[東周(前770〜前249)]
西周,東周,春秋,戦国,,,,,,,,,,,,,,,,,
平王(姫宣臼)−桓王(姫林)−荘王(姫佗)−釐王(姫胡斉)−恵王(姫閬)−襄王(姫鄭)−頃王(姫壬臣)−匡王(姫班)−定王(姫瑜)−簡王(姫夷)−霊王(姫泄心)−景王(姫貴)−悼王(姫猛)−敬王(姫カイ)−元王(姫仁)−定王(姫介)−哀王(姫去疾)−思王(姫叔)−考王(姫嵬)−威烈王(姫午)−安王(姫驕)−烈王(姫喜)−顕王(姫扁)−慎靚王(姫定)−赧王(姫延)
周の平王(?〜前720)
  姓は姫、名は宣臼。在位前771〜前720。周の幽王(姫涅)の子。申侯や魯侯や許の文公らによって雒邑(洛陽)で王に立てられた。鄭の武公と荘公の父子を卿士に任じて、王室の政をつかさどらせた。また秦の襄公を諸侯として封じた。周の東遷以後、周朝の実力は衰退し、斉・楚・晋・秦といった実力ある諸侯を統制できなくなった。

周の桓王(?〜前697)
  姓は姫、名は林。在位前720〜前697。洩父の子。平王(姫宣臼)の孫にあたる。平王が崩ずると、即位した。鄭の荘公を礼遇しなかったため、鄭は勝手に魯と許の田を交換した。十三年(前707)、桓王は周の王師と蔡・衛・陳の軍を率いて鄭を討ち、繻葛で戦ったが敗れ、弓矢に当たって肩を負傷した。

周の荘王(?〜前682)
  姓は姫、名は佗。在位前697〜前682。桓王(姫林)の子。桓王が崩ずると即位した。三年(前694)、周公黒肩が王子克を立てて王を謀殺しようと図ったので、王は周公を殺し、王子克は燕に逃れた。

周の釐王(?〜前677)
  僖王ともいう。姓は姫、名は胡斉。在位前682〜前677。荘王(姫佗)の子。荘王が崩ずると即位した。釐王の代に斉の桓公が覇者となった。四年(前678)、諸侯が幽で会し、ともに周王室を立てることを誓い合った。同年、邾国の克を子爵に封じ、邾子と称させた。

周の恵王(?〜前652)
  姓は姫、名は閬。在位前677〜前652。釐王(姫胡斉)の子。釐王が崩ずると即位した。異母弟の穨と反目し、穨の臣下の庭を取りあげて鳥獣を飼う園とした。二年(前675)、蔿国・辺伯・・父・子禽・祝危の五大夫が乱を起こし、燕と衛の兵を招いた。恵王は温に逃げ、翌年には鄭の櫟にうつった。穨は王を称したが、鄭・虢に討たれた。恵王は鄭・虢に迎えられて都に帰った。十年(前667)、斉の桓公を侯とし、衛を討たせた。恵王は叔帯を後継としたいと考えていたが、二十二年(前655)、斉の桓公が諸侯と会し、姫鄭(のちの襄王)を太子とするよう定めさせた。

周の襄王(?〜前619)
  姓は姫、名は鄭。在位前652〜前619。恵王(姫閬)の子。恵王が崩ずると即位した。異母弟の叔帯が戎翟とはかって叛き、叔帯は敗れて斉に逃れた。王は斉の管仲を礼遇しようとしたが、辞退された。鄭が王の臣の遊孫・伯服を捕らえたので、王は翟の兵をもって鄭を討ち、翟人の后を迎えた。王が翟后をしりぞけると、翟が来襲し、これに乗じて叔帯が再起したため、王は鄭に逃れた。晋の文公(重耳)が王を立てて叔帯を誅すと、返り咲いた。晋の文公が王を招き、河陽で会見すると、諸侯はことごとく入朝した。

富辰(?〜前636)
  周の襄王の臣。襄王が翟の兵を引き入れて鄭を討とうとするのを諫めた。また襄王が娘を翟君にとつがせようとするのを諫めた。翟人が周を襲うと、「しばしば王を諫めたが聞き入れられなかった」との言葉を残して、一族を率いて奮戦し、戦死した。

周の頃王(?〜前613)
  姓は姫、名は壬臣。在位前619〜前613。襄王(姫鄭)の子。襄王が崩ずると即位した。周公閲と王孫蘇が政権を争ったが、王は問題を解決するに無力だった。

周の匡王(?〜前607)
  姓は姫、名は班。在位前613〜前607。頃王(姫壬臣)の子。頃王のとき、周公閲と王孫蘇が政権を争った。姫班は王孫蘇を支持することを約束して即位した。しかし即位後は周公閲の立場を立てようとし、大夫の尹氏と聃を晋の霊公のもとに派遣した。晋は趙盾を遣わして王室の内紛を調停させた。三年(前610)、戎人が王都を侵したので、大夫甘歜に迎撃させてこれを破った。

周の定王(?〜前586)
  姓は姫、名は瑜。在位前607〜前586。頃王(姫壬臣)の子。匡王(姫班)の弟にあたる。匡王が崩ずると即位した。元年(前606)、楚の荘王が軍を率いて陸渾の戎を討ち、王都の郊外までいたった。定王は王孫満を遣わして楚の労をねぎらわせたが、楚王に周鼎の軽重を問われたため、王孫満は「周の徳は衰えたといえども、天命は未だ改まらず。鼎の軽重、未だ問うべからず」と応答して言い逃れたので、楚の軍は去った。

周の簡王(?〜前572)
  姓は姫、名は夷。在位前586〜前572。定王(姫瑜)の子。定王が崩ずると即位した。六年(前580)、周公楚は王族との折り合いが悪く、伯輿と政権を争って敗れて、陽樊に出奔した。簡王は劉康公を遣わして周に戻らせた。三日後、周公楚は再び出奔して晋に行った。同年、温邑の田土をめぐって晋の郤至と争った。王は劉康公・単襄公を晋に遣わして争訟させた。ふたりは郤至を論破して、晋の詞は郤至に争うのをやめさせた。

周の霊王(?〜前545)
  姓は姫、名は泄心。在位前572〜前545。簡王(姫夷)の子。簡王が崩ずると即位した。九年(前563)、伯輿と王叔陳生が卿士の地位を巡って争うと、霊王は伯輿に味方したため、王叔は怒って出奔した。霊王は王叔の憎む史狡を殺して謝罪したが、王叔は周に入らなかった。晋の悼公が范宣子を遣わして調停させると、王叔の宰と伯輿の大夫瑕禽が王庭で対決した。王叔側は証拠を提出できず、王叔は晋に亡命した。単靖公が卿士となって王を補佐した。十四年(前558)、斉の公女を迎えて后とした。

周の景王(?〜前520)
  姓は姫、名は貴。在位前545〜前520。霊王(姫泄心)の子。霊王が崩ずると即位した。后と太子寿を早くに失った。子朝を愛して位を継がせようとしたが、果たさないまま亡くなった。

周の悼王(?〜前520)
  姓は姫、名は猛。在位前520。景王(姫貴)の子。景王が崩ずると即位した。子朝に攻められて殺された。

子朝(?〜前505)
  王子朝とも。景王(姫貴)の子。景王が崩ずると、悼王(姫猛)が立てられたが、これを殺して自立した。晋人に擁立された敬王(姫匄)と並立した。敬王四年(前516)、晋軍に攻められ、召伯盈の裏切りで追放された。周の典籍を持ち出して楚に亡命した。十五年(前505)、楚で暗殺された。

周の敬王(?〜前476)
  姓は姫、名は匄。在位前520〜前476。景王(姫貴)の子。悼王(姫猛)が殺されると晋人に擁立された。子朝のために都に入ることができず、狄泉にあった。四年(前516)、晋が諸侯を率いて敬王を都に入れ、子朝は楚に逃れた。諸侯が周の都城を築いた。十五年(前505)、呉が楚を破ったのに乗じて人を遣わして子朝を暗殺させた。翌年、子朝の余党が叛くと、また晋に逃れた。十七年(前503)、晋の定公が王を周に入らせた。

周の元王(?〜前469)
  姓は姫、名は姫仁。またの名は赤。在位前476〜前469。敬王(姫匄)の子。敬王が崩ずると即位した。

周の定王(?〜前441)
  姓は姫、名は介。在位前469〜前441。元王(姫仁)の子。元王が崩ずると即位した。十六年(前453)、趙・魏・韓が知伯を滅ぼし、その地を三分した。かれらが事実上の諸侯となったが、王は制御することができなかった。王の死後、諸子があい争闘し、周王室の勢力はますます衰えた。

周の哀王(?〜前441)
  姓は姫、名は去疾。在位前441。定王(姫介)の子。定王が崩ずると即位した。在位三カ月で弟の姫叔に殺された。

周の思王(?〜前441)
  姓は姫、名は姫叔。在位前441。定王(姫介)の子。哀王(姫去疾)の弟にあたる。哀王を殺して自立した。在位四カ月で弟の姫嵬に殺された。

周の考王(?〜前426)
  姓は姫、名は嵬。在位前441〜前426。定王(姫介)の子。哀王(姫去疾)や思王(姫叔)の弟にあたる。思王を殺して自立した。弟を河南に封じて桓公とし、周公の職を継がせた(西周)。

周の威烈王(?〜前402)
  姓は姫、名は午。在位前426〜前402。考王(姫嵬)の子。考王が崩ずると即位した。二十三年(前403)、魏斯・趙籍・韓虔を諸侯とした。

周の安王(?〜前376)
  姓は姫、名は驕。在位前402〜前376。威烈王(姫午)の子。威烈王が崩ずると即位した。十六年(前386)、斉の田和を諸侯とした。

周の烈王(?〜前369)
  姓は姫、名は喜。在位前376〜前369。安王(姫驕)の子。安王が崩ずると即位した。周室はますます衰え、諸侯は入朝しなかった。

周の顕王(?〜前321)
  姓は姫、名は扁。在位前369〜前321。安王(姫驕)の子。烈王(姫喜)の弟にあたる。烈王が崩ずると即位した。五年(前364)、秦が石門で魏に大勝し、王は祝い、秦の献公が覇を称した。二十五年(前344)、諸侯が逢沢に会した。四十四年(前325)、秦の恵文王が王を称すると、諸侯は相次いで王を称するようになった。

周の慎靚王(?〜前315)
  姓は姫、名は定。在位前321〜前315。顕王(姫扁)の子。顕王が崩ずると即位した。

周の赧王(?〜前256)
  姓は姫、名は延。在位前315〜前256。慎靚王(姫定)の子。慎靚王が崩ずると即位した。都を鞏にうつし、西周の武公の庇護を頼った。五十九年(前256)、秦が韓の陽城を取ると、西周はおそれて秦にそむき、諸侯とともに陽城を封鎖した。秦の昭王は怒って将軍摎を遣わして西周を攻めさせた。西周君は秦に降り、赧王もまもなく没した。ここに周の天子は名実ともに滅んだ。秦の荘襄王の元年(前249)、秦が東周を滅ぼすと、周はここに滅んだ。
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