[元(1271〜1368)]
モンゴル帝国,元(世祖期,成宗期以後),北元
世祖(フビライ)成宗(テムル)武宗(カイシャン)仁宗(アユルバルワダ)英宗(シディバラ)泰定帝(イスン・テムル)天順帝(アリキバ)明宗(コシラ)文宗(トク・テムル)寧宗(イリンジバル)順帝(トゴン・テムル)
フビライ(1215〜1294)
  忽必烈,元の世祖⇒
李璮(?〜1262)
  字は松寿。益都の人。李全の子。金朝の漢人豪族の子として生まれた。正大三年(1226)、父とともにモンゴルに降った。1230年、揚州を攻めて父が敗死すると、益都行省となり、益都の支配権を受け継いだ。モンケ・ハーンの命により山東方面の淮河以北の地域を占領した。中統元年(1260)、江淮大都督となった。三年(1262)アリクブカの乱に乗じて南宋と結び、モンゴルに対して叛乱した。史天沢率いるモンゴル軍の討伐を受け、済南城に籠もったが、敗れて捕らえられ処刑された。漢人四大世侯のひとり。

粘合南合(?〜1263)
  女真の出身。粘合重山の子。モンゴルに仕えて、1238年に行軍前中書省事に任ぜられた。察罕が寿春を攻めたとき、苦戦したため城民を皆殺しにして報復しようとした。粘合南合はこれに反対して寿春の民を救った。中統元年(1260)、二たび宣撫使に転じた。翌年、中書右丞・中興等路行中書省事となった。三年(1262)、秦蜀五路四川行中書省事に転じた。翌年、病没すると、魏国公に追封され、宣昭と諡された。

楊果(1197〜1271)
  字は正卿、号は西庵。祁州蒲陰の人。金の末年、許昌で句読の師をしながら勉学し、正大五年(1228)に進士に及第した。金朝のもとでは地方の県令を歴任した。モンゴルが金を滅ぼすと、史天沢のもとで参議となり、法制の制定に参画した。北京宣撫使を経て、中統二年(1261)には参知政事に上った。『西庵集』。

劉秉忠(1216〜1274)
  字は仲晦、号は臧春。瑞州の人。十七歳のとき、邢台節度使府令史をつとめた。武安山に隠れて僧となり、子聡と号して海雲に師事した。のちにフビライに召し出されて仕えた。1253年、フビライの大理遠征に従った。1256年、開平の築城を命じられた。1260年、フビライの即位にあたって、元号を立て、中書省・宣撫司を開くよう進言した。至元元年(1264)、領中書省事に上った。八年(1271)、国号を大元とし、中都を大都と改めるよう奏上した。十一年(1274)、上都で没した。儒・仏・道の三教に通じた黒衣の宰相として知られた。『臧春集』。

イスマイル(?〜1274)
  亦思馬因。西域で生まれた。至元八年(1271)、アラー・ウッディーンとともに大都に召され、新砲製造にあたった。十年(1273)、新砲(回回砲)が樊城・襄陽攻略のために使用された。功により、回回砲手総管に任ぜられた。

史天沢(1202〜1275)
  字は潤和。燕京永清の人。父の代にモンゴルに降った。1224年、兄の史天倪から河北西路兵馬都元帥職を継ぎ、真定を恢復し、金軍を破った。オゴタイが即位すると、五路万戸長となった。対金戦に参加し、汴州を囲み、蔡州を破るのに功績を挙げた。モンケのとき、四川征服に従軍した。中統二年(1261)、中書右丞相に上った。翌年、済南の李璮の乱を平定した。至元四年(1267)、中書左丞相となった。十年(1273)、アジュとともに南宋を攻め、樊城を落とし、襄陽に降伏を迫った。翌年の伐宋戦の中途で病没した。

劉整(1213〜1275)
  字は武仲。ケ州穰城の人。騎射をよくした。金の乱を避けて南宋に亡命し、孟珙の下で驍将となった。潼川安撫使・知瀘州軍州事に累進した。景定二年(1261)、兪興に貶められて粛清されそうになったため、モンゴルに降った。夔府行省兼安撫使に任ぜられた。兪興を攻め破り、南京路宣撫使に転じた。至元四年(1267)、アジュとともに軍を率いて襄陽を囲んだ。十年(1273)、樊城を落とし、襄陽の呂文煥を降伏させた。行淮西枢密院事となった。十二年(1275)、兵を率いて淮南に出撃したが、渡江を果たせなかった。官は行中書左丞を最後に亡くなった。

郝経(1223〜1275)
  字は伯常。沢州陵川の人。金が滅ぶと河北にうつった。家は貧しかったが学問を好んだ。張柔や賈輔延のもとで賓客となり、諸子に教授し、二家の蔵書を読破した。モンケのとき、フビライの王府に入り、数十事を上書して信任を受けた。フビライによる鄂州攻撃に従い、モンケが崩ずると、軍を北還して大ハーン位を奪取するよう建議した。中統元年(1260)、翰林侍読学士として宋に使いし、フビライの即位を告げ、和平を協議しようとした。しかし、鄂州戦の真相を隠蔽したい賈似道により真州に抑留された。至元十二年(1275)、ようやく帰国がかなったが、まもなく病没した。諡は文忠。『続後漢書』、『陵川文集』。

郭侃(?〜1277)
  字は仲和。華州ケ県の人。郭宝玉の孫にあたる。幼くして史天沢の家に養われた。1232年、金に対する遠征に従って、戦功を挙げた。1252年、兵杖をカラコルムに送った。翌年、フラグの西方遠征に従った。1256年、ペルシアのイスマイル派を攻め、乞都卜城を火砲を用いて攻略した。のちアラムート城塞を破った。1258年、バクダードを攻囲して、砲と火器を用いて東城・西城を陥落させ、アッバース朝のカリフを降伏させた。シリアへ侵入して十字軍と戦った。その用兵の見事さから「神人」と称された。1259年、憲宗モンケが没すると中国に帰還し、鄭州で屯田した。中統二年(1261)、江漢大都督理問官に任ぜられた。至元七年(1270)、万戸長に抜擢され、襄陽を攻めた。元が江南を制圧すると、知寧海州に任ぜられた。

李冶(1192〜1279)
  字は仁卿、号は敬斎。真定奕城の人。正大年間に進士に及第した。はじめ金に仕えて知均州事となったが、モンゴルの南下のため、隠棲して学問に励んだ。経学・数学にすぐれた。フビライから仕官を求められたが、老病を理由に固辞した。『敬斎文集』、『測円海鏡』。

パスパ(1235〜1280)
  八思巴、または抜合思巴。本名はロテ・ギャンツェン(羅追堅参)。チベットのサカの人。ソナム・ギャンツェンの子。七歳のとき、誦経して数十万言を唱え、大意に通じ、聖童と称された。伯父サバンに従って出家受戒してラマ僧となった。1251年、サカ派の教主となる。1253年、六盤山でフビライに謁見し、親侍した。1258年、『老子化胡経』の偽なるを弁じて、道教を痛罵したという。中統元年(1260)、フビライの即位とともにモンゴルの国師となって尊崇を受けた。至元元年(1264)、領総制院事となり、チベットおよび旧西夏領の行政権とモンゴル全体の仏教行政権をえた。五年(1268)、モンゴルの国字としてパスパ文字を制定した。翌年、「帝師」「大宝法王」と号した。十一年(1274)、チベットに帰って教学研究に打ち込み、またインド・ネパール様式工芸の摂取に尽力した。『彰所知論』。

姚枢(1203〜1280)
  字は公茂。営州柳城の人。オゴタイに投じ、南征に従い、楊惟中とともに儒・道・釈・医・卜を研究した。とくに程朱の学に通じた。フビライに召されて王道を説き、時弊三十条を述べてこれを救うよう上書した。また憲宗モンケに請うて河南に屯田を興した。フビライの大理遠征に従い、みだりに人を殺さないよう進言した。フビライが即位すると、東平路宣撫使に任ぜられた。中統二年(1261)、大司農となった。四年(1263)、中書左丞。至元十年(1273)、昭文館文学士となり、儀礼を定めた。官は翰林学士承旨に終わった。

廉希憲(1231〜1280)
  字は善甫。ウイグルの出身。父の代にモンゴルに帰順した。経史に通じ、廉孟子と称された。フビライの王府に入り、雲南遠征に従軍した。憲宗四年(1254)、京兆宣撫使に任ぜられ、治績を挙げた。九年(1259)、フビライの参謀として鄂州攻略に参加した。憲宗モンケの死後、「先発すれば人を制し、後発すれば人に制せられます。天命は辞さず、人情には違わないことです。事機をひとたび失えば、万巧をもってもつぐなうことができません」とフビライに進言して、権力奪取を勧めた。かれの勧めにしたがってフビライが北に軍を返すと、アリブクカとの帝位争いに優位を占め、ついに帝位はフビライのものとなった。廉希憲は関中に駐屯し、京兆・四川道宣撫使に任ぜられ、良将を重用して、関隴地方を平定した。まもなく平章政事に上った。中統三年(1262)、中書平章政事に任ぜられた。

張弘範(1238〜1280)
  字は仲疇。涿州定興の人。張柔の九男。父の代に金からモンゴルに降った。中統三年(1262)、行軍総管に任ぜられ、李璮の討伐に従った。至元六年(1269)、アジュに従って襄樊を囲んだ。十一年(1274)、伯顔に従って南宋を討ち、先鋒を任され、臨安に迫った。十五年(1278)、蒙古漢軍都元帥として南征し、宋の丞相文天祥を五坡嶺で捕らえた。翌年、張世傑を破り、陸秀夫が宋帝を抱えて海に身を投げて死に、宋が滅んだ。崖山の石壁の上にその功績を記録した。漢人四大世侯のひとり。

許衡(1209〜1281)
  字は仲平、号は魯斎。懐慶河内の人。金末の混乱期に成長し、勉学に励んだ。のちに姚枢に師事して、程朱の学に傾倒した。フビライに仕えて、至元七年(1270)には中書左丞に上った。翌年には集賢大学士・国子祭酒となり、朱子学にもとづく教育につとめた。また授時改暦の事業に参加した。『魯斎全書』。

王恂(1235〜1281)
  字は敬甫。中山唐県の人。若いとき劉秉忠に師事し、とくに算術にすぐれた。1253年、劉秉忠に推挙されてフビライのチンキムの輔導にあたった。中統二年(1261)、太子賛善に任ぜられた。至元十三年(1276)、郭守敬や楊恭懿らとともに大明暦の改修に参与し、天体観測にあたった。独特の球面三角学を編み出した。十五年(1278)、太史令に任ぜられた。十七年(1280)、「授時暦」を完成させ、天下に施行された。翌年、病没した。

アジュ(1227〜1281)
  阿朮。モンゴルのウリャンハイ部の出身。ウリャンハダイの子。モンケのとき、父に従って大理・交趾・南宋を攻めた。フビライが即位すると、宿衛をつかさどった。中統三年(1262)、征南都元帥となり、済南を囲んで李壇の乱を鎮圧した。至元四年(1267)以降、連年にわたって南宋の襄陽を攻め、城塁を築いて宋の水上の援軍を遮断した。九年(1272)、樊城を落とした。十一年(1274)正月、大挙して宋を攻めるよう奏請した。荊湖行省平章政事に進んだ。冬、バヤンとともに鄂州を取り、長江に沿って水陸を東に下った。翌年二月、建康を落とした。四月、揚州を囲んだ。七月、宋の張世傑らの水軍を鎮江焦山で破った。行省左丞相に上った。十三年(1276)、淮西の諸城を次々と落とした。七月、揚州を降し、宋の淮東制置使李庭芝や都統制姜才を泰州で捕らえた。十四年(1277)、北伐してシリギの乱を討った。さらに兵を率いて西進したが、ビシュバリクで病没した。

アフマド(?〜1282)
  阿合馬。ウイグルの出身。ホラズムのシル河畔に生まれた。コンギラト部の属民となったが、察必皇后の侍臣として宮廷に入り、フビライの目に止まった。中統二年(1261)、上都同知となる。翌年、中書左右部を領し、諸路都転運使を兼ねた。諸雑務や塩鉄の専売に治績をあげた。至元元年(1264)、中書省平章政事に任ぜられた。十八年にわたって在任し、税制を整理し、戸口の把握につとめ、商業の発展に寄与して、元朝の財政面を支えた。色目人を重用して党派を結んだため、憎まれることも多かった。十九年(1282)、上都で謀殺された。

廬世栄(?〜1285)
  サンガの推挙によりフビライに仕えた。通貨の整理・税制改革など、多くの財政改革を推進したが、急進的にすぎて失脚した。

アリハイヤ(1227〜1286)
  阿里海牙。ウイグルの出身。はじめフビライの宿衛をつとめた。中統三年(1262)、中書省郎中となった。至元元年(1264)、参議中書省事に進んだ。五年(1268)、アジュ・劉整に従って南宋の襄樊を囲んだ。十年(1273)、七門のマンジャニーク(回回砲)をもって樊城の城壁を崩し、樊城の陥落に貢献した。呂文煥を招撫し、降伏させた。また十一年(1274)、長江を渡ったのち、鄂・漢に鎮し、兵を分けて南下して、荊南・淮西・江西・広西・海南の合わせて五十八州を占拠した。二十年(1283)、荊湖占城行省平章政事となった。二十三年(1286)、湖広行省左丞相となった。死後、楚国公・江陵王に追封された。

呂文煥(?〜?)
  寿州安豊の人。呂文徳の弟にあたる。はじめ宋の趙葵に従って驍将となった。咸淳三年(1267)、知襄陽府・京西安撫副使となった。モンゴルのアジュ・劉整の攻囲に対して防戦し、襄陽を六年にわたって堅守した。九年(1273)、元のアリハイヤの招撫を受け、襄陽をもって降伏した。元が鄂州を攻撃すると、先鋒となり、侍衛親軍都指揮使・襄漢大都督に任ぜられた。至元十一年(1274)、参知政事に任ぜられ、荊湖の行省を管轄し、長江沿いの諸州を攻め破り、あるいは降伏させた。南宋の謝太后が講和を求めたが聞き入れず、バヤンの指揮の下で軍を東進させた。十三年(1276)、バヤンが宋の恭帝の降伏を受け入れると、呂文煥は臨安に入って城内の軍民を慰撫した。二十三年(1286)、江淮行省右丞を最後に官を退いた。のち家で亡くなった。

曾先之(?〜?)
  字は従野。廬陵の人。宋に仕えて地方官を歴任したが、宋の滅亡後は官を退いて出仕しなかった。『十八史略』。

サンガ(?〜1291)
  桑哥。ウイグルの出身。諸国の言語に通じ、西蕃訳史となった。至元年間に総制院使となった。至元二十四年(1287)、尚書省平章政事に任ぜられた。また右丞相・宣政院使に遷った。通貨の切り下げや塩・茶の増税を行った。二十八年(1291)、弾劾を受けて獄に下り、処刑された。

劉因(1249〜1293)
  字は夢吉、号は静修。保定容城の人。朱熹の学統を継いで、理は気の先に存在することを論じた。許衡とともに「元北方両大儒」として知られた。至元十九年(1282)、フビライに召されて、承徳郎・右賛善大夫となった。まもなく官を辞して故郷に隠棲した。二十八年(1291)、集賢学士・嘉議大夫に任ぜられたが、病と称して固辞した。『四書精要』、『静修先生文集』。

劉辰翁(1231〜1294)
  字は会孟、号は須渓。廬陵の人。南宋の景定三年(1262)、廷試で理宗の賞讃を受け、濂渓書院山長をつとめた。江万里・陳宜中の推薦で太学博士に任ぜられたが、固辞した。元代に入ると官につかなかった。詩詞をよくし、杜甫・王維・李賀・陸游らの作品を評点した。『須渓集』。

バヤン(1236〜1295)
  伯顔。モンゴルのバリン(八憐)部の出身。西域で成人し、フラグの西征に参加した。至元元年(1264)、フラグの使者としてフビライのもとに派遣され、その目にとまって侍臣として留められた。二年(1265)、中書左丞相に上り、難事の決裁をよくし、真の宰輔と称せられた。十一年(1274)、右軍を率いて襄陽より進発し、漢水を下り、長江に沿って東下した。翌年には、賈似道率いる宋軍を蕪湖に破り、建康を下し、行省右丞相に上った。三路に分かれて臨安に迫り、十三年(1276)には南宋の恭帝・謝太后の降伏を受け入れた。開府儀同三司検校大司徒に上った。十四年(1277)、兵を北に転じてシリギやトクテムルらの叛乱軍をオルコン河畔で破った。ハイドゥ征討の軍司令官となり、ビシュバリクに駐屯した。さしもの名将も二十二年(1285)に敗れてカラコルムに退いた。二十六年(1289)、知和林枢密院事に任ぜられた。ハイドゥやナヤンやメリクテムルらの軍と長年交戦したが、はかばかしい戦果を挙げられず、ハイドゥとの内通も噂されて、軍職を免じられた。のち中書省平章政事となった。三十一年(1294)正月、フビライが崩ずると、庶長孫カマラが帝位を望んだが、これを一喝してして退け、皇太孫テムル(成宗)を擁立した。同年十二月、没した。死後、淮安王に追封された。

趙孟堅(1199〜1295)
  字は子固、号は彝斎。海塩の人。宝慶三年(1227)、進士に及第した。景定初年、翰林学士に上った。南宋が滅ぶと秀州に隠棲した。詩文や書画をよくし、名跡を蔵した。『彝斎文編』。

謝コウ(1249〜1295)
  字は皐羽、号は晞髪子。南宋滅亡の際、文天祥の軍に参加して、元の南下に抵抗した。宋の滅亡後は、野に潜行した。『晞髪集』。

王応麟(1223〜1296)
  字は伯厚、号は深寧。慶元の人。淳祐年間に進士に及第した。宝祐四年(1256)、博学宏詞科に及第した。太常寺主簿・礼部尚書・給事中などを歴任した。しばしば直言して憎まれ、丁大全・賈似道・留夢言らによってたびたび左遷された。真情はときの朝廷に容れられず、辞職して郷里に帰った。南宋が滅亡すると隠棲して官に仕えず、著述に専念した。学問は呂東莱に私淑し、「天下の趨勢を決定するのは人事であって鬼神ではない」、「民心の得失、これ興亡の大機なり」と述べた。また天文・地理・経史百家の研究と考証に秀で、のちの清朝考証学の先駆となった。『困学紀聞』、『玉海』、『論語孟子考異』、『漢制考』、『通鑑地理通釈』。
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