[戦国(前481/前453/前403〜前221)]
⇒西周,東周,春秋,戦国,魯,斉,晋,秦,楚,宋,衛,陳,蔡,曹,鄭,燕,呉,越,趙,魏,韓
魏の文侯(?〜前396)
本名は魏斯。または魏都。在位前445〜前396。魏桓子(魏駒)の子。子夏(卜商)に師事し、段干木に礼をつくし、田子方を友とした。前後して魏成子・翟璜・李悝を相とした。十七年(前408)、楽羊に命じて中山国を攻めさせ、滅ぼした。呉起を登用して西河太守とし、西門豹を鄴令とした。二十二年(前403)、周の威烈王に諸侯に任ぜられた。かれの時代、魏は大いに治まり、政治改革は進み、国力は増強した。戦国初期の魏の強盛を築いた。
呉起(前440〜前381)
呉子と称される。衛の人。曾子に学んだが、母の喪に服さなかったので、破門された。若いころ、猟官のために諸国をめぐり、財産を使い果たした。最初に魯に仕えた。斉が魯を攻撃したとき、魯国は呉起を大将に任用しようとしたが、彼の妻が斉の人であったため、疑惑をもたれた。呉起は妻を殺して疑いを晴らし、大将として魯軍を率いて斉軍を破った。のちに魯の君主に疑われて去り、魏の文侯のもとにいたって、将軍として任用された。士卒と起居をともにして人望を集め、用兵も巧みであった。西河の太守となり、秦・韓との国境の防御にあたった。彼のいる間、列国は魏に手出しができなかった。文侯が没し、武侯が跡を継いだが、公叔の計によって呉起は武侯の信頼を失ったため、辞職して魏を去った。楚にいたって、悼王のもとで宰相に任ぜられた。楚の官制を改革し、軍の強大化を図ったが、門閥と衝突して憎まれた。南で百越の諸部族を平定し、北で陳・蔡を併合、趙・魏・韓を撃退し、西で秦を討った。悼王が没すると、門閥の人々が乱を起こして、呉起を襲った。呉起は逃亡して王の遺体のところへ行き、遺体にとりすがった。矢の雨を放たれて、彼は殺され、矢の何本かが王の遺体にも突き立った。悼王の葬儀がすむと、呉起を射て王の遺体を傷つけた者たちは、全て処刑された。『呉子』。
墨子(?〜?)
本名は墨翟。魯の人。宋に仕えて大夫となった。防御の戦術に長けており、大国の小国に対する侵略に反対した。楚の公輸般が雲梯を作って、宋を攻めようとしたとき、楚に赴いて盤上の仮説の戦闘で公輸般の攻撃をことごとく撃退し、楚王を説いて攻撃を断念させたという。兼愛・非攻を唱え、節用・非楽をむねとした。その弟子たちとともに墨家集団を形成し、戦国時代の思想界に儒家とならぶほどの影響を与えたが、あまりに禁欲的な戒律を持つために秦・漢以降衰えた。『墨子』。
列禦寇(?〜?)
列子と称される。鄭の人。宿命説と即身絶対の説を唱えた。『列子』。
楊朱(?〜?)
楊子と称される。字は子居。魏の人。宿命説を説き、厭世的な快楽主義・為我主義を唱えた。
許行(?〜?)
許子とも称される。楚の人。のちに滕に移住した。農家に属する思想家。墨家の影響を受け、神農を祖神とあおぎ、君民平等に農耕し、物価を斉一にする説を説いた。また孟子と論争した。門人とともに自給自足の農耕生活を送ったという。
李悝(?〜?)
子夏に師事した。魏の文侯に仕えて、中山太守となった。開拓事業を推進し、また豊不作の年ごとに穀物の在庫を調整して、農作物の価格の安定をはかった。刑法を整理して『法経』を作った。儒家に属する李克と同一人物ともいわれる。
商鞅(?〜前338)
姓は公孫、名は鞅。衛鞅、商君、商子とも呼ばれた。衛の人。若いころ、刑名の学問を好み、魏の宰相・公叔座に仕えて、その中庶子をつとめた。公叔の病が重くなると、公叔は魏の恵王に公孫鞅を宰相にするよう推薦した。恵王は鞅を用いようとしなかった。公叔の死後、秦の孝公のもとに赴き、三度にわたって面会した。初めは帝道を説き、次に王道を説いたが、孝公は興味を示さなかった。最後に覇道について話すと孝公は興味を示した。孝公は鞅を登用し、左庶長に任じて、改革・変法に当たらせた。五戸を一保として互いに監視・連座させ、刑罰の軽重を決め、信賞必罰を明らかにし、爵位・階級をさだめた。秦の太子が法を犯したとき、その傅の公子虔の鼻を削ぎ、師の公孫賈に黥して、法の厳格な適用を示した。のちに大良造に任ぜられて、軍を率いて魏の安邑を包囲し降した。咸陽に冀闕・宮殿を造営して、雍より遷都させた。県制を定め、度量衡を統一した。魏が斉に馬陵で敗れた翌年(前340)、再び魏を討ち、黄河の西の土地を割譲させた。鞅は列侯とされ、於・商の地に封じられて、秦の宰相となった。秦の孝公が没し、太子(恵王)が立つと、公子虔らが商鞅の謀反を訴えた。鞅は逃亡し、宿に泊まろうとしたが、商君の定めた法で、手形のないものは泊められないと拒否された。国を出て魏に行くと捕らえられて秦に護送された。途中に逃げて領地で兵を起こしたが、敗れて再び捕らえられ、車裂の刑を受けて死んだ。一族もみな連座して処刑された。
申不害(?〜前337)
申子とも称される。京の人。若いころ、鄭の下級官吏であった。刑名論を唱え、現実の政治に実践しようとした。韓の昭侯のもとに行き、任用されて宰相となった。国内の政教をひきしめ、兵を強くし、国外の諸侯をあしらった。彼の政権のもとで韓の国内は治まり、諸侯は韓を攻めようとしなくなった。『申子』。
孫臏(?〜?)
名は不詳。臏は号。斉の人。春秋の呉に仕えた孫武(孫子)の子孫で、やはり孫子と称される。孫武と区別するために斉孫子ともいう。龐涓とともに鬼谷子に兵法を学んだ。孫臏と龐涓は、出世したらお互いを引き立てる約束を交わしていた。後に、龐涓は魏に仕えて、恵王のもとで将軍となった。龐涓は孫臏を呼び寄せたが、孫臏のほうが自分より能力が上回っていることが不安になり、孫臏を冤罪に落とし、両足を切断して顔に入れ墨を入れさせた。孫臏は斉から使者が訪れた隙を見計らって、魏を脱出して斉にいたった。斉の将軍・田忌に気に入られて、その客分となった。田忌は斉の威王に彼を推薦し、威王は兵法について質問したあげく、彼を師とした。斉の威王の二十六年(前353)、魏が趙を攻撃し、趙は斉に救援を求めた。斉の威王は、田忌を将軍とし、孫臏を軍師として軍を派遣することを決めた。孫臏は趙の邯鄲を救わず、魏の都・大梁を突くことを進言した。田忌はその策に同意して進軍すると、はたして魏は邯鄲の囲みを解いて退却し、桂陵で斉軍と魏軍が戦って、斉が大勝した。斉の宣王の二年(前341)、魏が韓を攻撃した。韓は斉に救援を求めたが、孫臏の策により、斉は両軍が疲弊するのを待った。魏と韓が五度にわたって戦った後、田忌と田嬰を大将とし、孫臏を軍師とする軍を斉は派遣した。魏軍が韓の囲みを解き、斉軍と会敵しようと図ると、斉軍は退却をはじめた。孫臏は斉軍の野営の竈の数を一日ごとに減らすようにした。魏の龐涓は竈の跡を見て、斉軍には逃亡兵が続出していると考えた。そこで精鋭の騎兵を編成して猛追した。孫臏は道の両側が険阻な馬陵に伏兵して、日が暮れて松明の明かりが見えたら弩を発射するように指示した。道途の大木を切り倒してその幹に一文を刻ませた。やがて日が暮れて、龐涓は切り倒された大木の下まで来て、刻まれた文章を認めて火を起こして照らし、文字を読んだ。「龐涓死于此樹之下」。読み終えぬうちに一万の弩が発射され、魏軍は大混乱に陥った。龐涓は「あの豎子に名を成さしめたか」と言い残して自刎した。斉軍は魏軍を破り、魏の太子・申を生け捕った。その後の孫臏の消息は知られていない。『孫臏兵法』。
蘇秦(?〜前317)
周の洛陽の人。斉に行って鬼谷子に学んだ。諸国を回るうちに零落し、帰郷して親族・友人らに嘲笑された。弁舌で身を立てることを志し、周・秦に行ったが用いられなかった。燕の文侯のもとで合従を説いて登用され、趙・韓・魏・斉・楚と同盟させて、西方の秦と対抗させた。蘇秦は合従の同盟の従約長となり、六国の宰相を兼ねた。帰郷して、以前に彼を嘲笑した親族・友人らに会うと、今度は卑屈な態度を取られたという。趙に身を置き、趙の粛侯によって武安君に封じられた。それから五年の間、秦は函谷関から討って出なかった。秦が犀首を斉と魏につかわして利を説き、ともに趙を伐たせると合従は崩壊した。蘇秦は趙を離れて燕に赴き、燕の易王に斉の背約によって奪われた十城を取り返すよう依頼された。斉に赴き、斉に燕から奪った十城を返させた。後に燕から斉に亡命した。斉の大夫にねたまれ、刺客に襲われて、その傷がもとで死去した。斉王に遺言して、「蘇秦は燕のために斉に内乱を起こさせようとした」と公表するよう頼んだ。すると、蘇秦を襲うことを命じた大夫が自ら名乗り出てきたため、斉王はこの男を処刑したという。蘇秦をめぐる史書の記述は矛盾が多く、非実在説まで存在する。
張儀(?〜前309)
魏の人。蘇秦とともに鬼谷子に学んだ。楚の璧が紛失したとき、疑われて笞打たれたことがあったが、「舌が残っていれば充分」とうそぶいたという。同門の蘇秦を頼って趙へ行くと、辱められたので、その報復を誓って秦に入った。秦の恵王に任用されて、客卿となった。秦は蜀を平定し、また魏を伐って上郡・少梁を得て、人質を差し出させた。張儀は秦の宰相にのぼり、齧桑で斉・楚の宰相と会談した。秦の宰相を免ぜられて、秦のために魏に赴いた。魏でも宰相に取り立てられた。魏が秦や斉に敗れると、魏に秦と和睦させ、連衡を図った。秦に帰って宰相に復帰した。斉と楚の同盟を破壊するために、楚に赴き、商・於の地六百里を楚に献上するかわりに、斉との盟約を切るようにうながした。楚は斉との盟を絶ったが、張儀は六里を献上すると言い出した。だまされたことを知った楚は、秦を攻めたが、秦と斉に挟撃されて大敗した。秦・楚が和睦すると、楚は張儀の身を要求した。張儀は楚に赴いたが、楚の家臣・靳尚を通じて、楚王の夫人・鄭袖に取り入って工作し、殺されずにすんだ。楚から韓に行き、秦と韓を同盟させた。張儀は領地を与えられ、武信君と称した。さらに斉・趙・燕をまわり、秦との同盟に成功した。ここに秦と六国との同盟が成立し、連衡が成った。秦の恵王が死に、武王が立つと、群臣がさかんに張儀のことを讒言したので、身辺に不安を覚えた張儀は魏に行った。魏の宰相として一年いたが、そこで没した。
屈原(前340〜前299)
名は平。字は原、号は霊均。三閭大夫。楚の王族であった。楚の懐王の左徒に任ぜられて、信任された。廉直な人であったが、上官大夫と争い、彼に讒言されて、地位を失った。その後、楚は張儀の策にかかって、斉と絶交した。だまされたことを知った楚の懐王は秦を攻め大敗。外交的にも孤立して、窮地に立った。秦と楚が和解すると、会見のために懐王は秦に赴き、そのまま抑留された。懐王が秦で没し、頃襄王が即位したが、令尹・子蘭に憎まれ、遠流された。長江のほとりまで来て、髪を振り乱して歩きながら、楚の亡国を嘆いた。石を抱いて汨羅の淵に身を投げて死んだ。『楚辞』における代表的詩人。代表作は「離騒」など。
趙の武霊王(?〜前295)
本名は趙雍。在位前324〜前299。趙の粛侯の子。即位のはじめ、趙豹に摂政された。親政をはじめて、肥義を重用した。十七年(309)、代・無窮に遠征して、その軍隊に胡服と騎射を取り入れ、騎馬軍団を編成することを思い立った。臣下の多くの反対を受けながら、その改革を強行した。その軍で、西胡を討ち、中山を攻めた。また燕・代にまで遠征した。二十七年(前299)に趙何(恵文王)に位を譲り、みずから主父と号した。恵文王に国政を任せて、使者の身なりをして秦におもむいた。秦の昭王は彼の態度があまりに堂々としているのをいぶかしく思って、後を追わせたが、すでに国境を越えていた。みずから秦の地形を見聞し、秦王の人物を鑑識するためだったという。恵文王の三年(前296)に中山を滅亡させ、廃太子の章を代の安陽君とした。だが章は、弟が趙の国君(恵文王)であるのに、自分はその臣下に過ぎぬのを不満に思い、軍勢で恵文王を襲った。章の軍勢は、李兌・公子成らに破れ、主父の宮殿に逃げ込んだ。章はまもなく死亡したが、成り行きとはいえ主父の宮殿を包囲し、武器を向けた李兌・公子成らは、後の処罰を恐れた。そのまま包囲をつづけたため、主父・武霊王は餓死して果てた。
孟子(前372〜前289)
本名は孟軻。字は子輿、または子車、子居ともいう。鄒の人。子思の門人に学び、孔子の学問をきわめた。斉の宣王に仕えたが、意見が採用されなかった。宋、滕、魏、任、魯、薛に遊説し、諸侯に説いたが、受け入れられなかった。唐・虞・三代の聖王の徳を称賛する彼の説は、当時の政治の現実から懸け離れていたためだった。郷里に帰り、門人の公孫丑や万章らとともに詩経・書経を整理し、また『孟子』を著した。性善説を説き、仁義にもとづく王道政治を理想とした。
荘子(?〜?)
本名は荘周。字は子休。宋の蒙の人。若いころに漆園を管理する役人となったが、仕官の心を捨てて隠棲。著述と思索に専念した。賢者という評判を受け、楚の威王に招聘されたが、拒絶した。『荘子』(現存三十三篇中の内篇七篇が荘周自身の著という)を著した。万物斉同と因循主義の哲学を唱え、自然の道に従って自由に生きることを説き、個人的解脱をめざした。儒家や墨家の主張をたくみな比喩で批判した。道家の代表的な思想家のひとり。
恵施(?〜?)
魏の恵王・襄王に仕えて、相となった。のちに楚に追われた。名家に属する思想家。歴物十事を唱えた。荘子の友人であったが、その詭弁ぶりをたびたび批判されている。魏が斉を攻めようとしたとき、蝸牛角上の争いという比喩で魏王をいさめたという。『恵子』。
甘茂(?〜?)
下蔡の人。下蔡の史挙のもとで百家の術を学んだ。張儀や樗里子の推薦で秦の恵文王(駟)に仕えた。魏章を補佐して楚の漢中の地を攻め取った。武王(蕩)が立つと、蜀の陳荘の乱を平定した。武王二年(前309)、秦にはじめて丞相が置かれると、左丞相に任ぜられた。翌年、軍を率いて韓の宜陽を奪った。昭襄王(稷)が立つと、向寿・公孫奭との間が険悪になり、身の危険を感じて斉に亡命した。斉の湣王に上卿の礼で待遇された。魏で没した。
楽毅(?〜?)
霊寿の人。楽羊の子孫。趙の武霊王の沙丘の乱が起こって、趙を去り、魏へ行った。魏の昭王の使者として燕に赴いたが、そこで客分として優遇された。燕の昭王(姫平)の臣下となり、亜卿とされた。そのころ斉が湣王のもとで強大であり、燕は斉に圧迫されていた。楽毅は諸国と盟約を結んで斉を伐つことを進言し、みずからは趙の恵文王のもとに赴いて盟約を結ばせた。楽毅は上将軍に任ぜられ、燕が兵を挙げると趙・魏・韓・楚が呼応して斉を攻め、済水の西で斉軍に大勝した。諸侯の軍は引き返したが、燕軍のみは斉軍を追撃し、斉の都・臨淄を陥落させた。楽毅は昌国に封じられ、昌国君と号せられた。楽毅は次々と斉の七十余城を降伏させ、莒と即墨の二城を残すのみとなった。燕の昭王が死に、その子が燕の恵王として即位した。恵王と楽毅は仲が悪かったので、斉の田単は反間の計をしかけ、「楽毅は斉王を称するつもりなのだ」と恵王に信じ込ませた。恵王は、騎劫を楽毅の代わりの大将として送り、楽毅を呼び戻させた。楽毅は、殺されるのを恐れて趙に逃亡し、観津に封ぜられて、望諸君と号した。斉の田単は騎劫を撃ち破り、斉の旧城全てを燕から取り返した。燕の恵王は後悔し、趙に行った楽毅のもとに書簡を送って燕に戻るよう頼んだが、楽毅は拒絶した。趙は楽毅を客卿とし、彼を通じて燕とのよしみを取りはからわせた。楽毅は趙で没した。
田単(?〜?)
斉の人。斉の田氏の遠縁にあたる。斉の湣王の時代に、斉都・臨淄の市場の下役をしていたが、才能は認められなかった。燕が楽毅に命じて斉を伐って大敗させると、湣王は臨淄を捨てて、莒に立てこもった。斉の大夫の多くが燕に捕らえられる中、田単は車の軸に鉄の金具を付けていたため逃げおおせ、東に向かって即墨に立てこもった。楽毅が斉の七十余城を降し、莒と即墨を残すのみになったとき、即墨の城主は戦死し、代わって田単が即墨の城主に立てられた。田単は燕の恵王と楽毅の君臣間を反間によって裂き、燕軍の大将を楽毅から騎劫に交代させることに成功した。田単は、燕軍の暴恣を誘って斉軍の士気を高揚させ、燕軍には斉は降伏間近であるように油断させた。火牛の計で燕軍を夜襲して騎劫を撃ち破り、斉の旧城全てを燕から取り返した。襄王を莒から臨淄に迎えて擁立した。田単は封じられて安平君と称した。しかし襄王に猜疑を受け、趙に遷った。趙の孝成王の二年(前264)には趙の相に上った。
孟嘗君(?〜前279)
本名は田文。薛の人。靖郭君田嬰の子で、斉の威王の孫にあたる。田文は五月五日に生まれたので、父・田嬰がその日に生まれた子は背が門より高くなると親を害するとの迷信を信じて、この子を殺すよう命じた。そのため、田文はひそかに育てられた。成長すると父に許され、食客たちの接待を任された。父が没するとその跡を継ぎ、薛を領した。孟嘗君と号した。多数の食客を集めて厚遇し、名声を集めた。秦の昭王が彼の噂を聞いて招聘した。昭王は彼を秦の宰相としたが、ある人が孟嘗君は斉のためを図って秦に害を与えるだろうと忠告したので、昭王は彼を監禁して殺そうとした。しかし、盗人や鶏の鳴き真似上手といった彼の食客の助けによって、秦を脱出することができた。帰国の途中、趙の領内の村で孟嘗君の背の低いのを嘲った者がいたが、彼は激怒してその村の住民全てを殺戮して去ったという。帰国すると、斉の湣王は彼を宰相に任じて国政を執らせた。彼のもとで、斉は韓・魏と連合して、楚・秦・燕の三国に勝利した。数年して孟嘗君は謀反を企てていると讒言する者があり、湣王はそれを信じた。彼は恐れて逃亡した。後に反逆の意図がなかったことが明らかとなり、湣王は再び召しだそうとした。彼は病気を理由に謝絶して、薛の領地に帰った。湣王が驕慢になると、魏に逃れて、そこで宰相に任ぜられた。斉は燕と諸侯の連合軍に敗れた。彼は薛公として諸侯の間に中立を保った。亡命者や侠客を厚くもてなしたので、天下の士がこぞって彼のもとに参じたという。斉の湣王が死に、襄王が立つと、襄王は孟嘗君と講和した。彼の死後、息子たちが跡目を争い、斉と魏に挟み撃ちにされて薛は滅んだ。
魏冉(?〜?)
秦の人。宣太后の異父弟にあたる。恵王・武王に仕えて信任された。武王が薨ずると昭王を擁立し、季君の乱を鎮めた。武王の后を魏に追放し、昭王の兄弟で従わない者を全て滅ぼした。昭王が幼少のため、宣太后とともに後見につき政務を任された。次いで楼緩に代わって宰相に上った。白起を推挙して将軍とし、韓・魏を攻めさせた。のちに穣・陶の地に封ぜられ、穣侯と呼ばれた。昭王の三十二年(前275)、相国の位に上り、兵を率いて魏を攻め大梁を囲んだ。しかし、魏の大夫・須賈の言を受けて包囲を解いた。また魏・趙を撃ったのち、斉を攻めようとしたが、蘇代の言を容れて斉攻撃をいったん取りやめた。三十六年(前271)には斉を伐ち、剛・寿の地を奪った。だが、范雎が昭王に信任を受けるようになると、四十二年(前265)に相国の位を免じられ、封地の陶に隠棲を余儀なくされた。
趙奢(?〜?)
趙の人。もとは趙の収税官だった。租税を徴収したとき、平原君の家が出そうとしないので、法律どおりに処断して、平原君の家臣のうち九人を死刑にしたという。秦が韓を攻めて、韓が趙に救援を求めたとき、趙奢は救援軍の大将に任ぜられ、閼与で秦軍を破った。その功績のため上卿に任ぜられ、馬服君と号した。
藺相如(?〜?)
趙の人。趙の宦官の令・繆賢の近侍であった。繆賢が罪をえて燕に亡命しようとしたとき、説得してそれを思いとどまらせた。趙の恵文王の時代に、楚の和氏の璧が趙王の手に入った。秦の昭王がそれを聞いて、「城十五と璧を交換したい」と申し出た。璧を渡すと騙される気遣いがあり、渡さなければ秦が攻めてくる心配があって、趙の宮廷の議は決しなかった。繆賢が藺相如を推薦したので、趙王は相如を秦への使者に任じた。相如は秦の宮廷で秦王と渡り合い、みごと無事に璧を持ち帰り、城も献じず、秦と趙の和親もそこなわず、自分の身も守って帰国した(いわゆる完璧)。この功績で、相如は趙の上大夫に任ぜられた。後に秦と趙が争って、趙が敗れ、秦王が澠池において会見しようと申し出たとき、相如は趙王の供として会見に臨んだ。秦王は趙王を辱めようとしたが、相如は秦王をたくみに脅迫して、秦・趙間の対等の礼遇を守らせた。この功績で相如は上卿に任じられた。趙の将軍・廉頗は、戦場の功のない相如が自分より地位が高くなったことに不満をもち、再三にわたって相如を辱めようとした。相如は廉頗から逃げ回り、争おうとはしなかった。たまりかねた相如の近侍たちは、威儀をたもって廉頗と接するよう求めた。相如は、趙の名将たる廉頗と秦王と対等に渡り合った自分とが争えば、秦を利するだけであると答えた。それを伝え聞いた廉頗は、大いに恥じいって、肌脱ぎになって荊を背負い、相如に謝罪した。廉頗と相如は刎頸の交わりを結んだ。以後、趙はたびたび斉や秦を破った。ふたりが趙王に信任されている間、趙は威を保った。趙の恵文王が亡くなり、孝成王が立つと、廉頗に代わって趙括が大将になった。長平で趙軍は秦軍に大敗して、趙は衰亡に向かった。
廉頗(?〜?)
趙の人。将軍として趙に仕えた。趙の恵文王の十六年(前283)、斉を攻めて大勝し、陽晋の城を攻略した。その功績で、上卿に任ぜられた。藺相如が澠池における会見で秦に辱められるのを防いだため上卿となり、廉頗の上位についた。廉頗は、戦場の功のない相如が自分より地位が高くなったことに不満をもち、再三にわたって相如を辱めようとした。相如は廉頗から逃げ回った。廉頗と自分が争うことで趙国を損なうことを恐れたためであった。その真意を知った廉頗は、大いに恥じいって、肌脱ぎになって荊のむちを背負い、相如に謝罪した。ここに廉頗と相如は刎頸の交わりを結んだ。のちに廉頗は斉や魏を攻めて勝利をえた。趙の恵文王が没し、孝成王が即位すると、趙王は秦の策略にかかって廉頗に代わって趙括を大将として信任した。長平で趙括率いる趙軍は白起率いる秦軍に大敗し、都・邯鄲が包囲された。邯鄲の包囲が楚の春申君らの援軍によって解けて五年、燕が弱った趙に対して侵攻した。廉頗は大将に任ぜられ、燕軍を破り、燕の都を包囲した。この功績で、廉頗は尉文の地に封ぜられて、信平君と号した。趙の孝成王が没し、悼襄王が位につくと、楽乗に命じて廉頗と交代させた。廉頗は立腹して楽乗を攻撃し、魏に亡命した。魏では任用されず、楚に招聘されて、一度は大将となったが功績は立てなかった。趙への帰還を望みつつ、ついに寿春で没した。
趙括(?〜前260)
趙奢の子。兵法を学び軍略を論じて、若くして父親を言い負かすほどであった。しかし、机上の論理を弄ぶ癖があり、貪欲で士大夫の信望がなかった。廉頗に代わって大将に任ぜられ、趙の大軍を率いた。長平で白起率いる秦軍と戦って大敗し、自らも戦死した。
白起(?〜前257)
郿の人。用兵にたけ、秦の昭王に仕えた。昭王の十三年(前294)、左庶長として兵を率い、韓の新城を攻めた。翌年、左更に昇進し、韓・魏を攻めて、伊闕で決戦して勝利した。韓の安邑を奪い、国尉に昇進した。翌年、大良造に昇進、魏の都を落とし、六十一城を奪った。昭王の二十八年(前279)、楚を攻めて鄢とケを取った。翌年、楚を攻めて郢を落とし、夷陵を焼き払い、竟陵に達した。封ぜられて、武安君と称した。翌年、楚の巫郡・黔中郡を平定した。昭王の三十四年(前273)、魏を攻めて華陽を落とし、将軍・芒卯を敗走させた。昭王の四十三年(前264)から韓を攻めて、翌々年には韓の国土を分断し、上党を孤立させた。韓の上党の太守・馮亭は、秦に降るよりも隣接した趙に帰属することを選んだ。昭王の四十六年(前261)、趙と争った。翌年、秦の宰相・応侯(范雎)の策が功して、趙の将軍は廉頗から趙括に代えられた。白起は長平で趙軍に大勝し、四十万の捕虜を得たが、叛乱を恐れて、その捕虜をうまく騙して生き埋めにした。ただ年少の者二百四十人のみを趙に帰国させたという。この後、白起の功業の巨大さを恐れた宰相・応侯と不和となった。秦軍は趙都・邯鄲の包囲戦に入ったが、白起は病気のため出陣せず、病気が平癒した後も出馬しようとはしなかった。楚の春申君らの軍が趙を救援して秦軍は危地に立ったが、白起は重病と称して動かないので、一兵士に落とされ、陰密に流されることとなった。咸陽の都を立ち退いたところを秦王から自決の命令が下った。長平で趙の降兵四十万を生き埋めにした報いがきたと言い残して自殺した。
李冰(?〜?)
秦の昭王のとき、蜀の太守をつとめた。岷江に「都江堰」と呼ばれるダムを築き、成都盆地の洪水を防ぎ、農地の灌漑に役立てた。ほかの事績は不詳だが、のちの二郎真君のモデルといわれる。
平原君(?〜前251)
本名は趙勝。趙の公子であった。趙の恵文王と孝成王のときに宰相となり、東武に封じられた。食客との交遊を好み、数千人を抱えたという。あるとき、侍女が隣家の足の不自由な人を笑ったのに、その侍女を罰することをしなかったので、食客が大挙して去っていってしまった。門下に諫められて、やむなく侍女の首を斬って、隣家に謝罪すると、ふたたび食客が戻ってきたという。趙の孝成王の七年(前259)、秦の軍が趙の都・邯鄲を囲むと、勢力を結集して城池を三年間もちこたえた。その間、楚や魏に救援を求めた。自軍に婦人を編入したり、士卒に対して家財を尽くして饗応するなどして鼓舞し、ついに秦軍を退却させることができた。
毛遂(?〜?)
平原君の食客。秦の軍が趙の都・邯鄲を囲んだとき、平原君は楚に救援をもとめるため赴いたが、毛遂はその従者となった。平原君は毛遂を全く評価していなかったが、毛遂は交渉の席で楚王を脅迫・説得して、援軍を出すことを承知させた。この一件で、人物の鑑識で名声高かった平原君に、「二度と士を見立てるなどとはいうまい」と言わしめた。以来、平原君の客分の上席についた。
公孫竜(前320?〜前250?)
字は子秉。趙の人。燕の昭王に攻戦の中止を訴え、趙の恵文王に非戦と兼愛を説いた。恵文王の弟の平原君の客となり、優遇された。白馬非馬、堅白同異などの詭弁をなした。斉の鄒衍と論争して敗れると、平原君にしりぞけられたという。名家に属する思想家。『公孫龍子』。
子楚(?〜前247)
本名は異人。秦の荘襄王。在位前250〜前247。秦の孝文王(瀛柱、安国君)の子。母は夏姫。昭王の孫にあたる。妾腹の子であったため、秦の公子の中でも軽く扱われていた。趙に人質に出されたが、生活は苦しかった。その人質時代に、邯鄲で呂不韋に見出された。呂不韋はこの不遇な公子に大金を投資した。おかげで子楚は、諸侯・大夫と交際することができ、また安国君の正妻・華陽夫人に取り入ることができた。華陽夫人の養子となり、安国君の後継と認められた。呂不韋の愛妾(趙姫)に惚れ込んで、貰い受けて夫人とした。この夫人が政(のちの始皇帝)を生んだ。趙と秦が争い、秦軍が邯鄲を包囲すると、殺されそうになったが、役人に賄賂を贈って逃れ、秦に帰国した。秦の昭王がその五十六年(前251)に没すると、安国君が即位して(孝文王)、華陽夫人が后となり、子楚が太子となった。孝文王は即位後わずか一年で没し、子楚は秦王として即位した。呂不韋を丞相として文信侯に封じた。即位後三年して荘襄王は没した。
信陵君(?〜前244)
本名は魏無忌。魏の昭王の末子。安釐王の弟にあたる。その人格を慕って、周囲数千里の士が彼に帰順したため、周辺諸侯も魏に対して兵を起こそうとしなかったといわれる。あるとき、彼が安釐王と碁を打っていると、趙軍が辺境に侵入したとの報が入った。彼は「それは趙王の狩猟だ」と言って何事もないかのように碁を打ちつづけた。しばらくして、確かに侵犯でないことが判明した。魏王は不審に思って彼に尋ねると、「私の食客に趙王の秘密をよく知るものがいる」と答えた。王は信陵君を怖れて国政を任せようとしなくなった。魏の安釐王の二十年(前257)、秦軍が趙都・邯鄲を包囲すると、軍権をもたぬ信陵君は魏王のもとから割符を奪い、軍令と偽って兵を率いて趙を救援した。みごと秦軍を撃退したが、罰を怖れて帰国せず、十年のあいだ趙にとどまった。秦が魏を攻めると帰国し、魏の上将軍に任ぜられて、秦軍を撃ち破った。その後、秦の離間策を受けて、安釐王と信陵君の間は再び不仲となり、信陵君は酒食に溺れて出仕せず、酒の中毒で死んだ。『魏公子兵法』。
鄒衍(前305?〜前240?)
斉の人。斉の威王に仕えた稷下の学士のひとり。地理において九大州説を説き、世界は八十一州から成ると唱え、中国はその一州の赤県神州であるとみなした。また五行相勝の循環説を創始して、王朝交代を説明した。諸侯に上客として扱われ、尊敬を受けたという。陰陽家に属する思想家。
春申君(?〜前238)
本名は黄歇。楚の人。楚の頃襄王に仕えた。このころ楚は秦と争って要地を次々と失って、東の陳県に遷都していた。黄歇は秦へ行き、秦の昭王に説いて、秦・楚を和睦させ、同盟させた。このため楚の太子とともに人質として秦にいた。楚の頃襄王が死ぬと、秦の宰相・応侯(范雎)に説いて、太子を帰国させ、楚の考烈王として即位させた。考烈王の元年(前262)、自身も帰国して、宰相となった。封じられて春申君となり、淮北の十二県を賜った。考烈王の五年(前258)、秦が趙都・邯鄲を囲むと、救援軍を率いて秦軍を撃退した。考烈王の八年(前255)、北伐の軍を起こして、魯を滅亡させた。考烈王の十五年(前248)、淮北の十二県を返上して、江東に領地を与えられた。考烈王の二十二年(前241)、諸国と合従して秦を攻め、その軍を指揮したが、函谷関にいたって大敗し、敗走した。楚の都は陳からさらに東の寿春に遷った。考烈王の二十五年(前238)、考烈王が死ぬと王の寵姫の兄・李園が刺客を使って春申君を刺し殺した。事前に朱英という人物が、李園がひそかに刺客を養っていることを忠告していたが、春申君は聞かなかったという。考烈王と李園の妹の間の子にあたる幽王が即位したが、この幽王は『史記』によると春申君の子であるという。
范雎(?〜?)
字は叔。魏の人。はじめ魏の中大夫・須賈に仕えた。しかし魏の機密を斉に漏らした疑いを掛けられ、撲罰を受けた上に、すのこ巻きにされて廁に置かれ、小便をかけられるという恥を受けた。死人のふりをして脱出し、張禄と名を改め、鄭安平にかくまわれた。秦の謁者・王稽とともに魏を脱出し、秦に行った。はじめ用いられなかったが、昭王と対面して遠交近攻を説き、信任を受けて客卿となった。昭王は彼の献策に従い、魏・韓を攻め、太后を廃し、魏冉や王族の諸君を追放した。かくして彼は、秦の宰相に上り、応侯に封ぜられた。個人的に恩を受けた者には報じ、恨みを受けた者には仇を返した。長平で趙の大軍を撃破した白起と険悪となり、昭王に讒言して白起を殺させた。その後、かれが推薦した鄭安平が趙に降り、また同じく王稽が内通の罪で処刑されると、地位に不安を抱き、蔡沢を後任に推薦して官を辞した。
荀子(?〜?)
本名は荀況。趙の人。斉へ行って学問を修め、三度まで祭酒に推された。讒言されたため、斉を去った。秦の昭王に儒道を説き、趙の孝成王のもとで王者の兵を論じた。楚の春申君が彼を登用して、蘭陵の県令とした。春申君が死ぬと免官され、そのまま蘭陵に住んだ。性悪説を唱え、礼による教化を重んじた。韓非や李斯を門人とした。『荀子』。
韓非子(?〜前233)
韓非。韓の王族であった。荀子(荀況)に師事して学んだ。韓が他国の侵略を受けて弱っていくのを憂い、しばしば意見を上書して韓王をいさめたが、王は取りあげなかった。韓非の著書が秦に伝わり、秦王政(始皇帝)の目に止まった。彼を獲得するために秦王は韓を攻めたて、秦に来させた。だが、同門の李斯にねたまれて讒言され、投獄された。韓非は李斯の送った毒薬を飲みほした。秦王が後悔して、赦免の使いを出したときには、すでに絶命していた。法家に属する思想家。荀子の性悪説を受け、商鞅の「法」と申不害の「術」を総合して「法術」理論を編んだ。『韓非子』。
李牧(?〜前228)
趙の人。代の雁門に駐屯して、匈奴を防いだ。匈奴が略奪に来ると、戦わずに兵や住人を砦に入れ、大きな被害を出さなかった。何年もそれを繰り返すと、李牧は臆病者だと敵も味方も思うようになった。ある年、匈奴の大軍が来襲して、略奪する物資が尽きて北帰しようとしたところを追撃し、大勝した。匈奴十余万騎を討ち取り、東胡を撃ち、林胡を降した。その後十数年にわたって、匈奴は趙の国境に近づこうとはしなかった。趙の悼襄王の元年(前244)、燕を攻めて武遂・方城を落とした。また大将軍に任ぜられ、宜安において秦軍を破った。そのため、封ぜられて武安君と号した。その後、秦を番吾で破り、また韓・魏を防いだ。趙王の寵臣・郭開に讒言されて、斬首された。
姫丹(?〜前226)
燕の太子。燕王喜の子。幼少の頃、人質として趙に送られていた。秦の公子・政(のちの始皇帝)と幼友達であった。長じてまた人質として秦へ行った。政が秦王となっていたが、丹は冷遇された。丹はそれを恨んで逃げ帰った。秦は楚・斉・趙・魏・韓を攻撃して、圧倒していた。その軍はまさに燕にも迫ろうとしていた。丹は、秦王を殺す刺客を求めて、田光に荊軻を紹介された。荊軻に秦王暗殺を依頼し、使者に仕立てて送ったが、失敗した。燕は、この事件で秦王の怒りを買って、王翦率いる秦軍の攻撃を受けた。都の薊が陥落して、燕王喜は遼東に逃れたが、秦王に謝罪するために、太子丹の首を斬って献上した。
荊軻(?〜前227)
慶卿、または荊卿とも称された。衛の人。読書と剣術を好んだという。衛の元君に進言したが、用いられなかった。諸国をめぐり、燕にいたった。高漸離と友情を結び、田光に客として遇された。燕の太子丹に秦王(始皇帝)の暗殺を依頼され、それを引き受けた。そのため上卿の位についた。荊軻を正使、秦舞陽を副使とする燕の使者に仕立てられて、一行は秦の都・咸陽へと出発した。そのとき「風蕭蕭として易水寒く/壮子一たび去かば復び還らず」と唱ったという。秦から亡命した将軍・樊於期の首と督亢の地図を献上品としてたずさえて、ふたりは秦王に謁見した。十三歳で人を殺した勇士という評判だった秦舞陽が、このとき顔色を変えておののいていたため、秦王に疑惑をいだかせることとなった。荊軻は地図の巻物の中に猛毒を仕込んだ匕首を隠していて、それで秦王に斬りかかったが、すんでのところでかわされた。秦の法では殿中では寸鉄も帯びてはならないことになっていたため、臣下たちも荊軻を取り押さえることができず、しばらく追いかけっこが続いたが、典医が薬の箱を投げて荊軻がひるんだ隙に、秦王が剣を抜いてひと打ちにした。荊軻は足が動かなくなり、進退極まって匕首を投げつけたが、これも的を外れた。侍臣に取り押さえられて、荊軻は殺された。
高漸離(?〜?)
筑という楽器を弾く名手で、荊軻の友人であった。荊軻が秦王政(始皇帝)の暗殺に失敗すると、姓名を変えて宋子の地に隠れていた。筑の名手の評判が始皇帝の耳に届いて召された。高漸離の正体を知っていて、始皇帝にそれを知らせた者がいたが、始皇帝は高漸離の腕を惜しんで、その目をつぶして筑を弾かせた。高漸離は筑の中に鉛を仕込んで、始皇帝を打ち殺そうとしたが、失敗した。そのため殺された。
左丘明(?〜?)
事績不明。『春秋左氏伝』『国語』の著者と伝えられる。
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