[金(1115〜1234)]
太祖(完顔阿骨打)太宗(完顔呉乞買)熙宗(完顔合剌)海陵王(完顔迪古乃)世宗(完顔烏禄)章宗(完顔麻達葛)衛紹王(完顔永済)宣宗(完顔吾睹補)哀宗(完顔寧甲速)
完顔阿骨打(1068〜1123)
  金の太祖⇒
完顔宗望(?〜1127)
  本名は斡魯補、または斡離不。金の太祖(完顔阿骨打)の次男。金の建国以前、阿骨打の征戦に従い、常に側近にあった。天輔六年(1122)、兵を率いて遼の天祚帝(耶律延禧)を追い、軍功を挙げた。太祖に従って燕都を平定し、副都統となった。翌年、天祚帝の軍を大いに破った。天会三年(1125)、平州より進発して宋を攻め、三河県にいたり、郭薬師の軍を白河で破った。翌年正月、汴京(開封)を囲み、宋に迫って姪と称さしめた。八月、右副元帥となり、再び宋を攻めた。十二月、左副元帥完顔宗翰とともに北宋を滅ぼした。軍を北還させ、まもなく病没した。金の建国の功臣のひとり。
完顔斜也(?〜1130)
  漢名は杲。完顔劾里鉢の子。金の太祖(完顔阿骨打)の同母弟。収国元年(1115)、昃勃極烈となった。天輔元年(1117)、女直皮室四部を降し、泰州を落とした。降伏した諸部を女真の地にうつした。五年(1121)、忽魯勃極烈・都統内外諸軍となった。六年(1122)、遼の中京や高州・恩州を陥落させ、奚王を降した。遼の西京はすでに降っていたが再び叛いたので、出兵して再奪取した。太祖に従って燕京を下した。太宗(完顔呉乞買)のとき、諳班勃極烈となり、完顔宗幹とともに国政をおさめた。天会三年(1125)、都元帥を兼ねた。死後、遼王に追封された。諡は智烈。金の建国の功臣のひとり。
完顔婁室(1077〜1130)
  字は斡里衍。女真の出身。勇猛で兵略に通じた。若くして従軍し、父の跡を継いで七水部長となった。遼の天慶四年(1114)、金の太祖(完顔阿骨打)に従って、遼にそむいた。金の収国元年(1115)、功により猛安に抜擢された。太祖に従って達魯古城を攻め、戦功を挙げた。天輔六年(1122)、完顔杲に従って遼の中京を攻め落とした。また遼の西京を落とした。西夏軍三万が遼を救援するために派兵してくると、衆議を抑えて速戦に決し、渡河直後を狙い撃ちして、西夏軍を撃破した。翌年、耶律大石が奉聖州に来攻すると、諸将と連係して迎撃し、大石を生け捕りにした。天会三年(1125)、遼の天祚帝(耶律延禧)を追撃して、応州でこれを捕らえた。翌年、完顔宗翰に従って宋を攻め、河東の数郡を下した。六年(1128)、軍を陜西に向かわせ、同州・華州を落とし、京兆を破り、鳳翔に勝利した。しかし熟羊寨で宋軍に敗れて退却した。翌年、宋の延安府・晋寧軍などを攻め落とした。八年(1130)、陜州を落とした。完顔宗輔に従って富平の戦いに参加し、張浚の率いる宋軍を潰滅させた。同年十二月に病没した。
完顔忠(?〜1136)
  本名は迪古乃。字は阿思魁。女真耶懶路完顔部の出身。石土門の弟にあたる。金の太祖(完顔阿骨打)の挙兵に従った。太祖の命により達魯古城を守った。斡魯らとともに高永昌を破り、東京(遼陽)に下った。遼の耶律捏里の兵を蒺藜山で破り、遼の顕・乾・成・川・懿・豪・恵の数州を奪った。諸将とともに西征して遼帝を襲い、奉聖州を降した。耶懶路都孛堇となった。天会二年(1124)、于速頻水にうつった。熙宗(完顔合剌)が即位すると、太子太師を加えられた。十四年(1136)、保大軍節度使・同中書門下平章事を加えられた。死後に金源郡王に追封された。金の建国の功臣のひとり。
完顔宗翰(1079〜1136)
  本名は粘没喝。またの名は粘罕。金の太祖(完顔阿骨打)の甥にあたる。太祖の征遼の戦に従って、功績を立てた。天会三年(1125)、左副元帥となり、兵を率いて宋を攻めた。翌年、太原を陥した。五年(1127)、宋の徽宗・欽宗や后妃・宗室・大臣たちを虜囚とし、財物を掠めて北帰した。のちに再び軍を発して、河南・山東を攻めて占領した。太保・尚書令・領三省事に上り、晋王に封ぜられた。没後に秦王に改封された。
完顔希尹(?〜1140)
  本名は谷神。天輔三年(1119)、金の太祖(完顔阿骨打)の勅命を受けて女真文字を作った。太祖の征遼の戦に従った。元帥右監軍となり、対宋戦に参加した。宗翰に従って南宋の高宗を追撃した。熙宗が即位すると、尚書左丞相・侍中に上った。のち陳王に封ぜられた。皇統三年(1140)、陥れられて死を賜った。
完顔銀朮可(1072〜1140)
  またの名を銀朮哥、銀朮割。遼に対する使者として立ち、遼の事情を金の太祖(完顔阿骨打)に伝え、遼を討つべきことを勧めた。太祖に従って達魯古城で遼の耶律訛里朶の軍と大戦し、戦功を挙げた。また黄龍府を攻めて、白馬濼で遼兵を破った。収国二年(1116)、寧江州に駐屯した。天輔年間、渾河で戦い、中京を落とした。天会四年(1126)、完顔宗翰に従って宋を攻撃し、太原を囲み、宋の援軍を撃破した。完顔宗望と合流し、汴京(開封)を落とした。六年(1128)、鄭州を奪い、宋の将軍の李操らを殺した。十年(1132)、燕京留守となった。十三年(1135)、致仕し、保大軍節度使を加えられ、中書令に転じ、蜀王に封ぜられた。
完顔宗幹(?〜1141)
  本名は斡本。金の太祖(完顔阿骨打)の子。太祖に従って遼を討ち、しばしば戦功を挙げた。太宗(完顔呉乞買)のとき、国論勃極烈として輔政にあたり、官制・儀礼を改訂した。国論左勃極烈となった。熙宗(完顔合剌)のとき、太傅・領三省事となった。完顔希尹らとともに完顔宗磐・完顔宗雋らを誅した。太師に上り、梁宋国王に封ぜられ、国史を監修した。皇統元年(1141)、熙宗に従って燕京にいたる途中、野狐嶺で病没した。子の海陵王(完顔迪古乃)が即位すると、睿明皇帝と追諡され、徳宗の廟号が贈られた。世宗(完顔烏禄)が即位すると、廟号が削られ、明粛皇帝と改められた。さらに帝号を削られ、皇伯・太師・遼王の位を追贈され、忠烈と諡された。
完顔昂(?〜1142)
  本名は吾都補。完顔盈歌の子。金の太祖(完顔阿骨打)の従弟にあたる。しばしば太祖の征討に従軍した。天会六年(1128)、権元帥左都監となった。十五年(1137)、西京留守をつとめた。天眷三年(1140)、平章政事に上った。皇統元年(1141)、漆水郡王に封ぜられた。翌年、鄆王に進んだ。
宇文虚中(1079〜1146)
  字は叔通、号は龍渓。成都華陽の人。北宋の大観三年(1109)、進士に及第した。資政殿大学士に上った。南宋が建てられると、黄門侍郎に任ぜられた。建炎二年(1128)、金に使者として立ち、軟禁された。釈放されたのち、金に仕えて礼部尚書・翰林学士承旨となり、河内郡開国公に封ぜられ、国師と尊称された。皇統六年(1146)、上京会寧府に抑留されていた宋の捕虜の一部が虚中を奉じて帥とし、軍を奪って南に逃亡しようとした。事前に漏れて逮捕され、処刑された。懐郷の感情をうたった詩人としても知られた。
完顔宗弼(?〜1148)
  本名は斡啜。またの名は兀朮。金の太祖(完顔阿骨打)の四男。金軍を率いて、征遼、征宋の戦いに活躍した。北宋を滅ぼして二帝を虜囚とし、江南で宋の康王趙構(高宗)が擁立されて南宋が成立すると、高宗を追撃して長江を越えた。韓世忠らの軍に敗れて、包囲を突破して逃げた。天会十五年(1137)、右副元帥に上り、瀋王に封ぜられ、軍政の専権を握った。天眷元年(1138)、宋に敗れて河南を失った。都元帥を経て、太保・領行台尚書省に上り、尚書左丞相・侍中にいたった。三年(1140)、再び南下して、河南を奪うが、岳飛の軍に敗れて危機に陥った。皇統二年(1142)、秦檜と交渉して岳飛を殺させ、淮河・秦嶺以北を金領とする金朝優位の和議を、南宋との間に結ばせた。
完顔常勝(?〜1149)
  漢名は元。完顔宗峻の子。金の太祖(完顔阿骨打)の孫にあたる。熙宗(完顔合剌)のとき、北京留守をつとめた。胙王に封ぜられた。皇統七年(1147)、熙宗に酒を賜り、飲むことができず、逃げ出した。九年(1149)、河南の軍士孫進が叛くと、皇弟按察大王を自称した。このとき熙宗は皇弟とは常勝のことであると疑い、海陵王亮がその疑惑を誇張させ、ついにかれは殺された。
完顔秉徳(?〜1150)
  本名は乙卒。完顔宗翰の孫にあたる。はじめ金の西南路招討使となり、のちに汴京留守・兵部尚書となった。皇統六年(1146)、参知政事となった。八年(1148)、平章政事に進んだ。翌年、尚書左丞相・中書令となり、唐括弁らとともに熙宗(完顔合剌)を寝殿で刺殺した。海陵王(完顔迪古乃)が即位すると、左丞相・侍中・左副元帥となり、蕭王に封ぜられた。天徳二年(1150)、行台尚書省事として出向させられ、完顔宗本らとともに謀反の罪で誣告された。四月、燕京行台で殺された。
完顔烏帯(?〜1152)
  漢名は言。完顔阿魯補の子。金の熙宗(完顔合剌)のとき、大理卿となった。左丞相完顔秉徳や唐括弁らとともに廃立のことを相談し、海陵王完顔迪古乃に告げた。熙宗が殺され、海陵王が立つと、平章政事となった。天徳二年(1150)、秉徳と完顔宗本を謀反の罪で誣告し、海陵王に秉徳と宗本を殺させた。右丞相に任ぜられ、秉徳の財産を我がものとし、司空・左丞相・侍中に進んだ。まもなく解任されて、崇義軍節度使として出された。妻の唐括氏は海陵王と私通していた。四年(1152)、海陵王の命を受けた唐括氏により殺された。
完顔孛迭(?〜1154)
  漢名は亨。完顔宗弼の子。金の熙宗(完顔合剌)のとき、芮王に封ぜられ、銀青光禄大夫を加えられた。海陵王(完顔迪古乃)のとき、帝の猜忌に遭い、真定尹として出された。中京留守・東京留守を歴任し、広寧尹にうつった。海陵王の命で李老僧が同知広寧尹事として監視にあたった。まもなく李老僧による謀反の誣告を受けて獄死した。世宗(完顔烏禄)のとき、官爵を復され、韓王に追封されて、名誉回復された。
完顔烏野(1099〜1157)
  漢名は勗。字は勉道。はじめ金の太祖(完顔阿骨打)に従って征戦に従事し、太宗(完顔呉乞買)のときは謀政に参与した。天会六年(1128)、金建国以前の遺事を探訪して、『祖宗実録』を編纂した。熙宗(完顔合剌)のとき、宗磐の乱の平定に従い、鎮東軍節度使・同中書門下平章事・平章政事・監修国史・尚書左丞相などを歴任した。太保・太師に上り、魯国王・漢国王・秦漢国王に歴封された。海陵王(完顔迪古乃)のとき、周宋国王に進んだ。『太祖実録』、『女直郡王姓氏譜』を撰したほか、詩文に「射虎賦」などがある。
蔡松年(1107〜1159)
  字は伯堅、号は蕭閑老人。真定の人。蔡靖の子。北宋の宣和末年、父に従って燕山を守った。金に降ったのち、金の太宗(完顔呉乞買)・熙宗(完顔合剌)・海陵王(完顔迪古乃)の三君に仕えた。正隆三年(1158)、右丞相に任ぜられ、儀同三司を加えられ、衛国公に封ぜられた。文詞は清麗で、楽府を最も得意とし、呉激と並び称された。『明秀集』。
完顔迪古乃(1126〜1161)
  海陵王,廃帝亮⇒
完顔元宜(?〜1164?)
  もとの姓は耶律。名は阿列。またの名は移特輦。契丹の出身。完顔(耶律)慎思の子。父に従って金の太祖(完顔阿骨打)に降り、完顔姓を賜った。熙宗(完顔合剌)のとき、護衛をつとめた。海陵王(完顔迪古乃)が即位すると、兵部尚書となった。正隆六年(1161)、海陵王に従って南宋を攻め、神武軍都総管として和州で宋軍を破り、浙西道兵馬都統制に進んで、金牌を帯びた。十月、揚州瓜洲渡で海陵王を殺し、兵を収めて北への帰途についた。翌年、世宗(完顔烏禄)に謁見して、御史大夫に任ぜられ、平章政事に進んだ。命を受けて泰州路に向かい、契丹の移剌窩斡の乱の鎮圧にあたった。大定四年(1164)、致仕した。家で病没した。
王重陽(1113〜1170)
  もとの名は中孚、改めて名は嘉。字は智明、重陽は号。咸陽の人。はじめ科挙受験のために勉学に励んだが、礼部の役人の怒りを買って資格を失った。しかたなく受験した武挙に及第したが、寒村の酒税監に任ぜられた。不遇を嘆いて辞職し、家業も捨てて酒乱の生活を送った。のち、仏教に帰依したという。正隆四年(1159)、二人の隠者(漢鍾離・呂純陽)に会って一念発起し、妻子を捨てて道士となった。儒・仏・道の三教を融合した全真教の祖となり、山東北部において馬丹陽以下の七真人を弟子として、教団の基礎を固めた。
徒単合喜(?〜1171)
  上京の人。金の皇統二年(1142)、隴州防御使となり、前後して高陵・秦州・鳳翔・饒風関で宋軍と戦った。平涼・臨洮・延安の三府尹や元帥左都監・陜西統軍使兼河中府尹・西蜀道兵馬都統といった職を歴任した。世宗(完顔烏禄)が即位すると、陜西路統軍使となり、元帥右都監に転じ、華州で宋を破り、臨洮を取り、秦・河・隴など十六州府を奪った。大定七年(1167)、枢密副使となり、次いで東京留守をつとめた。九年(1169)、平章政事に上った。
紇石烈志寧(?〜1172)
  本名は撤曷輦。上京の人。完顔宗弼の娘婿にあたる。金の海陵王(完顔迪古乃)のとき、右宣徽使・汾陽軍節度使・兵部尚書に任ぜられた。左宣徽使・都点検に進み、枢密副使・開封府尹に転じた。契丹の撤八が乱を起こすと、北面都統となり、白彦敬らとともに鎮圧にあたった。世宗(完顔烏禄)の即位に反対し、使者九人を殺したが、世宗の軍の攻撃を受けると降伏し、臨海節度使に任ぜられ、右翼軍の都統となった。命を受けて、契丹の移剌窩斡の乱の鎮圧にあたった。左副元帥に上り、睢陽に駐屯した。都元帥僕散忠義に従って南宋を攻め、李世輔の軍を宿州で破った。平章政事に上った。まもなく枢密使・右丞相に進み、金源郡王に封ぜられた。
蔡珪(?〜1174)
  字は正甫。真定の人。蔡松年の子。金の天徳三年(1151)、進士に及第した。翰林修撰・同知制誥として召された。のちに戸部員外郎・太常丞に転じた。大定年間ごろには、文壇で確固たる地位を占め、金朝の文学の基礎を築いた。『晋陽志』、『補正水経』。
馬丹陽(1123〜1183)
  名はト。字は宜甫、または玄宝、号は丹陽子。丹陽真人ともいう。山東寧海の人。大定八年(1168)、王重陽に従って道士となり、全真教に帰依した。京兆・山東の間を往来して伝道にはげんだ。「道は無心をもって体となし、忘言をもって用となし、柔弱をもって本となし、清浄をもって基となす」ことを主張した。『洞玄金玉集』、『漸悟集』。
完顔允恭(1146〜1185)
  本名は胡土瓦。のちに允迪、允恭の名を賜った。金の世宗(完顔烏禄)の次男。大定元年(1161)、楚王に封ぜられた。翌年、皇太子に立てられた。漢官を信じて用いた。二十四年(1184)、世宗が上京に巡行して都を空けたとき、留守を預かって一年近く国政をみた。朝臣の繁雑な礼を簡略化した。翌年、病死し、宣孝太子と諡されて、大房山に葬られた。二十九年(1189)、子の完顔麻達葛(章宗)が即位すると、顕宗の廟号が贈られた。
徒単克寧(?〜1191)
  もとの名は習顕。東莱の人。女真徒単部の出身。完顔希尹の甥にあたる。騎射をよくし、契丹・女真の文字に通じた。金の熙宗のとき、護衛となり、忠順軍節度使に転じた。海陵王のとき、宿州防御使・胡里改路節度使・曷懶路兵馬都総管を歴任した。世宗の初年、移剌窩斡の乱の鎮圧にあたった。大定三年(1163)、益都尹・山東路兵馬都総管・行軍都統となった。翌年、宋を攻め、楚州を奪った。大名尹に転じた。十一年(1171)、紇石烈志寧に従って北征した。翌年、枢密副使・知大興府事となった。太子太保・平章政事に転じた。十九年(1179)、右丞相となった。二十一年(1181)、左丞相。翌年、克寧の名を賜った。二十五年(1185)、太子完顔允恭が病没すると、皇太孫を立てるよう上表した。二十八年(1188)、世宗の遺命を受けて、章宗の即位を助け、太尉・尚書令をつとめた。まもなく太傅に進んだ。明昌元年(1190)、太師・尚書令となり、淄王に封ぜられた。翌年正月、病死した。
完顔襄(1140〜1202)
  本名は唵。完顔阿魯帯の子。衛王襄と同名のため、内族襄とも称した。騎射をよくした。金の世宗(完顔烏禄)のとき、移剌窩斡の乱を鎮圧したほか、宋軍の侵攻を撃退した。大定二十三年(1183)、平章政事に任ぜられ、蕭国公に封ぜられた。右丞相に進み、徒単志寧や張汝霖とともに、政権を担当した。章宗が即位すると、再び右丞相をつとめ、完顔安国と二路に分かれてタタールを攻めた。承安元年(1196)、勝利をえてタタール部長を殺した。帰還後、左丞相となり、常山郡王に封ぜられた。翌年、北京に駐留し、臨潢府を進発して諸部を討ち、界壕を築いた。左丞相のまま、司空に上った。
王庭筠(1156〜1202)
  字は子端、号は黄華山主。辰州熊岳の人。大定十六年(1175)、進士に及第した。恩州軍事判官となった。明昌元年(1190)、試館職に召されたが、御史台の干渉で辞めさせられ、彰徳の黄華山にこもった。再び招聘されて応奉翰林文字となり、ついで翰林院修撰に上った。承安元年(1196)、趙秉文の事件に連座して官を解かれたが、四年(1199)応奉翰林文字として復帰、泰和元年(1201)再び翰林院修撰となった。文才にすぐれ、詩書画をたしなんだ。
完顔宗浩(?〜1207)
  本名は老。字は師孟。完顔昂の子。金の世宗のとき、参知政事に上った。承安三年(1198)、金虎符を帯び、泰州に鎮して、コンギラト・ハダキンの諸部を破り、移米河や呼歇水の以北まで進軍した。功により枢密使に任ぜられ、栄国公に封ぜられた。五年(1200)、尚書右丞相に進み、完顔襄らとともに辺地の壕を修築するよう建言した。泰和七年(1207)、都元帥を兼ね、汴京(開封)で行省事をつとめた。襄陽におもむいて軍を観閲し、南宋に和議を迫らせた。九月、軍中で没した。
完顔撤速(1152〜1209)
  漢名は匡。女真文をよくして、金の世宗(完顔烏禄)のときに太子侍読となった。大定二十五年(1185)、礼部策論進士となった。章宗(完顔麻達葛)が立つと、近侍局をつかさどった。承安初年、行枢密院として撫州に出向し、出戻って守尚書左丞・修国史となり『世宗実録』の編纂にあたった。枢密副使となり、謀克世襲の権を授かった。泰和六年(1206)、右副元帥となり、僕散揆を補佐して宋の韓侘冑の軍を討ち、光化・隨州を攻め落とし、襄漢路を遮断し、徳安を囲み、安陸・雲夢・漢川などの諸城を席巻した。襄陽を長らく囲んだが、落とせなかった。七年(1207)、平章政事・左副元帥となり、定国公に封ぜられた。諸軍を総覧し、汴京の行政を代行した。宋との間に和議が成立すると、帰朝した。李元妃とともに章宗の遺詔を受け、衛紹王(完顔永済)を擁立した。まもなく李元妃を誣告して殺した。尚書令となり、申王に封ぜられた。
党懐英(1134〜1211)
  字は世傑、号は竹渓。馮翊の人。父に従って泰安に移った。若いころから辛棄疾とともに辛党と並び称された。大定十年(1170)、進士に及第した。世宗(完顔烏禄)のとき、国史院編修官・応奉翰林文字・翰林待詔・同修国史に累進し、郝俣同とともに『遼史』の刊修官となった。遼代の民間の碑銘・墓志・諸家文集・旧事記録を蒐集した。明昌三年(1192)、翰林学士承旨に上り、のち致仕した。書・篆刻をよくした。『小州集』。
紇石烈執中(?〜1213)
  胡沙虎。またの名を九斤。東平府の人。はじめ金の太子護衛をつとめ、右副点検・防御使・節度使などを歴任した。泰和六年(1206)、僕散揆に従って南宋を攻めた。大安元年(1209)、知大興府事となった。翌年、蒲鮮万奴・完顔承裕らとともに野狐嶺でモンゴル軍を迎撃したが、大敗した。崇慶二年(1213)、軍事を議論するために召されて、中都の北に駐屯した。八月、完顔醜奴らとともに乱を起こして衛紹王(完顔永済)を廃し、宦官に衛紹王を殺させて、宣宗(完顔吾睹補)を立てた。宣宗が即位すると、太師・尚書令・都元帥となり、沢王に封ぜられた。部将の朮虎高hに殺された。
抹然尽忠(?〜1215)
  本名は彖多。上京路猛安の人。金の大定年間、進士に及第した。中都西京按察使に累進した。大安年間、西京留守となり、尚書右丞・行省西京に任ぜられた。貞祐初年、尚書左丞に進んだ。宣宗(完顔吾睹補)が汴梁(開封)に遷都すると、右丞相完顔承暉とともに中都の留守をつとめ、左副元帥となった。中都が陥落しそうになると、南京に逃れ、平章政事となった。尚書省により謀反の誣告を受け、殺された。
完顔達吉不(?〜1217)
  漢名は弼。金の章宗(完顔麻達葛)のとき、護衛として丞相完顔襄に従い、辺境防衛にあたった。宿直将軍・深州刺史となった。泰和六年(1206)、完顔匡に従って襄陽を攻めた。八年(1208)、南京副留守・寿州防御使に任ぜられた。大安二年(1210)、中央に入って武衛軍副都指揮使となった。翌年、兵を率いて宣徳に駐屯した。会河堡で蒙古軍を破り、右副都点検となった。至寧元年(1213)、遼東に出向した。罪をえて雲内州防御使に左遷された。宣宗(完顔吾睹補)が即位すると、元帥左都監となり、真定に駐屯した。貞祐二年(1214)、陝西路統軍使となった。三年(1215)、知東平府事・山東路宣撫副使となり、劉二祖の残党の孫邦佐・張汝楫らを招撫した。四年(1216)、東平を堅く守り、蒙古のムカリをはばんだ。翌年、蒙古軍が退くと、まもなく病没した。
完顔阿里不孫(?〜1217)
  字は彦成。歇懶路泰申必剌猛安の人。金の明昌年間、進士に及第した。貞祐初年、国子祭酒に累進した。興定元年(1217)、参知政事・権右副元帥となり、婆速路の行政と軍事を管轄した。知広寧府事の温迪罕青狗と不和で、後難をおそれた蒲察移剌都が青狗を別任にあてるよう奏上した。宣宗は青狗を召したが、青狗が聞き入れなかったので、阿里不孫が命をうけて青狗を殺した。まもなく青狗の義兄弟の伯徳胡土によって殺された。
耶律留哥(1165〜1220)
  契丹族の出身。金の北辺千戸となった。崇慶元年(1212)、隆安・韓州で起兵して金にそむき、蒙古に帰順した。蒙古軍の援助により金兵を破り、遼東の地に拠った。元太祖八年(1213)、王を称し、国号を遼として、都を咸平府に置き、金の東京を攻め破った。十年(1215)、部下の耶厮不らが帝を称するよう勧めたが従わず、子の薛闍に金帛をもたせてチンギス・ハーンのもとに送った。耶厮不らが蒙古に叛いて自立すると、留哥は蒙古兵を率いてこれを討ち、遼東を恢復した。臨潢府にうつり、まもなく死んだ。妻の姚里氏が衆を引き継ぎ、のちに子の薛闍が跡を継いだ。
徒単公弼(?〜1221)
  本名は習烈。河北東路算主海猛安の人。徒単府君奴の子。金の熙宗(完顔合剌)の外孫にあたる。はじめ奉御に任ぜられた。大定二十七年(1187)、世宗の娘の息国公主をめとり、駙馬都尉を加えられた。泰和二年(1202)、武安軍節度使に任ぜられ、宋に使いして元旦を祝った。大安初年、知大興府事をつとめた。参知政事となり、尚書右丞・左丞を歴任した。至寧元年(1213)、平章政事となり、定国公に封ぜられた。宣宗(完顔吾睹補)が即位すると、右丞相に上った。貞祐二年(1214)、知河中府として出た。定国軍節度使事・太子太師・同判大睦親府事を歴任した。
邱処機(1148〜1227)
  字は通密、号は長春真人。棲霞の人。十九歳のとき道士となり、王嘉(重陽)に師事した。全真教の七真人のひとり。1219年、チンギス・ハーンの西征のとき、かれの幕下で不殺の道を説いた。1223年、西域より帰還し、このときの経緯は弟子の李志常によって『長春真人西遊記』に記された。のち燕京(北京)の長春宮に住んだ。『摂生消息論』、『磻渓集』
完顔合達(?〜1232)
  漢名は瞻。字は景山。金の貞祐初年、護衛となり、岐国公主をモンゴルに送った。興定年間以降、河西・陜西の重鎮守令を歴任し、対南宋や対西夏との戦いに参加した。前後して京兆・平涼・閺郷に駐屯し、行尚書省事をつとめた。平章政事に上り、芮国公に封ぜられた。正大八年(1231)冬、モンゴル右翼の軍が漢水を渡って北上し、開封を突こうとした。完顔合達は金の主力軍を率いてケ州に入り、南面の敵に備えた。翌年正月、モンゴルのトゥルイの軍と鈞州三峯山で会戦し、敗れて殺された。
完顔陳和尚(1192〜1232)
  字は良佐。豊州の人。貞祐年間にモンゴル軍に身柄を掠奪された。のち逃亡して、金の宣宗(完顔吾睹補)に投じた。一時、獄に落とされたが、哀宗によって許された。ウイグル・ナイマン・羌族・漢人などの降兵を再編して忠孝軍を組織した。正大五年(1228)、忠孝軍四百騎を率いて、大昌原でモンゴル軍八千を破った。この功により、定遠大将軍・平涼府判官に上った。七年(1230)には蒙古軍による衛州の包囲を救い、翌年には陝西で蒙古軍を破り、倒回谷に追撃して大勝をおさめた。このため禦侮中郎将に上った。九年(1232)、三峯山の戦いに敗れて鈞州に走り、さらに敗れて殺された。
完顔慶山奴(?〜1232)
  字は献甫。金の宣宗(完顔吾睹補)擁立の功により、西京副留守に任ぜられた。貞祐三年(1215)、宣差便宜都提控となり、兵を募って中都への援軍におもむいた。興定元年(1217)、モンゴルと西夏の軍を寧州で討ち、元帥左都監・保大軍節度使に上った。正大八年(1231)、京兆(西安)の留守をつとめたが、まもなく京兆を捨てて帰朝した。徐州で行省事をつかさどった。翌年、兵を率いて汴京(開封)に入り、揚駅店で肖乃台の軍に敗れて捕らえられ、殺された。
徒単益都(?〜1232)
  金に仕えて延安総管に累進した。開興元年(1232)正月、完顔慶山奴に代わって徐州で行省事をつとめた。六月、掃兵総領王祐らが乱を起こすと、宿州に逃れた。宿州鎮防千戸の高臘哥が節度使紇石烈阿虎を殺して楊妙真に降り、徒単益都に軍府をおさめさせようとした。かれは従わず、官民を率いて帰徳に向かい、モンゴル軍に捕らえられて殺された。
趙秉文(1159〜1232)
  字は周臣、号は閑閑老人。磁州滏陽の人。金の大定二十五年(1185)、進士に及第した。興定初年には礼部尚書に上った。哀宗(完顔寧甲速)が即位すると、翰林学士となった。『易叢説』、『中庸説』。
完顔奴申(?〜1233)
  完顔訥申ともいう。字は正甫。女真策論進士に及第した。正大五年(1228)、翰林侍講学士に任ぜられ、御史大夫としてモンゴルに使いし、竜駒河でオゴタイに面会した。七年(1230)、吏部尚書となり、再びモンゴルに使いした。天興元年(1232)、命を受けて鄭州海灘寺のモンゴル駐屯地におもむき、和議を求めた。参知政事に上り、枢密副使を兼任し、完顔習捏阿不とともに汴京に留守した。翌年正月、荊王守純を監国に推してモンゴルに降ろうとした。翌日、崔立の乱が起こって殺された。
完顔守純(?〜1233)
  本名は盤都。金の宣宗(完顔吾睹補)の次男。貞祐元年(1213)、濮王に封ぜられた。翌年、殿前都点検・侍衛親軍都指揮使に任ぜられ、権都元帥となった。三年(1215)、枢密使に任ぜられた。翌年、平章政事に上った。興定三年(1219)、英王に改封された。正大元年(1224)、荊王に改封され、平章政事を辞め、判睦親府となった。天興元年(1232)冬、蒲察官奴らによって帝に擁立されそうになったが、事成らなかった。翌年、梁王従恪らとともに崔立に京城南の青城に送られ、モンゴル軍に殺された。
完顔従恪(?〜1233)
  金の衛紹王(完顔永済)の子。大安元年(1209)、胙王に封ぜられ、左丞相に任ぜられた。翌年、皇太子に立てられた。衛紹王が殺害されたのち、二十年にわたって禁錮を受けた。天興二年(1233)、崔立が乱を起こすと、太后の命により梁王に封ぜられ、監国に上った。四月、崔立によって荊王守純らとともに蒙古軍の前に送られ、殺された。
粘葛奴申(?〜1233)
  金の天興元年(1232)、同知開封府事から陳州防御使にうつった。ときに蒙古軍は河南に侵入していたので、間道を抜けて任地におもむき、流亡した数十万人の人々を収容した。翌年、陳州を金興軍と改め、節度使に任ぜられた。また参知政事・行尚書省事に任ぜられた。たびたび軍糧の支給を減らしたため、麾下の部将に殺された。
完顔合周(?〜?)
  またの名を永錫。金の宗室。貞祐三年(1215)、元帥左監軍・知真定府事となり、兵を率いて中都救援におもむいたが、敗れて逃げ帰った。翌年、御史大夫・権尚書右丞となり、モンゴル軍を阻むため、兵を率いて陜西におもむいたが、京兆(西安)にいたって恐れて戦わなかった。のちにモンゴル軍に潼関を破られ、汴京(開封)郊外まで迫られた。興定元年(1217)、免職された。三年(1219)、復帰した。正大四年(1227)、モンゴルとの講和を図った。天興元年(1232)、汴京がモンゴル軍に囲まれると、まだ京城には百余万石の穀物が隠されていると上奏し、李蹊とともに大商店を捜索した。哀宗(完顔寧甲速)が蔡州に逃れると、同判大睦親府事に任ぜられ、都点検を兼ね、宮廷を管轄した。
崔立(?〜1234)
  将陵の人。はじめ遊民であった。金の都統・提控を歴任し、遙領太原府事となった。天興元年(1232)、モンゴル軍が汴京(開封)を囲むと、平安都尉として出向した。哀宗が汴京を捨てて帰徳に逃れると、参知政事完顔奴申や枢密副使完顔斜捻阿卜らとともに汴京の留守をつとめ、西面元帥となった。翌年正月、完顔奴申・完顔斜捻阿卜を殺し、梁王完顔従恪を立てて監国とし、自分は太師・兵馬都元帥・尚書令・鄭王を称した。モンゴルのスブタイに降伏を請い、宣宗皇后李氏・哀宗皇后徒単氏・梁王完顔従恪・荊王完顔守純らをモンゴルの軍営に送った。翌年、部将の李伯淵らに殺された。
石抹世勣(?〜1234)
  字は景略。咸平路酌赤烈猛安の人。契丹の出身。石抹元毅の子。金の承安二年(1197)、父が戦死すると、召されて侍儀司フ執となった。貞祐三年(1215)、太常丞に累進した。正大年間、礼部尚書・翰林侍講学士に任ぜられた。天興二年、哀宗(完顔寧甲速)に従って蔡州に逃れた。蔡州が陥落すると、子の石抹嵩とともに殺された。
王若虚(1174〜1243)
  字は従之、号は慵夫。藁城の人。金の承安二年(1197)、進士に及第した。はじめ県令を歴任し、善政をもって賞された。のち国史院編修官・著作佐郎をつとめ、章宗(完顔麻達葛)・宣宗(完顔吾睹補)の実録の編纂に加わった。平涼府判官に遷った。『五経辨惑』、『史記辨惑』、『慵夫集』。
元好問(1190〜1257)
  字は裕之、号は遺山。太原秀容の人。元徳明の子。幼少のころ、父に従って各地を転々とした。興定五年(1224)、進士に及第した。金に仕えて、内郷・南陽などの県令を歴任し、左司員外郎に上った。金朝滅亡後は仕官しなかった。詩を自作し、詩の評論を行った。また野史編纂を志して、金代の史料を収集し、のちの『金史』編纂の基礎を固めた。『中州集』、『杜詩学』。
↓次の時代=モンゴル帝国

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