[西晋(265〜316)]
[魏・司馬氏]宣帝(司馬懿)景帝(司馬師)文帝(司馬昭)
[西晋]武帝(司馬炎)恵帝(司馬衷)懐帝(司馬熾)愍帝(司馬鄴)

司馬炎(236〜290)
  晋の武帝,世祖⇒
王沈(?〜266)
  字は処道。太原晋陽の人。幼くして孤児となった。曹爽の下で掾となり、累進して中書門下侍郎となった。司馬懿が曹爽を殺すと、免官された。のち再び起用されて治書侍御史となり、侍中・典著作に進んだ。荀頊・阮籍とともに『魏書』を撰した。高貴郷公と文学を論じ、文籍先生と号された。高貴郷公が司馬昭を攻めようとすると、王沈は司馬昭に報告し、功により安平侯に封ぜられた。御史大夫・尚書令・給事中に上った。魏晋の革命に参与し、西晋が建てられると驃騎将軍・録尚書事・散騎常侍・統城外諸軍事となった。

王祥(184〜268)
  字は休徴。琅邪郡臨沂の人。幼いころから継母に孝養を尽くし、氷の下の魚を捕る話で知られた。漢末の乱を避けて、廬江に隠居して二十余年暮らした。徐州刺史の呂虔に召されて別駕となり、州の行政を委ねられて治績を挙げた。魏の高貴郷公のとき、毋丘倹の乱討伐に従い、太常に進み、三老となった。司隷校尉・司空を歴任した。司馬昭が晋王となったとき、司馬昭に拝礼するよう荀頊に迫られたが従わなかった。かえって司馬昭に重んじられ太尉となった。西晋が建つと、太保に任ぜられ、睢陵公に封ぜられた。清談をよくした。

裴秀(224〜271)
  字は季彦。河東郡聞喜の人。裴潜の子。はじめ魏の大将軍・曹爽の掾として仕えた。曹爽が司馬氏に誅殺されると、免官された。また再び仕えて魏の尚書僕射に累進した。官制改革や五等の爵制を建議した。司馬炎の擁立に尽力して、晋の尚書令に上り、鉅鹿郡公に封ぜられた。のち司空に上った。地理学に通じ、「禹貢地域図」「地形方丈図」を作成した。

向秀(227?〜272)
  字は子期。河内郡懐県の人。老荘を好み、自然と名教の統一を、儒道合一を主張した。『荘子』の注をなした。嵆康・呂安と交友した。嵆康・呂安が殺されると、迫られて洛陽に入った。官は黄門侍郎・散騎常侍にいたった。のちに「思旧賦」を作って嵆康・呂安を悼んだ。竹林七賢のひとり。

(?〜274)
  字は景倩。潁川郡潁陰の人。荀ケの子。博学で見聞が広く、陳羣に才能が認められた。鍾会による『易経』の互体を否定する説を論難し、世に知られた。司馬懿に抜擢されて、散騎侍郎となり、侍中に進んだ。毋丘倹討伐に従い、功により左僕射に進み、吏部をおさめた。咸煕元年(264)、司空となり、五等の爵位と礼制を定めた。晋が建てられると、臨淮公に封ぜられ、侍中・太尉に上った。賈充と党派を結び、賈充の娘を皇太子の妃とするよう言上し、武帝に容れられた。

傅玄(217〜278)
  字は休奕。北地郡泥陽の人。傅幹の子。若いころは貧しかったが、博学で文章をよくした。また楽府詩に秀でた。秀才に挙げられて郎中に任ぜられた。魏の弘農太守・典農校尉・散騎常侍を歴任した。司馬炎が即位すると、御史中丞・太僕・司隷校尉を歴任した。『魏書』を撰した。『傅子』。

羊祜(221〜278)
  字は叔子。泰山南城の人。魏の末年、相国従事中郎に任ぜられ、司馬氏の機密を預かった。中領軍にうつり、宿衛のことをつかさどった。魏晋交代の謀に参与し、中軍将軍に進み、散騎常侍を加え、巨平侯に封ぜられた。晋の泰始初年、尚書左僕射・衛将軍に上った。泰始五年(269)、都督荊州諸軍事に任ぜられ、襄陽に鎮して、屯田八百余頃を開いた。のちに車騎将軍を加えられたが、呉の降将歩闡を救うことができず、平南将軍に降格された。防具をつくろい兵士を訓練し、大規模に造船して水軍を準備した。咸寧二年(276)、征南大将軍に任ぜられた。王濬を監益州諸軍事に推薦し、長江上流でも船を作らせた。四年(278)、呉を討つ計を述べるために、病身をおして入朝を求めた。武帝(司馬炎)は張華を派遣して策を問わせた。十一月、病が重くなり、杜預が任を代わった。まもなく没した。

王恂(?〜278)
  字は良夫。東海郡郯県の人。王粛の子。姉が司馬昭にとついだ。はじめ魏の給事黄門侍郎となり、河南尹に累進した。

賈充(217〜282)
  字は公閭。平陽郡襄陵の人。賈逵の子。幼くして孤児となり、父の爵位を継いで侯となった。はじめ尚書郎に任ぜられた。司馬師に仕えて、毋丘倹・文欽の乱の討伐に従った。司馬昭の司馬となり、右長史に転じた。諸葛誕が叛乱すると、その平定に貢献し、廷尉に上った。ついで中護軍に転じた。景元元年(260)、魏帝・高貴郷公(曹髦)が相府を攻めようとしたとき、司馬氏のために衆を率いて南闕で戦った。また太子舎人の成済に高貴郷公を殺させた。このため司馬昭の信任をえて、司馬氏の枢機に参画した。晋代に入って、車騎将軍・散騎常侍・尚書僕射をつとめ、魯郡公に封ぜられた。のちに司空・侍中・尚書令に上った。武帝の厚い信任を受け、娘(賈南鳳)を皇太子妃として入内させた。征呉戦に反対していたため、呉が降った後は大いに羞じ入ったという。

皇甫謐(215〜282)
  字は士安、号は玄晏。安定郡朝那の人。若いころは放蕩にふけったが、のち寝食を忘れて学問に励み、「書淫」と称された。『帝王世紀』、『高士伝』、『逸士伝』、『玄晏春秋』など著述につとめた。また医学を学び、針灸に通じて、『針灸甲乙経』にまとめた。

山濤(205〜283)
  字は巨源。河内郡懐県の人。山曜の子。幼くして孤児となり、貧乏であった。老荘を好み、阮籍・嵆康らと交わった。四十を過ぎてはじめて官界に入り、始辟郡主簿に任ぜられた。曹爽と司馬氏の争いが起こると難を避けて身を隠した。のち司馬師のもとに出仕した。晋に入ると、新沓伯に封ぜられ、吏部尚書・太子少傅・冀州刺史を歴任した。尚書右僕射・侍中に上った。竹林七賢のひとり。『山濤集』。

杜預(222〜284)
  字は元凱。京兆郡杜陵の人。杜恕の子。はじめ尚書郎に任ぜられた。鍾会が蜀を討ったときに、長史として従軍した。鍾会は叛乱して蜀で自立をはかり失敗して死んだが、杜預は失脚を免れた。泰始年間に河南尹・泰州刺史・度支尚書を歴任した。咸寧四年(278)、羊祜の後任として鎮南大将軍・都督荊州諸軍事に任ぜられ、呉と対峙した。翌年、王濬らとともに呉を攻めた。征呉の功により、当陽県侯に封ぜられた。律令の整備に努力し、占領地の灌漑事業などを推進した。のち司隷校尉をつとめた。また『春秋左氏伝』を好み、その研究で知られる。『春秋左氏経伝集解』

王宏(?〜284)
  字は正宗。高平の人。王業の子。魏のとき、公府に任ぜられ、尚書郎・給事中を歴任した。西晋の泰始初年、汲郡太守となり、のち衛尉・河南尹・大司農に進んだ。刑政に苛酷で有司に弾劾を受けた。太康年間に司隷校尉となり、士庶を検察し、車服の制を取り締まった。連座により再び免官された。のち尚書として復活した。

王濬(206〜286)
  字は士治。弘農郡湖県の人。巴郡太守から益州刺史に上った。蜀に赴任し、泰始八年(272)より長江の上流で大船団を建造し、水軍の調練にあたった。太康元年(280)、龍驤将軍として大水軍を率いて長江を下り、呉都・建業を攻略した。その功により襄陽県侯に封ぜられ、のちに撫軍大将軍・開府儀同三司にまで累進した。

李密(224?〜287)
  またの名を虔。字は令伯。犍為郡武陽の人。幼くして父母を亡くし、祖母の劉氏に育てられた。譙周に師事して学問を学んだ。はじめ蜀に仕えて郎となり、呉に数度使いした。蜀の滅亡後は晋朝に出仕を請われたが、「陳情表」を上書して固辞し、しばらく野にいた。祖母の死後、考廉に推挙されて晋に仕えた。郎中・太子洗馬を経て、漢中郡太守に上った。のちに恨みの詩を賦したため、武帝の怒りを買い、官を免ぜられた。

夏侯湛(243〜291)
  字は孝若。譙の人。夏侯荘の子。太子舎人・尚書郎・野王県令・中書郎・南陽王の相を歴任した。恵帝のとき、散騎常侍に上った。文章を作って名高く、たいへんな美男で「連璧」の異称をえた。『夏侯常侍集』。

楊駿(?〜291)
  字は文長。弘農郡華陰の人。はじめ高陸令・驍騎府司馬・鎮軍府司馬などを歴任した。咸寧二年(276)、娘の艶が皇后に立てられると、車騎将軍に上り、臨晋侯に封ぜられた。外戚として勢威をふるった。太煕元年(290)、武帝が崩ずるにあたって、遺詔により太尉・太子太傅・仮節・都督中外諸軍事・侍中・録尚書に上り、朝政を総攬するにいたった。恵帝が立つと、さらに太傅・大都督・仮黄鉞に上った。賈皇后と楚王司馬瑋が密謀し、兵に家宅を包囲され殺された。

司馬亮(?〜291)
  字は子翼。司馬懿の四男。魏に仕えて散騎侍郎・鎮西将軍を歴任し、祁陽伯に封ぜられた。晋が建てられると、扶風郡王に封ぜられ、持節・都督関中雍涼諸軍事に任ぜられた。咸寧三年(277)、汝南王に改封され、鎮南大将軍・都督豫州諸軍事となった。まもなく侍中・撫軍大将軍を加えられた。のち太尉・録尚書事・太子太傅に進んだ。楊駿に排斥されて、許昌に鎮した。恵帝が立ち、賈皇后が楊駿を殺すと、太宰に進み、朝政を専断した。楚王司馬瑋の兵権を奪おうとしたため、司馬瑋に憎まれた。元康元年(291)、廃立をたくらんだと司馬瑋に誣告され、捕殺された。

衛瓘(220〜291)
  字は伯玉。河東郡安邑の人。衛覬の子。幼くして孤児となり、父の爵位を受け継いで閺郷侯となった。はじめ魏の尚書郎となり、侍中・廷尉に累進した。景元四年(263)、ケ艾・鍾会が征蜀の軍を起こすと、その軍監となり、蜀平定後の鍾会の叛乱を諸将とともに平定し、また捕らえていたケ艾を斬った。晋に入って征東将軍に任ぜられた。尚書令・侍中・司空を歴任した。九品中正法をやめ郷挙里選を復活するよう武帝に上疏したが、もちいられなかった。のち楊駿と不和となり、引退に追い込まれたが、八王の乱が起こって楊駿が殺されると、録尚書事として復活。汝南王司馬亮を補政した。しかし、賈后に殺された。草書にたくみで、索靖とともに「二妙」と称された。

衛恒(252〜291)
  字は巨山。河東郡安邑の人。衛瓘の子。若くして斉王のもとで司空をつとめた。太子舎人・秘書丞・黄門侍郎を歴任した。八王の乱のとき父とともに賈后に殺された。書がたくみで、草・章草・隷・散隷の四種の書体に通じた。『四体書勢』。

司馬瑋(271〜291)
  字は彦度。晋の武帝(司馬炎)の五男。太康末年、楚王に封ぜられ、都督荊州諸軍事・平南将軍となり、鎮南将軍に転じた。武帝が亡くなると、洛陽に入って衛将軍・北軍中侯となり、禁軍をおさめた。恵帝が即位して楊駿が殺された後、汝南王司馬亮と太保衛瓘が朝政を専断した。賈皇后は実権を握るため、かれに司馬亮と衛瓘を殺させた。制をいつわって大臣を殺したと誣告して、かれを謀反の罪で処刑した。

傅咸(239〜294)
  字は長虞。北地郡泥陽の人。傅玄の子。咸寧初年、尚書右丞に任ぜられた。司徒左長史・車騎司馬に進んだ。恵帝のとき、尚書左丞・御史中丞を歴任した。しかし、司馬亮を諫め、夏侯駿を弾劾したため免官された。のち、議郎・司隷校尉などをつとめた。当時、朝政が弛緩し、権勢家が放恣にふるまっていたので、奏上して河南尹・澹らの官を免職させたため、京師は粛然としたという。

王渾(223〜297)
  字は玄沖。太原郡晋陽の人。王昶の子。父の死後、京陵侯を襲爵した。咸煕年間に越騎校尉となった。晋が建てられると、安東将軍・都督揚州諸軍事となり、寿春に鎮した。咸寧五年(279)、王濬とともに兵を率いて呉を討った。翌年、呉の中軍を破ったが、長江北岸に軍をとどめ、あえて渡江しなかった。先に王濬が建業を陥したため、このことを恥じて、しきりに王濬の罪を鳴らしたので、世人にそしられた。呉が平定されると、征東大将軍として寿陽に鎮した。のち尚書左僕射に任ぜられ、司徒に遷った。恵帝が即位すると、侍中を加えられた。楚王司馬瑋が挙兵して汝南王司馬亮と衛瓘を殺すと、病と称して屋敷に引きこもり、門を閉じて司馬瑋を拒んだ。楚王司馬瑋が殺されると、兵を率いて宮殿に向かった。功により録尚書事となった。

陳寿(233〜297)
  字は承祚。巴西郡安漢の人。譙周に師事し、尚書や春秋三伝を学んだ。史記や漢書を耽読したという。蜀に仕えて衛将軍・秘書郎・散騎黄門郎を歴任した。しかし黄皓に逆らったため官を免じられた。蜀の滅亡後、張華に見出されて孝廉に挙げられ、著作郎として晋に仕えた。御史治書に上った。『三国志』を著した。

周処(236?〜297)
  字は子隠。呉興郡陽羨の人。周魴の子。幼くして孤児となり、膂力は人にすぐれた。田畑を荒らして州里の患いとなり、南山の虎・長橋の蛟とならんで「三害」と称された。のちに虎と蛟を殺して自らの行いを改めたので、三害は除かれたという。学問に励み、州郡に推薦され、呉に仕えて東観左丞・無難の督となった。晋に入って新平・広漢の太守をつとめて治績を挙げた。楚国内史・散騎常侍を歴任した。御史中丞に進み、貴戚といえども容赦せず弾劾した。元康六年(296)、氐の斉万年が関中で帝を称すると、建威将軍として討伐に向かった。少勢で援軍がなく、翌年に六陌で力戦し、敗死した。『黙語』、『風土記』、『呉書』などを著したが、いずれも散佚した。

潘岳(247〜300)
  字は安仁。滎陽郡中牟の人。名族の楊肇の女婿となって取り立てられた。河陽令・右傅主簿などを歴任した。賈皇后が楊駿を誅殺すると失脚。のち著作郎として復活し、黄門侍郎に上った。賈謐の下の文人集団「二十四友」の筆頭にあげられた。趙王・司馬倫の乱のとき、殺害された。陸機と並び称される西晋の詩人。文才と美貌で知られた。「悼亡詩」。

束ル(261〜300)
  字は広微。陽平郡元城の人。張華に見出されて仕えた。著作郎に任ぜられ、『晋書』三帝紀および十志を撰した。尚書郎に上った。のちに病のため官を退き、郷里で門人に教えた。『発蒙記』。

劉伶(211〜300)
  またの名は霊。字は伯倫。沛国の人。晋の建威参軍となったが、飲酒癖が激しく、放言を好んだ。阮籍・嵆康らと交わった。竹林七賢のひとり。「酒徳頌」。

賈南鳳(256〜300)
  
恵帝の賈皇后⇒
張華(232〜300)
  字は茂先。范陽郡方城の人。幼いころは貧しかったが、「鷦鷯賦」を詠んで声名を上げ、司馬昭のもとで中書郎をつとめた。晋初に黄門侍郎に任ぜられ、関内侯に封ぜられた。中書令に上った。征呉戦にさいして、度支尚書となり、軍糧の補給にあたった。その功績で広武県侯に封ぜられた。のち都督幽州諸軍事をつとめた。恵帝が即位すると、太子少傅に任ぜられた。しかし、楊駿に忌避され朝政から遠ざけられた。楚王司馬瑋が挙兵すると、楚王を誅殺するのに功績があり、右光禄大夫・侍中・中書監に上った。元康元年(291)、司空に任ぜられた。賈皇后の深い信任を受け、『女史箴』を作り、太子の陰謀を阻止した。永康元年(300)、趙王司馬倫・孫秀らが挙兵すると、皇后の与党として殺された。「情詩」や「雑詩」で有名。また後世の百科事典のような『博物志』を著した。

賈謐(?〜300)
  字は長淵。南陽郡堵陽の人。韓寿の子。賈充の外孫から養子となった。豪奢で学問を好み、石崇・陸機らと交友して「二十四友」と号した。賈皇后の権勢をたのんで、威権をふるった。秘書監となり、国史をつかさどり、武帝(司馬炎)の即位した泰始元年を晋朝修史の始限とした。侍中に転じて、愍懐太子に不敬をはたらき、成都王司馬穎に叱責されたが、賈皇后に告げ口して司馬穎を鄴に出させた。常侍となり、再び侍中となって禁中を掌握した。賈皇后とともに太子を誣告して廃した。趙王司馬倫が挙兵すると、殺された。

石崇(249〜300)
  字は季倫。渤海郡南皮の人。石苞の子。はじめ修武令に任ぜられた。散騎郎を経て、城陽太守に進んだ。征呉戦に功績を挙げ、安陽郷侯に封ぜられた。黄門郎・侍中・南中郎将・荊州刺史を歴任し、徐州諸軍事に上った。事件に連座して免官されたが、のち衛尉として復活した。潘岳らとともに賈謐の下の文人集団「二十四友」のひとりとなる。洛陽郊外の金谷に別荘を構え、度を越した奢侈にふけった。趙王司馬倫が乱を起こしたときに殺された。

司馬倫(?〜301)
  字は子彝。司馬懿の九男。はじめ魏に仕えて諫議大夫となり、安楽亭侯に封ぜられた。晋代に入って琅邪郡王に封ぜられ、咸寧年間に趙王に改封された。安北将軍・都督鄴城守事に上った。元康初年に征西将軍・開府儀同三司に進み、関中に鎮した。賞罰が適正でなかったため、異民族の氐・羌が叛いたという。京師に戻って車騎将軍・太子太傅に任ぜられた。永康元年(300)、賈后が太子を殺すと、斉王司馬冏とともに宮中に乱入して賈后・張華らを殺し、自ら相国・侍中・都督中外諸軍事に上った。翌年、簒位して皇帝を称し、建始と改元した。斉王司馬冏、成都王司馬穎、河間王司馬顒らが起兵して、これらの軍に討たれた。帝位にあること六十余日、毒酒を飲まされて没した。

孟観(?〜301)
  字は叔時。渤海郡東光の人。若くして読書を好み、天文に通じた。恵帝が立つと、殿中中郎となった。賈皇后の命を受けて外戚の楊駿を誣告し、その親族郎党を捕らえた。黄門侍郎・左積弩将軍にうつり、上谷郡公に封ぜられた。太子太傅を加えられた。楚王司馬瑋を助けて、汝南王司馬亮および衛瓘を殺した。元康八年(298)、斉万年と十数回にわたって戦い、破った。翌年、斉万年を捕らえ、右将軍に任ぜられた。趙王司馬倫が簒位すると、安南将軍・監沔北諸軍事・仮節となり、宛に駐屯した。司馬倫が敗れると、かれも殺されて族滅された。

司馬冏(?〜302)
  字は景治。斉王司馬攸の子。斉王を襲封した。はじめ散騎常侍に任ぜられ、左将軍・翊軍校尉を兼ねた。永康元年(300)、趙王司馬倫とともに兵を率いて宮中に乱入し、賈后を廃殺した。功により游撃将軍に転じた。翌年、平東将軍・仮節となって、許昌に鎮した。司馬倫が帝位を簒奪すると、成都王司馬穎、河間王司馬顒らとともに起兵して、司馬倫を討った。司馬倫が敗れ、恵帝が復位すると、大司馬となって輔政にあたった。大権を手中にして、無法の行いをほしいままにした。永寧二年(302)、司馬顒が冏を廃して司馬穎を輔政にあてるするよう上表し、長沙王司馬乂が内応したため、兵に捕らえられて殺された。

陸機(261〜303)
  字は士衡。呉郡呉県の人。陸抗の子。陸遜の孫にあたる。父が没すると、牙門将となった。呉が晋に降ると、故郷に引きこもった。父祖の功業を記述し、孫晧の乱を慷慨して「辯亡論」を作った。のちに洛陽に上り、張華に重んじられ、また賈謐の下の文人集団「二十四友」のひとりとなった。太子洗馬・著作郎と累進した。趙王倫のもと相国参軍となり、関内侯に列せられた。趙王倫が簒奪すると中書令に任ぜられ、倫が敗死すると徒刑となったが赦された。斉王を諫めて「豪士賦」を作り、「五等論」を作って主行分封制を論じた。成都王・司馬穎の表により平原内史に任ぜられ、太安初年には後将軍・河北大都督まで上った。長沙王・司馬乂の討伐に赴いて大敗し、讒言にあって殺された。『陸士衡文集』。

陸雲(262〜303)
  字は士龍。呉郡呉県の人。陸抗の五男。陸機の弟、陸遜の孫にあたる。尚書郎・中書侍郎に上った。一時失脚したが、成都王・司馬穎の表により清河内史に任ぜられた。のち讒言にあって兄とともに殺された。文章をよくし、兄とともに二陸と称された。

索靖(239〜303)
  字は幼安。敦煌郡の人。賢良方正に挙げられ、西域戊己校尉長史から尚書郎に上った。雁門・酒泉太守を歴任した。恵帝が即位すると、関内侯を賜った。元康年間に梁王・司馬肜の左司馬をつとめ、氐・羌の乱を鎮圧した。始平内史に遷った。孫秀を討つのに功績があり、散騎常侍・後将軍と累進した。太安末年に河間王・司馬顒が挙兵して洛陽を攻めたとき、受けた負傷がもとで没した。

司馬乂(277〜304)
  字は士度。晋の武帝(司馬炎)の六男。太康十年(289)、長沙王に封ぜられ、員外散騎常侍に任ぜられた。恵帝が即位すると歩兵校尉となった。賈皇后が楚王司馬瑋を殺すと、司馬瑋と母を同じくしていたため、常山王に落とされた。永寧元年(301)、斉王司馬冏とともに趙王司馬倫を討ち、洛陽にいたって撫軍大将軍に任ぜられた。のち驃騎将軍となり、長沙王に復した。太安元年(302)、河間王司馬顒が関中で起兵すると、乂も応じて大司馬府を襲い、司馬冏を殺した。恵帝を奉じて執政にあたった。翌年、司馬顒と成都王司馬穎が兵を合わせて来攻すると、糧食が欠乏し、洛陽城中は大いに飢えた。東海王司馬越が殿中の将とひそかに結んだため捕らえられ、司馬顒の将の張方により殺された。
張昌(?〜304)
  義陽蛮の出身。若くして平氏県吏となり、武力は人に優れ、攻戦を論ずるのを好んだ。太安二年(303)、詔により荊州の武勇が召されて蜀に入り李流を討ち、壬午兵と号した。人はみな西征を喜ばなかったが、張昌は人心を掌握して勢力を保った。のち江夏に入り、次いで安陸に入った。姓名を李辰と改め、人々を糾合して、山都県吏の丘沈を天子として立て、名を劉尼とし、漢の後裔と称させた。百官を置き、自らは相国に任じた。長江・沔水の間を転戦して、三万の勢力に膨れ上がった。黄林・馬武・石冰・陳貞らを四方に派遣して州郡を攻略させ、荊・江・徐・揚・豫の五州にまたがった。のちに劉弘・陶侃らに敗れて、殺された。

王戎(234〜305)
  字は濬冲。琅邪郡臨沂の人。王渾の子。王衍の従兄にあたる。相国掾から豫州刺史に累進した。征呉戦に参加し、投降者の招撫にあたった。呉が平定されると、安豊県侯に封ぜられた。尚書左僕射に上り、吏部を宰領した。司徒にまで上った。顕官にありながら談論にふけり、晋朝の危機にありながら政務に関心を持たなかった。性至孝、蓄財を楽しみ、倹嗇であったという。竹林七賢のひとり。

左思(250?〜305?)
  字は太冲。斉国臨淄の人。生家は代々儒学を伝えた。賈謐の下の文人集団「二十四友」のひとりに挙げられる。斉王・司馬冏の記室をつとめた。のち秘書郎に任官した。三国時代の都(鄴・成都・建業)について詠った「三都賦」を書いた。はじめ世評は芳しくなかったが、司空の張華から絶賛をもらって、洛陽の高官たちが争ってこれを筆写したので、「洛陽の紙価を高からしめた」といわれる。冀州で没した。

司馬穎(279〜306)
  字は章度。晋の武帝(司馬炎)の十六男。太康十年(289)、成都王に封ぜられた。元康九年(299)、平北将軍となり、鄴に鎮した。永寧元年(301)、趙王司馬倫が帝を称すると、斉王司馬冏の起兵に応じて司馬倫を討ち、ひとたび黄橋で敗れたものの、黄河を渡って洛陽に入った。鄴に帰り、大将軍・都督中外諸軍事となった。太安二年(303)、河間王司馬顒とともに長沙王司馬乂を討ち、翌年に入京して丞相に上った。再び鄴に帰り、自ら皇太弟として立った。蕩陰で東海王司馬越を破り、恵帝を鄴に連れ帰った。王浚・司馬騰の軍に鄴を攻められ、敗れて洛陽に逃れ、司馬顒の将の張方により長安に送られた。司馬顒により皇太弟位を廃された。旧将の公師藩が起兵したので、洛陽に入り、東海王司馬越と結ぼうとしたが、ひるがえって関中に逃れ、のちに渡河して朝歌に走り、頓丘太守の馮嵩に捕らえられて鄴に送られた。司馬越のもとで縊り殺された。

司馬顒(?〜306)
  字は文載。咸寧三年(277)、河間王に封ぜられた。北中郎将となり、鄴城を監督した。元康九年(299)、平西将軍となり、長安に鎮した。永寧元年(301)、趙王司馬倫が帝を称すると、斉王司馬冏の起兵に応じて司馬倫を討ち、侍中・太尉に上った。二年(302)に起兵して司馬冏を討ち、さらに翌年に成都王司馬穎と兵を合わせて長沙王司馬乂を討った。部将の張方により恵帝を長安に移させた。永興三年(306)、東海王司馬越に敗れて太白山に逃れた。光煕元年(306)、詔により司徒として召された。新安雍谷にいたり、南陽王の部将の梁臣に殺された。

劉弘(236〜306)
  字は和季。沛国相県の人。幼いころ洛陽にあって、司馬炎とともに永安里に居住していた。同い年でともに学んだ。司馬炎が帝位につくと、旧恩により太子門大夫となり、宣城公に封ぜられた。太安二年(303)、張昌の乱のとき、荊州刺史に任ぜられ、軍を率いて乱を鎮圧した。鎮南将軍・都督荊州諸軍事に転じた。張昌を破ると、侍中・鎮南大将軍に進んだ。州にあって才能に応じて人材を登用し、農耕養蚕を推奨し、刑罰を軽くし賦役を省いて、治績をあげた。永興二年(305)、豫州刺史の劉喬と東海王司馬越に信書を出して、怨みを解き兵をおさめともに王室を盛り立てるよう勧めたが、聞き入れられなかった。陳敏が江東に割拠しようとしたため、江夏太守の陶侃らに討たせた。三年(306)、車騎将軍に進んだ。

司馬彪(?〜306)
  字は紹統。司馬懿の弟の司馬進の孫にあたる。はじめ好色薄行で、父により廃嫡されて弟が家を継いだ。のち人と交わらず、学問に励み、諸家経籍に通暁した。騎都尉を初任として、散騎侍郎にまで上った。『荘子注』、『九州春秋』、『続漢書』。

竺法護(?〜?)
  本姓は支。敦煌郡の人。月氏の出身。八歳で出家して、竺高座に師事して、竺を姓とした。師に従って西域諸国をめぐり、胡本を持ち帰って訳出に励んだ。泰始二年(266)、『須真天子経』を訳した。のちに『修行道地経』、『正法華経』、『勇伏定経』などを翻訳。永嘉二年(308)、天水において『普曜経』を訳した。訳経部数は約百五十部で、大乗仏教の伝播に大きな影響を与えた。涼州で寂した。
陳敏(?〜307)
  字は令通。廬江郡の人。若くして才幹があり、郡の廉吏から尚書倉部令史となった。趙王司馬倫が帝を称し、三王が起兵すると、京師の倉は空となったため、合肥度支として出て、さらに広陵度支にうつった。兵を率いて石冰を破り、広陵の相となった。兵を掌握して歴陽に拠り、皇太弟の命と称して、揚州刺史に自ら任じた。江東の豪族の顧栄ら四十人あまりを将軍や太守に任じた。弟たちを四方に派遣して州郡を攻略させた。呉越の地に拠って都督江東軍事・大司馬を自称し、楚公を号した。水利を興し、灌漑をおこなって後世に利した。しかし、戦略眼がなく、刑罰人事に節度がなかったため、江東の豪族たちの離反をまねいた。顧栄・周玘らが、征東大将軍劉淮に通じて起兵させた。このため陳敏は敗れて殺された。

張協(255?〜307?)
  字は景陽。安平郡武邑の人。若くして俊才で、兄の張載・弟の張亢とともに「三張」と称された。陸機以前の西晋詩壇で名を博した。秘書郎・中書侍郎を経て、河間内史となった。八王の乱の混乱を避けて隠棲した。諸文士になぞらえて「七命」を作った。永嘉初年に黄門侍郎に任ぜられたが、官につくことはなかった。『張景陽集』。

丁紹(?〜309)
  字は叔倫。譙国の人。広平太守に任ぜられた。永興初年、南陽王司馬模が公師藩に臨漳で囲まれると、兵を率いてこれを救った。永嘉初年、冀州刺史となった。汲桑の乱を鎮圧するのに功があり、寧北将軍・仮節・監冀州諸軍事を加えた。暴疾により没した。

劉寔(220?〜310?)
  字は子真。平原郡高唐の人。若くして貧窮したが、学問を好んだ。計吏として洛陽に入り、河南尹丞となった。吏部郎をへて、司馬昭のもとで相国軍事をつとめた。鎮南将軍の杜預が呉を討つと、鎮南軍司をつとめた。子が賄賂を受けたのに連座して免官された。のちに国子祭酒・散騎常侍として復活し、右光禄大夫・冀州都督に進んだ。太傅に上った。老病のため、侯として屋敷下がりした。懐帝が即位すると、また太尉に任ぜられた。顕位に上っても、質素な生活をおくって華美をきらい、学問に励んで飽きなかったという。『崇譲論』、『春秋条例』。

司馬越(?〜311)
  字は元超。はじめ散騎侍郎・衛将軍・侍中となる。元康元年(291)、楊駿を討ち、散騎常侍・尚書右僕射に進み、東海王に封ぜられた。中書令に転じ、司空・中書監に進んだ。河間王司馬顒と成都王司馬穎が、兵を合わせて長沙王司馬乂を討つと、越は洛陽で司馬乂を捕らえ、尚書令を加えられた。永興元年(304)、恵帝を擁して鄴の司馬穎を攻めた。蕩陰の一戦で大敗し、東海に逃れた。翌年には再起し、三年(306)に恵帝を迎えて洛陽に帰り、自ら太傅・録尚書事の位についた。相次いで司馬顒・司馬穎を討ち平らげ、朝政を専断して、朝臣のうちで己に二心あるものをみな殺した。永嘉初年、汲桑を破った。各地で紛乱が起こるなか、病にたおれて項で亡くなった。

王衍(256〜311)
  字は夷甫。琅邪郡臨沂の人。はじめ元城令に任ぜられた。何晏・王弼の説を継承して清談の指導者となり、若くして名が知られた。賈后が政権を握ると、中領軍・中書令に上った。趙王司馬倫が乱を起こして賈后を殺すと、禁錮を受けた。司馬倫が殺されると、河南尹・尚書・中書令として復活した。斉王司馬冏が政権を握ると、官を去った。成都王司馬穎のもとで中軍師となり、司徒に累進した。宰相級の地位にあっても国政に関心を持たず、保身を図ることが多かった。永嘉の乱が起こると、石勒の軍に捕らえられ殺された。

潘尼(?〜311)
  字は正叔。滎陽郡中牟の人。若いころから清廉で、学問著述に励んだ。『安身論』を著した。太康年間に秀才に挙げられ、太常博士に任ぜられた。高陸令・淮南王の鎮東参軍などを歴任した。太子舎人・宛令・尚書郎・著作郎などをつとめた。趙王・司馬倫が簒奪すると病を理由に郷里に帰った。斉王・司馬冏が起兵すると許昌に赴き、斉王の参軍となった。司馬倫が敗死すると、功により安昌公に封ぜられた。侍中に累進し、中書令に上った。しかし八王の乱に対し、なすところがなかった。五胡の漢の劉曜が洛陽を攻め落としたとき、郷里に帰ろうとした途中で病没した。

衛玠(286〜312)
  字は叔宝。河東郡安邑の人。衛瓘の孫にあたる。若くして盛名があり、「中興名士第一」と称された。太傅西閣祭酒・太子洗馬を歴任した。戦乱により建業に移住し、京師の人士も彼の名を慕って多く南遷したという。

郭象(252?〜312?)
  字は子玄。河南郡の人。はじめは州郡にたびたび招かれたが、官途に就こうとしなかった。のちに司徒掾となり、黄門侍郎となった。また東海王・越に仕え、太傅主簿となった。清談と老荘の学を好み、『荘子注』を著した。

荀藩(245〜313)
  字は大堅。潁川郡潁陰の人。元康年間、黄門侍郎になった。成都王司馬穎討伐に従って、功により西華県公に封ぜられた。尚書令に累進した。永嘉末年、司空に転じた。漢の劉曜らに攻められて洛陽が陥落すると、密に逃れた。諸侯に檄を飛ばし、甥の秦王司馬鄴を擁した。王浚により太尉に奉られた。豫州刺史閻鼎が司馬鄴を長安に移そうとするのに反対し、殺されそうになったが、どうにか免れた。建興元年(313)、滎陽で亡くなった。

周玘(258〜313)
  字は宣佩。呉興郡陽羨の人。周処の子。秀才に挙げられ、議郎に任ぜられた。郷里の私兵を糾合して官軍に合流し、前後して張昌・陳敏・銭璯を討ち、三たび江南を平定した。琅邪王司馬睿にその勲功を嘉され、建威将軍を代行し、呉興太守となり、烏程県侯に封ぜられた。郷里に義興郡が置かれて顕彰された。かれの宗族はここに強盛となった。ときに永嘉の乱をうけて中原から江南に移るものが相次ぎ、北人が実権を握ったため、南人で志をえないものが多かった。周玘も丞相左御史の刁協に軽侮を受けたため、そこで北人の執政を除き、南人でその座を占めようとはかった。のちにはかりごとが洩れたことを知り、憂憤のうちに没した。

王浚(252〜314)
  字は彭祖。太原郡晋陽の人。博陵県公を襲爵し、駙馬都尉に任ぜられた。恵帝のとき、東中郎将となった。賈皇后に従って愍懐太子の殺害に参与した。寧朔将軍・都督幽州諸軍事となり、薊に鎮した。鮮卑段部と婚姻を結んで、地盤の安定を図った。八王の乱のとき、鮮卑兵を率いて鄴に入り、成都王司馬穎を討った。恵帝が洛陽に帰ると、驃騎大将軍・都督東夷河北諸軍事・幽州刺史となった。懐帝が即位すると、司空となった。永嘉年間、石勒を破り、冀州を兼領した。永嘉五年(311)、漢の劉聡が洛陽を陥し、懐帝を捕虜とすると、王浚は自ら尚書令と称し、僭号を準備した。しかし、鮮卑段部や烏桓が離反して勢力が衰退した。石勒が内附を申し出たのを信じて、薊に迎え入れたところを襲殺された。

王如(?〜315)
  京兆郡新豊の人。はじめ州の武吏となり、乱に遭って流浪し宛にいたった。詔により流人は帰郷するよう命じられたが、関中は荒廃していたため、帰るのを望まなかった。征南将軍山簡・南中郎将杜蕤らが兵を遣わして送ろうとしたが、ついに流人たちと結束して叛乱を起こした。衆数万を集めて大将軍・司雍二州牧を自称した。石勒と義兄弟の契りを結んだ。沔水・漢水の一帯で活動した。永嘉六年(312)、軍中の兵糧が尽きて王敦に降伏した。のち王敦に殺された。

王機(?〜315)
  字は令明。長沙郡の人。十七歳のとき、衆を率いて陳恢の乱を討って功を挙げた。王澄と交遊し、成都内史に用いられた。ときに杜弢が乱を起こしたが、王澄とともに終日飲酒にふけり、政治を執らず、百姓の怨恨を受けて、杜弢の軍に敗北を喫した。永嘉六年(312)、広州に迎えられ、広州刺史を称した。建興三年(315)、杜弘を降した功により、交州刺史に転じた。交州の梁碩にはばまれ、杜弘・温邵・劉沈とともに鬱林で叛した。広州刺史陶侃が兵を遣わしてかれらを討ったため、敗走し、道中で病没した。

杜弢(?〜315)
  字は景文。蜀郡成都の人。若くして才能と学問で知られ、州により秀才に挙げられた。乱を避けて南平にうつり、太守応・の礼遇を受けた。のちに醴陵の令となった。永嘉五年(311)、巴蜀の流人の汝班や蹇碩らが人々を集めて起兵すると、主として推された。梁益二州牧・平難将軍・湘州刺史を自称した。郡県を陥し、しばしば晋軍を破った。偽って晋の征南将軍山簡に降り、広漢太守に任ぜられた。再び兵を起こして零陵を破り、武昌を攻め、長沙などの郡太守を殺した。王敦・陶侃らと戦うこと長年におよび、圧迫されて降り、巴東監軍を加えられた。しかし晋将による攻撃がやまず、再び叛いた。陶侃の将の鄭攀に討たれて敗れ、軍は潰えさった。逃れる途中、路上で窮死した。一説には投水死した。あるいはその終わるところを知らずともいう。
↓次の時代=東晋,五胡十六国

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