[元(1271〜1368)]
モンゴル帝国,元(世祖期,成宗期以後),北元
世祖(フビライ)成宗(テムル)武宗(カイシャン)仁宗(アユルバルワダ)英宗(シディバラ)泰定帝(イスン・テムル)天順帝(アリキバ)明宗(コシラ)文宗(トク・テムル)寧宗(イリンジバル)順帝(トゴン・テムル)
周密(1232〜1298)
  字は公謹、号は嘯翁、または草窓。済南の人。湖州の弁山に居を構えた。はじめ馬光祖の下で仕え、両浙運司掾・豊儲倉検察・義烏知事などを歴任した。南宋が滅びて元の代となると、弁山の家も兵火にかかったため、以後杭州に住み、官途につかず、宋の遺民として一生を送った。故国の文献を整理し、詞曲の研究にはげんだ。自らも詩・詞を詠み、呉文英と併称された。『癸辛雑識』、『絶妙好詞』。

ジャーマル・ウッディーン(?〜1301?)
  札馬刺丁。ペルシアの人。元初に中国に来て、世祖フビライに仕えた。至元四年(1267)、西域の観測儀器を製造し、また「万年暦」を献じた。八年(1271)、回回司天台を大都に置き、その提点となった。アラビアの天文学・暦学の中国移入に貢献した。十年(1273)、回回司天台提点のまま、知秘書監事に上った。二十二年(1285)、西域の地理図冊と各省図志を合わせて勅撰で編纂するよう求め、陳儼・虞応竜らを推挙した。これを秘書監のもと三十一年(1294)に完成させ、『至元大一統志』といった。嘉議大夫・中奉大夫に累進し、知秘書監事のまま、集賢大学士となった。

楊連真伽(?〜?)
  チベットの人。出家してラマ僧となる。至元十四年(1277)、江南釈教都総統に任ぜられ、江南の仏寺をつかさどった。不法貪汚のこと多く、民の財産を強取し、仏寺に佃戸五十万あまりを占有させてほしいままにした。宰相サンガと結び、南宋の諸皇帝の陵墓を暴いて財宝を奪い、陵墓の地に仏寺を建てた。二十五年(1288)、江南の教禅律三教の諸山住持を集めて大都におもむかせ、法を問うた。二十八年(1291)、サンガが誅殺されると、かれもまた罪に問われ、諸臣はかれを死刑に処するよう求めたが、フビライが許可しなかった。翌年、土地と人民を奉還した。

胡三省(1230〜1302)
  字は身之、号は梅澗。天台の人。宝祐年間の進士。県令や府学教授などの職を歴任した。宋末に『資治通鑑広注』の撰を開始したが、臨安の失陥後に散佚した。南宋が滅びると、官につかなかった。至元二十二年(1285)、『資治通鑑音注』を完成させた。ほか『釈文辯誤』。

鮮于枢(1257〜1302)
  字は伯机、号は困学民。漁陽の人。至元年間に江浙行省都事となった。詞賦や書画をよくし、また名画や古器物を鑑定した。『困学斎集』、『困学斎雑録』。

金履祥(1232〜1303)
  字は吉父、号は仁山。蘭渓の人。徳祐初年、史館編修として召された。南宋が滅びると隠居して著述に専念した。『仁山集』、『尚書表注』。

王ツ(1228〜1304)
  字は仲謀、号は秋澗。衛州汲県の人。中書省に入って累進し、至元年間に監察御史となった。官は通議大夫・知制誥にいたった。『世祖実録』の編纂にあたった。『秋澗集』、『詩文集』。

方回(1227〜1306)
  字は万里、号は虚谷。徽州歙県の人。景定三年(1262)、科挙に及第した。厳州の知事を幾度かつとめた。『虚谷集』。

アーナンダ(?〜1307)
  阿難答。安西王マンガラ(忙哥刺)の子。元の世祖フビライの孫にあたる。至元十七年(1280)、父の跡を継いで安西王に封ぜられた。陜西・四川・甘粛・寧夏の広範な地域を統轄した。王府を京兆(西安)と開城に設けて、冬は京兆に住み、夏は開城にうつった。敬虔なイスラム教徒で、祖宗の道に反するとして成宗(テムル)により投獄され、仏教への改宗を迫られたが、拒みつづけた。成宗はアーナンダ麾下のイスラム教徒が兵乱を起こすことを恐れて、やむなく釈放した。大徳十一年(1307)、成宗が病のため崩ずると、アーナンダは皇太后ブルガンに迎えられて帝位につこうとしたが、政変が起こって逮捕され、武宗(カイシャン)が即位すると、上都で処刑された。

陳孚(1259〜1309)
  字は剛中、号は勿庵。台州臨海の人。『大一統賦』をフビライに献上して、臨海上蔡書院山長となった。翰林国史院編修官・奉訓大夫・礼部郎中を歴任した。至元二十九年(1292)、五品副使として安南への使者として立った。『天游稿』、『観光稿』、『玉堂稿』。

高克恭(?〜1310)
  字は彦敬、号は房山。大同の人。のちに燕京に住んだ。官は大中大夫・刑部尚書に上った。晩年は杭州に住み、山水画や墨竹をよくし、奇作をものした。また詩も作った。『房山集』。

吾丘衍(?〜1311)
  字は子行、号は竹房。銭塘の人。隠棲して官に仕えず、もっぱら吟詠にふけったという。『竹素山房詩集』。

アラー・ウッディーン(?〜1312)
  阿老瓦丁。ペルシアのムファリの人。至元八年(1271)、イスマイルとともにイル・ハン国から来朝し、回回砲(投石機)製造にあたった。十年(1273)、平章アリハイヤの伐宋戦に従軍して、その砲の力で樊城・襄陽を攻め落とし、潭州・静江などの城を破った。十五年(1278)、宣武将軍・管軍総管に任ぜられた。十八年(1281)、南京(開封)に赴任し、屯田を行った。二十二年(1285)、副万戸に任ぜられた。大徳四年(1300)、致仕した。

姚燧(1238〜1313)
  字は端甫、号は牧庵。柳城の人。姚枢の甥にあたる。至元七年(1270)、蒙古貴胄学校に入り、許衡のもとで学んだ。のちに提刑按察副使・翰林直学士・大司農丞などをつとめた。『世祖実録』編纂の総裁をつとめた。翰林学士承旨・知制誥・修国史に上った。『国統離合表』、『牧庵文集』。

郭守敬(1231〜1316)
  字は若思。順徳邢台の人。劉秉忠のもとで学んだ。中統三年(1262)、張文謙の推薦により、提挙諸路河渠に任ぜられ、翌年には副河渠使となった。至元元年(1264)、張文謙に従って西夏行省におもむき、唐来・漢延などの大渠を補修した。二年(1265)、都水少監となり、河渠・水利・堤防・橋梁などの事業を掌握した。十三年(1276)から新暦の制定に参与し、天文儀器十種あまりを発明し、最古の大赤道儀を作った。全国二十七カ所に観測所を設け、一回帰年の長さを365.2425日と計算した。十七年(1280)、完成した「授時暦」は、中国最良の暦と称された。二十三年(1286)、太史令に任ぜられた。二十八年(1291)、都水監となり、通恵河の補修をつかさどった。三十一年(1294)、知太史院事に上った。天文暦算十余種の書を著したが、散佚した。

王徳信(?〜?)
  字は実甫。大都の人。事績不明。一説に陝西の監察御史をつとめたという。『西廂記』の筆者とされる。ほか『麗春堂』、『破窰記』。

関漢卿(?〜?)
  号は已斎叟。大都の人。代々医者をつとめる家に生まれた。多芸多才で碁・歌舞・音楽・詩などをよくした。フビライに召されて宮中の典医をつとめ、太医院尹にまで上った。大都にいて楊顕之らとともに雑劇創作にあたった。晩年は杭州に住んだ。雑劇六十余種を作り、十五種が現存するという。『竇娥冤』、『救風塵』、『拜月亭』など。社会の暗黒面を暴露し、貪官汚吏や土豪劣紳を痛烈に風刺した作品を残した。白樸・馬致遠・鄭光祖とならぶ元曲の四大家のひとり。

辛文房(?〜?)
  『唐才子伝』、『披抄詩集』。

王禎(?〜?)
  字は伯善。東平の人。地方官を歴任し、農業知識の普及や貧困の救済に尽くした。皇慶二年(1313)、『王氏農書』を刊行した。また活版印刷の改良を行ったともされる。

蒲寿庚(?〜?)
  泉州の人。出自はアラビア人ともペルシア人ともいう。交易・海運で巨富を蓄えた。海賊討伐の功績によって、宋朝により福建広東招撫使・泉州提挙市舶司使に任ぜられた。至元十三年(1276)、泉州を挙げて元に降り、江西行省参知政事に任ぜられた。十五年(1278)、福建行省左丞となり、海外諸国との折衝にあたった。

白樸(1226〜?)
  もとの名は桓。字は太素、または仁甫。号は蘭谷先生。隩州の人。流寓して河北真定にうつった。汴京陥落の混乱のさなか、元好問に育てられた。金の滅亡後、史天沢に仕官を勧められたが拒絶し、南京に移り住んで自然の鑑賞と詩と酒とに気ままな生涯を送った。雑劇十六種を著し、『梧桐雨』、『牆頭馬上』が現存する。また『天籟集』があり、詞二百首あまりを収めた。関漢卿・馬致遠・鄭光祖とならぶ元曲の四大家のひとり。

一寧一山(1247〜1317)
  俗姓は胡。号は一山、法名は一寧。台州の人。幼くして出家し、天台山に学んだ。臨済宗を修め、のちに補陀山に住んだ。学識は広く、仏典を研鑽したほか、儒・道・百家にも通じた。さらに書法をよくした。大徳三年(1299)、成宗により江浙釈教総統の位を授けられ、妙慈弘済大師の号を賜った。勅命を受けて日本に赴き、博多にいたって建長寺・圓覚寺に住持した。のちに宇多上皇に召されて京都南禅寺に住んだ。日本にあること十九年、禅宗を説いて朝野の尊崇を集めた。その死後、国師の号を追贈された。『語録』。

管道昇(1262〜1319)
  字は仲姫。湖州呉興の人。管伸の娘。至元二十六年(1289)、同郷の趙孟フと結婚した。夫とともに詩書画に通じた。延祐五年(1318)、帰郷の途中に臨済の舟中で没した。

趙孟頫(1254〜1322)
  字は子昂、号は松雪道人。湖州呉興の人。宋の太祖の十一世の孫にあたる。咸淳三年(1267)に真州司戸参軍に任ぜられたが、南宋の滅亡後は呉興に隠棲していた。至元二十三年(1286)にフビライに召し出されて、翌年に奉訓大夫・兵部郎中に任ぜられた。以後、五代に仕えて、官は翰林学士承旨・栄禄大夫・知制誥・脩国史に上った。学者文人として有名で、書画は天下第一の絶品と称された。妻の管道昇も詩書画をよくした才女として知られた。夫人に遅れること三年で呉興で没し、死後に江浙行省平章事を追贈され、魏国公に追封された。『松雪斎集』。

楊載(1271〜1323)
  字は仲弘。杭州の人。文名で知られた。四十歳のとき、翰林国史院編修官として召され、『武宗実録』の編纂にあたった。延祐初年、進士第に上り、饒州路同知浮梁州事に任ぜられ、寧国路総管府推官に転じた。

馬端臨(1254?〜1323?)
  字は貴与。楽平の人。馬廷鸞の子。はじめ朱子学を学んだ。『通典』を補うため、二十年かけて『文献通考』を著した。典章制度を研究し、とくに宋代の制度史の重要史料となった。宋の滅亡後は官に仕えなかった。慈湖書院・柯山書院の山長をつとめた。

明本(1263〜1323)
  俗姓は孫、字は中峰。銭塘の人。若くして天目山獅子院で出家し、原妙に師事した。禅宗の伝を受け、著書が多く世に行われた。名が朝廷に聞こえ、仁宗のとき、仏慈円照広慧禅師の号を賜った。宣政院にしばしば招聘されたが、すべて固辞した。とくに雲南での帰依者が多く、禅宗第一祖として尊ばれた。天目山で寂した。順帝至元元年(1335)、普応国師と追号された。『天目中峰和尚広録』。

熊朋来(1246〜1323)
  字は与可、号は天慵子。豫章の人。咸淳年間に進士に及第した。元に入ると福清州の判官となった。文章がうまく、音律に通じ、鼓瑟をよくした。『五経説』、『瑟譜』。

マルコ・ポーロ(1254〜1324)
  ニコロの子。ヴェネチアの人。若くして父や叔父とともに陸路で中国に赴いた。至元十二年(1275)、カンバリク(大都)にいたってフビライに仕えた。四種の言語と文字に精通した。カラジャン(大理)、キンサイ(杭州)、ヤンジュー(揚州)などに派遣されたという。十七年間元にとどまり、二十九年(1292)にイル汗国に嫁ぐ王女コカチンを海路で送りながら、1295年に帰国した。のちにジェノバとヴェネチアの戦いに巻き込まれて捕虜となった。このときピサのルスティケロと出会い、東方見聞を語ってきかせた。ルスティケロが筆録したのが、『世界の叙述』(『東方見聞録』)である。

貫雲石(1286〜1324)
  本名は小雲石海涯。号は酸斎。貫只哥の子。ウイグルの出身。名門の生まれで、碧眼の偉丈夫であった。二十歳にして両淮万戸ダルハチとなったが、やがて弟に官を譲って上京した。姚燧に師事し、仁宗に仕えて翰林学士となった。辺戎を觧いて文徳を修めることを上書したが、容れられないうちに官を退いて江南を遊歴した。銭塘の市で人間第一快活丸なる薬の看板を掲げて買いにきた人をさとした。梁山ラクで漁父の着ていた蘆花被が欲しくなって、自分の綢の着衣と交換したという話でも有名。

馬致遠(1250?〜1324?)
  字は千里、号は東籬。大都の人。江浙行省務官にまで上った。世宗のとき、大都玉京書会に入った。雑劇十四種を作った。白樸・関漢卿・鄭光祖とならぶ元曲の四大家のひとり。『漢宮秋』、『青衫涙』。

袁桷(1266〜1327)
  字は伯長、号は清容。慶元鄞県の人。富家に生まれ、少年のころから文名が高かった。戴表元に師事した。麗沢書院山長に抜擢された。大徳初年、閻復らの推薦により翰林撰修となった。郊祀十議を進献して、かれの意見の多くが採用された。応奉翰林文字・同知制誥に上った。至治元年(1321)、侍講学士に転じ、丞相拜住に重用された。泰定初年、致仕した。死後に陳留郡公に追封された。『延祐四明志』、『澄懐集』、『清容居士集』。

モンテ・コルヴィノ(1247〜1328)
  イタリアの人。フランチェスコ会の修道士となる。1294年、教皇ニコラウス4世の命により、元に派遣されて布教につとめた。大徳十一年(1307)、大都に大司教区を設けて大司教となった。新約聖書をモンゴル語に翻訳した。

ケ文原(1259〜1329)

張養浩(1269〜1329)
  字は希孟、号は雲荘。諡は文忠。済南の人。東平の学正を初任として、監察御史・翰林直学士・礼部尚書を歴任した。関中の大飢饉の際には飢民の救恤に尽力した。死後、浜国公を追贈された。『三事忠告』、『牧民忠告』、『帰田類稿』。

范梈(1272〜1330)
  字は亨父、または徳機。清江の人。大徳十一年(1307)、大都に出て、御史中丞董士選のもとで塾師となり、推挙を受けて翰林院編修官に抜擢された。海北海南道廉訪司照磨・翰林供奉・福建閩海道知事などを歴任した。天暦二年(1329)、湖南嶺北道廉訪司経暦に任ぜられたが、親を養うため固辞した。詩文にたくみで、虞集・掲傒斯・楊載とならび称され、元代の四大家として知られる。『范徳機詩集』。

呉澄(1249〜1333)
  字は幼清、号は草廬。撫州崇仁の人。程若庸に師事し、朱子学を学んだ。咸淳六年(1270)、郷試に及第した。南宋が滅ぶと、布水谷に隠棲し諸経を研究した。大徳六年(1302)、元朝に出仕した。翰林学士中大夫知制誥同修国史にまで上った。儒学者として朱子学と陸学の調和をはかった。

胡炳文(1250〜1333)
  字は仲虎、号は雲峰。徽州靖元の人。『周易本義通釈』を編纂した。

陳櫟(1252〜1334)
  字は寿翁、号は東阜老人。徽州休寧の人。科挙を受けることを望まなかったが、受験するよう役人に迫られた。病と称して礼部に赴かず、家に閉じこもって数十年にわたって著述と講学にはげんだ。起居した堂の名を定宇といい、定宇先生と称された。『歴朝通略』、『書解折衷』、『三伝節注』、『礼記集義詳解』、『姓氏源流』、『書集伝纂疏』、『定宇集』。

程端学(1280〜1336)
  字は時叔、号は積斎。至治元年(1321)、進士に及第した。官は国子助教・翰林国史院編修官に上った。『春秋本義』を編纂した。

馬祖常(1279〜1338)
  字は伯庸。光州の人。先祖はオングート部の出身。馬潤の子。延祐年間に進士に及第した。監察御史・翰林待制・礼部尚書・御史中丞・枢密副使などを歴任した。『英宗実録』の編修に参与した。テムデルに弾劾されて罷免された。文章にたくみで、詩をよくした。『石田集』。

呉莱(1297〜1340)
  字は立夫。浦江の人。群書に広く通じ、制度沿革・陰陽律暦・兵謀術数・山川地理・族統系譜に詳しかった。深褭山中に隠居した。遊覧の暇に著述を行い、四方の学士が名を慕って訪れた。推薦により饒州路長薌書院山長に任ぜられたが、赴任しないうちに亡くなった。門人の宋濂らが私諡して淵穎先生と号した。著に『尚書標説』、『古職方録』、『孟子弟子列伝』、『春秋世変図』、『春秋伝授譜』、『楚漢正声』、『唐律刪要』、『楽府類編』、『松陽志略』、『桑海遺録』、『淵穎文集』などがある。

陳澔(1261〜1341)
  字は可大、号は雲荘。都昌の人。博学で古籍を好み、隠居して官に仕えなかった。『雲荘札記集説』。

柳貫(1270〜1342)
  字は道傳、号は烏蜀山人。浦江の人。大徳年間に江山県の教諭をつとめ、至正年間に翰林待制・国史院編修となった。朱子学を学び、経史に通じ、散文での議論や叙景詩にすぐれた。黄潽・虞集・掲傒斯らとならぶ儒林四傑のひとり。『柳待制文集』。

柯九思(1290〜1343)
  字は敬仲、号は丹丘生。台州仙居の人。文宗のとき、鑑書博士となり、書画を品評した。至順二年(1331)、弾劾されて平江に蟄居した。書画・詩文・古物の鑑別にすぐれた。清の光緒年間に武昌の柯氏が『丹丘生集』を刊行したが、他人の作が多く混入しているという。

掲傒斯(1274〜1344)
  字は曼碩。竜興富州の人。幼くして家は貧しく刻苦勉励した。延祐初年、程巨夫・盧摯の推薦により仁宗にまみえ、翰林国史院編修官となり、功臣列伝を撰した。文宗のとき、奎章閣授経郎に任ぜられ、勲戚大臣の子孫に講学した。『太平政要策』を献上して文宗に重んじられた。また趙世延・虞集らとともに『経世大典』の編修にあたった。順帝元統初年、集賢学士・翰林直学士に任ぜられ、さらに侍講学士に上った。遼・金・宋三史の編修に参与し、総裁官に任ぜられた。至正四年(1344)、『遼史』が成ると、まもなく寒疾をえて没した。黄潽・虞集・柳貫らとならぶ儒林四傑のひとり。『掲文安公全集』。

呉師道(1284〜1344)
  字は正伝。婺州蘭渓の人。至治年間に進士に及第した。高郵県丞をはじめ、寧国路録事・池州建徳県尹などを歴任した。中書左丞呂思誠や侍御史孔思立の推薦を受けて、国子助教となり、まもなく国子博士に上った。至正三年(1343)に母の喪のため郷里に帰り、翌年に奉議大夫・礼部郎中をもって致仕した。家で没した。著に『易雑説』、『書雑説』、『詩雑説』、『春秋胡伝附辨』、『戦国策校注』、『敬郷録』などがある。

朱思本(1273〜?)
  字は本初、号は貞一。臨川の人。はじめ儒学を学んだが、出家して道士となった。のち玄教大宗師となり、江南の道教を管掌した。天下を周遊して地図を作り、「輿地図」二巻に描いた。のち明の羅洪先が改編増補して「広輿図」となった。ほか『貞一斎詩文稿』。

虞集(1272〜1348)
  字は伯正、号は道園。崇仁の人。成宗のとき、大都路儒学教授・国子助教・博士に任ぜられた。泰定帝のとき、翰林直学士・国子祭酒となった。文宗のとき、奎章閣侍書学士として、『経世大典』を編纂した。黄潽・柳貫・掲傒斯らとならぶ儒林四傑のひとり。『道園学古録』、『道園類稿』。

張雨(1277〜1348)
  道名は嗣真。字は伯雨、号は句曲外史。銭塘の人。二十余歳で道士となった。詩詞書画に巧みであった。

韓山童(?〜1351)
  欒城の人。祖父の代に白蓮教の信徒を集めて河北永年に流された。白蓮教の教主を継いで、「弥勒仏の下生」「明王出世」を宣伝して、河南江淮地方に信徒を集めた。徽宗八世の孫を称して、モンゴルの中国支配に反抗する姿勢をみせた。至正十一年(1351)、劉福通とともに穎州で挙兵する計画を立て、明王に推奉されたが、捕らえられて殺された。

蘇天爵(1294〜1352)
  字は伯修、号は滋渓。真定の人。はじめ国子生となった。江南行台監察御史・監察御史・吏部尚書・参議中書省事・京畿宣撫などを歴任した。『文宗実録』、『武宗実録』の編纂に参加した。のち、湖広行省参政・江浙行省参政となった。饒州・信州の総兵となり、紅巾軍と戦い、軍中に没した。『滋渓文稿』、『劉文靖公遺事』。

黄公望(1269〜1352)
  本姓は陸、またの名は堅。字は子久、号は一峰。常熟の人。八歳のとき、黄楽の養子となった。地方の卑官を歴任して壮年にいたった。延祐二年(1315)、上官の張閭の罪に連座して入獄した。五十歳ごろ、全真教に入り、画を描きはじめた。董源・米フツらの影響を受け、山水画に優れた。また酒を好み、酒仙と呼ばれた。南宗画の祖といわれる元末の四大家のひとり。『大痴道人集』。

呉鎮(1280〜1354)
  字は仲圭、号は梅花道人。嘉興の人。学問を身につけたが、官途につかなかった。易学を学び、山水画をよくし、詩書にも巧みであった。とくに墨竹画をよく描いた。貧窮したが、画を売ろうとせず、孤高を貫いた。南宗画を確立した。元末の四大家のひとり。代表作は「漁夫図」、「嘉禾八景図」。『梅花道人遺墨』。

脱脱(?〜1355)
  字は大用。蔑里乞氏の出身。伯顔の甥で、養子となった。十五歳のとき、皇太子に仕えた。順帝の元統年間に、同知枢密院事に上った。至元六年(1340)、伯顔と皇太后が密謀を巡らして、順帝を廃そうとしたとき、それを密告した。順帝は、狩猟に乗じて伯顔を廃した。翌年、養父の官を継いで中書右丞相に上った。伯顔の旧制を廃して、諸王の冤罪を晴らし、科挙を回復した。『遼史』、『金史』、『宋史』の編纂を主事した。至正四年(1344)、病を理由に位を辞した。九年(1349)、相に復した。至正交鈔を発行し、また賈魯を起用して黄河の堤防を改修させた。十二年(1352)、軍を率いて徐州を囲み、芝麻李の叛乱を鎮圧した。十四年(1354)、張士誠の乱を鎮圧するべく出兵したが功を立てられず、哈麻に讒言を受けて官爵を削られ、淮南に、ついで雲南に遷される途中に毒殺された。

郭子興(?〜1355)
  濠州定遠の人。至正十二年(1352)春、孫徳崖らとともに叛乱を起こし、濠州に拠り、元帥を称した。九月、徐州紅巾の彭早住・趙君用らが敗れて濠州に逃れてきた。郭子興は彭・趙と合わず、彭・趙らに掣肘を受けたが、部将の朱元璋の力で脱した。十四年(1354)、濮陽にうつり、王と称そうしたが、朱元璋の反対でとりやめた。翌年、和州で病没した。明初に濮陽王に追封された。

鄭玉(?〜1357)
  字は子美、号は師山。歙県の人。六経を研究し、とくに春秋をきわめた。郷里で講学して門人が多かった。『周易纂注』、『春秋経傳闕疑』。

マリニョーリ(1290?〜1357)
  イタリアの人。フランチェスコ会の修道士となる。至正二年(1342)、大都にいたり順帝に謁見した。のちに神聖ローマ皇帝カール4世に仕え、『ベーメン年代記』の編纂に従事した。

欧陽玄(1273〜1358)
  字は原功、号は圭斎。淵陽の人。延祐年間に科挙に及第した。岳州路平江州同知に任ぜられた。のちに翰林待制・国史院編修官に転じた。天暦二年(1329)、芸文少監となり、『経世大典』の編纂に参与した。芸文太監・検校書籍事に上った。元統元年(1333)、翰林直学士となり、四朝実録の編修にあたった。国子祭酒を兼ね、まもなく侍講学士となった。至正三年(1343)、翰林学士に任ぜられた。遼・金・宋三史の編修に参与し、総裁官となり、添削にあたった。官は翰林学士承旨に上った。『圭斎集』。

朱震亨(1281〜1358)
  字は彦修、号は丹渓。義烏の人。はじめ許謙に師事し、理学を学んだ。許謙が不治の病を患ったため、医学を学ぶ決意をして、羅知悌の門をたたいた。諸家の医術に通じ、新しい医術を生み出した。『格致余論』。

サドゥラ(1308?〜?)
  薩都刺(薩都拉)。字は天錫、号は直斎。雁門の人。答失蛮(モンゴル系イスラム教徒)の出身といわれる。泰定四年(1327)、進士に及第した。淮西江北道廉訪司経歴など地方の属吏を転々とした。晩年は杭州に住み、山水に遊歴した。八十余歳で没した。詞曲をよくしたが、残存するものは少ない。『雁門集』。

王ベン(1287〜1359)
  字は元章、号は煮石山農。浙江諸曁の人。代表作は、「墨梅図」、「墨竹図」。『竹斎詩集』。

徐寿輝(?〜1360)
  またの名を真一、真逸。羅田の人。はじめ綿布の行商で生計を立てた。至正十一年(1351)、劉福通の紅巾軍蜂起と呼応して蘄州で起兵した。皇帝に推されて立ち、国号を天完とし、治平と建元した。鄒普勝を太師とした。「富むものをくじき、貧しいものを益する」ことを宣伝して、その勢力は湖広・江西・江浙に及び、その衆は百万と号した。治平三年(1353)、蘄水を元軍に攻め落とされ、一身で逃亡した。六年(1356)、倪文俊に迎えられて漢陽にいたった。太平と改元した。翌年、倪文俊を殺し、陳友諒に擁された。三年(1359)、天定と改元し、陳友諒に従って江州に都を遷した。翌年、陳友諒の手により殺された。

チャガンテムル(?〜1362)
  察罕帖木兒。字は廷瑞。ナイマンの出身。至正十二年(1352)、李思斉とともに羅山の紅巾軍を破り、汝寧府達魯花赤に任ぜられた。河北河南でしばしば紅巾軍を撃破し、功により河北行枢密院事に累進した。十七年(1357)、陝西に援軍におもむき、鳳翔で紅巾軍を破り、関中を平らげた。翌年、軍を率いて京師に入り、兵を晋南・太行の隘地に分屯させた。陝西行省右丞・陝西行台侍御史・同知河南行枢密院事となった。十九年(1359)、汴梁の大宋紅巾軍を攻め、軍を返してボロテムルと山西・河北で争った。二十一年(1361)、山東の紅巾軍の内紛に乗じて、兵を五路に分けて進み、田豊・王士誠らを降した。翌年六月、益都包囲中に田豊・王士誠に刺殺された。

陳友諒(1320〜1363)
  沔陽の人。漁師の家の子。はじめ県吏となった。徐寿輝の叛乱に参加して、丞相倪文俊のもとで簿書掾となった。のちに功を重ねて元帥に上った。至正十七年(1357)、徐寿輝の殺害を謀ったとして、倪文俊を殺し、その軍を奪った。宣慰使を自称し、まもなく平章政事と改称して、天完政権の兵権を握った。元と交戦して江西・安徽・福建の各地で勝利した。趙普勝をはじめとして有力な同志を次々と謀殺し、江州に遷って漢王を自称した。二十年(1360)には、采石で徐寿輝を殺害して、自ら帝を称した。国号は漢。朱元璋と数度にわたって争った。二十一年(1361)、江州が朱元璋軍に破られたため、退いて武昌に都した。二十三年(1363)、鄱陽湖の戦いに敗れて戦死した。

朴不花(?〜1364)
  高麗の人。順帝皇后奇氏と同郷で、宦官となって入侍した。資正院使となり、皇后の財産を管理した。至正二十年(1360)、丞相搠思監・宣政院使脱歓らと結んで、朝政を牛耳った。二十三年(1363)、集賢大学士・崇正院使に任ぜられた。ココテムルらとともにボロテムルの謀反を誣告した。ボロテムルが兵を率いて京師に迫ると、かれは捕縛されて軍の前に送られ、処刑された。

ボロテムル(?〜1365)
  孛羅帖木兒。答失八都魯の子。父が亡くなると、代わって統軍となった。至正十八年(1358)、河南行省平章政事となり、河南・山東の叛乱軍をしばしば破った。翌年、大同に駐屯し、チャガンテムル・ココテムル父子と諍いを起こした。ときに皇太子アユシリダラに専横をうらまれ、順帝に讒言されたため、二十四年(1364)正月、兵権を解かれた。かれは命をこばんで京師を攻めた。順帝はかれの職を復してなだめた。軍を大同に帰すと、皇太子がココテムルの軍を派遣して大同を討たせた。七月、再び軍を率いて京師を攻め、順帝と会見して中書左丞相の位を得た。八月、右丞相に進んだ。翌年七月、順帝の刺客により刺殺された。

韓林児(?〜1366)
  欒城の人。韓山童の子。至正十一年(1351)、父が捕らえられた後、母とともに武安に逃れた。のちに碭山夾河に隠れ住んだ。十五年(1355)、劉福通により亳州で擁立されて、小明王と称し、国号を大宋とし、竜鳳と建元した。同年末に亳州を失い、安豊にうつった。十八年(1358)五月、汴梁に都した。八月、また安豊にうつった。二十三年(1363)、劉福通が張士誠軍に殺されると、朱元璋に迎えられた。二十六年(1366)、朱元璋の部将廖永忠によって瓜洲の江中で溺死させられた。

明玉珍(1331〜1366)
  随州随県の人。地主の出身。至正十一年(1351)、紅巾の乱に対して、郷里で千余人を集めて青山に屯し、自衛をはかった。十三年(1353)、徐寿輝に降り、大元帥に任ぜられた。十七年(1357)、四川に兵を進め、重慶を占領し、隴蜀右丞に任ぜられた。翌年、嘉定に勝利し、四川全域を掌握。二十年(1360)に陳友諒が徐寿輝を殺して帝を称すると、自立して隴蜀王を称した。翌年には自ら帝を称し、国号を大夏とした。翌年には兵を雲南に進め、元の梁王を破った。二十六年(1366)、病没した。子の明昇が帝位を継いだが、洪武四年(1371)に明に降った。

張士誠(1321〜1367)
  泰州白駒場の人。はじめ塩商であり、同業の人心をえた。しばしば富家の軽侮に遭ったという。至正十三年(1353)、弟の士徳・士信らとともに塩商の人士を率いて起兵し、富家を襲った。万余の衆を集めて、泰州・高郵・興化など近隣を攻め陥した。翌年、誠王と称し、国号を周とした。脱脱の発した元の大軍に高郵を包囲されたが、順帝が脱脱の削ろうと図ったため元軍は乱れ、これに乗じて張士誠軍は大勝を博した。平江(蘇州)・常州などを攻め取り、江南で勢力を伸ばした。平江に本拠を移し官制を整えたが、紅巾軍と対立。朱元璋の軍に連敗を喫した。十七年(1357)元に降り、太尉を賜った。二十三年(1363)、部将の呂珍を遣わして、紅巾軍の劉福通を殺した。ここに呉王を自称した。二十七年(1367)、朱元璋の軍に平江を攻め破られ、捕らえられて自殺した。

饒介(?〜1367)
  字は介之、号は酔翁。臨川の人。詩をよくし書にたくみであった。『右丞集』。

周伯g(1298〜1369)
  字は伯温、号は玉雪坡真逸。饒州の人。博学で文章がうまく、とくに篆刻と書にすぐれた。順帝に命じられて「宣文閣宝」を篆刻した。『六書正訛』、『説文字原』。

楊維禎(1296〜1370)
  字は廉夫、号は鉄崖、または東維子。山陰の人。泰定四年(1327)、進士に及第した。しかし官界と合わず、江西儒学提挙の職を最後に辞任した。その後、元末の乱を避けて富春山に住み、さらに銭塘に遷った。張士誠の招聘を拒み、明朝になっても仕えなかった。「鉄崖体」と称される古楽府の詩を作り、一世を風靡した。また書にもすぐれた。『東維集』。

倪瓚(1301〜1374)
  字は元鎮、号は雲林。無錫の人。富豪の子として生まれ、道教を信奉し、静舎にこもって詩書画の創作に打ちこんだ。荊浩らの画風をいれて独自の画境をひらいた。「六君子」、「江岸望山」、「雅宜山図」などの作品を描いた。潔癖性で世事に疎かったため、倪迂とよばれた。張士誠の招聘を拒み続けたという。元末の四大家のひとり。『倪雲林先生詩集』。

方国珍(1319〜1374)
  名は珍、国珍は字。黄岩の人。代々塩商を生業とした。至正八年(1348)、数千人を率いて海に入り、浙東沿海で官府の船を襲った。幾度か元朝に帰順しては離反し、叛服常ならなかった。十六年(1356)以後、元の海道運糧万戸・江浙行省参知政事・平章政事・左丞相などの官を歴任した。温・台・慶元三路六州十一県に拠った。二十七年(1367)、朱元璋に降った。明初に広西行中書省左丞相銜に任ぜられた。応天で病没した。

李思斉(1323〜1374)
  字は世賢。羅山の人。至正十二年(1352)、羅山の紅巾軍を破り、汝寧知府に任ぜられた。十八年(1358)、チャガンテムルらとともに大宋の李喜喜を破った。二十一年(1361)、明玉珍を破った。大宋の李武・崔徳を降した。二十五年(1365)、許国公に封ぜられた。二十七年(1367)、張良弼らとともにココテムルの兵をはばんだ。翌年、明の北伐を受けて、潼関で戦ったが敗れ、鳳翔に逃れた。洪武二年(1369)、鳳翔で明軍と戦って敗れ、臨洮に逃れた。明兵が臨洮を囲むと降伏した。のちに、ココテムルの招諭に向かったが、拒絶されて肘を斬られ、家で没した。

ココテムル(?〜1375)
  拡廓帖木児。もとの名は王保保。沈丘の人。チャガンテムルの甥で、養子となった。チャガンテムルが殺されると、その軍を引き継いだ。養父を殺した田豊・王士誠らを討ち、ボロテムルと山西・河北をめぐって争った。至正二十五年(1365)、皇太子を擁してボロテムルを討ち、入京して左丞相に上り、河南王に封ぜられて、元朝の兵権を握った。関中に進攻して李思斉の軍と戦った。のちに徐達率いる明軍の北伐にあい、二十八年(1368)に大都が陥落すると、甘肅に走った。洪武三年(1370)、順帝が窮死すると、応昌で昭宗(アユシリダラ)を擁立した。沈児峪で明軍に敗れ、応昌が陥落したためカラコルムに逃げた。五年(1372)、明軍が遠征してくると、これを撃退して北元王朝を安定させた。のち哈剌那海で病死した。
↓次の時代=明,北元

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