[春秋(前722〜前481/前453/前403)]
西周,東周,春秋,戦国,,,,,,,,,,,,,,,,,
東周春秋地図
鄭の荘公(?〜前701)
  名は寤生。在位前744〜前701。鄭の武公の長男。母は武姜。鄭の太子となったが、母の武姜は弟の叔段を愛し、寤生を顧みなかった。武姜は叔段を太子とすることを望んだが、武公は許さなかったため、武公が薨ずると寤生は位を継いだ。叔段を京に封じたが、二十二年(前722)に叛乱を起こしたためこれを討ち、敗れた叔段は共に亡命した。周の桓王は、寤生を礼遇せず、また周の温の地と鄭の鄔の地の交換を強要したため、周の朝見に赴かなくなった。三十七年(前707)、周の桓王が陳・蔡・衛などの軍を率いて鄭を討伐に来たが、鄭軍は周軍を大いに破り、桓王にも手傷を負わせた。かれの時代、鄭は最盛期で、その死後には内乱が起こって衰えた。

斉の桓公(?〜前643)
  
小白⇒
管仲(?〜前645)
  
管子⇒
曹沫(?〜?)
  魯の人。荘公の十年(前684)、斉が魯に侵入したとき、魯の荘公に謁見を請い、登用された。維幕の謀を授けて、長勺で斉軍を破った。十三年(前681)、魯が斉に敗れたため柯で盟を結ぼうとしたとき、曹沫は斉の桓公に匕首を突きつけて脅し、斉が魯から奪った土地を全て返すよう約させた。桓公は怒って約束を破棄しようとしたが、管仲の進言に従い、魯から奪った土地を全て返したという。二十三年(前671)には、荘公が斉へ社祭の見物に行くのを諫めたが、容れられなかった。

宋の襄公(?〜前637)
  
茲甫⇒
驪姫(?〜?)
  驪戎の出身。晋の献公の五年(前672)、晋軍が驪戎を攻めたため捕らえられ、妹とともに献公の後宮に入れられた。献公との間に奚斉を生んだ。また驪姫の妹は卓子を生んだ。奚斉を太子にするために、献公の長子・申生を曲沃に、次子・重耳を蒲に、三子・夷吾を屈に赴任させ都から遠ざけた。さらに工作して三公子を罪に落とし、申生を自殺させ、重耳を狄に、夷吾を梁に追いやった。しかし、二十六年(前651)に献公が薨じたのち、奚斉は大夫の里克らに殺された。卓子が立ったが、これも殺された。夷吾が秦を後ろ盾に入国し、恵公として立った。

晋の文公(前697〜前628)
  
重耳⇒
秦の穆公(?〜前621)
  
任好⇒
趙盾(?〜前599?)
  趙宣子。趙衰の子。晋の襄公七年(前621)、中軍元帥に任ぜられ、国政を握った。襄公の死後、はじめ公子雍を立てようとしたが、やがて寝返って幼少の太子・夷皋を立て、これを晋の霊公とした。公子雍の後見となった秦軍を令狐で撃退した。また霊公の六年(前615)、河曲で秦軍を破った。八年(前613)、周の卿士周公閲と王孫蘇が政権を争ったとき、王都に遣わされて調停した。十三年(前608)、楚と鄭が同盟して陳・宋に侵入したため、陳・宋を救うため魯・陳・衛・宋の諸侯とともに鄭を討ち、北林で楚軍と戦ったが晋将・解揚を捕虜とされ、退却に追い込まれた。十四年(前607)、成長した霊公は残忍暴恣になり国人を殺傷したので、趙盾はたびたび諫めたが聞き入れられず、かえって殺されそうになった。このため国外に亡命しようとしたが、大夫の趙穿が霊公を弑殺したためやめた。このとき史官の董狐に「趙盾、その君を弑す」と記録された。趙盾は「殺したのは趙穿で自分ではない」と抗議したが、「国の宰相でありながら霊公を殺した者を討伐しなかったのは、殺したのと同じである」と指摘されると、黙って悪名を甘受した。周にいた黒臀を迎えて成公として擁立した。

楚の荘王(?〜前591)
  
熊侶⇒
士燮(?〜前574)
  范文子。士会の子。晋の景公十一年(前589)、晋が魯と衛を助けたとき、郤克・欒書・韓厥とともに斉を攻め、鞍で戦って斉軍を大いに破った。晋の詞二年(前579)、楚の公子罷・許偃と宋の西門の外で会盟し、相互不可侵と危難のさいの救援を約した。六年(前575)、欒書・郤リ・韓厥・郤至らとともに鄭を攻めた。楚が鄭の援軍として来たため、士燮は戦いを避けようとした。詞は欒書・郤至の主戦論を取りあげて戦い、楚の共王を鄢陵で破った。戦勝ののち、詞の無軌道ぶりと郤リ・郤犨・郤至ら三郤の慢心はつのった。翌年、晋の禍難を予見し、祝宗に自分の死を祈らせ、まもなく没した。

崔杼(?〜前546)
  
⇒崔杼
趙武(前597?〜前541)
  趙文子。趙朔の子。晋の景公三年(前597)、大夫の屠岸賈が趙盾の罪を持ち出して、趙朔・趙同・趙括・趙嬰斉らを討ち、趙氏を族滅した。しかし、趙朔の妻が胎内に宿していた趙武ひとりが、臣下の助けにより生き延びた。十七年(前583)になって景公が趙氏の子孫が生き残っているかを韓厥に訪ね、事実を知っていた韓厥はありのままを答えた。景公と韓厥は趙武を正式に跡目と認めてかくまった。趙武らは屠岸賈を襲い、これを族滅した。趙武はもとの趙氏の領土が与えられた。この話は「趙氏孤児」として知られる。悼公のとき、卿となった。のちに新軍の将となり、また荀偃に代わって上軍の将となった。

季札(?〜?)
  延陵に封じられたので、延陵の季子ともいう。呉王・寿夢の末子。寿夢が後継者に望んだが、彼はあくまで拒否した。そのため寿夢の長子・諸樊から兄弟順に継がせて、季札にいたることと定めた。寿夢の次子・余祭の代に、季札は使者として諸国におもむいた。魯で周の音楽を聴き、斉で晏子をいさめ、晋で政権が趙・魏・韓の三家の手に落ちることを予見した。寿夢の三子・余昧が没したとき、季札はまたしても即位を拒んだ。余昧の子の僚が跡を継いだが、諸樊の子の光が僚を殺して、呉王(闔閭)として立つと、帰国して僚の死を嘆いた。

子産(前585?〜前522)
  本名は姫僑(公孫僑)。子産は字。鄭の穆公の孫にあたる。若いときから国事に関心を抱いた。鄭の簡公の元年(前565)、鄭が蔡を攻めて戦勝して、鄭人はみな喜んだが、子産はひとり「小国が徳もないのに武功を挙げるのは災いだ。晋楚両国の攻撃を受けて今後数年は安泰をえられないだろう」と嘆いた。翌年から鄭は晋・楚の交互の侵攻を受け続けて苦しみ、翌々年には執政・子駟が殺され、子孔が政権を握った。十二年(前554)、卿となった。二十三年(前543)、子皮に代わって執政を任された。身分の別を明らかにし、農地の区画を整理し、五人組を組織するなど、改革を進めた。能力のあるものを登用し、罪があれば顕貴の者でも罰した。三十年(前536)に刑法を青銅の鼎に鋳出したのは、中国最初の成文法といわれる。法を用いながらも、徳治を重んじて後世の法家とは一線を画した。簡公の死後も、定公・献公・声公に仕えた。彼が亡くなったとき、鄭の人々で嘆かぬものがなく、孔子もその死を惜しんだと伝えられる。

晏嬰(?〜前500)
  
⇒晏子
闔閭(?〜前496)
  名は光。在位前514〜前496。呉王・諸樊の子。呉王・寿夢には四人の子(諸樊・余祭・余昧・季札)があったが、末子の季札が優れていたので、季札に跡を継がせたいと望んだ。季札が拒否したので、諸樊から兄弟順に継がせた。三子・余昧が没したとき、季札はまたしても拒んだため、余昧の子の僚が跡を継いだ。長子・諸樊の子である光は不満をつのらせた。伍子胥から専諸を推挙され、専諸に呉王・僚を殺させた。光は即位して、呉王・闔閭(闔廬)となる。伍子胥を行人として登用し、孫武や伯嚭らを用いて、楚を攻撃させた。闔閭の九年(前506)には、楚の都・郢を陥落させた。十九年(前496)に越の句践の軍に攻撃を受け、姑蘇に敗れて戦傷を受け、それがもとで没した。

孫子(?〜?)
  本名は孫武。呉孫子とも称する。斉の人。呉の闔閭に仕え、西は楚の都・郢に侵入し、北は斉や晋を威嚇した。兵家に属する思想家。『孫子』を著す。

伍子胥(?〜?)
  名は員。楚の人。伍奢の次子。伍奢は楚の太子・建の太傅であったが、費無忌の讒言にあって陥れられ、伍奢とその長子・伍尚は死罪となった。伍子胥は太子・建とともに鄭に亡命。さらに建の子・勝とともに呉に亡命した。呉で公子・光(闔閭)に仕え、一時隠棲したが、闔閭が王となると召し出された。楚や越を討ち、楚の都・郢では平王の墓を暴いて「屍に鞭打」ち、恨みをそそいだ。闔閭が没し、夫差の代となると、越の滅亡を進言して聞き入れられず、次第にうとんじられるようになった。自殺を命じられ、「我が墓に梓を植えよ。呉王の棺とするためである。我が目を抉って呉の東門に掛けよ。越が呉を滅ぼすのを見るためである」と言い残して没した。

夫差(?〜前473)
  在位前495〜前473。呉王・闔閭の子。闔閭に「汝は句践が汝の父を殺したことを忘れるか」と言い残されて即位。薪の上に臥して復讐を誓った。夫差の二年(前494)、精兵をもって越を討ち、会稽山に追いつめた。句践は和を請い、夫差は伍子胥の諫言を無視して句践を許した。以後、夫差は斉や魯を攻撃して、覇者とならんと望んだ。越から献上された美女・西施におぼれ、たびたび諫言をおこなった伍子胥を自殺させた。十四年(前482)、衛の黄池に諸侯を集めて会盟を主催したが、その隙をついて越王・句践が起兵。十八年(前478)には笠沢で越軍に大敗し、やがて呉の都を包囲されて降った。句践は夫差に甬東に百戸を与えて住まわせようとしたが、夫差は謝絶して「伍子胥に会わせる顔がない」と言い残して自刎して果てた。

句践(?〜前465)
  勾践とも書く。在位前496〜前465。越王・允常の子。即位した元年(前496)、呉王・闔閭に戦いを挑み、これを敗死させた。三年(前494)、呉王・夫差に復讐戦を挑まれ、夫椒に敗れて、会稽山に囲まれた。句践は夫差の臣僕となることを誓って和を請うた。夫差に許されて帰国。肝を嘗めて会稽の恥をそそぐことを誓った。みずから農作業にいそしみながら、大夫種や范蠡を重用して、国力の再建を図った。呉王・夫差を驕らせ、北方の戦争に傾注している間に、精兵を訓練させた。十五年(前482)、夫差が黄池に会盟を開いている留守をねらって起兵し、呉を攻撃した。ひとたび和睦したが、十九年(前478)に再び戦端をひらき、笠沢で大勝し、呉の都を三年にわたって包囲した。夫差が和を請うと許そうとしたが、范蠡の諫言に従って自刎させた。呉を平定した後、兵を率いて北に向かって淮水をわたり、徐州で諸侯と会盟した。呉が奪っていた土地を楚や宋に返還してやり、覇者となった。のちに范蠡は句践のもとを去り、大夫種は句践によって自殺させられた。

范蠡(?〜?)
  越王句践に仕えた謀臣。呉王夫差のもとに美女の西施を送り、油断させた。また夫差と伍子胥の君臣関係を裂いた。夫差が北方の戦争に意識を集中している間に、越の国力を増大させ、一気呵成に攻撃をかけて呉を滅亡させた。夫差が和を請うと句践は許そうとしたが、「天の与えるところを取らざれば反ってその咎めを受く」と諫めて、夫差を自刎させた。句践が覇者となると、ともに苦労できても、ともに栄華を楽しめる人ではないと言って、勾践のもとを去る。一説によると、陶朱公と名を変えて、商売をはじめ、成功して財をなした。また一説によると、太湖のほとり無錫に隠棲し、西施とともに暮らした。

李耳(?〜?)
  字は耼、またの字は伯陽。老子と呼ばれる。道家により仙人と崇められ、太上老君とも呼ばれる。楚の苦県視ス曲仁里の人。孔子と同時代の人で、周の蔵室を管理した史官だったという。実在を疑う説もある。白髪で杖をついた老人として産まれたという説、孔子(ときには釈迦とも)と会談したという説、青牛に乗って西方へ消え去ったという説、楚の老莱子と同一人物だという説、周の太史儋と同一人物だという説など、その生涯は伝説につつまれている。宇宙の根本原理としての「道」を説き、無為自然を尊重した。道家の祖。『道徳経』。

陽虎(?〜?)
  またの名を陽貨。季桓子に仕えて台頭し、主人をしのぐ権勢をふるった。魯の定公五年(前505)には、季桓子を拘禁して盟を交わし、魯の政権を握った。八年(前502)、三桓氏の当主を殺して、三桓を自派で固めようと計画した。手始めに季桓子を殺そうとしたが、季桓子が孟懿子の邸に逃げ込み、防備を固めた孟家軍により陽虎の軍は撃退されたため、魯の宝玉と大弓を奪って逃げ、陽関の城に籠もった。翌年、敗れて斉に逃げた。斉に拘束されたため、宋に逃げ、さらに晋に逃げて趙氏に仕えた。

孔子(前552?〜前479)
  本名は孔丘。字は仲尼。魯の昌平郷陬邑の人。父母は不詳。『史記』によると、父は叔梁紇、母は顔氏。魯に仕え、委吏・司職吏を歴任した。南宮敬叔の推薦で周の都に赴き、礼について学んだ。このとき老子と対談したともいう。魯の昭公の二十五年(前517)、三桓氏が乱を起こし、魯の昭公は斉に亡命した。孔子もまた斉に移り、高昭子の家臣となって、斉の景公に近づいた。景公にたびたび進言したが、斉の大夫に孔子暗殺の動きが出たため、斉を去り帰国した。魯は定公の時代となり、季桓子の臣・陽虎が政権を握ったが、孔子は陽虎をきらって仕官せず、学問に専念した。陽虎が失脚して亡命すると、中都の宰に任命され、司寇に上った。定公の十年(前500)、斉と和睦し夾谷に会見をおこなうこととなったが、孔子は毅然と対応して対等の盟約を結ばせ、異民族の音楽を鳴らした斉の景公を叱責して面目を失わしめたという。魯が富強となるのをおそれた斉によって、魯の定公のもとに美姫や駿馬が贈られた。定公は政務への意欲を失い、郊の日に祭肉が配られないのを見て、孔子は弟子たちとともに魯を去った。衛の霊公に登用されたが、身の危険を感じて去った。汲フ町では、孔子が陽虎と似ていたという理由で兵の包囲を受けた。宋に行き、宋の桓魋に危害を加えられた。鄭では弟子たちとはぐれたが再会し、陳に三年間寄寓した。さらに南行して楚を志したが、楚の葉公に失望して、魯への帰途についた。陳・衛・蔡を経て帰国した。その後、仕官することなく、弟子たちに教育した。七十三歳で没した。儒家の祖とされる。

顔回(前522?〜前482)
  字は子淵。魯の人。孔子がもっとも期待をかけた弟子。夭逝した。「顔回という者有り。学を好み、怒りを遷さず、過ちを弐びせず。不幸にして短命にして死せり。今や則ち亡し」(『論語』雍也篇)。

仲由(前543?〜前480)
  字は子路。魯の卞の人。野鄙で武勇を好んだ。孔子と出会って無礼を働いたが、孔子は子路に礼を諭した。孔子の弟子となって学んだ。衛の蒲の大夫となり、孔子に別れを告げた。衛において孔悝の乱が起こると「君子は死んでも冠は脱がぬ」と言い残して斬り殺された。

端木賜(前521〜?)
  字は子貢。衛の人。孔子の弟子。口先が達者で、商品や財産の運用が巧みだった。斉の田常が魯を攻めようとしたとき、斉・呉・越・晋に赴いて遊説し、斉と呉を争わせて魯を救い、晋と呉を争わせて晋を強大化させ、越(句践)に呉を滅ぼさせて覇者たらしめた。魯や衛の宰相となり、財産は千金に及び、最後は斉で死んだ。

曾参(前505〜前433)
  曾子と称される。字は子輿。南武城の人。孔子の弟子。孔子に魯鈍と評された。よく父母に仕え、孝を道徳の基本とした曾子学派を形成した。

孔伋(前492〜前431)
  字は子思。魯の人。孔鯉(伯魚)の子。孔子の孫にあたる。晩年、魯の穆公の師をつとめた。『中庸』を編纂した。

趙襄子(?〜前425)
  本名は趙無恤。在位前458〜前425。趙簡子(趙鞅)の子。晋の出公の十七年(前457)に父の跡を受けて趙の当主となる。姉婿にあたる代の王を食事に招き、騙し討ちにした。また知伯・韓・魏と共謀して范氏・中行氏の領地を分け取りした。知伯・趙・韓・魏の専横に怒った晋の出公は、四卿を討伐しようとして、逆襲を受けて、斉へ亡命。知伯が懿公を位につけた。四卿のうち知伯が傲慢になり、領土を趙に要求してきた。それに襄子は応じなかったので、知伯・韓・魏は共同して趙を攻め、襄子は晋陽に籠城した。晋陽は水攻めにされて孤立し、兵や城民は飢えた。襄子は張孟同を派遣して、韓・魏と密かに結び、堰を切らせた。混乱する知伯に逆襲して、これを討ち、滅ぼした。
↓次の時代=戦国

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