[オイラト(瓦刺)]
ゴーハイ(?〜?)
浩海。蒙古族オイラト部の首長。太尉を称した。エルベク・ハーンに弟の妃オルジェイトを奪うよう勧めた。のちにエルベク・ハーンに討たれて殺された。
マフムード(?〜1416)
馬哈木。またの名をバトラ。蒙古族オイラト部の首長。ゴーハイの子。1412年、オルジェイ・テムルを殺し、ダルバク・ハーンを擁立した。1414年、トーラ河源に近いウラーン・ホシューンの地で明軍と決戦して、痛み分けに終わった。1416年、アルクタイに敗れ、まもなく没した。
トゴン(?〜1439)
脱歓。蒙古族オイラト部の首長。マフムードの子。1433年、明の保護下にあったトクトア・ブハを擁立した。翌年にアルクタイを滅ぼし、1438年にはアダイ・ハーンを滅ぼして、ほぼモンゴル全域を手中にした。
エセン・ハーン(?〜1454)
也先汗。蒙古族オイラト部の首長。在位1439〜1454。トゴン(脱歓)の子。彼のころオイラート部はウリャンハイ・女真を征服し、モグリスタンを討って全盛期であった。正統九年(1444)には、甘肅行中書省を設置した。1449年、可汗トクトア・ブハ(タイスン・ハーン)と協同して明領に侵攻した。土木堡で明の英宗を捕らえ、北京を包囲した(土木の変)。1452年にはトクトア・ブハを殺した。このとき、モンゴル後裔の皇族たちを皆殺しにし、オイラト人を母とするもののみ助命したという。翌年にはハーン位に即位し、大元大ハーンを称した。しかしさらに翌年、部下のアラク・チイン(阿剌知院)に叛乱を起こされ、逃走の途中に殺された。
[ホシュート部]
バイバガス・ハーン(?〜?)
拜布葛斯。オイラト族ホシュート部の首長。ハーナイ・ノヨン・ホンゴル(哈尼諾顏洪果爾)の子。チン・タイシの遺産をめぐって異父兄弟のチョクルと争った。
グシ・ハーン(1582〜1655)
⇒顧実汗。
[トルグト部]
ホー・オルロク(?〜1644)
和鄂爾勒克。オイラト族トルグト部の首長。1630年、西遷してノガイ人を討ち破り、ヴォルガ河畔に移住した。敗残のノガイ人を追討する途中で戦死した。
[ジュンガル部]
ガルタン・ハーン(1645?〜1697)
オイラト族ジュンガル部の首長。在位1676〜1697。バートル・ホンタイジ(巴図爾琿台吉)の子。幼少のころ、パンチェン・ラマ一世やダライ・ラマ五世に師事した。康煕九年(1670)、兄センゲが異母兄たちに殺されると、その仇を討ち、また叔父チョクル・ウバシを倒して、ジュンガル部を制した。十六年(1677)、ホシュート部のオルチド・ハーンを倒して自立。ダライ・ラマ五世によって持教受命王の称号を受けた。十八年(1679)、トルファン・ハミを服属させた。カシュガル・ヤルカンドを支配し、東隣のハルハ部に侵入して、清朝の北西を脅かした。三回にわたって康熙帝の親征を受けて、三回目の三十六年(1697)には大敗してついにアルタイ山中で自殺した。
ガルタン・ツェレン(?〜1745)
ジュンガル部の首長。在位1727〜1745。ツェワン・アラブタンの子。父の跡を継いでカザフに侵入し、またモンゴル漠北地方に侵入した。雍正九年(1731)には和通泊で傅爾丹率いる清軍を破ったが、翌年にツェレン親王率いる清軍に大敗し敗走した。乾隆四年(1739)、ハルハ部との境界が確定すると、ふたたびカザフ草原に進出し、タシュケントやトゥルキスタンを占領し、バダフスタンを従属させた。清・露間の中継貿易によって栄え、中央アジアに大帝国を築いた。
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