[隋末唐初群雄]
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[魏]
李密(582〜618)
  字は玄邃。遼東郡襄平の人。西魏の柱国・李弼の孫にあたる。蔭官によって煬帝に仕え、左親侍となったが、目つきが鋭いといわれて辞めさせられた。楊玄感と親交を結んで、玄感が叛すと乱に加担。その参謀として献策した。玄感が敗死すると、李密も捕らえられたが、脱走。淮陽で変名を使って学を講じた。密告されたためさらに逃亡し、東郡の翟譲の軍に投じた。義寧元年(617)、興洛倉を襲って糧食を民衆に散じ、ここに拠って魏公を称し、永平と建元した。王世充と激闘を繰り返した。北上する宇文化及の軍を破ったのち、王世充の軍に大敗したため、やむなく唐に帰順した。光禄卿・邢国公の位を授けられたが、これを不満として東帰をはかり、中途に捕らえられて処刑された。

秦叔宝(?〜638)
  
秦叔宝⇒
程知節(?〜665)
  
程知節⇒
単雄信(?〜621)
  東郡の人。一説に曹州済陰の人。勇猛で知られ、馬槊を得意とした。隋の大業十二年(616)、翟譲に従って挙兵した。翌年、瓦崗軍の左武侯大将軍となり、飛将と号した。まもなく李密が翟譲を殺すと、李密に帰順した。唐の武徳元年(618)、敗れて王世充に降り、大将軍に任ぜられた。四年(621)、秦王李世民が東都(洛陽)を囲み、王世充が唐に降伏すると、単雄信は殺された。

王伯当(?〜619)
  済陽の人。大業十二年(616)、隋にそむいて起兵し、李密とともに翟譲に投じた。翟譲に従って、隋の張須陀を討った。翌年、李密が翟譲を殺し魏公を称すると、徐世勣・単雄信らとともに李密の部将となった。武徳元年(618)、李密に従って唐に降り、左武衛大将軍に封ぜられた。のちに李密とともに唐にそむいて殺された。

羅士信(?〜622)
  
羅士信⇒

[鄭]
王世充(?〜621)
  字は行満。新豊の人。西域人の子孫で、父が王粲の養子となったため、王姓を称した。兵法を好み、弁舌にすぐれた。隋の開皇年間、左翊衛となり、軍功により儀同となり、兵部員外郎に任ぜられた。煬帝(楊広)が立つと、江都郡丞となった。遠方から珍宝を取り寄せて献上し、煬帝の賞賛を買った。大業九年(613)、江都から軍を発して長江を渡り、劉元進・管崇らの叛乱を鎮圧した。翌年、孟譲を破った。十二年(616)、江都通守となり、格謙・盧明月らの乱を鎮圧した。まもなく命を受けて北上し、李密と洛口で戦って敗れた。越王楊侗とともに東都(洛陽)を守った。宇文化及が煬帝を弑すと、王世充は元文都らとともに楊侗を帝に擁立し、自ら吏部尚書となり、鄭国公に封ぜられた。元文都らを殺して尚書左僕射・総督内外軍事に進んだ。偃師で李密を破り、太尉に任ぜられ、鄭王を自称した。唐の武徳二年(619)、楊侗を廃して帝を称し、国号を鄭とし、開明と建元した。四年(621)、唐軍に東都を囲まれ、唐に降り、長安にいたって、独孤修徳に殺された。

[夏]
竇建徳(573〜621)
  貝州璋南の人。若いころから任侠を好み、しばしば困窮した人を救った。里長となり、法を犯して逃亡したこともあった。隋の煬帝(楊広)の高句麗遠征に際して、兵二百人の長となったが、匪賊との関係を疑われて家族を処刑された。叛将・高士達のもとで軍司馬となり、高士達の敗死後は残党を集めて自立した。楽寿で長楽王を称して丁丑と建元した。身辺は節倹で、部下や捕虜をいつくしみ、既存の官吏や士人を包摂する政策をとり、勢力は拡大した。武徳元年(618)、国号を夏とし、五鳳と改元した。翌年に宇文化及を滅ぼし、山東・河北一帯を支配下においた。王世充と同盟して、李世民率いる唐軍と虎牢に決戦して敗れ、捕らえられて長安で斬られた。

劉黒闥(?〜623)
  貝州璋南の人。家は貧しく、自給するに事欠き、若くして竇建徳とよしみを結んだ。隋末に郝孝徳の蜂起に従い、のちに李密の裨将となった。武徳元年(618)、瓦崗軍が王世充に敗れると、竇建徳のもとに逃れて帰順した。将軍となり、漢東郡公に封ぜられた。驍勇にして謀多く、戦うところ多くは勝ち、軍中で神勇と号された。竇建徳が敗亡すると、郷里に逃げ隠れた。四年(621)、再び挙兵し、はじめ千人あまりであったが、璋南・冀州・洺州で勝利し、宗城にいたって衆数万にふくれあがった。北方諸郡でも蜂起軍が呼応し、竇建徳の故地をことごとく恢復した。北は突厥と結び、徐円朗が斉・兗の地をもって帰順し、その勢いは盛んだった。五年(622)、相州で漢東王を称し、洺州に都をおいた。まもなく唐の秦王李世民の軍が来攻すると、糧道を断たれ、水堰を切られて、かれの軍は潰滅した。千人あまりで突厥に逃れ、突厥兵を率いて河北・山東を攻略し、再び洺州に戻った。十二月、李建成・李元吉の軍に館陶で敗れ、饒陽に敗走した。部下に捕らえられて唐軍に送られ、翌年に洺州で処刑された。

[許]

宇文化及(?〜619)
  代郡武川の人。宇文述の子。貴顕の家に生まれて、若いころは軽薄公子と呼ばれた。文帝のとき、皇太子・楊広(のちの煬帝)の側に近侍した。父の権勢を恃んで、財貨を貪婪にあさり、賄賂を好んだ。煬帝が即位すると、太僕少卿となった。突厥人との密貿易を行っていたことが発覚して投獄されたが、父・宇文述の懇願により死を免ぜられた。官職を失って蟄居していたが、煬帝が江都に南遷したころ、病床の宇文述が息子のことを帝に奏請して没した。そのため、化及は右屯衛将軍に任ぜられた。江都の将士たちは北帰を望んだが、煬帝はその気がなかったため、将士の不満は鬱積していた。化及は弟の宇文智及や司馬徳戡らと共謀して煬帝を殺し、煬帝の甥の秦王・楊浩を擁立した。禁軍を掌握して北帰をはかった。しかし、洛口の線で王世充と李密の両雄に進路を阻まれた。化及の軍は李密の軍と童山で戦って敗れた。残兵を率いて魏県にいたったが、部下のために殺された。

[定揚]
劉武周(?〜622)
  瀛州景城の人。馬邑に移住した。驍勇で知られた。軍功により建節校尉に任ぜられた。馬邑に帰って、鷹揚府校尉となった。隋の大業十三年(617)、太守の王仁恭を殺して起兵し、官倉を開いて飢民に施し、一万人余りを集めて太守を称した。突厥に遣使して帰順し、雁門・定襄・楼煩などの地を攻略した。突厥により定揚可汗に封ぜられた。皇帝を自称し、天興と建元した。唐の武徳二年(619)、突厥と連係して唐軍を破り、太原を占拠し、河東を席捲した。翌年、秦王李世民に敗れて、突厥に逃れた。のちに突厥から馬邑に逃げ帰ろうとして、事が洩れ、突厥に殺された。

宋金剛(?〜620)
  上谷の人。隋の大業末年、易州で起兵して一万人余を集め、魏刀児と連絡呼応した。唐の武徳元年(618)、竇建徳が魏刀児を攻めたとき、魏刀児の援軍として赴いたが敗れ、西は劉武周に投降した。劉武周はかれの用兵のたくみさを喜んで、かれを宋王と呼んで軍事を委ねた。翌年、西南道大行台に任ぜられ、兵を率いて并州を攻め、楡次を破り、介州・晋州を落とした。のちに秦王李世民に敗れて劉武周とともに突厥に逃れ、突厥で殺された。

苑君璋(?〜?)
  馬邑の人。土豪の家に生まれた。大業十三年(617)、劉武周が馬邑で起兵すると、内史令となった。唐の武徳初年、突厥や唐と結び、南面して王を称するよう劉武周に勧めたが、聞き入れられなかった。五年(622)、劉武周が没すると、部衆を引き継ぎ、突厥により大行台に任ぜられた。しばしば唐の北辺を侵した。高祖(李淵)がしばしば遣使して招撫したが、はじめは従わなかった。しだいに勢力も逼塞し、突厥の頡利可汗の政略が乱れてきたことに見切りをつけ、貞観元年(627)に部衆とともに唐に降った。安州都督に任ぜられ、芮国公に封ぜられた。貞観年間に没した。

尉遅敬徳(596〜658)
  
尉遅敬徳⇒

[西秦]
薛挙(?〜618)
  蘭州金城の人。驍勇で知られ、騎射をよくした。巨万の家産を蓄え、豪族と結んだ。隋の金城府校尉となった。大業十三年(617)、子の薛仁杲とともに挙兵して、隋にそむいた。西秦の覇王を自称し、秦興と建元した。隋の皇甫綰を破り、鄯州・廓州を落とし、隴西の地をことごとく領有した。秦帝を自称し、天水に遷都した。薛仁杲に扶風を攻めさせ、勢力は拡大し、擁する兵は二十万あまりにのぼった。唐の武徳元年(618)、高墌で唐軍に大敗し、まもなく没した。薛仁杲が立つと、武皇帝と諡された。

薛仁杲(?〜618)
  薛仁果ともいう。蘭州金城の人。薛挙の子。勇武で知られ、騎射をよくし、万人の敵と号した。性格は残忍で、殺戮を好んだという。大業十三年(617)、薛挙に従って起兵し、隴西に拠った。薛挙が秦帝を称すると、太子となった。軍を率いて扶風を攻めた。翌年、薛挙が亡くなると、跡を継いだ。秦王李世民と折墌城で戦い、敗れて降伏したが、殺された。

[涼]
李軌(?〜619)
  字は処則。涼州姑臧の人。涼州の豪族の生まれで、富裕で知られ、弁才にたけていた。隋の煬帝(楊広)のとき、武威鷹揚府司馬に任ぜられた。大業十三年(617)、金城校尉薛挙が隋にそむくと、かれも曹珍・安修仁らと語らって起兵し、河西大涼王を自称した。突厥・吐谷渾と結び、張掖・敦煌・西平・枹罕を抜き、河西五郡の地を領有した。唐の武徳元年(618)、唐軍が薛挙を攻めると、唐に遣使して涼王に封ぜられ、涼州総管に任ぜられた。まもなく自立して帝を称し、安楽と建元した。内部の抗争が絶えず、飢民を放置し、怨嗟の声があふれた。唐の高祖(李淵)が安修仁の兄の安興貴をつかわして降伏を勧めさせたが、かれは従わなかった。安氏の兄弟が胡兵を引き入れてかれを捕らえ、長安に送られて殺された。

[梁]
蕭銑(583〜621)
  南蘭陵郡の人。後梁の宣帝(蕭詧)の曾孫にあたる。隋の煬帝(楊広)のとき、羅川令に任ぜられた。大業十七年(617)、董景珍や張綉らとともに乱を起こし、推されてその主となった。巴陵に拠って梁王を称し、鳳鳴と建元した。翌年、帝を称し、江陵に遷都し、兵四十万を擁した。西は三峡から東は豫章まで、北は漢水から南は交趾にいたるまで、帰附するものが相次いだ。外には寛容であったが、内には疑い深く、大臣を多く殺し、内部の離反を招いた。唐の李靖に敗れ、長安に連行されて殺された。

[迦楼羅王]
朱粲(?〜621)
  亳州城父の人。はじめ県の佐吏となった。隋の大業十一年(615)、起兵して迦楼羅王を自称した。殺戮を好み、湖北・沔水流域・山南の一帯で劫掠しながら転戦した。武徳元年(618)、楚帝を称し、昌達と建元した。翌年、唐に降った。まもなく王世充に投じ、龍驤大将軍に任ぜられた。四年(621)、王世充が唐に降ると、朱粲は殺された。死後、かれにうらみをもつ人々は瓦礫を屍体に投げつけたという。

[呉]
李子通(?〜622)
  沂州氶県の人。勇力あり、漁労で生計を立てた。隋の大業末年、長白山に入り、左少相の乱に加わった。寛厚で衆心をつかみ、一万人あまりを得た。十一年(615)、淮水を渡って杜伏威と合流した。杜伏威を殺そうと図って果たさず、隋の来整の軍に敗れて海陵に逃れた。二万の衆を擁して将軍を自称した。のちに楚王を称した。唐の武徳二年(619)、陳稜を破り、江都に拠り、皇帝を自称した。国号を呉とし、明政と建元した。翌年、沈法興を破り、京口・丹陽・晋陵などを攻め取った。まもなく輔公祏に敗れて太湖に逃れ、沈法興を攻め滅ぼして、余杭に遷都した。四年(621)、杜伏威と戦い敗れて、捕らえられて長安に送られた。翌年、再起を期して南は藍田に逃れたが、再び捕らえられて殺された。

[楚]
林士弘(?〜622)
  饒州鄱陽の人。隋の末年、操師乞の乱に参加した。大業十二年(616)、豫章郡を攻め落とした。操師乞が元興王を自称すると、大将軍に任ぜられた。操師乞が陣没すると、その部衆を引き継ぎ、隋軍を彭蠡湖で破った。兵は十余万に達し、勢威は大いにふるった。虔州に拠って帝を称し、国号を楚とし、太平と建元した。周辺の郡県は隋の守令を殺して呼応し、北は九江から南は番禺にいたるまでを領有した。のちに蕭銑が豫章を破ると、勢力はやや衰えた。蕭銑が唐に滅ぼされると、再び勢力を回復した。武徳五年(622)、唐軍に敗れて、安城山に退き、まもなく病没した。

[魯]
徐円朗(?〜623)
  兗州の人。大業十三年(617)、隋にそむいて起兵した。琅邪・東平の地に拠り、二万の部衆を集めた。はじめ李密についたが、李密が敗れると、王世充についた。のちに唐に降り、兗州総管・魯郡公となった。武徳四年(621)、劉黒闥に呼応して起兵し、唐将の盛彦師を捕らえ、魯王を自称した。李神通・李勣に敗れ、逃亡中に殺された。

[燕]
高開道(?〜624)
  滄州陽信の人。隋の塩戸の出身。格謙の乱に参加し、戦功により将軍に任ぜられた。大業十二年(616)、格謙が戦死すると、余衆を率いて燕地を転戦し、臨楡・懐遠などを占拠した。唐の武徳元年(618)、北平を奪い、漁陽を取った。燕王を称し、始興と建元し、漁陽に都を置いた。まもなく高曇成の軍を併呑した。三年(620)、唐により北平郡王に封ぜられ、上柱国に任ぜられ、李姓を賜り、蔚州総管に任ぜられた。翌年、突厥と結んで唐にそむき、再び燕王を称して、恒州・定州・幽州・易州を攻めた。のちに部将の張金樹に攻められて自殺した。

[楚]
杜伏威(?〜624)
  斉郡章丘の人。貧家に生まれ、輔公祏と結んで、山林に逃れ住んだ。隋の大業九年(613)に起兵して、淮南を転戦して将軍を自称し、苗海潮らと合流して、江都に迫った。十三年(617)、隋の陳稜を破り、高郵を落として、歴陽に拠り、総管を自称した。翌年、隋の越王楊&4f97;に上表して東南道大総管に任ぜられ、楚王に封ぜられた。武徳二年(619)、唐に降り、東南道行台尚書令・江淮以南安撫大使に任ぜられ、呉王に封ぜられ、李氏の姓を賜った。杭州・歙州などの地を攻略し、江東・淮南の地をことごとく領有した。五年(622)、召されて入朝し、長安にとどまった。のちに輔公祏が唐にそむくと、長安で殺害された。

輔公祏(?〜624)
  斉郡臨済の人。若くして杜伏威と交友を結んだ。隋の大業九年(613)、杜伏威に従って起兵した。はじめ長白山に拠り、まもなく淮南に軍を進めた。義寧元年(617)、杜伏威が歴陽を占拠して総管を自称すると、その長史に任ぜられた。唐の武徳二年(619)、杜伏威に従って唐に降ると、兵権を奪われて、淮南道行台尚書左僕射に任ぜられた。六年(623)、杜伏威の命といつわって唐にそむき、丹陽で帝を称し、国号を宋とした。翌年、唐の李孝恭に敗れて、武康まで退却したが捕らえられ、丹陽で斬られた。

[幽州総管]
羅芸(?〜627)
  字は子延。襄州襄陽の人。はじめ京兆雲陽に寓居した。性は剛毅で、勇戦で知られた。隋の大業年間、虎賁郎将に任ぜられた。十二年(616)末、涿郡に駐屯し、幽州総管を自称した。義寧二年(618)、李淵に降った。唐が建国されると、燕王に封ぜられ、李姓を賜った。しばしば征戦に従って、竇建徳や劉黒闥の軍を破った。功により左翊衛大将軍に任ぜられた。天節軍将を兼ねて州に駐屯し、突厥の侵攻を防いだ。貞観初年、豳州に拠って叛き、敗れて突厥に逃れようとしたが、部下に殺された。

[梁]
梁師都(?〜628)
  夏州朔方の人。夏州の豪族の家柄に生まれた。隋に仕えて、鷹揚府郎将となった。大業十三年(617)、起兵して郡丞唐世宗を殺し、朔方郡に拠って、大丞相を自称した。突厥と連合し、雕陰・弘化・延安などの郡を占拠した。帝を称して、国号を梁とし、永隆と建元した。突厥の始畢可汗により、大度毘伽可汗・解事天子に封ぜられた。オルドスの地に蟠踞して、突厥兵とともに唐の北辺を脅かした。唐の柴紹らの討伐を受けて敗れ、族弟の梁洛仁に殺された。

[永楽]
郭子和(?〜?)
  
郭子和⇒

[交州総管]
丘和(552〜637)
  
丘和⇒
高士廉(577〜647)
  
高士廉⇒

[高州総管]
馮盎(?〜646)
  
馮盎⇒
↓次の時代=唐

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