[中華民国(1912〜)]
⇒中華民国(
建国期,五四・軍閥混戦期,抗日戦・内戦期,台湾政権期
※五四・軍閥混戦期
[北京政府大総統]袁世凱−黎元洪−(張勲復辟)−馮国祥−徐世昌−黎元洪−曹錕−(段祺瑞臨時執政)−(張作霖大元帥)
馮国祥(1859〜1919)
  字は華甫。直隷省河間の人。北洋武備学堂を卒業。1893年、淮軍に入った。袁世凱が天津で新軍を練兵したとき、督練営務総辧に任ぜられた。義和団の乱の鎮圧に参加。1903年に練兵処が設置されると、軍学司司長となる。1906年、署正黄旗蒙古副都統・陸軍貴胄学堂総辧に上った。王士珍・段祺瑞とともに北洋三傑と称された。辛亥革命のとき、第一軍軍統として鄂州に出兵して鎮圧にあたり、その後は袁世凱に協力して、その政権樹立に尽力した。1912年に直隷都督、1913年に江蘇都督と歴任し、第二革命の鎮圧にあたった。袁の死後、直隷軍閥の首領となり、安徽派の段祺瑞と争った。黎元洪の下で副総統となり、1917年の張勲復辟失敗後に代行大総統となる。翌年、段祺瑞に圧されて下野した。さらに翌年、北京で病死した。
廖仲ト(1876〜1925)
  もとの名は恩煦。広東省帰善の人。米サンフランシスコに生まれた。1893年、帰国。1902年、日本に留学し、中央大学を卒業。中国同盟会に参加して、孫文と親交を結んだ。辛亥革命後は広東都督府総参議・理財政となった。1913年、孫文に従って日本に逃れた。翌年、中華革命党に参加し、財政部副部長。袁世凱に反対し、護法運動に参加した。1920年に帰国。国民党財務部主任・大元帥府財政部長・秘書長・広東省長などをつとめた。国民党左派の指導者として活躍した。1924年、国民党中央常務委員・工人部部長・大本営秘書長・農民部部長。1925年、国民政府委員・軍事委員会委員・国民革命軍総党代表。この年の8月に広州で暗殺された。

郭松齢(1886〜1925)
  字は茂辰。遼寧省沈陽の人。北京陸軍大学を卒業した。1916年、張作霖の部下となり、奉天派の将領として転戦した。奉天軍閥内で日本留学派の楊宇霆と対立し、親露的とみなされた。のちに馮玉祥に接近し、1924年の第二次奉直戦争のおりに張作霖に叛旗を翻したが、戦いに敗れて銃殺された。

王国維(1877〜1927)
  字は静安、号は観堂。浙江省海寧の人。王乃誉の子。1896年、時務報館の書記となった。薄給多忙の中を苦学し、1901年には日本に留学した。はじめドイツ哲学や中国古典文学を学んだ。のちに経学・史学・金石学を研究。羅振玉とともにおこなった甲骨文字の研究は有名である。1916年に帰国して、清華研究院の教授となる。敦煌出土の木簡を通じて漢代史や唐代音韻学にも貢献した。また詞曲の俗文学的研究や蒙古史料の校訂をおこなった。再興の望みのない清朝に絶望して、北京の昆明湖に身を投げて自殺した。『観堂集林』。

李大サ(1888〜1927)
  字は守常。河北省楽亭の人。幼くして両親を失い、苦学して天津の北洋法政専門学校に学んだ。辛亥革命ではラン
※1州起義に加わった。のち日本の早稲田大学に留学。袁世凱の死後に帰国して、北京大学教授となる。『新青年』の編集に参加して、新文化運動を牽引した。1918年以降、マルクス主義に傾斜。陳独秀とともに、五・四運動を指導した。1921年、中国共産党の創立に参加。第一次国共合作に貢献した。党の華北の重鎮だったが、ソ連領事館に匿われていたところを、張作霖軍によって逮捕され、処刑された。
陸栄廷(1858〜1927)
  字は乾卿。広西省武鳴の人。壮族の出身。1893年に清朝の招撫を受けた。1905年、巡防営統領となった。1907年、鎮南関の蜂起の鎮圧にあたり、総兵に上った。1911年、広西提督となった。辛亥革命が起こると、広西都督となった。勢力を拡大して桂系軍閥の頭目となった。1916年、肇慶軍務院九撫軍のひとりとなった。袁世凱の死後、広東に入り、自ら督軍と称した。まもなく両広巡閲使となった。孫文が護法軍政府を立てると、広州から離れるよう孫文に迫った。1922年、広西軍務督理となった。1924年、桂系軍閥が解体されると、蘇州にうつった。

黎元洪(1866〜1928)
  字は宋卿。湖北省黄陂の人。1883年、天津の北洋水師学堂に入学した。1888年に卒業し、海軍に入った。日清戦争に従軍。のち張之洞のもと砲兵の練兵にあたった。新軍の編成に参与し、また日本に留学した。1911年、湖北新軍の旅団長であったとき、辛亥革命に遭遇。推されて湖北軍政府を掌握した。翌年、南京臨時政府が成立すると臨時副総統となる。進歩党を組織し、袁世凱を擁して国民党と対立した。湖北において第二革命を弾圧し、革命派の人士や兵員万余人を殺害したといわれる。袁の死後の1916年、北京政府の大総統となったが、国務総理・段祺瑞と対立し、翌年には府院の争を起こして段祺瑞を解任した。しかし、張勲の復辟事件が起こったため辞職した。1921年に再度大総統となったが、1923年曹錕に追われて下野した。1928年天津で病没した。

張作霖(1873〜1928)
  遼寧省海城の人。馬賊より身を起こし、清に帰順。1916年には奉天督軍となり、東北奉天軍閥の首領となった。1920年には直隷派と組んで、安徽派の段祺瑞を逐った(安直戦争)。1922年、直隷派の曹錕・呉佩孚らと第一次奉直戦争を争い、敗北して奉天に退き、東北三省の自治を宣言した。1924年、第二次奉直戦争を起こして勝利し、段祺瑞を臨時執政に就けた。日本の支援をえて、1927年には北京で大元帥となる。国民党の北伐軍に敗れ、奉天への帰路に、日本軍による列車爆破のため死んだ。

梁啓超(1873〜1929)
  字は卓如、号は任公。広東省新会の人。1889年、郷試に及第した。翌年、康有為と出会い、その思想に傾倒した。1895年、会試受験のため上京したが、おりしも日清戦争講和をめぐって公車上書運動が起こり、康有為を扶けてこれに参画した。翌年、黄遵憲らと『時事報』を創刊し、「変法通義」などの論文を発表した。1898年、変法派の百日維新に参加し、戊戌の政変で日本に亡命。横浜で『清議報』を刊行して、清の皇帝の下で封建的専制政治を打破することを唱えた。1902年、『新民叢報』を創刊して、西洋の学説・文化を紹介し、文体の改革を提唱した。立憲君主制を主張して、豪・米を廻って保皇会を組織し、革命派の孫文らに対抗した。辛亥革命後に帰国し、進歩党を結成。北京政府に参加して司法総長となった。袁世凱の帝政運動が進行すると、雲南の護国軍政府に参画した。袁世凱の死後は、護国軍政府を解散し、段祺瑞内閣の財政総長に就き、第一次大戦への参戦を主張した。1919年、パリ講和会議に参加。翌年、政界を退き、以後は著述に専念した。『清代学術概論』、『中国歴史研究法』。

向忠発(1880〜1931)
  湖北省漢川の人。1922年、共産党に入党した。1926年、湖北省総工会委員長。1928年、モスクワで開かれた第六回中国共産党大会で、瞿秋白の跡を継いで総書記となった。李立三の都市蜂起路線を支持したが、失敗すると自己批判。1931年、李立三の支持者・顧順章によって国民党官憲に売り渡され、処刑された。

蔡和森(1895〜1931)
  字は潤蓑、号は澤膺。湖南省湘郷の人。湖南第一師範学校卒業。1918年、同窓の毛沢東と「新民学会」を組織した。翌年、勤工倹学に参加して仏に留学した。1921年、仏当局により強制送還された。同年、上海で共産党に入党。1925年、党国際代表団代表。のちに党政治局員となる。1927年、英国当局に逮捕され、広州で陳済棠に引き渡されて処刑された。毛沢東の思想に大きな影響を与えたと言われる人物であった。

廖平(1852〜1932)
  字は季平、号は六訳。四川省井研の人。光緒年間、進士に及第した。はじめ竜安府学教授に任ぜられた。射洪安岳教諭・綏安府学教授・尊経書院襄校などを歴任した。宋学・古文経学を研究し、康有為の影響を受けて、今文尚書を孔子の真学と論じ、古文尚書に基づく経学を偽学と断じた。辛亥革命後は、四川国学院で教鞭をとった。1921年、高等師範学校・華西大学教授を兼ねた。1924年、故郷に帰って再び世に出なかった。『四益館経学叢書』。

張宗昌(1882〜1932)
  字は效坤。山東省掖県の人。東北に流れて馬賊となる。辛亥革命のときは上海にいて光復軍団長をつとめた。1913年、馮国璋に投じた。陳其美の暗殺にかかわったほか、馮国璋の侍衛官長などをつとめた。湖南・江西を転戦して敗亡し、1921年に張作霖に投じた。翌年、綏寧鎮守使に任ぜられ、鉄甲軍隊の成立後、奉天派の主要な将領のひとりとなった。1924年の第二次奉直戦争では副軍長・軍長・蘇皖魯三省剿匪総司令として活躍。翌年、山東省軍務督弁となる。李景林とともに直魯聯軍を結成した。1928年、安国軍副司令として北伐軍と戦ったが敗北した。残軍は白崇禧に吸収された。のち、済南駅頭で韓復派の人士により暗殺された。

ケ中夏(1890〜1933)
  もとの名はケ康。号は仲懈。湖南省宜章の人。五四運動に参加後、労働運動の指導者となった。1922年中国労働組合書記部主任。1925年、香港で反英ストを指導した。1930年、紅軍第二軍団政治委員。1933年、上海で逮捕され、南京の雨花台で処刑された。『中国職工運動簡史』。

陳烱明(1875〜1933)
  字は競存。広東省海豊の人。1908年、広東政法学堂を卒業。翌年、広東省諮議局議員となり、中国同盟会に参加。辛亥革命後は広東副都督、ついで都督に推された。第二革命に敗れて亡命。1916年恵州に越軍を組織し、自ら総司令となり、福建に進軍した。翌年、孫文を擁して広東軍政府を組織した。1920年、広東省長・越軍総司令。翌年、軍政府陸軍部長・内務部長。1922年、北伐に際して広東にとどまり、以後は孫文と袂を分かった。1933年、福建革命に参加する直前に香港で病没した。

柯邵サ(1850〜1934)
  字は鳳孫。山東省膠県の人。光緒年間、進士に及第した。翰林院編修・侍読・国子監司業となった。湖南学政・湖北提学使・貴州提学使として赴任した。のち、京師大学堂総監・典礼院学士などを歴任した。『畿輔通志』の編修に参与した。また宣統帝の侍講をつとめた。民国成立後は官に就かず、自宅に隠居し、参政院参政・約法会議議員に選出されたが、就任しなかった。1914年、清史館を設けて総纂兼代館長となり、『清史稿』の本紀を審閲し、儒林・文苑伝を整理し、天文志を撰した。『新元史』を編纂して、日本の東京帝大より文学博士号を受けた。また『釈史補』を著して、洪鈞『元史釈文証補』を補った。1925年、東方文化事業総委員会委員長に任ぜられ、『四庫全書提要』の続修を主持し、経部『易経』類を整理し、提要百五十二則を撰した。経史・金石・天文・目録の学問に長じたが、史学の観点はきわめて守旧的だったという。ほか『新元史考証』、『春秋穀梁伝注』など。

劉復(1890〜1934)
  仏に留学し、パリ大学で言語学を学んだ。『新青年』の編集にあたり、文学革命で活躍した。中国文字のローマ字化や四声の廃止などを主張した。北京大学教授。

瞿秋白(1889〜1935)
  号は雄魄、熊伯、鉄柏など。江蘇省常州の人。北京『晨報』の特派員としてソ連に行き、1922年共産党モスクワ支部に加入。陳独秀の通訳・秘書となり、陳とともに帰国。『新青年』などの編集にあたった。1927年第一次国共合作が崩壊すると、陳独秀に代わって共産党総書記となる。翌年、モスクワで批判され失脚。1934年江西ソヴィエト政府の教育部長となるが、翌年国民党に逮捕され死刑に処せられた。左翼作家連盟の指導者でもあった。魯迅を高く評価した。『多余的話』など著作多数。

孫伝芳(1885〜1935)
  字は馨遠。山東省歴城の人。北洋武備学堂を卒業し、日本に留学して、1908年に陸軍士官学校を卒業した。辛亥革命後は、湖北督軍・王占元の麾下にあった。1920年、直隷派の呉佩孚の下につき、長江上游警備総司令・福建軍務督理などをつとめた。1924年、閩浙連軍総司令・閩浙巡閲使・浙江軍務督理に上った。翌年、五省連軍総司令となり、南京に鎮し、直隷系軍閥として長江流域に勢力をふるった。1926年、江西で蒋介石の北伐軍に敗れ、天津に逃亡して、張作霖に投じた。安国軍副総司令・五省連軍総司令に任ぜられた。1927年、李宗仁らと竜潭戦役を戦い、軍主力を失った。残軍は閻錫山に吸収され、自らは張学良の顧問となった。1935年に暗殺された。

段祺瑞(1864〜1936)
  字は芝泉。安徽省合肥の人。1889年、北洋武備学堂を卒業。ついでドイツに留学。帰国後、天津で袁世凱の新軍練兵を扶けた。義和団の乱鎮圧に参加。1902年、北洋軍政司参謀処総辧となる。王士珍・馮国璋とともに北洋三傑と称された。1910年、江北提督に上った。辛亥革命にあたっては鄂州に出兵して鎮圧にあたり、その後は袁世凱の政権樹立に尽力した。1912年、袁世凱政権の陸軍総長。翌年代理国務総理となり、第二革命の鎮圧にあたった。代理湖北都督・湖南都督。1916年、袁の死後に国務総理に上り、北京政府の実権を握った。安徽軍閥の首領として、直隷派・奉天派と争った。親日的な政策をとり、寺内正毅内閣から西原借款による援助を受けた。第一次大戦には連合国側に参戦。しかし、翌年の府院の争により大総統・黎元洪に総理位を解任されたが、張勲の復辟を撃破し、国務総理に返り咲いた。臨時約法と国会の復活を拒否し、民主派を弾圧した。1920年、安直(直皖)戦争に敗れて失脚した。1924年、第二次直奉戦争によって、張作霖らの支持で臨時政府執政となる。翌年、善後会議を召集。1926年、馮玉祥に追われて下野した。のち国民党政府委員をつとめた。1936年に病死した。

章炳麟(1868〜1936)
  字は枚叔、号は太炎。浙江省余杭の人。兪越に師事して学んだ。はじめ康有為に賛同して変法派に属した。のちに反清運動に転じて、孫文と接近した。1903年には光緒帝を貶して逮捕され、上海の西牢に入獄し、三年を過ごした。出獄後、日本に渡って中国同盟会に参加した。蔡元培と協力して『蘇報』『民報』を発行し、また清朝打倒のため光復会を設立した。やがて孫文と離反して、1910年に光復会を再組織、会長となった。辛亥革命の後は、南京首都・臨時約法に反対して、連邦制・省憲法制定を主張した。袁世凱政府のもとで東三省籌辺使に任ぜられたが、帝政に反対して軟禁された。袁の死後は、ふたたび孫文と協力し、広州大元帥府秘書長をつとめた。のち、講学・執筆に専念した。孫文・黄興とならぶ革命の三尊のひとり。

魯迅(1881〜1936)
  本名は周樹人。字は豫才。浙江省紹興の人。幼少のころ、家は没落して貧しかった。1902年、官費で日本に留学して、仙台医学専門学校に入るが、中退。文学に転じて、東京で文学活動をはじめた。帰国して郷里で教員をしていたが、辛亥革命後に北京に移住。1918年に処女作「狂人日記」を発表して一躍有名となり、小説・詩・評論・翻訳などの著作活動で活躍した。『阿Q正伝』、『中国小説史略』など多数。

胡漢民(1886〜1936)
  名は衍鴻、字は展堂、号は不匱室主。広東省番禺の人。1902年、日本に留学し、法政大学に入った。1905年、中国同盟会の結成に参加し、評議員・執行部書記となり、『民報』の編集にあたった。1907年、孫文に従って、黄岡・鎮南関の蜂起に参加した。失敗後、シンガポールに渡り、『中興日報』の主筆となり、同盟会の南方総支部長となった。雲南河口の役、広州新軍の蜂起、黄花崗の蜂起に参加した。1911年、辛亥革命が起こると、推されて広東省都督となった。翌年、南京臨時政府の総統府秘書長となった。孫文が退任すると、広東に帰り、広東都督・民政長。翌年、袁世凱により解任された。1914年、中華革命党に参加し、政治部長となる。雑誌『民国』の主編をつとめた。1917年、護法軍政府で交通部長。1924年、国民党改組で中央執行委員、広東省省長。孫文が北伐すると、大元帥の職務を代行した。孫文の死後に、廖仲ト暗殺の嫌疑をかけられた。1927年、南京国民政府が成立すると、国民政府主席。翌年には国民政府立法院長に就いた。1931年、反蒋の中心人物として職を追われた。1933年、香港で『三民主義月刊』を創刊した。1936年、広州で脳溢血のため没した。『演講集』。

曹錕(1862〜1938)
  字は仲珊。直隷省天津の人。北洋武備学堂を卒業し、日清戦争に参加した。袁世凱の北洋新軍に入り、第三鎮統制・第三師師長に上った。袁の死後、直隷督軍となり、次いで直隷省長となって、直隷派軍閥の首領の地位を固めた。1920年、奉天派と結んで安直(直皖)戦争を戦い、安徽派の段祺瑞を逐った。1922年、第一次奉直戦争を争い、奉天派の張作霖を逐った。翌年、アメリカの支持を受け、直隷派の覇権を確立し、議員買収選挙(賄選)を行い、北京政府の大総統の地位に就いた。憲法を公布した。1924年、第二次奉直戦争が起こり、そのとき馮玉祥に軟禁され、反直三角同盟に敗れて失脚。のち天津に隠退した。盧溝橋事件ののち、日本がかれに政権を組織させようとしたが、拒絶した。1938年、天津で没した。

唐紹儀(1860〜1938)
  字は少川。広東省香山の人。1874年、官費で米に留学し、コロンビア大学に学んだ。帰国後、天津で税務衙門につとめ、また朝鮮に派遣された。袁世凱の知遇を得て、津海関道・外務部右侍郎・京漢鉄路督辧・郵傳部左侍郎・奉天巡撫などを歴任した。辛亥革命のとき、袁世凱内閣の全権代表として伍廷芳と上海で談判し、南北講和を結んだ。1912年、袁世凱大総統のもと内閣総理をつとめ、中国同盟会にも加入した。袁が総理の職権を侵したので、憤慨して辞任。袁と対立して孫文と結んだ。1917年、護法軍政府に参加し、財政部長。1919年、南方軍政府総代表として、北京政府と和議談判した。のち政界より引退。1931年国民党政府委員となり、上海に住んだ。西南派の要人として活躍したが、蒋介石と対立して国民党特務により暗殺された。

呉佩孚(1874〜1939)
  字は子玉。山東省蓬莱の人。保定軍官学校に学ぶ。馮国璋の死後、北洋軍閥直隷派の巨頭。1920年、奉天派と結んで安直(直皖)戦争を戦い、安徽派の段祺瑞を逐った。1922年、奉天派の張作霖と第一次奉直戦争を争い、勝利した。翌年、直隷派の覇権を確立して、曹錕に大総統の地位に就かせた。そのもとで直魯豫巡閲使となる。1924年、第二次奉直戦争に敗れた。1926年、再び奉天派との連合を結び、馮玉祥軍を攻めたが、北伐軍に湖南・湖北を奪われ、失脚した。1931年以後、北平に住んだ。満州国は日本の傀儡であると批判した。1937年に日中戦争が開戦すると一転して日本軍に協力した。1939年に臨時政府綏靖委員となったが、病死。

徐世昌(1855〜1939)
  字は卜五、号は菊人。直隷省天津の人。1879年、袁世凱と知り合い、その援助を受けて上京した。1886年、進士に及第した。翰林院編修に任ぜられ、国史館協修・武英殿協修などをつとめた。日清戦争のとき、袁世凱の幕下に入って軍務についた。袁世凱の北洋軍閥結成を助け、その謀士となった。1903年、内閣学士・練兵処提調となる。翌年、兵部左侍郎となり、軍機大臣・巡警部尚書に任ぜられ、まもなく民政部尚書にうつった。1907年、東三省総督となる。1911年、副総理・参謀総長に上った。民国成立後、1914年に北洋政府の国務総理となる。1918年に大総統に選ばれ、北洋軍閥の対立緩和を図ったが、失敗した。1922年、第一次奉直戦争で奉天軍が敗れたため、政界を退いた。天津に隠棲し、1939年に病死した。『清儒学案』、『大清畿輔先哲』。

銭玄同(1887〜1939)
  字は仲季、または徳潜、号は疑古。浙江省呉興の人。1906年に来日して早稲田大学に学んだ。中国同盟会に参加した。『説文解字』を研究し、1914年には北京大学教授となった。中国語のローマ字化・注音字母の普及をはかった。また顧頡剛らの『古史弁』の編纂、『新青年』の編集を助け、文学革命の推進に功績を残した。

蔡元培(1868〜1940)
  字は鶴卿、のちに孑民。浙江省紹興の人。1892年に進士に及第し、はじめ翰林院に入ったが、戊戌の新政の失敗を見て辞職。帰郷して新式教育に尽力した。中国教育会を組織して、その会長となる。1905年、中国革命同盟会に加入し、上海分会長となった。1907年、独に留学。辛亥革命後に帰国し、1912年には教育総長。袁世凱の独裁に反対して辞職した。1916年には北京大学学長となり、陳独秀・胡適らを迎えて自由研究の学風を樹立。白話運動にも力を入れた。国民政府が独裁を強めると、教育界から退き、中央研究院長となった。中国新文化の父とされる。『中国倫理学史』。

陳独秀(1879〜1942)
  もとの名は乾生。字は仲甫、号は突庵。安徽省懐寧の人。科挙を嫌って新学に打ちこみ、日・仏に留学した。故郷の安徽省で辛亥革命に参加。1915年上海で『青年雑誌』を創刊して主宰し、翌年『新青年』と改題した。新文化運動の旗手となった。1917年から北京大学教授、同文科部長。胡適らと文学革命を提唱して、白話運動を主唱。五・四運動を指導した。1921年中国共産党の結成に参加。党中央委総書記となる。国共合作には批判的だったが、コミンテルンの指示でこれを推進。党勢は拡大した。1927年には、反共クーデターの責任を追及され、右翼日和見主義者と批判された。以後、スターリンを批判して、トロツキズムに傾斜した。1929年に共産党を除名された。1932年国民政府に逮捕され、のち釈放されたが孤独のうちに病没した。

馮玉祥(1880〜1948)
  字は煥章。安徽省巣県の人。直隷省青県に生まれた。早くから淮軍に参加。下級の軍官をつとめた。辛亥革命では蜂起軍の参謀長をつとめた。のち、袁世凱に見出されて軍界を累進。袁の死後は、直隷派に属して転戦した。第十一師師長・陝西督軍・河南督軍・陸軍検閲使・直系第三路軍総司令などを歴任した。1924年、第二次奉直戦争のとき、胡景翼らとともに北京を占領して、直隷派を追放。国民軍総司令・第一軍軍長となった。1926年、直奉連合軍に敗れて下野。モスクワへ行き、帰国後に国民党に加入した。西北軍を率い、北伐に参加した。国民革命軍第二集団軍総司令となった。統一後、行政院副院長・軍政部部長となった。1929年、蒋介石と反目して救国軍総司令となり、反蒋戦争を起こして国民党を除籍された。翌年、閻錫山と連合して再び反蒋戦争を起こしたが、中原大戦に敗れて下野した。満洲事変後に南京に戻り、党籍を回復。抗日を主張したが蒋に容れられなかった。1933年、察綏民衆抗日同盟軍の総司令となるが、蒋の掣肘を受けたため泰山に隠居した。1937年に抗日戦争が開始されると、第三戦区司令長官・第六戦区司令長官を歴任した。抗日戦争後は、国共合作の維持を主張して内戦に反対した。1946年以降、米国ほかの諸国に外遊し、中国和平民主同盟や国民党革命委員会の結成にかかわった。1948年帰国途中に黒海で客船火災に遭遇して没した。孫文の革命思想の影響を受け、またキリスト教を信仰していたため、クリスチャン・ゼネラルと称された。

ボロディン(1884〜1951)
  名はミハイル・マルコヴィッチ。漢名は鮑羅廷。ロシアの人。露国西部のユダヤ人家庭に生まれた。1903年、ロシア社会民主労働党に入党。翌年、レーニンに従ってスイスに逃れた。1907年、米国シカゴにうつった。ロシア革命後の1918年に帰国し、外交工作にあたった。翌年、コミンテルン第一回代表大会に参加。米国・メキシコ・英国などで地下工作にあたった。1923年、広州に到着し、コミンテルン中国駐在代表・ソ連広州駐在全権代表をつとめた。孫文の国民党改組に協力し、国民党中執委顧問・政治委顧問となり、第一次国共合作を推進した。黄埔軍官学校の設立に協力。広州国民政府の政治顧問となった。1927年、武漢にうつった。翌年、上海クーデターが起こると、モンゴル経由でソ連に帰国した。のち労働人民委員や英文『モスクワ新聞』の主編をつとめた。1949年、ソヴィエトの敵と名指しされ、シベリア流刑。1951年、シベリアの強制労働所で死去した。

アンダーソン(1874〜1960)
  名はヨハン・グンナル。漢名は安特生。スウェーデンの人。1914年、北京にいたり中国地質研究所の顧問となった。1921年、河南省澠池県仰韶村で新石器時代の遺跡を発掘し、大量の彩文土器を発見した。また、北京市周口店の旧石器時代遺跡を発見し、ズダンスキーらに発掘を委ねて北京原人の発見のもとを築いた。二年あまりをかけて甘肅・青海・モンゴル・チベットを踏査し、先史時代の遺跡五十余を発見した。1925年、帰国した。ストックホルムの極東博物館館長をつとめた。

閻錫山(1883〜1960)
  字は百川。山西省五台の人。1904年、日本に留学し、陸軍士官学校に学んだ。翌年、中国同盟会に参加。辛亥革命後、袁世凱の命をうけて山西都督に任ぜられた。以後、山西王として山西省を支配。兵農合一・防共自治を唱えて抗日運動を展開した。日本が降伏すると、旧日本兵を用いて、共産党軍と戦ったという挿話が残されている。1949年、共産党に敗れて台湾に渡った。国民政府の行政院長・国防部長などをつとめた。1952年に軍職を退いた。1960年、台北で病没した。

唐生智(1889〜1970)
  字は孟瀟。湖南省東安の人。1912年、保定陸軍軍官学校に入学。1914年、卒業後に湖南湘軍に属し、反袁の護国戦争に参加した。1923年より衡陽に駐屯し、湘軍の最大実力者に成り上がった。内務司長・湖南省代理省長となる。1926年、国民革命軍の第八軍軍長となり、北伐軍の西路総指揮・第四集団軍総司令などをつとめた。1929年、反蒋戦争において蒋側につき、馮玉祥を討った。のちに汪兆銘と連合し、閻錫山と通じて反蒋側に立ち、護党救国軍総司令となったが、敗れて一時下野した。1932年から軍事参議院院長・軍事委員会執行部主任などをつとめた。抗日戦争のとき、南京衛戌司令長官となったが、南京戦に際して逃亡した。内戦時には隠棲していた。1949年、湖南人民自救委員会主任となり、新中国建国後、湖南省政府副主席・副省長などをつとめた。1970年、長沙で没した。


[註]

1.ラン=ラン

2.キ=キ
↓次の時代=中華民国−抗日戦・内戦期

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