安撫使として出向した。鄆州・青州などの知州を歴任した。至和二年(1055)、同中書門下平章事に任ぜられた。いっさい改革を行わず、ただ守成につとめて賢相と称された。嘉祐六年(1061)、母の喪に服すため辞任した。英宗が即位すると、枢密使として召され、鄭国公に封ぜられた。煕寧元年(1068)、判汝州として出向した。神宗に辺境のことを問われて、「願わくは二十年は戦争のことを言わないことです」と答えたという。翌年、相に任ぜられた。王安石と合わず、判亳州として出た。青苗法の制定に抵抗して、弾劾を受け、官を辞した。『富鄭公詩集』。
曾鞏(1019〜1083)
字は子固。建昌軍南豊の人。嘉祐二年(1057)、進士に及第した。はじめ太平州司法参軍に任ぜられた。京師に召されて館閣校勘・集賢校理となり、史館の書籍の校勘や実録の検討にあたった。また地方に出ては通判越州や斉・襄・洪・福州などの知州を歴任した。冤獄を除き、災害の救恤にあたるなど、地方官としても治績を挙げた。元豊三年(1080)に判三班院となり、翌年には史館修撰として『五朝国史』の編纂にあたった。官は中書舎人に上った。江寧で病没した。王安石と親交があったが、新法に反対した。古文に通じ、欧陽脩に認められて、その後継者と目された。『戦国策』『説苑』の整理や『南斉書』『梁書』『陳書』の校定にも尽くした。唐宋八大家のひとり。『元豊類藁』。
程(1032〜1085)
字は伯淳、号は明道。洛陽の人。程頤の兄にあたる。周敦頤に師事して感化を受けた。嘉祐二年(1057)、進士に及第した。はじめ新法党に属し、太子中允・監察御史裏行などをつとめたが、王安石と政見が合わず州県の官吏として出向した。答書鎮寧軍判官などを歴任した。哲宗が即位すると、召されて宗正丞となったが、京師に戻る前に亡くなった。宇宙の根本原理を理と呼び、これを直感的に把握することを説いた。倫理の上では三綱五常を体現するのを至上とみなした。弟の程頤とともに二程子と呼ばれた。北宋の五子のひとり。『明道文集』、『遺書』、『外書』。
司馬光(1019〜1086)
字は君実、諡は文正。陝州夏県の人。司馬池の子。光州に生まれた。幼少の頃は学問して人に劣ったが、黙々と暗誦につとめたという。なにより左伝を好んだ。宝元元年(1038)、進士に及第した。はじめ華州判官となった。大理評事・館閣校勘・同知太常礼院・集賢校理などを歴任した。同知諫院に遷って、仁宗に皇太子選定を急ぐよう上奏し、英宗即位に貢献した。英宗のとき、龍図閣直学士となり、また韓gや欧陽脩らと論争した。神宗のとき、御史中丞まで上ったが、王安石の新法に反対して、官を去った。哲宗が即位すると門下侍郎となり、尚書左僕射に上って、新法を廃した。礼教を重んじる立場から、十九年間を費やして、編年体の史書『資治通鑑』を編纂した。温国公に封ぜられた。
王安石(1021〜1086)
字は介甫、号は半山。撫州臨川の人。王益の子。慶暦二年(1042)、進士に及第した。揚州の淮南節度判官庁公事に任ぜられた。鄞県の知県に遷り、灌漑や穀物の低利貸付を行って成功を収めた。地方官を歴任したが、嘉祐三年(1058)に召されて京師に上り、三司度支判官に任ぜられた。このとき仁宗に「万言書」を奉った。次いで知制誥に上ったが、母が死んだため江寧に帰って服喪した。喪が明けても出仕せず、読書や後人の教育につとめた。神宗が即位すると、江寧府知事に任ぜられ、次いで翰林学士として召された。神宗に上書して、改革の必要性を説いた。参知政事に上り、新法による改革を断行。青苗法・募役法・保甲法・均輸法・市易法などの新法を施行した。同中書門下平章事(宰相)にまで上ったが、司馬光ら旧法派の反対や攻撃を受け、曹太后・高太后らも安石の罷免を神宗に迫ったため、煕寧七年(1074)江寧府知事に左遷された。翌年、再び同中書門下平章事として返り咲いたが、新法派に内部分裂が起こり、長男の王ホウが夭逝するなど苦難が続いた。九年(1076)、願い出て朝廷より退き、再び江寧府知事となり、翌年には隠居して鍾山に居をかまえた。唐宋八大家のひとり。『臨川先生文集』、『王文公文集』。
呂公著(1018〜1089)
字は晦叔。寿州の人。呂夷簡の子。慶暦年間に進士に及第した。仁宗のとき、天章閣待制兼侍読に上った。治平年間、知蔡州として出された。神宗が即位すると、翰林学士兼侍読として召され、知開封府・御史中丞などを歴任した。青苗法に反対し、呂恵卿のことを「奸邪にして用いるべからず」と評したため、知穎州に左遷された。煕寧の末年、知河陽に転じ、召されて知審官院となった。元豊年間、同知枢密院事に任ぜられ、また知定州・知揚州として出向した。哲宗が立つと、尚書左丞となった。元祐元年(1086)、尚書右僕射・中書侍郎となり、司馬光とともに相となって、新法を廃した。三年(1088)、司空・同平章軍国事を加えられた。没すると、申国公の位を追贈された。
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