[ケレイト]
トオリル(?〜1203)
  オン・ハーン(汪罕)。モンゴル部ケレイト部族の首長。父の跡をついで汗となったが、兄弟を殺したため位を追われ、ボルチギン部族のイェスゲイのもとに逃れた。イェスゲイの助けを借りて復位し、義兄弟の契りを結んだ。トラ河畔の黒林で遊牧した。イェスゲイの子のテムジン(のちのチンギス・ハーン)を助けて、父子の礼を取った。1196年、金の完顔襄によるタタール遠征に協力して、金朝により王に封ぜられ、汪罕を称した。1202年、ジャムカが諸部族を集めて来攻すると、コイテンの野で会戦してこれを破った。以後、テムジンが力をつけてきたため、日増しに猜疑を深めた。翌年、テムジンを襲撃しようとしたが、事前に洩れて得るものがなかった。秋、テムジンに攻められて敗れ、敗走する途中にナイマン人に殺された。


[ナイマン(乃蛮)(10c.〜1204)]
タイブハ(?〜1204)
  脱兒魯黒。太陽罕(タヤン・ハーン)。ナイマン部の首長。イナンチャ・ビルゲ・ハーンの子。母はグルベス。モンゴル高原の西半を支配し、高い水準の文化を保った。敗残のジャムカを受け入れたため、チンギス・ハーンと敵対した。東進してオルコン河を渡り、納忽昆山の東麓でモンゴル軍と戦ったが、大敗し、傷を受けて捕らえられ、まもなく亡くなった。

クトゥルク(?〜1218)
  屈出律。または古出魯克。タイブハの子。ナイマン部の首長の子として生まれた。1204年、チンギス・ハーンに敗れて父が没すると、カラ=キタイ(西遼)に亡命した。西遼王チュルクの娘を妻とした。1211年、西遼の衰えに乗じて叛乱を起こし国を奪った。チンギス・ハーンと再び対抗したが、1218年にモンゴル軍に捕らわれて殺された。
↓次の時代=モンゴル帝国

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