[後漢(東漢)(25〜220)]
⇒光武中興期,明帝章帝和帝期,安帝順帝期,桓帝霊帝期,献帝期,匈奴
光武帝(劉秀)−明帝(劉荘)−章帝(劉烜)−和帝(劉肇)−殤帝(劉隆)−安帝(劉祐)−少帝懿(劉懿)−順帝(劉保)−冲帝(劉炳)−質帝(劉纘)−桓帝(劉志)−霊帝(劉宏)−廃帝(劉弁)−献帝(劉協)
孫堅(155〜191)
字は文台。呉の武烈皇帝と追尊された。呉郡富春の人。孫武の子孫といわれる。十七歳のとき、銭唐の海賊を討って名を上げた。喜平元年(172)、郡の司馬として会稽の許昌の乱を平定した。黄巾の乱が起こると、朱儁の下で転戦して、別部司馬に任ぜられた。辺章・韓遂の乱や区星の乱の討伐に功績があって、烏程侯に封ぜられた。董卓が専横をきわめ、董卓討伐の檄が出ると、破虜将軍・豫州刺史となり、陽人で董卓の軍と戦って、華雄らを斬った。董卓が長安に遷都して洛陽を焼き払うと、洛陽に入って復興に尽力した。袁術に命じられて荊州の劉表と戦い、襄陽を囲んだが、黄祖の兵の放った矢に当たり戦死した。
蔡邕(132〜192)
字は伯喈。陳留郡圉県の人。天文・礼楽・史学・経学に通じた。霊帝のとき、郎中・校書東観・儀郎を歴任した。熹平四年(175)、五官中郎将に任ぜられ、六経を校訂して石刻し、これは「熹平石経」と呼ばれた。のち中常侍の程曠に誣告されて朔方に流された。許されて本郡に帰ったが、また宦官に迫害されて、江海に十余年亡命した。董卓が政権を握ると、祭酒として召され、左中郎将に上り、高陽郷侯に封ぜられた。董卓が呂布に殺されたとき、その死を嘆いたため、司徒・王允により罪をえて、入れ墨・足切りの刑に処され、後漢朝の史書の続成を命ぜられた。しかし許されず、獄中で殺された。詩賦にも通じ、碑文も残した。『蔡中郎集』。
董卓(?〜192)
字は仲穎。隴西郡臨洮の人。若いころ、羌族の地を放浪して、羌族と交友した。羽林郎に任官し、張奐の并州征伐に従軍して功を挙げ、郎中となった。広武令・蜀郡北部都尉・西域戊己校尉へと累進したが、免職された。召し出されて并州刺史・河東太守に任ぜられ、中郎将に上ったが、黄巾の乱討伐で敗戦し、また免職された。韓遂が叛乱を起こすと、再び中郎将に任ぜられて、これを防いだ。そのため并州牧に上った。霊帝(劉宏)が没し少帝(劉弁)が立つと、大将軍の何進は十常侍誅殺のために、董卓を洛陽に呼び寄せた。段珪らを討って、帝を保護し、都に入った。何進の軍勢を併せ、丁原を呂布に殺させてその軍を吸収し、洛陽の軍権を握った。司空・太尉に上り、少帝を毒殺して、陳留王の劉協(献帝)を擁立した。相国に上って、暴虐の限りを尽くした。東方で諸侯連合が起兵すると、長安に遷都し、洛陽に火を放った。遷都後、太師となり、尚父と称した。王允らが呂布を使嗾したため、参内の途中に殺された。
鄭玄(127〜200)
字は康成。北海郡高密の人。郷嗇夫に任官したが、役人仕事が性に合わず、太学に入って学問を学んだ。はじめ第五元に師事し、次いで馬融に師事した。十数年の遊学を終えて故郷に帰り、東莱に土地を借りて耕したが、学生が集まって数百人に及んだという。党錮の禁が起こると、そのまま隠居して世に出なかった。このころ何休と春秋三伝の優劣を論争した。霊帝の末年、党錮の禁が解けると、何進に召し出されやむなく上京したが、一晩で逃げ帰った。北海国の相であった孔融は、鄭玄を尊敬して、高密県にひとつの郷を作らせた。袁紹が招聘して、諸子の説を議論させた。茂才に推挙され、左中郎将に任ぜられたが、受けようとはしなかった。官渡の戦に際し、袁紹に従軍を強要され、病躯を押して出かけたが、魏郡元城で没した。『毛詩鄭箋』、『三礼注』。
応劭(?〜?)
字は仲遠。汝南郡南頓の人。応cの兄にあたる。孝廉科に登用され、黄巾の乱の鎮定に功績があった。泰山太守にまで上った。『駮議』、『漢官儀』、『風俗通』。
趙岐(?〜201)
京兆郡長陵の人。経書や文学に通じた。虎牙都尉の唐玹を非難したために、深く恨まれた。玹が京兆尹に上ったため、身の危険を感じて趙岐は逃れたが、妻子兄弟らは殺された。難を四方に逃れ、姓名を変えて北海で餅を売っていたが、安邱の孫嵩に見出されてかくまわれた。のち唐玹の一族が滅ぶと赦されて世に出た。孟子の注釈を行った。『孟子注』。
袁紹(?〜202)
字は本初。汝南郡汝陽の人。袁逢(袁成)の子。四世三公をつとめた漢朝の名門に生まれた。はじめ侍御史に任用され、中軍校尉を経て、司隷校尉に上った。霊帝(劉宏)が没すると何進とともに宦官誅殺を謀ったが、何進が宦官たちに殺されたため、袁術らとともに宦官を一掃した。董卓が少帝(劉弁)を廃して陳留王(劉協、のちの献帝)を立てようとすると、逃亡して冀州へ行った。渤海太守となり、反董卓の兵を挙げ、諸侯の盟主となって、車騎将軍を号した。韓馥から冀州牧の位を奪い、多くの人士を集めた。董卓が長安に遷り、呂布に殺されると、諸侯の同盟は破れた。公孫瓚を破り、黒山賊を掃討して、華北の四州を支配し、曹操と争った。大軍を率いて黄河をわたり、官渡で曹操と戦ったが、兵糧を焼かれ、寝返りが続出して敗れた。冀州に帰還した後、発病して没した。
孔融(153〜208)
字は文挙。魯国の人。孔宙の子。孔子二十世の子孫といわれる。幼いころから、李膺や張倹らと交わり、名を上げた。何進に召し出されて、北軍中侯・虎賁中郎将・北海国の相と累進した。城市を修復し、才能ある人を推挙し、儒学の士を顕彰した。劉備に推挙されて、青州刺史となり、将作大匠・少府に任ぜられた。許都に遷ったが、博識を鼻にかけて、曹操をたびたびからかった。孫権の使者に曹操誹謗の発言をしたという罪で処刑された。建安七子のひとり。
荀悦(148〜209)
字は仲豫。潁川郡穎陽の人。荀倹の末子。はじめ曹操に仕えたが、のちに献帝に仕えてその侍講となり、さらに秘書監侍中に上った。曹操の専横を憂いた。『漢紀』『申鑒』。
周瑜(175〜210)
字は公瑾。廬江郡舒県の人。周異の子。孫策と同年だったため、親しい交わりを結んだ。従父の周尚が太守をつとめる丹楊に身を寄せたが、孫策が長江を渡ると、兵を率いて出迎え、笮融・薛礼らを討ち、劉繇を逐うのを助けた。丹楊に戻ったが、袁術が袁胤を丹楊太守に任ずると、寿春に遷った。袁術に願い出て、居巣の県長として赴任し、呉に戻った。孫策に従い、建威中郎将に任ぜられ、牛渚を守備した。孫策が荊州を攻めると、中護軍となり、江夏太守となった。孫策の死後は孫権に仕え、山越を破り、また黄祖の部将のケ龍を捕らえた。曹操が荊州に進出すると、主戦論を唱えた。孫家軍を統率し、劉備と共同して、赤壁に曹操軍を破った。さらに南郡に兵を進め、曹仁と対峙し、夷陵を奪った。偏将軍・南郡太守となり、江陵に駐屯した。劉備を警戒して、呉にとどめて酒色に溺れさせるよう進言した。また、蜀への遠征を準備し、曹操との天下二分を企てたが、病を発して没した。
荀ケ(163〜212)
字は文若。潁川郡穎陽の人。祖父の荀淑・叔父の荀爽らとともに名が知られた。永漢元年(189)、孝廉に挙げられ、守宮令となった。戦乱のため宗族とともに冀州にいたり、袁紹の上賓相待となる。初平二年(191)、袁紹は大事を成せないと見切り、曹操に帰順し、司馬に任ぜられた。興平元年(194)、曹操が陶謙を攻めたとき、兗州の留守を守った。陳宮らが乱を起こしたため、鄄城・范・東阿の三城を守って、曹操の帰還を待った。建安元年(196)、後漢の献帝を許に迎えることを勧めた。五年(200)、官渡を堅守して奇兵を用いて袁紹を破るよう献策した。官は侍中・守尚書令に上り、万歳亭侯に封ぜられた。戯志才・郭嘉・荀攸らとともに維幕の才を発揮して重用され、「王佐の才」と称された。十七年(212)、曹操が魏公に上るのに反対して疎遠となり、迫られて寿春で自殺した。
阮瑀(?〜212)
字は元瑜。陳留郡尉氏の人。蔡邕に師事して、学問を修めた。曹洪が書記として任用しようとしたが従わず、笞打たれた。建安初年、曹操によって司空軍謀祭酒・記室に任ぜられた。陳琳とともに章表書記にすぐれ、檄文の起草にあたった。倉曹掾属に上った。若くして没して、曹丕に惜しまれた。建安七子のひとり。『阮元瑜集』。
魯粛(172〜217)
字は子敬。臨淮東城の人。富裕な家に生まれ、財を散じて人士と交友した。袁術に東城の県長に任ぜられて赴任したが、袁術が頼みにならないのを見てとると、居巣にいた周瑜を頼った。周瑜の推挙により、孫権に仕えた。劉j・劉備らとの同盟を孫権に進言して、使者として向かったが、劉jはすでに曹操に降り、劉備は曹軍に追われて南下していた。劉備との同盟を成立させて復命した。曹操の南下に対して、主戦論を唱えて、孫権を説得した。周瑜の指揮のもと、賛軍校尉となって、軍略を助言した。曹軍を赤壁で破ると、最初に凱旋して、孫権を「陛下」と呼び、帝王となるよう言辞を捧げた。劉備が荊州の都督になることを求めたとき、荊州を劉備に貸すことを進言した。劉備が益州を平定すると、荊州南四郡の返還を求めたが、関羽にはばまれた。やがて、劉備が湘水より東の地を割譲して、争いは止んだ。
王粲(177〜217)
字は仲宣。山陽郡高平の人。王謙の子。献帝が長安に遷ると、ともに移住した。蔡邕に認められて推挙され、黄門侍郎に任ぜられた。長安が動乱におちいると、荊州の劉表を頼ったが、重用されなかった。劉表が没すると、劉jに勧めて曹操に帰服させた。曹操に認められて丞相掾に任じ、関内侯の爵を授けた。軍謀祭酒・侍中に上った。記憶力にすぐれ、六十篇に及ぶ詩・賦・論・議を著した。建安七子のひとり。「登楼賦」など。『王侍中集』。
陳琳(?〜217)
字は孔璋。広陵郡の人。はじめ何進の主簿となった。何進を諫めたが、聞き入れられず、何進は宦官に殺された。冀州に難を避け、袁紹に仕えて、曹操を批難した檄文を起草した。袁氏が敗れると、曹操に降り、曹操は才能を愛してその罪をとがめなかった。司空軍謀祭酒・記室に任ぜられた。阮瑀とともに章表書記にすぐれ、檄文の起草にあたった。門下督に上った。建安七子のひとり。
徐幹(?〜217)
字は偉長。北海郡劇県の人。旧家の生まれでありながら家は貧しく、品行はすぐれ、文章は美麗典雅であったという。建安年間に曹操に仕え、司空軍謀祭酒掾属・五官将文学に上った。建安七子のひとり。『中論』。
劉(?〜217)
字は公幹。劉梁の子。東平郡の人。曹操に召し出され、丞相掾属に任ぜられた。あるとき、酒宴で太子(曹丕)が甄氏に挨拶させた。座中の人々が平伏したのに、ひとり劉驍フみ直視した。そのため不敬罪で刑に服したが、刑期が終わると、吏に任ぜられた。建安七子のひとり。
応瑒(?〜217)
字は徳l。汝南郡南頓の人。応cの子。曹操に召し出され、丞相掾属に任ぜられた。平原侯(曹植)の庶子を経て、五官将文学に上った。建安七子のひとり。
仲長統(179〜220)
字は公理。山陽郡の人。若いころから学問を好み、華北の各地を遊学した。許にいたり、尚書郎に任ぜられた。『昌言』。
張機(?〜?)
字は仲景。仕官して長沙太守にまで上った。「衆方の祖」「医中の亜聖」といわれた名医。『傷寒論』、『金匱要略』、『金匱玉函経』。
蔡文姫(162〜239?)
本名は蔡琰。文姫は字。陳留郡圉県の人。蔡邕の娘。はじめ衛仲道に嫁いだが、死別した。興平二年(195)、中原の戦乱のさなかで匈奴に捕らえられて、南匈奴の左賢王の妾となった。二子を生んだ。のちに曹操のはからいで買いもどされ、董祀に再嫁した。董祀が法に触れ、死罪を宣告されると、曹操に助命嘆願の直訴をして許された。散逸した蔡邕の蔵書のうち暗記していた四百篇を書写して曹操に贈った。「悲憤詩」で有名。また琴曲歌辞「胡茄十八拍」も彼女の作と伝えられる。
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