⇒明(嘉靖万暦期,天啓崇禎期,南明),
⇒清(後金,清初,康熙期),チベット,タタール,オイラート,鄭氏台湾政権
[鄭氏台湾政権]
顔思斉(1588?〜1625)
  字は振泉。福建省海澄の人。勢家の出であったが、家僕を殴打して死なせ、罪を恐れて日本に逃れた。日本で交易に従事するうち、楊天生・洪陞らとともに平戸で乱をくわだて発覚して出国。台湾に逃れて、諸羅山一帯を開拓した。のちに海賊の首領となって、福建・浙江沿海を攻略した。天啓五年(1625)に病没すると、三界埔山に葬られた。

李旦(?〜1625)
  福建省泉州の人。王直の養子。海商としてマニラに渡り、華僑の頭目となった。スペインに逮捕されて投獄されたが逃亡し、日本の平戸に居をうつした。徳川幕府の朱印状を受けて、台湾・ヴェトナム・ルソンと交易し、蘭・英と現地人の仲立ちをつとめた。かれの死後、その勢力は鄭芝龍に引き継がれた。

鄭芝竜(1604〜1661)
  字は飛黄、号は老一官。福建省南安の人。鄭紹祖の子。幼いころより素行が悪く、父に勘当を受けて、マカオにいた伯父を頼った。南海の密貿易に従って、頭角をあらわした。台湾ではオランダ商館の通訳をつとめた。天啓七年(1627)には中国沿岸諸州を大規模に荒掠して、東アジア最大の海賊勢力となった。崇禎元年(1628)、明朝の招撫を受け、海防の任にあたった。明に帰順した後も、海賊勢力やオランダと同盟・角逐を繰り返していた。明が滅び、さらに南京の福王政権が滅ぶと、福州で唐王・朱聿鍵を擁立して、抗清復明の戦いにあたった。しかし、やがて旗色が悪くなると、清軍に内通した。息子の鄭成功にも降伏を勧めたが、容れられることはなかった。

鄭鴻逵(?〜1657)
  字は羽公。福建省南安の人。鄭紹祖の子。鄭芝龍の弟にあたる。明の錦衣衛掌印千戸となる。 崇禎十四年(1641)、武進士となった。登州副総兵に累進した。南明の福王政権のもとで総兵官となり、鎮江を守った。唐王朱聿鍵を奉じて福建に入り、定国公に封ぜられた。のちに清軍との戦いを避けた罪で、爵位を剥奪された。隆武政権が滅ぶと、甥の鄭成功と合流して、清に抵抗した。のちに金門で亡くなった。

鄭成功(1624〜1662)
  字は明儼。国姓爺と呼ばれる。鄭芝竜の子。母は田川マツ。日本の平戸に生まれた。幼名は福松。七歳のとき、福建省安平鎮に渡り、鄭森と改名した。南安県学員生に選ばれて、南京で学んだ。明滅亡のさい、唐王朱聿鍵の知遇をえて、国姓の朱を賜り、忠孝伯に封ぜられた。父の芝竜とともに抗清復明の戦いをおこなった。芝竜が清に降ったのちも、貿易によって軍資を得て、福建沿岸を荒らして抵抗を続けた。永暦帝のもとで延平郡王、のち潮王に封ぜられた。永暦十二年(1658)、鎮江を陥落させ、南京を攻撃するが敗退。十五年(1661)、台湾を攻め、プロヴィンシア・ゼーランディアの二城をオランダより奪って抗清の拠点を確保した。しかし、翌年に没した。

甘輝(?〜1659)
  福建省海澄の人。はじめ林泗とともに乱を起こし、のちに鄭成功に帰順した。驍勇をもって知られ、中軍提督となり、崇明伯に封ぜられた。永暦十三年(1659)、鄭成功とともに北伐し、長江に入って、南京を囲み、速攻を建議したが容れられなかった。まもなく清の援軍が到着すると、奮戦して捕らえられ、屈することなく殺された。

鄭泰(?〜1663)
  鄭成功の堂兄。南明の隆武帝により建平侯に封ぜられた。永暦十二年(1658)、鄭成功が北伐したとき、戸官となり、厦門の留守をまもった。十七年(1663)、鄭経の弟の鄭世襲を擁立しようとした疑いをかけられ、自殺した。

鄭経(1643〜1681)
  字は玄之。福建省南安の人。鄭成功の長男。永暦十六年(1662)、延平郡王の位を継ぎ、陳永華を主政とし、劉国軒を主軍とし、台湾を経営して、清の招撫をこばみ続けた。二十八年(1674)、三藩の乱に乗じて福建や広東の沿岸を攻めた。三十四年(1680)に敗れて台湾に帰り、翌年に病死した。

陳永華(?〜1680)
  字は復甫。福建省同安の人。兵部侍郎王忠孝の推挙により鄭成功に仕えた。鄭成功により「臥龍」と喩えられ、参軍に任ぜられた。永暦十二年(1658)、鄭成功が北伐したとき、かれは厦門の留守をまもった。鄭成功の死後、鄭経を補佐した。三十四年(1680)、鄭経が大陸から撤退し、台湾に逃げ戻ると、陳永華は排斥されて、憂悶のうちに亡くなった。諡は文正。

鄭克爽(1670〜1707)
  福建省南安の人。鄭経の子。永暦三十五年(1681)、馮錫範に擁立され、延平郡王の位を継いで、台湾を統治した。三十七年(1683)、清の福建水師提督施琅に攻められ、降伏した。一族とともに北京にうつり、漢軍正紅旗に属し、公爵に封ぜられた。のちに病没した。

劉国軒(1628〜1692)
  福建省汀州の人。若くして武芸を好み、弓箭をよくした。順治三年(1646)、漳州で清の左営游撃林世用の軍に投じた。門卒から身を立て、城門楼総に進んだ。永暦八年(1654)、鄭成功に帰順し、江南を転戦した。十五年(1661)、前軍大将となり台湾を攻め、戦功を挙げた。二十八年(1674)、三藩の乱に乗じて鄭経が渡海すると、潮州で清軍を破った。潮州・恵州を占領し、漳州・汀州・邵武・興化などを奪った。三十二年(1678)、正総督に封ぜられ、尚方宝剣を賜り、全軍の統帥を委ねられた。三十四年(1680)、福建の各地を失陥し、台湾に撤退した。翌年、鄭経が薨去すると、鄭克爽を補佐して、武平侯に封ぜられ、水師提督となり澎湖を守った。三十七年(1683)、清の施琅率いる水軍と決戦して敗れ、鄭克爽とともに清に降った。清に仕えて天津総兵をつとめた。

馮錫範(?〜?)
  福建省晋江の人。馮澄世の子。鄭経が立つと、侍衛として召された。鄭襲に従って台湾に渡った。永暦二十八年(1674)、三藩の乱に乗じて鄭経が渡海すると、これに従軍して信任をえた。のちに耿精忠が清に降ると、形勢は不利となり、鄭氏の軍は敗れて台湾に帰った。陳永華を排斥して、勢力を固めた。三十五年(1681)、鄭経が薨去すると、董太妃の名を使って、監国の鄭克臧を謀殺し、娘婿の鄭克爽を擁立した。忠誠伯に封ぜられ、侍衛武官を主管して鄭氏政権内で専権をふるった。三十七年(1683)、澎湖で清軍に敗れ、ルソンに逃亡して抗戦を続けることを主張したが容れられず、劉国軒に説得されて、鄭克爽とともに清に降った。清に仕えて伯爵に封ぜられ、漢軍正白旗に属した。
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