[北宋(960〜1127)]
⇒北宋(太祖太宗期,真宗仁宗期,英宗神宗期,哲宗徽宗期),南宋(高宗期,孝宗光宗期,寧宗理宗期,度宗期以後),西夏,大理
太祖(趙匡胤)−太宗(趙匡義)−真宗(趙恒)−仁宗(趙禎)−英宗(趙曙)−神宗(趙頊)−哲宗(趙煦)−徽宗(趙佶)−欽宗(趙桓)
僧賛寧(919〜1002)
号は通慧大師。清泰元年(934)に天台山に入り、南山律に通じた。のち、両浙僧統となり、太平興国三年(978)には開封に上った。洛陽の仏教教団を管掌し、左衛僧録に抜擢された。『仏祖統紀』、『宋高僧伝』。
王延徳(939〜1006)
大名の人。若くして晋王邸の給事をつとめた。太平興国初年、殿前承旨に補任され、供奉官に転じた。六年(981)に高昌に使者としておもむき、雍煕二年(985)に帰ると『西州程記』を撰した。のち知慶州として出向した。淳化五年(994)、枢密都承旨・度支使となった。咸平初年、知鄆州・知青州として赴任した。事件に連座して左武衛将軍に降格され、病のため致仕した。
楽史(930〜1007)
字は子正。撫州宜黄の人。南唐のとき秘書郎に任ぜられた。宋が建てられると、平原主簿となった。太平興国年間、武成軍節度掌書記となった。五年(980)、進士及第を賜った。著作佐郎・知陵州に上った。著書の『太平寰宇記』は地理書の集大成として名高い。
呂蒙正(946〜1011)
字は聖功。洛陽の人。太平興国二年(977)、進士に及第した。昇州の通判となった。著作郎・直史館に転じた。五年(980)、知制誥・翰林学士となった。八年(983)、参知政事に上った。端拱元年(988)、中書侍郎・平章事・監修国史に任ぜられた。淳化二年(991)、宰相を退き、吏部尚書となった。四年(993)、相に復した。内政に専念し、隣邦と修好し、戦争をやめて出費を抑えることを主張した。重い信望があり、上に対しても直言をはばからなかった。至道元年(995)、判河南府として赴任した。真宗の咸平四年(1001)、三たび相となった。六年(1003)、相を辞した。のち病のため洛陽に帰った。没すると、中書令を贈られ、文穆と諡された。
李建中(946〜1013)
字は得中、号は岩夫民伯。洛陽の人。太平興国八年(983)、進士に及第した。知州を歴任し、工部郎中・判太府寺に上った。前後三回にわたって西京御史台の官を求めたため、李西台と称された。また洛陽の風土を愛し、園池を築いて静居と称した。修養の術をよくし、『道蔵』の校定に参与した。古器名画をよく蒐集した。書にすぐれ、字形は痩健で、一時の絶と称された。「土母帖」などの墨迹が世に伝えられた。
陳彭年(961〜1017)
字は永年。撫州南城の人。宋の雍煕年間に進士に及第した。江陵府司理参軍となったほか、州県に歴仕した。咸平四年(1001)、格令を簡略にし、官の冗員を省くよう上奏した。景徳初年、杜鎬の推薦により、直史館・崇文院検討となり、『冊府元亀』の修撰に参与した。また科挙試験の方式を多くの点で改めた。大中祥符元年(1008)、丘雍とともに『切韻』を修訂して『大宋重修広韻』と改めた。九年(1016)、参知政事に上った。天禧の大礼において天書儀衛副使をつとめた。『唐紀』、『江南別録』。
向敏中(949〜1020)
字は常之。開封の人。宋の太平興国五年(980)、進士に及第した。はじめ将作監丞となり、通判吉州として出向した。のちに知広州をつとめた。工部郎中として召された。清廉実直で知られて、知制誥・枢密直学士を歴任し、右諫議大夫・同知枢密院事をつとめた。真宗の咸平元年(998)、兵部侍郎・参知政事に進んだ。三年(1000)、河北・河東宣撫大使となった。翌年、同平章事(宰相)に上り、集賢殿大学士にあてられた。事件に連座して宰相を引き、戸部侍郎・知永興軍として出た。大中祥符五年(1012)、再び同平章事に上った。天禧元年(1017)、吏部尚書・左僕射・監修国史となった。老年で病がちになり、しばしば辞職を願い出たが許されず、在官のまま没した。文簡と諡された。文集十五巻があったが、散逸した。
魏野(961〜1020)
字は仲先、号は草堂居士。陝州陝県の人。州の東郊に草堂を結び、仕官を求めなかった。大中祥府四年(1011)、真宗が汾陰をまつったとき、推薦を受けて召されたが、病を理由に固辞した。真宗は州県にかれの安否を絶えず確認するよう詔を下したという。寇準・王旦と親交があり、往来あるごとに詩を交わした。著作郎の官を贈られた。『東観集』。
楊億(974〜1020)
字は大年。建州浦城の人。幼いころから聡明で、十一歳で太宗の召試に応じて、秘書省正宇に任ぜられた。淳化年間に進士を賜り、集賢院に入った。真宗が即位すると、左正言に任ぜられ、『太宗実録』の修撰に参与した。また王欽若とともに『冊府元亀』の撰にあたった。翰林学士・戸部侍郎に上った。真宗が病にかかると、丁謂が章献劉皇后と結んで政治を専断した。楊億は寇準に与して太子監国の位を求めたが、失敗に終わり、憂愁のうちに没した。仁宗のとき、文の諡を追贈された。文章にたくみで、典章制度に詳しく、詩は李商隠に学び、詞は華麗で「西昆体」と称された。『武夷新集』、『楊文公談苑』、『西昆酬唱集』。
姚鉉(968〜1020)
字は宝之。廬州合肥の人。太平興国年間、進士に及第した。官は両浙路転運使に上った。文章をよくし、蔵書を多く蒐集した。大中祥符四年(1011)、唐代の詩文を集めて『文粹』を編纂した。柳開・穆修らとともに、宋代の古文運動のさきがけとなった。
寇準(961〜1023)
字は平仲。諡は忠愍。華州下邽の人。太平興国五年(980)、進士に及第した。淳化五年(994)には参知政事となり、景徳元年(1004)には同中書門下平章事(宰相)に上った。同年、契丹が聖宗の親征により軍を南下させた。宋の宮中が色を喪い、遷都も検討される中、寇準は真宗に澶淵への行幸を請い、歳幣絹二十万疋・銀十万両で和議を成立させた(澶淵の盟)。天禧四年(1020)、丁謂・銭惟演らに讒言されて、宰相を追われ、太子太傅・莱国公となった。さらに雷州の司戸参軍に左遷され、任地で没した。死後十一年して名誉回復された。『寇忠愍公詩集』。
王欽若(962〜1025)
字は定国。臨江新喩の人。太宗のとき進士に及第した。咸平四年(1001)、参知政事に上った。景徳元年(1004)、契丹軍が大挙して南下してきたため、金陵への遷都を建議したが、寇準の反対を受けた。刑部侍郎・資政殿学士となった。寇準の主導のもと澶淵の盟が結ばれたのを不満とし、春秋の城下の盟にたとえた。のち、『冊府元亀』『国史』の編集に参加。大中祥符五年(1012)、相となった。天禧元年(1017)、左僕射・平章事となった。いちど失脚したが、仁宗即位ののちに再び登用され、宰相に復した。
林逋(967〜1028)
字は君復。諡は和靖。銭塘の人。履歴は不明。妻を持たず、西湖の湖山に隠棲したという。『林和靖集』。
僧知礼(960〜1028)
孫奭(962〜1033)
字は宗古。博州博古の人。のちに鄆州須城にうつった。端拱二年(989)、九経に及第した。大理寺評事・国士監直講を歴任した。真宗のとき、龍図閣待制に上った。真宗が天書を迎えようとしたとき、直言をもって諫め、少しもおもねらなかった。また汾陰をまつることを諫めた。仁宗のとき、翰林侍講学士・判国士監となり、『真宗実録』を修撰した。兵部侍郎・龍図閣学士にうつり、前代衰亡の理由を論じて、当代の戒めとするよう説いた。太子少傅を最後に官を退いた。『経典徽言』、『五経節解』、『孟子音義』、『孟子正義疏』。
丁謂(966?〜1037?)
字は謂之、または公言。蘇州長洲の人。淳化三年(992)、進士に及第した。景徳年間に右諫議大夫・権三司使をつとめた。天禧四年(1020)、寇準に代わって同中書門下平章事(宰相)に上り、朝政を総攬した。晋国公に封ぜられた。仁宗が即位すると失脚し、崖州に流され、司戸参軍となった。のち光州に隠棲して詩文にふけった。『丁晋公集』。
石介(1005〜1045)
字は守道、号は徂徠。兗州奉符の人。天聖八年(1030)、進士に及第した。はじめ将士郎・嘉州軍事判官などをつとめた。辞職して徂徠山のふもとで耕作しながら、易学を教授した。のちに召されて国子監直講・太子中允となった。門下ははなはだ多く、太学は大いに盛んとなった。「慶暦聖徳詩」を詠んで、范仲淹・富補らを支持し、夏竦を大奸として批判した。濮州の通判として赴任しようとしたとき、亡くなった。胡瑗・孫復とならぶ宋初三先生のひとり。のちに宋代の理学の先駆として評価された。『徂徠石先生文集』。
蘇舜欽(1008〜1048)
字は子美。綿州塩泉の人。景祐年間に進士に及第した。大理評事をつとめた。范仲淹に認められて、集賢校理となった。公金を使って芸妓を招いて宴会したため、弾劾されて罷免された。呉中に寓居して、滄浪亭を立て、滄浪翁と号した。詩にたくみで、詩体は豪放だった。また草書をよくした。『蘇学士文集』。
王則(?〜1048)
涿州の人。貝州に移住して羊飼いとなった。宣毅軍に加入して小校に上った。慶暦七年(1047)、貝州で叛乱を起こし、東平郡王と称した。明鎬率いる宋の討伐軍をたびたび撃退したが、文彦博に敗れて捕らえられ、開封に護送されて処刑された。
張士遜(964〜1049)
字は順之。陰城の人。淳化年間、進士に及第した。侍御史となり、江南・広東・河北の転運使を歴任した。天禧五年(1021)、枢密副使に進んだ。天聖六年(1028)、礼部尚書・同平章事に上った。翌年、刑部尚書・知江寧府に転じた。明道元年(1032)、再び同平章事に任ぜられた。翌年、判河南府として出向した。宝元元年(1038)、三たび同平章事となった。康定元年(1040)、太傅として致仕した。皇祐元年(1049)、没した。『応制』、『春坊』、『雑文』など文集十種があった。『笑台詩』。
范仲淹(990〜1052)
字は希文。諡は文正。蘇州呉県の人。大中祥符八年(1015)、進士に及第した。景祐二年(1035)、吏部員外郎・権知開封府に上った。翌年、呂夷簡の意に逆らって時政を謗り、饒州知事に左遷された。康定元年(1040)、天章閣待制から竜図閣直学士となり、陝西経略安撫副使として、西夏の李元昊と対峙した。慶暦三年(1043)、枢密副使から参知政事に上った。五年(1045)には再び陝西の前線に出た。のち、資政殿学士・戸部侍郎などを歴任。青州知事から潁州知事として赴任する途中に病没した。『岳陽楼記』の「先憂後楽」は有名である。『范文正公集』。
僧重顕(980〜1052)
遂寧の人。雲門宗の智門光祚に師事して、その法を継いだ。五年間、雲門宗の祖・文偃に学んで、宗旨の蘊奧を究めた。詩歌文章にもすぐれて、翰林の才ありと称された。雪竇山に入って、雲門宗中興の祖といわれた。『百則頌古』。
丁度(990〜1053)
字は公雅。開封祥符の人。真宗のとき、知太常礼院・判吏部南曹などをつとめた。仁宗のとき、知制誥・翰林学士・河東宣撫副使・枢密副使・参知政事などを歴任した。晩年、勅命により『武経総要』を編纂した。『慶暦兵録』、『集韻』。
柳永(987〜1053)
もとの名は三変。字は耆卿。崇安の人。若くして科挙に失敗し、放浪して楽工や歌妓のために詞を作った。その詞は広く流行した。景祐元年(1034)、進士に及第した。官吏としては不遇で、工部屯田司員侍郎を最後に官を退いた。のちに潤州で没した。『楽章集』。
晏殊(991〜1055)
字は同叔。撫州臨川の人。十四歳のとき神童として推挙され、翌年には同進士出身を賜った。慶暦元年(1041)には枢密使となり、翌年には同中書門下平章事(宰相)まで上った。『真宗実録』の編纂に参加した。『珠玉集』。
儂智高(1025〜1055)
広南西路羈縻広源州の人。壮族の出身。儂全福の子。慶暦元年(1041)、安南の李朝に反抗して挙兵し、大暦国を建てた。のち徳州にうつり、南天国を建てて、景瑞と改元した。皇祐四年(1052)、宋に叛き、邕州を攻め落とした。大南国を建て、仁恵皇帝を自称し、宋制を模して諸官を立てた。諸州を落とし、広州を囲んだが下せず、北上するも全州で挫折し、邕州に帰った。翌年、狄青らの宋軍に敗退し、雲南の大理に逃れた。至和二年(1055)、大理国王に殺されて、首級は開封に送られた。
王堯臣(1001〜1056)
字は伯庸。応天虞城の人。天聖五年(1027)、進士に及第した。将作監丞・湖州通判に任ぜられ、累進して権知制誥・翰林学士となった。宋と西夏の戦いが起こると、陝西体量安撫使・原路安撫使など辺境防衛の部署を歴任し、将帥の任用など多くの建議をおこなった。京師に帰って権三司使となり、民房銭や塩井歳課の増税を諫めて止めさせた。翰林学士承旨・端明殿学士に転じた。皇祐三年(1051)、枢密副使となり、仁宗の信任をえた。至和三年(1056)、参知政事に任ぜられた。編著に『崇文総目』がある。
杜衍(978〜1057)
字は世昌。越州山陰の人。大中祥符年間に進士に及第した。州郡に赴任しては、争訟を公正に裁き、しばしば冤罪を雪いだ。京師に召されて三司戸部副使となった。都転運使となり、河北の軍費が乏しいのを是正した。御史中丞・知審官院などを歴任した。慶暦三年(1043)に枢密使に任ぜられ、翌年には相に上った。慶暦の新政を支持したが、新政が失敗に終わると、相を辞めて知兗州として出向した。七年(1047)、官を退いた。
狄青(1008〜1057)
字は漢臣。汾州西河の人。農家に生まれ、兵卒より身を起こした。宝元初年、延州指使に任ぜられ、西夏との戦いで常に先鋒をつとめた。四年間に二十五戦してしばしば強敵を破った。尹洙の推薦をえて、韓gや范仲淹に厚遇を受けた。范仲淹はかれに『左伝』を伝授し、以来折りにふれて読書するようになり、秦漢以来の将帥の兵法に通じた。原路都部署・経略招討副使に累進し、真定路都部署にうつり、彰化軍節度使・知延州に転じた。皇祐四年(1052)、枢密副使に上った。儂智高の乱が起こると、宣撫荊湖南北路・経制広南盗賊事に任ぜられ、不意をついて夜襲し、乱を鎮圧した。この功で枢密使に上った。のちに同中書門下平章事(宰相)となったが、至和三年(1056)に中傷を受けて判陳州に左遷された。将軍として部下に対し公正で、部下と辛苦をともにしたので、兵士の信頼が厚かったという。
陳執中(990〜1059)
字は昭誉。洪州南昌の人。剛直清廉な人柄で知られた。宋の真宗のとき、父の蔭官により秘書省正字となった。衛尉寺丞・知梧州に累進した。のちに知江寧府・知揚州・知永興軍を歴任した。仁宗の宝元元年(1038)、同知枢密院事に進んだ。慶暦元年(1041)、知青州として出向した。四年(1044)、参知政事として召された。翌年、同平章事・枢密使に上った。皇祐元年(1049)、知陳州として出された。このとき、二百余里にわたる堤防を増築して洪水を防いだ。五年(1053)、再び同平章事となり、昭文館大学士を加えられた。至和二年(1055)、鎮海軍節度使・判亳州となった。翌年、司徒・岐国公として致仕した。嘉祐四年(1059)、没した。
胡瑗(993〜1059)
字は翼之。号は安定先生。泰州海陵の人。経術を呉中で教えた。仁宗の景祐初年、雅楽の修定や律の校定に参与した。のち湖州で教えた。皇祐年間、典作楽事となり、のち国子監直講に任ぜられた。弟子はたいへん多く、銭藻・孫覧・范純仁・徐積らが門下から出た。孫復・石介とならぶ宋初三先生のひとり。宋代の理学の先駆として評価された。著に『春秋要義』、『春秋口義』、『周易口義』、『中庸義』などがあるが、今は多くが伝わらない。
李覯(1009〜1059)
字は泰伯。建昌軍南城の人。盱江書院を立て、学生百人近くを集めた。仁宗の皇祐初年、范仲淹の推薦で試太学助教となった。嘉祐年間、太学説書を歴任した。王安石はかれを曾鞏と並べ称し、「李泰伯・曾子はもとより文をよくし、豪士である」といった。経国済世の方策を述べた『平土書』を著し、孟子を非難する『常語』を編んだ。
梅堯臣(1002〜1060)
字は聖兪、号は苑陵先生。宣州宣城の人。はじめ科挙にしばしば落第した。蔭官により、河南主簿・鎮安軍節度判官などを歴任した。皇祐三年(1051)、進士を賜り、太常博士・監永済倉となった。欧陽脩の推薦により、国子監直講となり、尚書都官員外郎に累進した。詩をよくし、社会や政治の現実に即した詩を詠んだ。詩を論じては伝統を重んじ、唐の韓愈や孟郊を師法とし、浮き世離れした詩風や西昆体に反対した。のちに蘇軾・王安石・陸游らの尊崇を受けた。欧陽脩とともに、北宋前期の詩文革新運動をリードした。『唐書』の編纂に参与し、方鎮表・百官表を撰した。書が完成して奏上する前に亡くなった。『苑陵先生集』。
宋祁(998〜1061)
字は子京。諡は景文。安州安陸の人。のちに雍丘に遷った。天聖二年(1024)、進士に及第した。兄の宋庠とともに才名を轟かせた。翰林学士・史館修撰となって欧陽脩とともに『新唐書』の編纂に尽力した。のち、工部尚書・翰林学士承旨に上った。『宋景文集』。
包拯(999〜1062)
字は希仁。包青天、または包待制と称される。廬州合肥の人。天聖年間に進士に及第した。監察御史に累進し、辺備の充実を建議した。契丹に使者として立ち、また三司戸部判官・京東転運使・陝西転運使・河北転運使などを歴任した。三司戸部副使となり、解塩通商の制を支持した。知諫院となり、しばしば権臣の不法を論難した。龍図閣直学士・河北都転運使に任ぜられ、瀛・揚などの知州や知府をつとめた。権知開封府・権御史中丞・三司使を歴任した。嘉祐六年(1061)、枢密副使まで上った。争訟を裁いて明敏正直で知られた。元曲などで名裁判官として登場し、『三侠五義』や『包公案』の主人公である。『包孝粛奏議』。
賈昌朝(998〜1065)
字は子明。開封の人。天禧元年(1017)、真宗に頌を献じて、同進士出身を賜った。国子監説書・崇政殿説書・天章閣侍講などを歴任し、講義をよくした。権御史中丞・判国子監に累進した。当時、西夏との戦いは不利であり、辺備六事を上奏して、不急の出費を抑えるよう請願した。慶暦三年(1043)、参知政事に任ぜられた。翌年、枢密使となる。五年(1045)、同平章事・枢密使。七年(1047)、参知政事呉育と合わず、相を辞めて判大名府として赴任した。嘉祐元年(1056)、再び枢密使となった。三年(1058)、退任して外官となった。博学で議論をよくした。『群経音辨』、『通紀』。
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