[秦(前221〜前206)]
※統一以前の秦については、
↑秦(荘襄王以前)
始皇帝(嬴政)二世皇帝(嬴胡亥)秦王(嬴子嬰)
始皇帝(前259〜前210)
  嬴政,秦王政⇒
呂不韋(?〜前235)
  陽翟の人。千金を蓄えた大商人であった。趙の邯鄲にいたとき、秦の昭王の太子・安国君の庶子で趙に人質に出されていた子楚を見出した。「奇貨居くべし」と言って、子楚に出資して、諸侯・大夫と交際させ、安国君の正室・華陽夫人に取り入らせた。呂不韋の妾(趙姫)が子楚の夫人となって、政(のちの始皇帝)を生んだ。子楚は安国君の後継者として認められた。秦の昭王が没して、安国君が即位し(孝文王)、子楚は太子となった。孝文王は一年で没して、子楚が即位した(荘襄王)。呂不韋は秦の丞相となり、文信侯に封じられて、洛陽付近十万戸の所領をえた。荘襄王は三年で没し、太子の政が即位した(秦王政)。呂不韋は相国となり、仲父と号した。また、学者・門客を集めて、『呂氏春秋』を編纂させた。太后(趙姫)との密事の発覚を恐れて、嫪アイ
※1を宦官と偽って後宮に上げ、太后にあてがった。始皇帝の九年(前238)、嫪アイが宦官でないことが発覚して叛乱を起こした。嫪アイは三族を誅され、呂不韋は刑を免ぜられたが、翌年相国から解任された。河南の封地へ帰ったが、蜀に移るように命じられて自殺した。
甘羅(?〜?)
  下蔡の人。甘茂の孫にあたる。十二歳にして秦の宰相呂不韋に仕えた。ときに呂不韋は秦と燕の軍で趙を挟撃しようとはかり、燕の宰相として張唐を送り込もうとしたが、張唐は行こうとしなかった。甘羅は張唐を説得して燕の宰相として行くことを決心させた。また趙に入って趙の襄王に説き、趙の五城を割譲させて秦の河間につけ、趙に燕を攻めさせて趙の得た上谷の三十城のうち、十一城を秦のものとした。この功により上卿に任ぜられ、甘茂の田宅だったところを賜った。

鄭国(?〜?)
  韓の人。秦による圧迫を受けていた韓の意を受けて秦に仕え、大灌漑事業を実施させて秦の軍事力を削ごうとした。この謀略が暴露されて処刑されそうになったが、「水路が完成すれば秦国のためになる」といって助命され、事業を継続させた。完成された水路は「鄭国渠」と呼ばれ、関中平野の荒れ地を肥沃な農地に変えた。

尉繚(?〜?)
  大梁の人。秦王政(のちの始皇帝)に六国合従の分断を献策して、厚く礼遇された。秦王の残忍な心性を見抜き、逃亡しようとしたが、引きとめられて秦の尉に任用された。兵書『尉繚子』の著者といわれる。

王翦(?〜?)
  頻陽東郷の人。秦の始皇帝(秦王政)に将軍として仕えた。始皇十一年(前236)、趙を攻めて閼与を落とし、九つの城を落とした。十八年(前229)に趙を攻めて、翌年邯鄲を落とし趙を平定した。燕を攻めて、燕都・薊を落とした。秦王政が楚を滅亡させようと、李信と王翦に必要な兵数を問うた。李信は二十万と答え、王翦は六十万と答えた。秦王は李信の意見を採り、李信を大将に楚を攻めさせた。王翦は病気と言い立てて頻陽に隠棲した。李信は楚軍に打撃を与えたが、やがて大敗を喫した。秦王は頻陽に自ら出向いて王翦に詫び、出馬を請うた。二十三年(前224)、王翦はほぼ秦の全軍にあたる六十万の兵を率いて楚を伐った。猜疑心の強い秦王の疑念を呼ばぬために、度々恩賞をねだる使者を咸陽へ送ったという。楚王を虜とし、翌年には楚の将軍・項燕を追いつめて自殺させた。また南征して百越の首長たちを服属させた。

王賁(?〜?)
  王翦の子。秦の始皇帝(秦王政)に将軍として仕えた。父とともに燕を攻めた。また魏を攻めて、魏都・大梁を水攻めにして落とし、平定した。遼東に逃げた燕王喜を攻めて捕らえ、代を攻めて代王嘉を捕らえた。また李信や蒙恬とともに斉を攻めて、これを平定した。

昌文君(?〜前226)
  秦王政のとき、相国となった。始皇九年(前238)、昌平君とともに嫪アイ
※1の乱を鎮圧した。二十一年(前226)、某山にうつって死んだ。
昌平君(?〜前224)
  秦王政のとき、昌文君とともに相国となった。始皇九年(前238)、嫪アイ
※1の乱を鎮圧した。二十三年(前224)、楚の将軍の項燕により淮南で楚王に立てられ、秦にそむいた。王翦・蒙武に敗れて戦死した。
王綰(?〜?)
  始皇二十六年(前221)、秦が全国を統一すると、丞相に任ぜられた。御史大夫の馮劫や廷尉の李斯とともに帝号を立てることを建議した。諸子を分封して王とするよう奏請したが、李斯の反対に遭った。始皇帝が天下を郡県に分けたので、分封の議は沙汰止みとなった。

(前262〜前217)
  雲夢睡虎地十一号墓の被葬者。昭王四十五年(前262)十二月に生まれた。始皇三年(前244)に県の吏となり、十二年(前235)に鄢県の獄吏となった。十五年(前232)、平陽の戦いに参加。三十年(前217)、亡くなった。墓中の『編年記』により履歴が分かる地方官吏。

徐福(?〜?)
  徐市ともいう、字は君房。斉の人。方士。不死の薬を求める始皇帝の命により、東方海上にあるという蓬莱山を求めて船団を出立させた。莫大な財宝と少年少女数千人を載せた船団の行き着いた先は定かでない。日本の和歌山県新宮市には徐福の墓とされるものが残る。朝鮮半島・米大陸渡来説も存在する。

蒙恬(?〜前210)
  蒙武の子。父の跡をうけて将軍に任ぜられた。李信の副将として楚を攻め、打撃を与えたが、敗退した。斉を攻撃して大勝し、内史に任命された。始皇帝が天下を統一すると、三十万の兵を率いて戎狄を追い、黄河以南の地を手に入れた。さらに黄河を渡って北進して匈奴を震撼させた。長く北方に駐屯して功績を立て、始皇帝も蒙恬を信頼して、長子・扶蘇を預けた。始皇帝の死後、趙高・李斯の謀議により胡亥が立てられ、扶蘇および蒙恬に死を命じる贋の始皇帝の遺詔が届けられた。蒙恬は出所を疑ったが、扶蘇は早々と自刃してしまい、蒙恬も捕らえられて処刑された。

李斯(?〜前208)
  楚の上蔡の人。荀子に師事して学問を修めた。秦に向かい、呂不韋の舎人となったが、不韋は李斯の才を認め、郎に任用した。秦王政(始皇帝)にたびたび献策し、認められて、長史・客卿・廷尉を経て、丞相にのぼった。始皇帝の死後、趙高の奸策に乗って二世皇帝に胡亥を立てた。彼の厳しい法治統制政策は、各地で反抗を招いた。二世皇帝の二年(前208)、趙高に謀られ、謀反の罪を着せられて、拷問を受けて無実の罪を自白して処刑された。韓非とならんで法家を代表する思想家。

馮去疾(?〜前208)
  秦の始皇帝のとき、右丞相に上った。陳勝・呉広の乱が起こったのち、二世は宮中で趙高とともに政治を決裁し、公卿が朝見することもできなくなったので、李斯や馮劫らとともに二世を諫め、関東の群盗の蜂起は労役や賦税の過重が原因として、阿房宮造営や征戌運漕をやめるよう訴えた。このため二世の逆鱗に触れ、獄に下されて自殺した。
胡亥(?〜前207)
  
二世皇帝⇒
陳勝(?〜前208)
  字は渉。諡は隠王。陽城の人。秦の二世皇帝の元年(前209)、屯長として漁陽の守備に赴く途中、大雨に遭い、期日に間に合わなくなったが、秦の法では死罪が確実であったため、呉広らとともに反乱を起こす。陳勝・呉広の乱は、中国史上最初の大規模な農民反乱となった。反乱軍はたちまちのうちに数万の軍に膨れ上がり、陳勝は陳で自立して張楚王を称した。秦の章邯の軍に大敗して、逃亡中に御者・荘賈に殺された。「燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや」「王侯将相寧んぞ種あらんや」は彼の言葉という。

呉広(?〜前208)
  字は叔。陽夏の人。秦の二世皇帝の元年(前209)、陳勝とともに反乱を起こした。滎陽包囲の途中、部下の田臧らに寝所を襲われて殺された。

趙高(?〜前207)
  もとは趙の宦官だったが、趙が秦に滅ぼされると捕虜になった。法に通暁していたため抜擢されて中車府令となった。始皇の三十七年(前210)、始皇帝が亡くなると、丞相・李斯と共謀して遺言を偽造した。始皇帝の長子・扶蘇を自殺させて、末子の胡亥を二世皇帝に擁立した。郎中令に上り、皇帝の側近にはべって、皇帝に群臣が奏上できないように図った。李斯を讒言して投獄し、拷問の上処刑した。李斯の死後、中丞相に上って政治の専権を握った。このころ皇帝に鹿を献上して、これを馬と言わせ群臣を試したという。劉邦の軍が関中に迫ると、胡亥を自殺させ、始皇帝の孫・子嬰を秦王に立てた。しかし、子嬰と韓談の密謀により誅された。
子嬰(?〜前206)
  
秦王子嬰⇒

[註]
1.アイ=アイ
↓次の時代=楚漢抗争期

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