[モンゴル帝国(1206〜14c.)]
⇒モンゴル帝国,元(世祖期,成宗期以後),ケレイト,ナイマン,ホラズム
太祖(チンギス)−太宗(オゴタイ)−定宗(グユク)−憲宗(モンケ)…
チンギス・ハーン(1162〜1227)
幼名はテムジン(鉄木真)。モンゴル帝国の創設者チンギス・ハーン(成吉思汗)。追尊して太祖という。在位1206〜1227。イェスゲイの子。母はホエルン。モンゴル部ボルチギン部族のキヤン氏の出身。モンゴル部の有力な氏族に生まれたが、父がタタールに毒殺されて後、タイチウド族をはじめとして人々が離反し、家族は困窮した。タイチウド族に命を狙われたが、ソルカン・シラ父子の助けでどうにか逃れた。コンギラト族の娘ボルテを妻に迎えたが、メルキドに妻を奪われ、父の義兄弟(アンダ)だったケレイトのトオリル(汪罕)やジャムカ(札木合)と結び、メルキドを討った。1189年、キヤン氏に推されて、モンゴル部の可汗に即位。義兄弟の契りを結んだジャムカと争い、一度は敗れたが、まもなく勢力を回復。テムジンとトオリルの連合軍対ジャムカとタタール・メルキド・ナイマンの諸部族の連合が、コイテンの野に大会戦をおこなって、テムジン・トオリル側が勝利した。やがて、テムジンとトオリルは決裂し、トオリルは敗残のジャムカと結んで夜襲戦をしかけたが、敗北した。テムジンはケレイトを滅ぼし、逃亡したジャムカを追ってナイマンを討ち、さらにメルキドを討ってジャムカを捕らえて処刑した。1206年、モンゴル高原を平定して、クリルタイを召集し、チンギス・ハーンの称号を受ける。三回にわたって西夏を討って従属させ、金朝に遠征。モンゴルの通商使節が、オトラルの知事に殺されると、中央アジアのホラズムに遠征。各地で都市を略奪、破壊、虐殺を繰り返しながら西進。ホラズム王ムハンマドをカスピ海の孤島に追いつめて窮死させた。中央アジアから帰還すると、西夏に遠征して滅亡させたが、まもなく病死した。
石抹明安(1164〜1216)
桓州の人。契丹の出身。金に仕え、モンゴルに使いした。1212年、モンゴル軍が金の撫州を破ると、モンゴルに降った。軍を率いて雲中を取り、河北諸郡を経略した。1215年、通州を取り、中都を囲み、中都を降した。漢軍兵馬都元帥となり、太保を加えられた。このため明安太保と称せられた。
石抹也先(1177〜1217)
石抹阿辛、石抹耶先ともいう。契丹の出身。遼の蕭氏の後裔。チンギス・ハーンが起兵すると、モンゴルに投じた。1215年、ムカリ軍の先鋒として金の東京を取り、北京を破った。北京達魯花赤を領し、御史大夫に任ぜられ、蕭大夫と称された。一万二千人の精鋭の兵士を募集して、黒軍と号した。興中府の土豪石天応を降し、錦州の張鯨を捕殺し、ムカリに従って張鯨の弟の張致を討った。蠡州で戦死した。
ムカリ(1170〜1223)
木華黎。ジャライル部族の出身。はじめ父に連れられてチンギス・ハーンに差し出され、近習として仕えた。華北・中国東北部の経略に功績を挙げた。1217年、太師・国王の称号を受けた。四駿のひとり。
ジュチ(1172〜1227?)
求赤、または拙赤。チンギス・ハーンの長男。母ボルテがメルキドに奪われて、奪回した直後に生まれたため、チンギスに実の子であるか疑われたという。そのため、モンゴル語で客人を意味する名を与えられた。父に従い、金・ホラズムの征戦に参加した。1217年、キルギスタンを征服。1219年、シル河畔地方を占領。キプチャクの地方を領地として与えられた。キプチャク(金帳)汗国の祖とされる。
トゥルイ(1193〜1232)
睿宗と追尊された。チンギス・ハーンの四男。父に従って西征した。父の死後に監国となり、クリルタイを主宰した。兄のオゴタイを汗位につけることに賛同し、領地を兄に献じた。オゴタイの金国遠征では右翼軍を率いて、三峯山で完顔哈達率いる金軍主力を撃破した。北帰する帰途に、病をえたオゴタイの身代わりになると言って酒杯を飲み干して急死したという。
粘合重山(?〜?)
女真の出身。金の貴族の生まれであったが、モンゴルに人質に出された。チンギスに馬四百匹を賜り、宿衛官必闍赤となった。諸国の平定戦に従軍して功績を挙げた。涼州を囲んだとき、大旗を振るって軍を指揮していたが、手に流れ矢を受けて動かなくなった。侍従官となって、宮廷の酒宴に侍ったが、酒に溺れて統治を忘れることを諫めた。中書省が立てられると、左丞相に上った。1235年、オゴタイが南宋を攻めると、従軍して軍前行中書省事をつとめた。江淮地域に進軍して、民三十万あまりを降伏させ、定城・天長の二邑を奪い、一人も殺さなかったという。死後、太尉を追贈され、魏国公に追封され、忠武と諡された。
オゴタイ・ハーン(1186〜1241)
窩闊台汗。追尊して太宗という。在位1229〜1241。チンギス・ハーンの三男。アルタイ山脈南麓の草原地帯に封ぜられた。父の死後、弟トゥルイの監国を経て、モンゴル帝国の第二代のハーン位に推戴された。父の遺志をついで金朝を滅ぼした。さらにバトゥらの西征軍を派遣。ロシアを占領し、ポーランド・ハンガリーにまで進出した。1235年、カラコルム(ハラホリン)に万安宮を築いて首都とした。中央官庁を創設し、新税制を定めるなど、統治制度を整備した。「財宝があっても死を免れることはできない。大切なのは人民の心の中に財宝を蓄積することだ」といって気前よく衆に財を分かったという。平生から酒を嗜んで、耶律楚材に諫められた。1241年、狩猟の帰途に深酒して床につき急逝した。
チャガタイ(?〜1242)
察合台。チンギス・ハーンの次男。チンギス・ハーンに従って金を討ち、ホラズム遠征に参加した。1229年のクリルタイでは、弟のオゴタイを推した。ジュンガル・東トルキスタン地方に封ぜられ、アルマリクを都とした。チンギス・ハーンの法令(ヤサ)を厳格に運用して統治し、イスラム教徒らに恐れられた。チャガタイ(察合台)汗国の祖とされる。
耶律阿海(?〜?)
遼の末裔。はじめ金に仕えて、ケレイト部のトオリルのもとに使者として立った。のちに弟の耶律禿花とともにテムジンに帰順した。1203年、西夏への進攻に従って功績があった。モンゴル帝国建国ののち、征戦に従ってしばしば先鋒となった。1214年、太師に任ぜられた。1219年、チンギス・ハーンに従って西域に向かった。翌年、ボハラやサマルカンドで勝利した。のちにサマルカンドの留監となった。享年は七十三。
耶律楚材(1190〜1244)
字は晋卿、号は湛然居士。諡は文正。モンゴルではウルト・サハル(長髭の人)と呼ばれた。燕京の人。耶律履の子。遼の東丹王・倍の八世の孫にあたる。首席で進士に及第して金朝に仕えた。中都留守の完顔承暉のもとで、左右司員外郎をつとめた。中都が陥落すると、チンギス・ハーンに召し出され、その侍臣となった。儒学・天文・地理・律・暦・術数に詳しく、釈・老・医・卜に通じていた。チンギス・ハーンの死後、オゴタイに仕え中書令に任ぜられた。死後、太師の官を追贈され、広寧王に追封された。『西遊録』、『湛然居士集』。
テムゲ・オッチギン(?〜1246)
鉄木哥斡赤斤。チンギス・ハーンの末弟にあたる。1206年にチンギスが即位すると、興安嶺方面に八千戸を与えられた。金国遠征にあたって左翼軍を率いて活躍した。オゴタイの代となると東方三王家を掌握して、帝国の最長老として勢威をふるった。オゴタイが崩ずると、兵を率いてカラコルムに乗り込み、かれの主導でクリルタイを開催しようとしたが、グユクの帰還のため阻まれた。グユクの即位の直後に没した。
スブタイ(1176〜1248)
速不台。または速別額台。ウリャンハ部族の出身。騎射を得意とした。1219年、チンギス・ハーンの西征に従い、ジェベとともに先鋒をつとめた。ホラズム王ムハンマドを追撃し、コーカサス山脈を越えてロシア平原にいたり、キプチャク族・南ロシア諸侯の連合軍を撃破した。オゴタイ即位の後、トゥルイに従って金朝を攻め、三峯山・汴州・蔡州の戦いに参加した。1235年、バトゥの西征軍の副司令官となり、ロシアの諸侯国を各個撃破した。また分遣隊を率いてポーランドに侵入し、ワールシュタットの戦いでヨーロッパ連合軍を撃破し、ハンガリーに侵入した。四狗のひとり。
グユク・ハーン(1206〜1248)
貴由汗。追尊して定宗という。在位1246〜1248。オゴタイの長男。オゴタイの金国遠征のとき、一軍を率いて中国東北にあった蒲鮮万奴の東夏国を滅ぼした。またバトゥの西方遠征に加わり、主将のバトゥと衝突して東帰の途中、父ハーンの死を知って帰国した。後継者をめぐって対立があったため、しばらく母のドレゲネが国政を執った。モンゴル帝国の第三代のハーン位に推戴された後も、病弱のため母が摂政した。かれの代に宋・高麗への攻撃が強化された。酒色に節度がなく、バトゥの叛乱を討伐するための征途に病死した。
プラノ・カルピニ(1200?〜1252?)
名はジョヴァンニ。イタリアの人。フランチェスコ会の修道士となる。南ドイツで伝道につとめた。1223年、ザクセン教区の副管区長となり、翌年ケルンに転任。1228年、ドイツ教区管区長。1230年、スペイン教区管区長。教皇インノケンティウス4世の命で、布教と偵察のためにモンゴルに使いした。1245年にリヨンを発し、翌年にカラコルムでグユクに謁見した。1247年に返書をたずさえて帰国した。アンティヴァリ大司教・ダルマティア大司教に叙せられた。『モンゴル人の歴史』。
バトゥ(1207〜1255)
抜都。在位1243〜1255。ジュチの次男。チンギス・ハーンの孫にあたる。兄のオルダが病弱なため、ジュチの門地を継いだ。1236年、オゴタイの命により総司令官として西征した。南ロシア諸侯国を各個撃破したのち、一軍を割いてポーランドに侵入させ、ワールシュタットの戦いでポーランド・ドイツ連合軍を撃破させた。自身は本軍を率いてハンガリーに侵入し、サヨ河畔でハンガリー軍を殲滅した。オゴタイの死の報が伝わると撤退したが、サライにとどまってキプチャク(欽察,金帳)汗国を建て、征服地を所領とした。グユク・ハーンには従わなかった。グユクが没すると、最長老としてクリルタイを召集し、モンケの擁立に尽力した。
モンケ・ハーン(1209〜1259)
蒙哥汗。追尊して憲宗という。在位1251〜1259。チンギス・ハーンの末子トゥルイの長男。バトゥに従ってヨーロッパ遠征に参加した。グユクの死後、グユクの后オグル・ガイミシュがしばらく執政した。オゴタイ・チャガタイ系がクリルタイに欠席する中で、モンゴル帝国の第四代のハーン位に推戴された。帝位につくと、反対派を粛清し、オゴタイ・チャガタイ系の所領を細分化した。弟フビライを中国に、弟フラグをペルシアに派遣して、征服戦争を拡大した。かれは寡黙で、狩猟と巫卜を好み、モンゴルの祖法を固く遵守した。かれの治世に雲南・大理・チベットを征服した。1258年、みずから南宋に出征したが、陣中で崩じた。
楊惟中(1205〜1259)
字は彦誠。弘洲の人。チンギス・ハーンのとき、孤童としてオゴタイに仕えた。1224年、西域三十余国に使いした。オゴタイのとき、伐宋に従い、儒者数十人を燕都に送った。ついに経書に通じ、道をもって天下を治めたいと欲した。のちに中書令に任ぜられた。モンケ即位後、フビライに従い、河南道経略使・陝右四川宣撫使・江淮京湖南北路宣撫使を歴任した。
フラグ(?〜1266)
旭烈兀。在位1258〜1266。トゥルイの子。モンケやフビライの弟にあたる。モンケ・ハーンの命を受けて、西征の軍を率い、ペルシアおよびイラクに侵入。1258年、バグダッドを占領してアッバース朝を滅ぼした。次いでシリアに侵入して、ダマスクスを占領。マラガを都としてイル(伊児)汗国を建国した。のちにダブリーズに遷都した。
アリクブカ(?〜1266)
阿里不哥。チンギス・ハーンの末子トゥルイの七男。モンケ、フビライの同母弟にあたる。1259年、モンケ・ハーンが没すると王位継承を画策。翌年、フビライに対抗してカラコルムで即位した。しかし同年のうちにフビライの大軍の前に敗走。1264年、フビライに降った。死を免じられたが、まもなく大都で没した。
ルブルク(1215?〜1270?)
フランドルの人。フランチェスコ会の修道士となる。1252年、第七次十字軍に従軍した。イスラム勢力の挟撃をもくろんだルイ9世の命により、モンゴルへの使者となる。翌年、バトゥに謁見した。1254年、カラコルムにいたり、モンケに謁見した。翌年、返書をたずさえて帰国した。『蒙古帝国旅行記』。
ナヤン(?〜1287)
乃顔。チンギス・ハーンの弟テムゲの玄孫にあたる。オッチギン家を継ぎ、モンゴルの東北部で諸藩王を統率した。1287年、ハイドゥの乱に参加して挙兵した。フビライの親征を受けて、シラ・ムレン(潢河)北岸で大敗して捕らえられ、処刑された。
ハイドゥ(?〜1301)
海都。カシーの子。オゴタイの孫にあたる。カヤリクに封ぜられた。大汗位がオゴタイ系からトゥルイ系に移ったことに不満を持ち、フビライに敵対した。アリクブカを支持し、アリクブカの死後もフビライの懐柔に応じなかった。キプチャク汗国のマングティムールやチャガタイ汗国のボラクを味方に引き込んで戦火を拡大させた。その武威はすさまじく、フビライの子・ノムガンを捕らえ、バヤンを敗走させた(ハイドゥの乱)。叛乱は三十年余も続いて、元朝と四汗国の結合を破り、モンゴル帝国を疲弊させた。1301年、元に総力戦を挑み、カラコルム付近で激戦を繰り広げたが、敗れて逃れる途中に病没した。
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