[西遼(1132〜1218)]
徳宗(耶律大石)−感天皇后(塔不煙)−仁宗(耶律夷列)−承天太后(普速完)−耶律直魯古…屈出律
耶律大石(?〜1143)
字は重徳。西遼の初代徳宗。在位1132〜1143。遼の太祖(耶律阿保機)の八世の孫にあたる。天慶五年(1115)に進士に及第した。翰林応奉となり、「大石林牙」と称された。泰州刺史・遼興軍節度使などを歴任した。金の侵攻に対して、天祚帝(耶律延禧)が西逃すると、秦晋国王耶律淳を帝に擁立した。保大四年(1124)、金軍が迫ると、配下二百人を率いて西進した。白韃靼部の援助を求めて兵馬を借り、またウイグルの十八部族の衆を集めて、さらに西に進んだ。カラ・ハン朝の援軍として、セルジューク諸侯の連合軍を撃退し、トルキスタン地方に覇権を確立した。ベラサグンを奪って、フスオルド(虎思斡耳朶)と改称し都とした。1132年、帝を称し、天祐皇帝またはグルカン(葛児罕)と号した。国号は遼。いわゆる西遼(カラ・キタイ)を建国した。勢いに乗って金国遠征を企てたが、果たすことなく没した。
耶律夷列(?〜1164)
西遼の仁宗。在位1151〜1164。徳宗(耶律大石)の子。康国十年(1143)、徳宗が亡くなったが、夷列は幼かったため、感天皇后塔不煙が七年間執政にあたった。咸清七年(1151)に即位して、紹興と改元した。在位十三年で病のため亡くなった。
耶律普速完(?〜1177)
西遼の承天太后。徳宗(耶律大石)の娘。仁宗(耶律夷列)の妹にあたる。仁宗の死後、嫡子の耶律直魯古が幼かったため、遺詔により執政にあたり、崇福と改元した。夫の弟の朴古只沙里と密通し、夫の蕭朶魯不を東平王として出向させたあと、これを謀殺した。夫の父の斡里剌が兵を率いて宮殿を囲み、彼女と朴古只沙里を射殺した。
耶律直魯古(?〜1213)
チュルク。西遼のグルカン。在位1177〜1211。仁宗(耶律夷列)の次男。崇福十四年(1177)、承天太后普速完が亡くなると、帝位につき、天禧と改元した。天禧三十四年(1211)秋、猟に出ているときにナイマンの王子クチュルク(屈出律)の伏兵にあって捕らえられ、位を奪われて、太上皇と尊称された。二年後に亡くなった。耶律氏の最後の皇帝だが、西遼(カラ・キタイ)の完全な滅亡は、クチュルクが蒙古のために敗亡する1218年のこととなる。
[ホラズム(花刺子模)(996〜1220)]
アラー・ウッディーン・ムハンマド(?〜1220)
ホラズム王。在位1199〜1220。北インドのゴール朝やトルキスタンの西遼を破って最大版図を築いた。チンギス・ハーンの通商使節をオトラル知事が殺した事件の報復により、モンゴルの侵略を受け、ボハラ・サマルカンド・ガズニなど主要な都市を失陥。カスピ海の孤島に逃れて、失意のうちに病没した。
イナルチュク(?〜1219)
オトラルの知事をつとめた。チンギス・ハーンのホラズムへの通商使節を抑留して殺した。その報復を受けて、モンゴル軍に攻められて殺された。
ジャラール・ウッディーン(?〜1231)
ホラズム王ムハンマドの三男。チンギス・ハーンの侵攻に対し、勇戦した。ヒンズークシ山中ではモンゴルのシギ・シトフの軍を破っている。ガズニからインドに逃れ、ペルシアから東欧にいたるまで転戦を続けた。モンゴル軍に追われ、クルディスタンに身を潜めたが、地元の農民に討たれて没した。
↓次の時代=モンゴル帝国
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