[明末農民叛乱]
⇒明(嘉靖万暦期,天啓崇禎期,南明),清(後金,清初,康熙期),チベット,タタール,オイラート,鄭氏台湾政権
[三十六営(十三家)]
王二(?〜1629)
  陜西省白水の人。天啓七年(1627)、陜西で飢饉が起こると、澄城知県を殺し、人々を集めて起兵した。崇禎元年(1628)、山西の逃亡兵士たちと合流して蒲城・韓城にうつった。宜君県の獄を破り、王嘉胤と合流し、延慶の黄龍山を守った。明の参政劉応遇に敗れて斬られた。

王嘉胤(?〜1631)
  陜西省府谷の人。もとは定辺営の逃亡兵であった。崇禎元年(1628)、陜西で飢饉が起こると、府谷の人々を集めて起兵した。王二の軍と黄龍山で合流し、五千余の衆を擁した。のちに陜西・甘粛・山西を転戦して、王署官を称し、部衆は三万余にふくれあがり、高迎祥・張献忠らもかれの麾下に従った。四年(1631)、山西陽城で殺害された。一説に明の副将曹文詔の部下に殺害されたという。

高迎祥(?〜1636)
  陜西省安塞の人。崇禎元年(1628)、陜西で飢饉が起こると、飢民王大梁とともに人々を集めて起兵し、闖王を自称した。三十六営の首領のひとりとなった。六年(1633)、陜西より河南に入った。八年(1635)、鳳陽を攻め、明の皇室祖陵を焼いた。翌年、廬州を落とし、寿州を攻めた。のちに陜西巡撫孫伝庭に捕らえられ、北京に送られて処刑された。

王大梁(?〜1629)
  漢南の人。崇禎元年(1628)、陜西で飢饉が起こると、高迎祥とともに人々を集めて起兵し、大梁王を自称した。略陽を落とし、漢中に迫り、関南道中軍王首成を捕らえた。翌年、商洛道の劉応遇に敗れて捕らえられ、大石川で斬られた。

王自用(?〜1633)
  号は紫金梁。崇禎四年(1631)、王嘉胤の死後、農民軍の首領となり、山西で三十六営を組織した。六年(1633)、病没した。

王左掛(?〜1630)
  またの名を王之爵。陜西省清澗の人。一説に宜川の人。崇禎元年(1628)、陜西で飢饉が起こると、起兵。翌年、韓城竜門渡を攻め、千総王佐を破った。真寧・耀州と転戦した。明の参政洪承疇を破って包囲した。三年(1630)、敗れて明の延安知府張輦に降伏を請うた。まもなく綏徳で再起しようとしたが、事が洩れて殺された。

飛山虎(?〜?)
  陜西省宜川の人。崇禎初年、陜西で飢饉が起こると、起兵。

大紅狼(?〜?)
  陜西省宜川の人。崇禎初年、陜西で飢饉が起こると、起兵。

王子順(?〜?)
  横天王。横一字天王。陜西省白水の人。崇禎初年、陜西で飢饉が起こると、起兵。八年(1635)、陜西より河南に入り、十三家のひとつとなる。のちに混十万とともに、陜西の明軍の攻撃を防いだ。
苗美(?〜?)
  陜西省宜川の人。
上天竜(?〜1641)
  本名不祥。明の総兵陳永福に敗れて殺された。
黒雲祥(?〜?)
  号は整十万。
白貴(?〜?)
  号は小秦王。
王光恩(?〜?)
  号は関索。一説に、号は小秦王。
恵登相(?〜?)
  号は過天星。陝西省青澗の人。
武自強(?〜1633)
  号は混世王。崇禎四年(1631)、山西に入り、王自用のもとで、三十六営の首領のひとりとなった。六年(1633)、明将の曹文詔に殺された。一説に六年に死なず、十三年(1640)まで活動していたともいう。
鄢本恕(?〜?)
  号は刮地王。
羅汝才(?〜1643)
  号は曹操。陝西省延安の人。はじめ高迎祥の農民軍に従った。崇禎四年(1631)、山西に入り、三十六営の首領のひとりとなる。のちに十三家のひとつとなる。十一年(1638)に明に偽降するが、翌年に再起。張献忠に従って四川・河南・湖北などを転戦した。十四年(1641)、李自成に投じ、代天撫民威徳大将軍を称した。十六年(1643)、黄州の陳生の反間の計にかかって、李自成に殺された。
賀国観(?〜1638)
  名は藍廷瑞とも。号は順天王。崇禎八年(1635)、王自用のもとで、十三家のひとつとなった。張献忠に従った。崇禎十一年(1638)、張献忠に従って明軍に偽降した。まもなく病没した。
廖恵(?〜?)
  号は掃地王。
馬守応(?〜1644)
  号は老回回。陝西省綏徳の人。回族の出身。崇禎元年(1628)、陜西で飢饉が起こると、起兵。闖王高迎祥に従い、甘粛北部で転戦した。のちに山西省陽城に入り、諸路の義軍とともに三十六営を結成した。十三家のひとりとして、数万人を擁し、李自成や張献忠らと呼応して河南に進攻した。十年(1637)、賀一龍・賀錦・劉希堯・藺養成の四部と連合して革左五営を結成し、湖北・安徽の省境に出没し、明朝を苦しめた。十五年(1642)、李自成軍と合流して湖北一帯を転戦した。李自成が北上して北京を突くと、荊襄に駐屯して明軍を牽制した。賀一龍が李自成に殺されると、張献忠のもとに走った。のちに病没した。
賀一龍(?〜1643)
  号は革裏眼。はじめ高迎祥の農民軍に従った。崇禎八年(1635)、王自用のもとで、十三家のひとつとなった。四川・湖北の明軍を攪乱した。十年(1637)、馬守応・賀錦・劉希堯・藺養成の四部と連合して革左五営を結成し、英山・霍山・潜山・太湖一帯に転戦した。十五年(1642)、李自成に帰順して開封に入った。翌年、李自成に殺された。
賀錦(?〜1644)
  号は左金王。崇禎八年(1635)、王自用のもとで、十三家のひとつとなった。四川・湖北の明軍を攪乱した。十年(1637)、馬守応・賀一龍・劉希堯・藺養成の四部と連合して革左五営を結成し、英山・霍山に転戦した。十五年(1642)、李自成に帰順して開封に入った。翌年、制将軍に任ぜられた。まもなく潼関に入り、蘭州を取り、河西の諸地を攻略した。十七年(1644)、西寧衛でおびき出されて殺された。一説に李自成の死後、李錦に従って清に抵抗し、永暦五年(1651)に孫可望と戦って戦死したという。
劉希堯(?〜?)
  号は争世王。崇禎初年、起兵して高迎祥に従った。はじめ陜北で転戦したが、のちに英山・霍山一帯に入り、馬守応・賀一龍・賀錦・藺養成の四部と連合して革左五営を結成した。十五年(1642)、李自成に帰順し、右営制将軍に任ぜられた。李自成の死後、高一功らとともに清軍に抵抗を続けた。永暦三年(1649)、軍を率いて梧州より北上し、宜昌で清軍に殺された。一説に彬州で殺されたとも、また清軍に降ったともいう。
藺養成(?〜?)
  号は治世王。崇禎初年、起兵して高迎祥に従った。四年(1631)、三十六営のひとつとなる。十年(1637)、馬守応・賀一龍・賀錦・劉希堯の四部と連合して革左五営を結成し、英山・霍山・潜山・太湖一帯に転戦した。十五年(1642)、李自成に帰順した。翌年、通達衛左威武将軍に任ぜられ、夷陵を守った。李自成の死後、清軍に抵抗を続けた。
許可変(?〜?)
  号は改世王。崇禎八年(1635)、十三家のひとつとなる。十二年(1639)、順義王の残部に首領に推されたが、まもなく明に降った。
八金剛(?〜?)
  本名不祥。
九条竜(?〜?)
  本名不祥。崇禎四年(1631)、王自用のもとで、三十六営のひとつとなった。八年(1635)、十三家のひとつに数えられた。
閻正虎(?〜?)
  本名不祥。
満天星(?〜?)
  本名不祥。
破甲錐(?〜?)
  本名不祥。
拓養坤(?〜?)
  一説に名を劉哲。号は蝎子塊。
姫関鎖(?〜?)
  本名不祥。
張存孟(?〜1632)
  号は不沾泥。陝西省洛川の人。崇禎元年(1628)、陜西で飢饉が起こると、洛川で明にそむいて起兵し、安定城を襲った。四年(1631)、米脂を攻めた。のちに部将の双翅虎を殺し、部将の紫金龍を献じて明に降った。まもなく再起し、西川を根拠地とし、十二哨・六十四砦を立てた。翌年、敗れて殺された。
高傑(?〜?)
  号は翻山動。
掌世王(?〜?)
  本名不祥。
趙勝(?〜?)
  一説に名は孟長庚。号は点灯子。陝西省韓城の人。
高加討(?〜?)
  号は顯道神。
李万慶(?〜1642)
  号は射塌天。陝西省延安の人。崇禎初年、張献忠・羅汝才らとともに起兵した。八年(1635)、十三家のひとつとなる。河南・湖北・陜西を転戦した。十二年(1639)、明の左良玉に投降し、副総兵に任ぜられた。十五年(1642)、李自成に襄城で捕らえられ、殺された。
劉国能(?〜1641)
  号は闖塌天。陝西省延安の人。崇禎初年、明にそむいて蜂起した。陜西・河南・山西・四川・湖北を転戦した。十一年(1638)、随州で明軍に降った。農民叛乱を鎮圧する側にまわり、副総兵に上った。十四年(1641)、葉県で李自成に捕らえられ、降伏を拒んで殺された。

[大順]
李自成(1606〜1645)
  もとの名は鴻基。陝西省米脂の人。貧農に生まれ、幼少の頃は牧童をしていたという。また一説には富農の出身ともいう。二十歳のころ、銀川の駅卒となった。崇禎二年(1629)、高迎祥の叛乱軍に加わった。崇禎九年(1636)、高の死後、跡を継いで闖王を称した。十一年(1638)には、梓潼において敗れて白水に敗走し、わずか十八騎に討ち減らされて商雒山に籠もった。翌年、再起して河南に移り、ふたたび勢力を拡大。十四年(1641)には洛陽を攻略し、福王・朱常洵を殺した。翌年には襄陽を占拠。奉天倡義大元帥を称した。広く人材を集め、軍紀を厳正にし、租税廃止や均田を行った。十七年(1644)正月、西安で即位し、国号を大順とし、永昌と建元した。同年三月に北京を陥落し、明を滅ぼした。しかし、呉三桂が清と手を結んで軍を南下させたため、敗れて逃れ、翌年に湖北省通山で自殺した。一説に村民に殺されたという。また一説には湖南省石門に逃れて、霊泉寺の僧となり、康煕三年(1674)まで生きたともいう。

李錦(1606〜1650)
  もとの名は過。号は一只虎。陝西省米脂の人。李自成の兄の子。崇禎初年、李自成の起兵に従い、驍勇で知られた。十六年(1643)、後営制将軍に任ぜられた。翌年、亳侯に封ぜられた。李自成の死後、南明と結んで清に抵抗し、李赤心と改名した。その軍は忠貞営と称され、湖南・広東・広西を転戦した。永暦政権より興国侯に封ぜられ、まもなく広西の慶遠で亡くなった。

高一功(?〜1651)
  陝西省米脂の人。李自成の妻の弟。崇禎年間、李自成に従って各地を転戦した。大順政権が建てられると、制将軍に任ぜられた。永昌二年(1645)、李自成が死ぬと、李錦とともに大順余衆三十万を率いて湖南に入り、南明の将領何騰蛟と結んで清に抵抗した。南明隆武帝より必正の名を賜り、その軍は忠貞営と称された。永暦二年(1648)、湖南で大勝を博し、鄖国公に封ぜられた。のちに明軍の掣肘を受け、敗れて広西に退いた。まもなく李錦が没すると、忠貞営を引き継いだ。のちに永暦政権の党争に嫌気がさして離脱した。慶遠から黔州に逃れようとして、孫可望の襲撃を受け、戦死した。

劉宗敏(?〜1645)
  陝西省藍田の人。もとは鍛造工で、李自成に従って起兵した。崇禎十一年(1638)、李自成とともに潼関原の包囲をくぐりぬけ、漢南に逃れた。十三年(1640)、李自成とともに巴西より武関を出て、河南に入って、勢力は拡大した。十六年(1643)、権将軍に任ぜられた。翌年、西安で汝侯に封ぜられた。固関を出て、真定に下り、北京で主力軍と合流した。入京後、明の降官に対する強奪をこととした。のちに呉三桂と戦って負傷した。九江に向かう途中、清軍に捕殺された。

宋献策(?〜?)
  河南省永城の人。はじめ卜者として生計を立てた。崇禎十四年(1641)、牛金星の推挙により李自成軍に加わり、「十八子主神器」の讖言を献じた。体格が小柄だったので、宋矮子あるいは宋孩児と称された。十七年(1644)、軍師に任ぜられた。李自成の死後、清軍に降った。一説に殺害されたともいう。

王体忠(?〜1645)

馬進忠(?〜1658)
  字は葵宇。号は混十万。陝西省延安の人。崇禎初年、衆を率いて陝北で叛乱を起こしたが、明の将軍の左良玉に敗れて明に降り、左良玉の部将となった。明が滅ぶと福王政権に属して、岳州に鎮した。福王の弘光年間に左良玉の子の梵庚は全軍をもって清に降伏したが、かれは従わず、永暦政権に参加した。湖南においてしばしば清軍を破った。漢陽王に封ぜられて貴州に鎮したが、永暦十二年(1658)に清軍に敗れて雲南に退き、病没した。

馬逢知(1615〜1661)
  本名は進宝。字は惟善。明の崇禎年間に李自成の叛乱軍に参加して、闖将となり、馬鉄杠を号した。のちに明に降り、安慶副将・都督同知に任ぜられた。弘光元年(1645)、清に降り、金華総兵に抜擢され、浙江の農民叛乱を鎮圧し、南明の魯王政権の部将阮進・張名振を浙江・福建沿海で破った。順治十一年(1654)、左都督に任ぜられ、鄭成功を攻めた。十三年(1656)、蘇松常鎮提督となり、暴虐を貪った。十六年(1659)、鄭成功が江寧を攻めたとき、兵を擁しながら救援せず、また情報を正確に伝達しなかったので、清朝に殺された。

王得仁(?〜1649)
  号は王雑毛。陝西省米脂の人。はじめ李自成の部将王体忠に属し、驍勇で知られた。順治二年(1645)、李自成が殺害されると、王体忠に従って清に降った。まもなく王体忠が殺されると、代わって副将となり、金声桓に従って江西に下った。五年(1648)、南昌に拠って清に叛き、建武侯を自称した。のちに孤立無援となり、南昌が落ちて、清軍に捕殺された。

牛金星(?〜?)
  河南省宝豊の人。天啓年間、郷試に及第して挙人となった。崇禎十四年(1641)、李自成の農民軍に投じ、知謀を献じて信任を受けた。十六年(1643)、襄陽を落とすと、官爵名号を定め、左輔に任ぜられた。翌年、李自成が西安に大順政権を建てると、天佑殿大学士に任ぜられた。李自成が北京に入ると、登極を勧進した。李自成が北京から脱出すると、讒言によって李厳を殺させた。まもなく、農民軍から離脱した。

李巌(?〜1644)
  もとの名は信。河南省杞県の人。郷試に及第して挙人となった。飢民への賑恤をおこなって郷紳の忌避を買い、獄に下された。崇禎十三年(1640)、李自成に帰順して、均田免糧を建議し、「闖王を迎えれば、糧を納れず」の歌を作って、窮民の支持を集めた。十六年(1643)、制将軍に任ぜられた。翌年、北京を落とすと、呉三桂を招撫しようとしたが、失敗した。李自成が北京から退去すると、軍を率いて河南を奪回するべく志願したが、牛金星の讒言に遭い、李自成に殺された。一説によると、実在の人物ではないという。

陳永福(?〜1645)
  はじめ明の開封副総兵をつとめた。崇禎十四年(1641)、城を守って李自成の左眼を射抜いた。のちに捕らえられて、李自成に感服して矢を折って誓い、その部将となった。権将軍に任ぜられ、太原を守った。十七年(1644)、文水伯に封ぜられた。清軍が入関して李自成が北京から撤退すると、山西を守って清軍に抵抗した。のちに清軍に降伏した。一説に太原で戦死したという。

劉体純(?〜1664)
  号は二只虎。陝西省延安の人。李自成に従い、右営右標果毅将軍となった。大順国が建てられると、光山伯に封ぜられた。永昌二年(1645)、李自成が戦死すると、李錦・高一功らとともに、南明と結んで清に抵抗し、総兵官となった。漢中を攻めたが、清軍に敗れ、巴東に入ってこれを守備した。永暦帝により、平西侯に封ぜられた。永暦二年(1648)、命を受けて湖北に入った。翌年、袁宗第とともに荊西にあり、屯田しながら、清に抵抗した。荊襄十三家の中でも強悍な軍として知られ、皖国公に進んだ。清がしばしば招撫の使者を送ったが応じなかった。康熙二年(1663)、清軍の侵攻に遭い、巫山陳家坡で敗れて、妻子とともに自縊した。

王輔臣(?〜1681)
  号は馬鷂子。山西省大同の人。明末に農民叛乱に参加。のちに清に降って漢軍正白旗に属し、侍衛に任ぜられた。洪承疇・呉三桂に従って南明桂王朱由榔を討ち、援剿右鎮総兵に任ぜられた。康熙九年(1670)、陜西提督に進んだ。十三年(1674)、清朝に重用されないことに不満を抱き、寧羌で呉三桂に呼応して叛いた。呉三桂より平遠大将軍に任ぜられ、平涼に盤踞した。十五年(1676)、清に降った。二十年(1681)、命を受けて北京に向かう途中、西安で没した。

[大西]
張献忠(1606〜1646)
  字は秉吾、号は敬軒。陝西省延安の人。崇禎三年(1630)、王嘉胤の蜂起に応じて、米脂で叛乱を起こした。八大王、または西営八大王と号した。翌年、王自用の連軍に参加し、三十六営のひとつとなった。のちに鳳陽を落とし、明の祖陵を焼いた。十一年(1638)、南陽を襲ったが失敗し、明に偽降して穀城で兵を休めた。翌年、再起して四川の州境を転戦した。十四年(1641)、開県黄陵城で明軍を大いに破り、長駆して四川を出て、襄陽を落とし、襄王朱翊銘を殺した。さらに進んで光州などを落とした。十六年(1643)、武昌に拠り、大西王を称した。長沙に進軍し、免税三年を約し、従う者がますます増えた。翌年、成都を陥落させて秦王を称し、国号を大西とし、大順と建元した。のちに帝を称し、成都を西京と改めた。大順三年(1646)、兵を率いて北上し、清軍と戦ったが、西充鳳凰山で敗れて戦死した。

李定国(1621〜1662)
  字は寧宇、または霖宇、鴻遠。陝西省楡林の人。張献忠の養子。幼くして張献忠の乱に従って、文武の才あり、勇猛なことで知られた。大順元年(1644)、大西政権が建てられると、安西将軍に任ぜられ、孫可望・劉文秀・艾能奇らとともに四将軍と称された。張献忠の死後、大西軍の余衆とともに雲南に入り、南明と結んで清に抵抗した。永暦六年(1652)、孫可望とともに南明の永暦帝を貴州に迎え、安隆に駐屯した。歩騎八万を率いて、湖南・四川・広西を転戦し、桂林を落とし、清の定南王孔有徳を自殺させた。のちに孫可望と不仲となり、広東に下った。十年(1656)、孫可望が帝を称して自立しようと図ったので、李定国は永暦帝を擁して雲南に入り、晋王に封ぜられた。翌年、孫可望が雲南を攻めると、劉文秀とともに迎撃してこれを破った。まもなく清軍が三路から雲南に入ると、苦戦して滇西に逃れた。騰越の磨盤山に隠れたが、さらに敗れた。諸土司と連絡して雲南・ミャンマーの辺境各地を転々としたが、康熙元年(1662)、憂憤のうちに病没した。

孫可望(?〜1660)
  もとの名は可旺。陝西省米脂の人。農民の出身で、張献忠の養子となった。明末に張献忠に従って起兵し、軍中驍将となり、一堵墻と号した。大順元年(1644)、大西政権が建てられると、平東将軍に任ぜられ、李定国・劉文秀・艾能奇らとともに四将軍と称された。張献忠の死後、諸将とともに大西軍の残部を率いて川南から雲貴にうつり、平東王と称した。南明永暦政権と結んで、清に抵抗した。永暦五年(1651)、秦王に封ぜられた。のちに李定国と不和をきたした。十一年(1657)、貴州から雲南に出て李定国の軍を攻め、部将の裏切りで交水で敗れ、逼塞して清に降った。義王に封ぜられ、漢軍正白旗に属した。順治十七年(1660)、病死した。一説に猟に出て射殺されたという。

劉文秀(?〜1658)
  陝西省延安の人。張献忠の養子。大順元年(1644)、大西政権が建てられると、撫南将軍に任ぜられ、孫可望・李定国・艾能奇らとともに四将軍と称された。張献忠の死後、孫可望らとともに大西軍の余衆数万人を率いて雲南に入り、南明と結んで清に抵抗した。永暦六年(1652)、撫南王に封ぜられ、大西軍六万を率いて四川に出て、叙州・重慶から成都を囲んだ。清の都統白含貞や白広生らを殺し、呉三桂を保寧に敗走させた。まもなく敗れて貴州に退いた。十年(1656)、永暦帝に従って昆明にいたり、蜀王に封ぜられた。翌年、孫可望が自立すると、兵を発して雲南を攻め、交水で孫可望を破った。十二年(1658)、昆明で病没した。

艾能奇(?〜1647)
  陝西省綏徳の人。張献忠の養子。大順元年(1644)、大西政権が建てられると、定北将軍に任ぜられ、孫可望・李定国・劉文秀らとともに四将軍と称された。張献忠の死後、孫可望らとともに大西軍の余衆数万人を率いて雲南に入り、南明と結んで清に抵抗した。定北王を称した。永暦元年(1647)、兵を率いて東川土司の禄万鍾を討ち、伏兵に遭い、矢に当たって戦死した。

白文選(1615〜1675)
  号は毓公。陝西省呉堡の人。若くして張献忠の征戦に従った。大順元年(1644)、大西政権が建てられると、前軍府都督に任ぜられた。張献忠の死後、孫可望らとともに雲南に入り、南明と結んで清に抵抗した。永暦十年(1656)、鞏国公に封ぜられた。翌年、孫可望が自立すると、李定国に従って孫可望の軍を破り、功により鞏昌王に封ぜられた。のちに李定国に従って雲南西部を転戦した。十五年(1661)、騰越茶山で兵敗れて清に降り、承恩公に封ぜられ、漢軍正白旗に属した。

馮双礼(?〜?)
  陝西省綏徳の人。張献忠に従い、大西の五軍都督のひとりとなった。張献忠の死後、孫可望に従った。永暦六年(1652)、李定国に従って桂林・衡州で大勝をおさめ、長沙を抜き岳州を落とした。十一年(1657)、孫可望が自立すると、孫可望を見限って李定国につき、永暦帝により慶陽王に封ぜられた。翌年、清軍が貴州に入ると、永寧で清軍と戦って敗れた。のちに残部を率いて昆明を守ったが、城破れて捕らえられ、清に降った。
張勝(?〜?)

郭有銘(?〜?)

高文貴(?〜?)

王之邦(?〜?)

劉之講(?〜?)

呉子聖(?〜?)

廖魚(?〜?)

卜寧(?〜?)

温自譲(?〜?)
  陝西省延川の人。張献忠の下で総兵官となった。1646年、逃亡した。
張君用(?〜?)
  陝西省米脂の人。張献忠の下で右軍都督となった。
王明(?〜?)
  河南省汝州の人。
狄三品(?〜)


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