[後漢(東漢)(25〜220)]
⇒光武中興期,明帝章帝和帝期,安帝順帝期,桓帝霊帝期,献帝期,匈奴
光武帝(劉秀)−明帝(劉荘)−章帝(劉烜)−和帝(劉肇)−殤帝(劉隆)−安帝(劉祐)−少帝懿(劉懿)−順帝(劉保)−冲帝(劉炳)−質帝(劉纘)−桓帝(劉志)−霊帝(劉宏)−廃帝(劉弁)−献帝(劉協)
蔡愔(?〜?)
明帝のとき、郎中に任ぜられ、秦景らとともに仏法を求めて西域におもむいた。天竺にいたって摂摩騰・竺法蘭のふたりの高僧に出会い、同道して帰国した。このとき、仏教がはじめて中国に入ったともいう。
竇固(?〜88)
字は孟孫。扶風郡平陵の人。竇融の子。光武帝の娘・涅陽公主をめとった。中元十五年(70)、奉車都尉となり、耿忠とともに一万二千騎を率いて酒泉から出撃し、天山にいたり、北匈奴の呼衍王を討ち、千余の首級をえた。追撃して蒲類海にいたった。翌年、玉門から出撃して、車師の匈奴を討った。のちに大鴻臚・光禄勲・衛尉を歴任した。
王充(27〜91)
字は仲任。会稽郡上虞の人。家が貧しく書物が買えなかったため、書肆の店頭の書を一読して記憶し、ついに諸子百家の言に通じたという。班彪に師事した。のち郷里に帰り、会稽郡の各県の功曹を歴任した。永平年間に官を退いて、弟子への教育と著述に専念した。『論衡』を著し、鬼神や讖緯を否定する唯物論や命定論に基づく漢朝絶対を唱えた。
竇憲(?〜92)
字は伯度。扶風郡平陵の人。妹が章帝の皇后となった。はじめ郎となり、侍中・虎賁中郎将に遷った。和帝が即位すると、皇太后の垂簾政治のもと、朝政を専断した。のち、車騎将軍となった。永元元年(89)、軍を率いて北匈奴を討ち、稽落山で戦い、追撃して和渠比鞮海にいたった。このとき捕虜二十余万人を得た。大将軍に任ぜられ、武陽侯に封ぜられた。再び出撃して北匈奴を討ち、金微山にいたった。匈奴を平らげた後、一門は顕位を占め、勢威は大いにふるった。財産に貪欲で、民衆に苛斂誅求を加え、京師で横暴をはたらいた。四年(92)、和帝と宦官・鄭衆の謀略により、竇氏一門は誅滅され、竇憲も自殺を迫られて死んだ。
班固(32〜92)
字は孟堅。扶風郡安陵の人。班彪の長男。父の死後、父の撰による『史記後伝』の未完部分を補って完成させようとした。国史を私改していることを告発され、獄に下されたが、弟の班超らの尽力で釈放された。蘭台令史に任ぜられ、陳宗らとともに『世祖本紀』を撰した。郎に遷り、典校秘書となった。およそ二十年をかけて『漢書』を撰した。また賦をよくし、「両都賦」などをものした。また『白虎通義』を著した。永元元年(89)、中護軍となり、竇憲の匈奴征討に参謀として従軍した。竇憲が失脚して自殺すると、投獄されて獄中で死んだ。
崔駰(?〜92)
字は亭伯。涿郡安平の人。年十三にして『詩経』『易経』『春秋』および古今の訓詁諸説に通じた。文章をよくして、班固・傅毅とならび称された。元和年間、「四巡頌」を献上し、章帝にたたえられた。外戚竇憲のもとで上客となり、掾属となり、しばしば竇憲の驕恣をいさめた。竇憲が匈奴に対して出撃すると、軍の主簿をつとめた。竇憲の不法の事数十を記して奏上したため、長岑長に左遷された。まもなく戻ったが、家で亡くなった。詩文二十一篇を作った。『崔亭伯集』。
賈逵(30〜101)
右扶風郡平陵の人。五経や左伝、穀梁に通じた。永平年間に『春秋左氏伝解詁』、『国語解詁』を撰した。はじめ郎に任ぜられた。班固とともに同校秘書となり、北宮および南宮で学問を講じた。衛士令・左中郎将・侍中を歴任した。
班超(32?〜102)
字は仲昇。扶風郡安陵の人。班彪の次男。班固の弟、班昭の兄にあたる。文人の家に生まれたが、文筆を嫌って軍人となった。永平十六年(73)、竇固の北匈奴遠征に従って功を挙げた。竇固の命で西域に使いし、鄯善に赴いたとき、匈奴の使者が来あわせていた。「虎穴に入らずんば虎児をえず」と言って三十六人の部下を率いて匈奴の宿舎を襲い、使者ら百三十人余を斬り殺して、鄯善を服属させた。翌年、疎勒へ行き、北匈奴が擁立した疎勒王を廃して、元の王子を復位させた。北匈奴の力を背景に焉耆・亀慈が疎勒を攻めると、わずか千人の援兵で死守し、疎勒・于闐の兵を率いて、一旦背いた疎勒王も降伏させた。のちに西域都護に任ぜられ、都護府を亀慈に置いた。永元六年(94)、亀慈・鄯善など八カ国の軍を率いて、焉耆を攻め、焉耆王を殺した。定遠侯に上り、西域五十余国を従えた。部下の甘英を大秦国への使者として派遣した。西域にとどまること三十一年、「但だ生きて玉門関に入らんことを願う」と上書して聞き入れられ、永元十四年(102)八月に洛陽に呼び戻された。翌九月に病没した。
甘英(?〜?)
西域都護・班超の部将。班超の命をうけて大秦国(ローマ)を目指し、パルティア(安息)を過ぎ、条支国(シリア)にいたって引き返した。彼によって西アジア地方の知識が漢朝にもたらされた。
班昭(45?〜117?)
字は恵班。一名に姫という。曹大家と尊称された。扶風郡安陵の人。班彪の娘。班固・班超の妹にあたる。経史・天文・算数に通じた。十四歳で同郷の曹寿(世叔)に嫁いだ。数人の子女を生んだ。永元四年(92)、和帝に召されて班固の『漢書』の続成を命じられ、馬融らとともに八表・天文志を補い、完成させた。ケ太后の信任が厚く、宮中での講学につとめた。『女誡』を著して、婦道を説いた。永初七年(113)、息子に随従して陳留郡長垣に向かい、「東征賦」に唱った。
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