[後漢(東漢)(25〜220)]
光武中興期,明帝章帝和帝期,安帝順帝期,桓帝霊帝期,献帝期,匈奴
光武帝(劉秀)明帝(劉荘)章帝(劉烜)和帝(劉肇)殤帝(劉隆)安帝(劉祐)少帝懿(劉懿)順帝(劉保)冲帝(劉炳)質帝(劉纘)桓帝(劉志)霊帝(劉宏)廃帝(劉弁)献帝(劉協)
蔡倫(?〜121?)
  字は敬仲。桂陽郡の人。建初年間に小黄門となった。和帝のとき中常侍となった。のちに尚方令を加えられた。安帝のとき、竜亭侯に封ぜられた。製紙法の改良を進め、樹皮・麻・布・漁網などから紙を作ることを発明した。元興元年(105)に献上して、「蔡侯紙」と呼ばれた。竇太后の支持のもと、宋貴人の追放に関与したが、安帝の親政が始まると取り調べを受けた。服毒自殺して死んだ。

許慎(50?〜121?)
  字は叔重。汝南郡召陵の人。はじめ汝南郡の功曹となり、孝廉に挙げられ、太尉南太閤祭酒に上った。古経・典籍の解釈・研究につとめ、訓詁学の基礎をきずいた。『説文解字』、『五経異義』。

楊震(54〜124)
  字は伯起。弘農郡華陰の人。家は代々経学を伝え、「関西孔子」と称された。五十歳ではじめて出仕し、荊州刺史・東莱太守・司徒・太尉などを歴任した。安帝の乳母の王聖や中常侍の樊豊らが法を曲げて財を貪り国費を濫費していることを、たびたび上書して諫めたが、かえって憎まれて誣告を受け、官を罷免されて自殺した。清廉で知られ、昌邑令の王密が夜中に金十斤の賄賂を持ってきたとき、即座に「天知る、神知る、我知る、子知る、何ぞ知る者なしと謂はんや」と答えてはねつけたという四知の故事で知られる。

胡広(?〜?)
  字は伯始。南郡華陽の人。幼くして父を失い、貧困のうちに育った。安帝のとき、孝廉に推挙された。尚書郎を経て、司空・司徒・太尉を歴任した。

張衡(78〜139)
  字は平子。南陽西鄂の人。若くして文才があり、「両京賦」を作って世相を批判した。また「帰田賦」を作って郷土愛をうたった。安帝に召されて郎中となり、太史令・侍中・尚書などを歴任した。天文・暦数・陰陽に詳しく、当時としては極めて精巧な渾天儀(天球儀)や侯風地動儀(地震計)を作った。円周率の計算も行ったという。『張河間集』。

崔瑗(77〜142)
  字は子玉。安平の人。崔駰の子。賈逵に師事し、天文・暦数・易などに通じた。馬融や張衡と親しく交わった。四十余歳にして郡吏に任官した。のち車騎将軍・閻顕に招かれたが、閻顕が誅殺されると、彼も追放された。のち汲県の令をつとめて治績をあげ、済北の相となった。『崔瑗集』。

王逸(90?〜145?)

李固(94〜147)
  字は子堅。漢中郡南鄭の人。陽嘉二年(133)、外戚・宦官が権勢を振るう時弊を訴え、奪権を要求して順帝に容れられた。荊州刺史・泰山太守などを歴任し、現地の叛乱を押さえた。大司農をつとめたとき、州牧や太守の多くが苛酷な収奪を行い、百姓の生活を侵害していることを上疏した。太尉に上った。冲帝の死後、清河王を擁立するよう議したが、大将軍の梁冀が従わず、質帝が立てられた。質帝が梁冀に毒殺され、清河王を擁立するよう再び議したが、容れられず、梁冀に忌まれて免官された。誣告を受けて獄に下り、門生の王調ら数十人が冤罪を訴えたため釈放された。出獄の日、京師市里の人々が歓呼で迎えたため、梁冀は権勢を振るう妨げになるのを恐れて殺した。
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