[中華民国(1912〜)]
中華民国 ⇒中華民国(建国期,五四・軍閥混戦期,抗日戦・内戦期,台湾政権期
※建国期
[中華民国臨時政府]臨時大総統・孫文,陸軍総長・黄興,内務総長・程徳全,外交総長・王寵恵,財政総長・陳錦濤,海軍総長・黄鍾瑛,司法総長・伍廷芳,教育総長・蔡元培,実業総長・張謇,交通総長・湯寿潜

孫文(1866〜1925)
  字は徳明、号は逸仙、または中山。広東省香山の人。ハワイの兄のもとで教会学校に学ぶ。香港の医学校を卒業。1894年、ハワイで興中会を結成。翌年から清朝打倒を目指して幾度も武装蜂起を試みるが失敗。1905年日本で中国同盟会を結成してその総理となる。三民主義をかかげて、革命勢力の結集を図った。1911年辛亥革命が起こると急遽帰国。翌年、南京を首都とする中華民国の成立を宣言して大総統となった。その後大総統の地位は袁世凱に譲られ、袁の死後も北洋軍閥の後継者たちによって政権がたらい回しにされるようになった。孫文は第二革命を企図して、中華革命党を結成するが、失敗して日本に亡命。1917年以後、広州に中華民国軍政府を樹立し、軍閥打倒(護法の役)を試みるが失敗。1923年第一次国共合作を進め、国民党を改組。1925年馮玉祥の招きで北上し、北京で病没した。「革命いまだ成らず」と言い残したという。『三民主義』、『建国方略』。

宋教仁(1882〜1913)
  字は遯初、号は漁父。湖南省桃源の人。地主の子として生まれた。1904年、黄興らとともに長沙で華興会を発足させ、副会長となった。日本の法政大学に留学し、中国同盟会の会員として活躍。辛亥革命に際し、南京臨時政府の法制院総裁となり、臨時約法を作った。中国同盟会を改組して国民党を組織し、第一回の選挙を勝利にみちびいた。袁世凱の独裁を阻止しようと図り、上海で暗殺された。

袁世凱(1860〜1916)
  字は慰亭、号は容庵。河南省項城の人。郷試に失敗して、軍隊に投じた。淮軍で活躍して、李鴻章の信任をえた。朝鮮で壬午の変が起こると、李鴻章の下で派兵し、朝鮮軍の実権を握った。日清戦争後は新軍の養成に尽力した。戊戌の変法では寝返って保守派についた。1899年山東巡撫となり、同年の義和団事件では、乱の鎮圧と外国人保護に努めて清朝内外の信任を得た。1901年、李鴻章の跡を継ぎ、直隸総督・北洋大臣に就任。1911年、辛亥革命が起こると、孫文と妥協。翌年、宣統帝を退位させて、臨時大総統となった。また翌年、正式に大総統となり、国民党と国会の解散を行って、第二革命を弾圧。1915年、帝政復活運動を起こしてみずから中華帝国洪憲皇帝を号した。反袁の蜂起が相次いで起こり(第三革命)、翌年帝号を取り消し、まもなく憤死した。

黄興(1874〜1916)
  もとの名は軫。字は慶午、号は克強。湖南省善化の人。1902年、日本の宏文書院に留学し、軍事や教育を学んだ。1904年に劉揆一・陳天華・宋教仁らと華興会を結成し、反清活動に従事した。1905年、孫文・章炳麟らと中国同盟会を結成した。1911年、黄花岡事件の中心人物となる。同年十月には辛亥革命に参加し、武漢攻防戦の総司令をつとめた。南京臨時政府では陸軍総長・参謀総長をつとめた。袁世凱に反対して日本に亡命したが、孫文に絶対的忠誠を誓う中華革命党の綱領に反発して孫文と離反した。渡米して反袁活動を続けた。第三革命に呼応しようと帰国し、湖南督軍に推されたが辞退し、譚延闓を推挙した。上海で病没した。孫文・章炳麟とならぶ革命の三尊のひとり。

蔡鍔(1882〜1916)
  字は松坡。湖南省邵陽の人。戊戌政変では変法派に属した。日本に留学して、陸軍士官学校に学んだ。辛亥革命では、革命派と呼応して雲南で蜂起した。革命後、雲南都督となった。1913年、第二革命に呼応しようと準備していたところを、袁世凱に呼び出されて上京し、陸軍の閑職についた。袁世凱の帝政復辟に際して、秘かに梁啓超と連絡して反袁を約した。1915年末、昆明において、袁世凱討伐・雲南独立を宣言して、自ら護国軍を率いて四川に入り、袁軍と戦った(護国戦争、第三革命)。袁の死後、病気治療のために来日し、福岡で病没した。

蘇曼殊(1884〜1918)
  名は玄瑛、字は子穀。日本の横浜で生まれ、早稲田大学で学んだ。日中を往来して多くの革命志士と親交を結んだ。サンスクリットをよくし、画に巧みであった。バイロンの詩を翻訳、ユーゴーの『レ・ミゼラブル』を陳独秀と共訳した。『断鴻零雁記』。

劉師培(1884〜1919)
  またの名を光漢。字は申叔、号は左庵。江蘇省儀徴の人。若くして考証学者として名をあげた。『中国民族志』を撰し、『攘書』などの反清著作をものした。章炳麟と交友し、光復会に加盟した。1907年に渡日し、幸徳秋水らと交友してアナキズムに傾倒し、『天義報』『衡報』を創刊した。『天義報』が発禁となったため帰国すると、突如変節して革命派の同志を密告した。辛亥革命後は裏切者として追求されたが、章炳麟の尽力で釈放された。北京大学教授となり、袁世凱の帝政を支持し、また文学革命に反対して『国故月刊』を創刊した。『劉師培遺書』。

譚人鳳(1860〜1920)
  字は石屏、号は石叟。湖南省新化の人。1904年に華興会に加わった。1906年、反清蜂起に失敗して日本に亡命し、法政大学に学んだ。中国同盟会に加入。孫文の南方偏重に合わず、1911年に中部同盟会を結成して、総務会議議長となり、武昌蜂起に参加して辛亥革命の直接の原動力を作った。南京臨時政府成立のときには、南北講和に反対して、北伐を主張した。第二革命で湖南で反袁の兵を挙げたが、失敗して日本に亡命。のち上海で没した。『石叟牌詞叙録』。

厳復(1853〜1921)
  字は又陵、または幾道。福建省侯官の人。十四歳のとき、福州船政廠に付設された船政学堂に入り、航海術を学んだ。1877年、航海術を学ぶため英に留学したが、西欧の政治制度や思想に触れて傾倒した。帰国後、専制政治を批判して、立憲政治を主張した。ミルやスペンサーらの著作を翻訳してその思想を紹介した。晩年は西欧近代思想にしだいに懐疑的になり、籌安会に参加して袁世凱の帝政を支持し、孔子崇拝を唱えて孔教会に名を連ねるなど、かつての名声を失った。『天演論』。

伍廷芳(1842〜1922)
  字は文爵、号は秩庸。広東省新会の人。シンガポールで生まれた。香港の聖ポール学院を卒業した。1874年、英国に留学。帰国後は香港で法官などをつとめた。1882年、李鴻章の幕下に入り、洋務運動に尽力した。1896年から米国・スペインなどで公使をつとめた。1902年に帰国して、商務大臣・外務部右侍郎などの職を歴任した。沈家本とともに新しい刑法の制定にあたった。1911年、辛亥革命が起こると、陳其美らとともに共和統一会を組織した。まもなく南方民軍全権代表に推されて、南北講和の折衝にあたった。1912年、南京臨時政府が成立すると、司法総長に上った。1916年、段祺瑞内閣の外交総長をつとめた。まもなく広州に下って、護法軍政府の外交部長に任ぜられた。1922年、広東省長となった。

張勲(1854〜1923)
  江西省奉新の人。袁世凱に従い、1908年に甘肅提督。1911年、江南提督。民国になっても清朝に忠誠を誓い、辨子軍と称された。1913年には第二革命を鎮圧して江蘇督軍。1916年には安徽督軍となった。1917年、対ドイツ参戦問題で黎元洪と段祺瑞の対立が激化したとき、北京で宣統帝の復辟を宣言したが、段祺瑞に敗れて、オランダ公使館に逃げ込んだ。翌年、特赦を受けた。

呉昌碩(1844〜1927)
  本名は俊卿、号は缶廬。浙江省安吉の人。幼いころ太平天国の乱のために一家は離散した。湖北や安徽を放浪する生活を送った後に故郷に帰った。同治年間に秀才となったが、それ以上の科挙に応じず、金石学を学び、酸寒尉として書画や印鑑を売りながら、また大官の幕客として暮らした。1899年には安東県令となったが、わずか一ヶ月で辞任した。1904年には西冷印社を結成し、1913年にその社長となった。晩年は上海に住んで文墨活動にいそしんだ。1927年中風のため上海で没した。詩・書画・篆刻にすぐれた。

ル・コック(1860〜1930)
  名はアルベルト。ドイツの人。葡萄商人の家に生まれた。英米に留学し、医学を学んだ。帰国後に家業を手伝うが、ベルリンにうつってオリエント諸語を学んだ。1900年ベルリン民族博物館に入った。1901年から翌年にかけてシリアの探検・発掘にあたった。また1904年11月から翌年12月までトルファン・ハミを、1905年12月から1907年4月までクチャ・カラシャール・トルファン・ハミを、1913年6月から翌年2月までクチャ・トムスクを発掘し、トルコ語文献の研究に貢献した。1925年にベルリン民族博物館館長となり、学術展示や図録作成につとめ、西域美術を世界に紹介した。『高昌』、『シナ−トルキスタンの埋もれた財宝』。

劉揆一(1878〜1950)
  字は霖生。湖南省湘潭の人。1903年、日本に留学した。まもなく湖南に帰り、翌年には華興会に参加して副会長となった。会党と連絡して同仇会を組織し、長沙蜂起を謀ったが、失敗してまた日本に逃れた。1907年、中国同盟会に入り、執行部庶務幹事となり、のちに総理の職務を代行した。衆議を排して、孫文の指導的地位を擁護した。武昌蜂起が起こると帰国して、漢口で参戦した。1912年、袁世凱政府の工商総長に任ぜられた。のち護国運動に参加した。天津で「公民報」を発刊し、帝制に反対した。1916年から1918年にかけて国会議員をつとめた。新中国建国後、湖南省軍政委員会顧問として招聘された。『黄興伝記』。
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