[中華民国(1912〜)]
⇒中華民国(建国期,五四・軍閥混戦期,抗日戦・内戦期,台湾政権期)
※抗日戦・内戦期
[国民政府]蒋介石−孫科−(汪兆銘・蒋介石)−林森(蒋介石)−蒋介石
蒋介石(1887〜1975)
名は中正。介石は字。浙江省奉化の人。蒋粛菴の子。鳳麓学堂・箭金学堂・保定陸軍速成学堂に学んだ。日本に留学し、振武学校を卒業。孫文の知遇をえた。陸軍高田連隊に籍を置いたが、辛亥革命が勃発すると、帰国。第五団の団長として杭州制圧にあたった。民国建国後、第二革命が失敗すると、日本に亡命。1915年に帰国して、上海で袁打倒の工作にあたった。のち、広東軍に加わるが、陳炯明と対立した。1923年、ソ連に留学。1924年、黄埔軍官学校の校長となる。1926年、国民革命軍総司令となり、北伐軍を指揮した。途中、上海クーデターを起こして、反共に転じ、第一次国共合作を崩壊させた。1928年南京国民政府が成立すると主席。北伐を完成させた。日本が東北・華北に侵略の手を伸ばす間も、共産党勢力の掃討に力を注いだが、1936年、西安で張学良らに軟禁される(西安事件)と、第二次国共合作を成立させ、抗日戦を指導した。抗日戦争後、ふたたび共産党と対立して、内戦を起こしたが、1949年に大陸から追われ、台湾に国民政府を樹立。戒厳令を布き、二・二八事件などで本省人を抑圧しながら、台湾を支配。中国本土への反攻を高唱した。『中国の命運』。
鄭孝胥(1857〜1940)
字は蘇戡、号は太夷。福建省閩県の人。1891年に駐日大使館書記官となり、翌年には神戸・大阪総領事になった。帰国後は、京漢鉄路南段総辧・江南造幣局総辧などを歴任した。1924年、北京政変が起こると、溥儀の逃亡を助けた。満州国が成立すると、国務総理・文教部総長となった。長春で没した。『海蔵楼詩集』。
羅振玉(1866〜1940)
字は叔蘊、号は雪堂。浙江省上虞の人。のちに淮安に居を移した。清末に学部参事に任ぜられた。辛亥革命のとき、日本に亡命した。満州国の成立とともに、溥儀に仕えたが、のちに旅順に引退した。甲骨・銅器・簡牘・明器・佚書などの考古資料の収集整理と研究につとめた。『殷墟書契考釈』、『三代吉金文存』。
林森(1862〜1943)
字は子超、号は長仁。福建省閩侯の人。1902年、上海海関に任職し、福建学生会を組織した。1905年、中国同盟会に参加して、孫文を援助した。1909年、九江海関にうつった。辛亥革命後、九江軍政分府を成立させ、民政長となった。1912年、南京臨時参議院議長・国会非常会議副議長に選ばれた。のちに福建省省長となった。1924年には国民党中央執行委員・海外部部長。孫文の死後、連ソ容共路線に反対し、西山会議においてボロディンの解雇を決議した。1927年、南京国民政府に入り、立法院副院長となった。1932年、国民政府主席となる。以後も国民党右派の元老として活躍した。1943年、重慶で没した。
汪兆銘(1885〜1944)
字は季新、号は精衛。浙江省紹興の人。広東省番禺に移り成長した。日本に留学して、法政大学在学中に中国同盟会に加入した。1910年、清朝の摂政醇親王の暗殺をねらい、失敗して獄に入った。辛亥革命後に釈放され、南北講和に参加した。第二革命の失敗後、欧米を遊歴し、仏で社会学・文学を学んだ。国民党改組後、中央執行委員・宣伝部部長となる。広東国民政府で常務委員会主席・軍事委員会主席。1927年、国民党左派を率いて武漢政府を立て、蒋介石と対立したが、間もなく崩壊。1932年、蒋と和解して、南京で国民党政府の首相となるが、同年のうちに蒋により放逐された。1940年3月には一転して、南京で日本の傀儡政府(国民政府)の政府主席・行政院長となった。日本の主導による大東亜会議に参加した。1944年、日本の名古屋で病没した。
郁達夫(1896〜1945)
本名は郁文。達夫は字。浙江省当陽の人。1913年から日本に留学し、1919年に東京帝大経済学部に入学。1920年、郭沫若らと創造社を結成し、文学創作にあたった。1922年、帰国。翌年、北京大学講師となる。1924年、武漢大学教授に就任。1926年、広州大学にうつった。1937年、左翼作家連盟に参加。武漢において抗日救亡工作に参加した。シンガポールにうつり、「星洲日報」の編集者となる。シンガポールが陥落すると、インドネシアのスマトラ島にうつり、趙廉の変名で暮らした。日本語のできる華僑として徴用され、翻訳の仕事にあてられた。1945年、日本軍によって殺された。『沈倫』。
聞一多(1899〜1946)
字は友三、号は友山。湖北省キ※1水の人。1912年、清華学校に入学。美術や詩文に才能を見せた。1919年の五四運動のころから、新詩を創作しはじめた。1922年、米に留学して、シカゴ美術学院・コロラド大学に学んだ。1925年に帰国すると国民革命軍政治部芸術課長に任ぜられた。1926年には『晨報・詩鐫』を創刊して、新詩にもリズムと格律が必要だと説いた。1928年、月刊誌『新月』の編集に参加して詩文や翻訳を発表した。このころから詩作から古典詩歌の研究に移り、南京・武漢・青島などの大学で教壇に立った。1932年には清華大学教授となる。『伏羲考』『詩経新義』『楽府詩箋』などを著した。日中戦争が始まると、長沙、さらに昆明へと疎開し、西南連合大学で教育と研究を続けた。やがて民主主義や停戦のための文章を書くようになり、1944年には民主同盟に加盟。1946年、国民党特務を批判する演説を行った日の夕方に暗殺された。
博古(1908〜1946)
本名は秦邦憲。字は則民。江蘇省無錫の人。1925年、共産党に入党。翌年ソ連に留学し、モスクワの東方大学で学んだ。パベル・ミフに訓練された「二十八人のボルシェヴィキ」のひとりとなる。1930年に帰国し、中央宣伝部部長。中央政治局委員に選出され、王明の指導権確立に寄与した。1932年、党中央臨時総書記。1934年、党中央総書記に選出された。この間、都市革命路線を主張して、農村革命路線を主張する毛沢東らと争った。遵義会議以降、主導権を毛沢東に奪われた。1936年、臨時西北ソヴィエト政府主席。1937年、中央組織部長。1938年から重慶の八路軍連絡使節団の宣伝部主任。1941年から『解放日報』の編集長。1946年、政治協商会議に出席して国民党と協議し、延安に引き返す途中、飛行機事故のため死亡した。
葉挺(1896〜1946)
字は希夷、号は西平。広東省恵陽の人。保定軍官学校を卒業。1924年ソ連に留学。翌年、国民革命軍第四軍参謀処長・独立団団長となる。北伐に参加し、鉄軍の異称をえた。1926年、国民革命軍第十一軍二十四師師長・武漢警備司令となった。1927年、南昌蜂起を指導。また広州蜂起に参加して、失敗後香港に逃れた。1937年、新四軍を組織して抗日戦を戦った。1941年、国民党軍が新四軍を待ち伏せ攻撃して副司令の項英を捕らえて処刑、葉挺も傷を負って投獄された(皖南事変)。1946年、釈放されて延安に行く途中、飛行機の墜落で死亡した。
戴笠(1897〜1946)
字は雨農。浙江省江山の人。1926年黄埔軍官学校に入り、蒋介石の侍従副官をつとめた。蒋のために情報を収集して信任をえた。国民政府軍事委調査統計局に入り、累進した。「藍衣社」を創設して特務政治を展開し、国民政府の情報・人事に多大な影響力をふるった。抗日戦中は、重慶政府の戦時貨運管理局長などをつとめた。1946年、飛行機の事故で死亡した。
陳公博(1892〜1946)
広東省南海の人。1921年の共産党創立に参加したが、翌年に離党した。米コロンビア大学に留学。1925年に帰国し、広東の大学で教鞭をとった。国民党に入党して、農民部長となり、おもに労農運動を指導した。1927年、汪兆銘の主導のもと武漢政府に参加。1928年以後は上海で隠棲した。1931年、党籍を回復し、国民党中央民衆訓練部長・行政院実業部長などをつとめた。1940年南京国民政府に参加し、立法院長・軍事委政治訓練部長となった。1944年に汪兆銘が日本で没すると、南京政府の主席代理・国防最高会議主席・行政院長・軍事委委員長などを兼務した。終戦直後に日本に亡命したが、蒋介石政府と日本との交渉により帰国。漢奸裁判を受けて死刑判決が下り、蘇州で処刑された。『寒風集』。
周仏海(1897〜1948)
湖南省沅陵の人。1917年、日本に留学して京都帝大に学んだ。1921年の共産党創立に参加した。しかし1924年に国民党右派の活動に参加したため除名された。北伐のとき、蒋介石の秘書をつとめた。1932年には藍衣社の設立に参与した。国民党中央民衆訓練部長などを歴任。1938年に国民党中央宣伝部長に上ったが、汪兆銘とともに重慶を脱出した。汪兆銘首班の国民政府が南京に成立すると、行政院副院長・財政部長・軍事委副委員長・上海市長などをつとめた。日本側と交渉するいっぽう、重慶の蒋介石とも接触を保った。日本の敗戦時には、国民党軍事委上海行動総隊総指揮に任ぜられた。のちに漢奸として裁判を受け、獄死した。『周仏海獄中日記』。
呉虞(1871〜1949)
字は又陵。四川省新繁の人。日本に留学し、北京・四川大学教授を歴任した。『新青年』に寄稿して、一貫して反儒教・反専制を主張した。文学革命の中心人物のひとり。
楊虎城(1883〜1949)
陝西省蒲城の人。楊懐福の子。辛亥革命に参加。陝西靖国軍第五路司令に上った。1924年、国民党に加入。翌年、国民革命軍第三軍第三師師長となった。のち馮玉祥に従って河南に進軍、北伐に参加した。1930年以降、国民革命軍第十七師総指揮・陝西省政府主席などを歴任した。1936年、西安事件で張学良とともに蒋介石を監禁し、内戦停止と抗日合作を迫った。事件後の1937年にはヨーロッパを外遊し、帰国後に国民党特務に捕らえられ、以後長く監禁された。江西・湖南・貴州などを転々として、1949年に重慶で国民党特務により殺された。
戴季陶(1891〜1949)
本名は伝賢。号は天仇。四川省広漢の人。若くして日本に留学し、中国同盟会に加盟した。辛亥革命後、孫文の秘書・通訳となり、『民権報』の主筆をつとめた。1917年より広東政府の法制委員会委員長・大元帥府秘書長をつとめた。五四運動のころ、上海で『星期評論』誌の編集に携わった。一時は共産党員でもあった。1924年、国民党中央執行委員・中央宣伝部長。孫文の死後、反共に転じ、孫文学説を儒教的に解釈した。南京国民政府が成立すると、国民政府委員・考試院院長などを歴任。蒋介石のブレーンとして活躍した。1949年、広州で睡眠薬自殺を図って没した。
アグネス・スメドレー(1882〜1950)
漢名は艾格尼絲・史抹特菜。米国ミズーリ州オスグッド村の人。コロラド州トリニタッドにうつり、苦学してアリゾナ州テンペ師範学校・ニューヨーク大学などで学んだ。第一次大戦中には、インドの独立運動に協力して、中立法違反で検挙された。出獄後の1919年末、ポーランドへ、次いでベルリンに渡った。八年にわたってインド独立運動家チャトパジャーヤと暮らした。1928年、ドイツ紙「フランクフルター・ツァイトゥング」の記者として中国に渡る。上海を拠点に各地を取材し、宋慶齢や魯迅、尾崎秀実らと親密な往来があった。のち「マンチェスター・ガーディアン」紙の記者となる。1937年に延安に入って、紅軍根拠地を取材した。1940年、帰米して執筆・講演を通じて中国情勢を伝えた。1949年、マッカーシズムの嵐の中、ソ連のスパイと糾弾されて英国に渡った。翌年、客死した。朱徳の半生を描いた『偉大なる道』を著した。ほか『中国は抵抗する』、『中国の運命』。
陳果夫(1892〜1951)
浙江省呉興の人。陳立夫の兄にあたる。若いころは上海で投機売買をしており、蒋介石と親交を持った。1924年、国民党中央組織部副部長・代理部長。北伐にさいし、後方総司令部秘書長。1927年国民党中央常務委員・組織部長・監察院副院長・江蘇省主席。弟の陳立夫とともにCC団(中央倶楽部)を創設した。のち国民党中央党部調査統計局局長。国民党特務の長として共産党員や左派人士を弾圧した。いわゆる四大家族の一角をなす陳家の家長。
杜月笙(1888〜1951)
本名は杜縺B江蘇省浦東の人。幼くして父母を失い、十三歳のとき上海に下働きに出た。放蕩無頼に明け暮れ、青帮の陳世昌の門下に入った。仏租界を牛耳る黄金栄の下につき、アヘン売買と賭博経営で頭角をあらわした。上海クーデターでは蒋介石を援助して総工会打倒に協力した。以後、青帮と上海の政財界を牛耳り、隠然たる実力を保持した。抗日戦争中は香港に、ついで重慶にうつり、後方で生活物資の調達・供給に尽力して声望をあげた。抗日戦後まもなく上海に戻って戦前の地位を回復したが、蒋介石との間に隙を生んだ。1946年に全国紡績同業会連合会長となり、翌年には上海市参政会議長に当選したが辞任。1949年に共産党が上海を占領すると、一族とともに香港にわたった。1951年、香港で没した。
張景恵(1871〜1957)
遼寧省台安の人。1895年、八角大鎮大団の団練長となった。1900年、張作霖が参加すると団練長の地位を張に譲った。張作霖とともに清の招撫を受け、北洋軍閥奉天派の重鎮となる。1926年、顧維均内閣の陸軍部部長をつとめた。1932年、満州国軍政部長。1935年には同国務総理となった。日本の敗戦によってソ連に抑留され、のち中国に引き渡されて撫順収容所に収監された。
陳嘉庚(1874〜1961)
福建省廈門の人。裸一貫で南洋に渡り、商業に従事した。マライのゴム事業に成功して、華僑財閥を築き上げた。1922年、廈門大学を創設した。抗日戦争期にシンガポールで愛国献金運動を起こした。抗日戦後は『南僑日報』を創刊した。内戦に反対し、政治協商会議に華僑代表として参加した。解放後、政治協商会議副主席・全人代常務委員・帰国華僑連合会主席などをつとめた。北京で病没した。
徳王(1902〜1966)
本名はデムチュクドンロブ(徳穆楚克棟魯布)。内蒙古の人。抗日戦争中に日本の援助で蒙古連合自治政府を組織して内蒙古の独立を謀った。1939年に蒙古連合政府主席となる。1949年に蒙古自治政府の建立を企図したが失敗した。
周作人(1885〜1967)
字は星杓、または啓明、号は知堂。浙江省紹興の人。魯迅の弟にあたる。1901年、江南水師学堂に入学。1906年、日本に留学した。魯迅とともに西洋文学の翻訳につとめた。辛亥革命後に帰国して高校教師となる。1917年には魯迅の紹介で北京大学教授となり、国史編纂処纂輯員・燕京大学教授などを兼ねた。人道主義・個人主義の立場にもとづき、新文化運動を提唱し、西洋や日本の文学の紹介をおこなった。日中戦争の間は、北京にとどまり、日本の占領下で北京大学図書館長・教育総署督弁などをつとめた。1945年、日本敗戦とともに漢奸罪で国民党政府に逮捕され、懲役十四年を課せられた。1949年の解放後に釈放され、北京に蟄居した。その後も筆名を変えて翻訳や魯迅研究の発表を続けた。
李宗仁(1891〜1969)
字は徳隣。広西省臨桂の人。1908年、中国同盟会に加入した。1913年、広西陸軍速成学校を卒業。桂系護国軍に投じた。1921年、軍閥混戦の機に勢力を拡大し、広西自治軍を結成。1923年、国民党に入党。翌年、黄紹紘・白崇禧らと合わせ広西定桂討賊連軍を結成した。桂系軍閥三大首脳のひとりとなる。1925年、旧軍閥を破って、広西を統一した。国民革命軍第七軍軍長として、北伐に参加。南京国民政府が成立すると、一時は政権を握った。反蒋戦争に敗れ、広西に退いて南京政府に対し半独立を維持した。抗日戦時には、第五戦区司令長官・安徽省政府主席をつとめた。1948年には総統選挙に出馬して、国民政府副総統となった。翌年、蒋介石の下野にともなって代理総統に就任。国民政府が台湾に移る直前、香港を経てアメリカに移住した。1965年、アメリカより中国へ帰還した。1969年、北京で没した。
翁文灝(1889〜1971)
字は咏霓。浙江省鄞県の人。ベルギーのルーバン大学に留学し、近代科学としての地質学を中国に導入した。北京大学や清華大学の教授をつとめた。1934年、北京研究院地質学研究所主任となった。政界に転じて、1935年に行政院秘書長。1937年、経済部長。1945年、国民党中央委員・行政院副院長。1948年に行政院長となり、貨幣改革にあたって、金円券を発行したが、悪性インフレにみまわれ、経済は混乱して辞職した。翌年、李宗仁のもとで秘書長をつとめたが、国共和解に失敗して職を去り、フランスに渡った。1951年、香港経由で中国に入った。1954年、政協委員となる。以後、翻訳と学術研究につとめた。文革のあいだも保護を受け、矢面に立つことは少なかった。1971年、北京で病没した。
エドガー・スノー(1905〜1972)
漢名は埃徳加斯諾。アメリカのミズーリ州カンザスの人。コロンビア大学に学んだ。1928年に世界一周の途中に上海を訪れ、そのまま中国に滞在した。「サタデー・イブニング・ポスト」誌の特派員として、戦争報道に従事し、多くの中国人と交流した。1932年、『極東戦線』を刊行。1936年6月、宋慶齢の紹介で西北の紅区を訪れ、毛沢東の半生を取材して『中国の赤い星』を書き上げ、翌年10月にロンドンで刊行し、1938年1月にはニューヨークで出版した。1939年に毛沢東と再度の会見。1941年に帰国。大戦後再び訪中しようとしたが、蒋介石政府に入国を拒否された。1949年に女優ローイス・ホイーラーと再婚。1960年と1964年に訪中し、毛沢東と会見している。1970年、最後の訪中をおこない、10月と12月に毛沢東と会見して、ニクソン招待の意志を聞き出し、はじめての林彪批判を引き出した。ほか、『アジアの戦争』、『今日の中国』。
パール・バック(1892〜1973)
アメリカの人。牧師の娘として生まれ、少女時代を中国で過ごした。自身も牧師として中国で生活した。1932年に『大地』を著して、ピューリッツア賞を受けた。1938年にはノーベル賞を受賞した。
オットー・ブラウン(1901〜1974)
中国名は李徳。通名リトロフ。ドイツの人。ドイツ共産党に入党。ドイツ中部の労働者蜂起に参加。1926年に逮捕されて死刑を宣告されたが、1928年に脱走してソ連へ。軍事学院で学んだ。1932年ごろ上海に入り、コミンテルンの軍事顧問として江西の共産党根拠地に入った。長征に参加した唯一の外国人となる。遵義会議では秦邦憲らとともに批判を受けた。陝北に遷ったのちに、抗日軍政大学で教えた。1939年延安を去り、ソ連へ。1949年、東ドイツに帰国した。マルクス主義研究所で翻訳に従事した。中ソ論争ではソ連を支持した。1974年に病没した。『中国紀事』。
王明(1907〜1974)
本名は陳紹禹。安徽省六安の人。1925年、モスクワの東方大学に留学し、翌年に共産党に入党。パベル・ミフに訓練された「二十八人のボルシェヴィキ」の指導者となる。1930年に帰国した後は、ソ連=コミンテルンの影響のもと、共産党内の実権を握った。翌年、二十四歳の若さで中国共産党総書記となる。コミンテルン中国代表。都市革命路線および完全な国共合同を主張して、毛沢東らの農村革命路線と対立して争った。毛沢東が実権を握った後は、影響力を失った。新中国建国後は、政務院法制委員会主任などをつとめた。1956年、病気治療の名目でソ連に逃亡した。1974年、モスクワで没した。『二つの路線』。
張国Z(1897〜1979)
江西省萍郷の人。1919年、李大サのマルクス主義研究会に参加し、北京大学の学生運動を指導した。1921年、中国共産党の結成に参加し、党中央組織部長。1927年南昌蜂起と広東コミューンに参加。1928年からソ連へ。1931年に帰国し、中華ソヴィエト臨時政府の副主席、鄂予皖中央分局書記。鄂予皖根拠地を指導した。1935年、紅軍の第四方面軍を率いて長征に出発。遵義会議では毛沢東の指導権を否認した。陝西省への移動を主張する毛に反対し、紅軍を分断して、第四方面軍を四川に配置し、そこに朱徳を監禁したが、国民党の攻撃にさらされて北への移動を余儀なくされた。黄河を渡ろうとしたときに潰滅状態になった。部隊の指揮を李先念に任せて、徐向前とともに延安に逃げ込んだ。のちに譴責され、逃亡して武漢にいたり、国民党に加入。共産党から除名された。1949年、香港に亡命。1968年、カナダに移住した。1979年、トロントで病没した。『我的回憶』。
[註]
1.キ=
↓次の時代=中華人民共和国,中華民国−台湾政権期
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