(地図409),410,420,宋興る(地図),430,439,北魏の華北統一,440,450,(宋魏地図),460,470,479,斉興る,480,485,北魏均田制,490(斉魏地図),500
西暦干支事件参照
※この年表では、中国の旧暦とユリウス暦が混在しています。厳密に言うと年月がずれるものもあるかもしれません。
401辛丑東晋
隆安5
孫恩が滬涜を陥し、楼船千余隻を率いて丹徒にいたり、建康を震撼させた。
劉牢之の部将・劉裕が孫恩を破り、追撃して郁州・海塩・滬涜でこれを破った。
范寧(339-401)
北魏
天興4
武威王禿髪利鹿孤が河西王を加号し、禿髪傉檀が都督中外諸軍事・涼州牧・録尚書事となった。
後涼の呂纂(位399-401)が甥の呂超に殺され、呂隆が天王として立った。禿髪利鹿孤が呂隆を討って大いに破った。
沮渠蒙遜が段業(位397-401)を殺し、張掖公を称した。のち涼王と改号した。
後秦の隴西公碩徳が後涼の呂超・呂邈の軍を大いに破った。西涼の李暠・南涼の禿髪利鹿孤・北涼の沮渠蒙遜らが後秦に入貢した。姚興は鳩摩羅什を長安に迎えた。
後燕の慕容盛(位398-401)が部下に殺され、慕容煕が天王を称した。
魏軍五万が高平で没弈干を攻めた。また北魏の宿沓干が後燕を攻めて令支を抜いた。
402壬寅元興1朝廷が桓玄討伐の詔勅を発し、司馬元顕を驃騎大将軍・征討大都督・都督十八州諸軍事に任じ、黄鉞を加えた。北府の劉牢之を先鋒とした。桓玄は叛乱し、劉牢之は桓玄に寝返った。桓玄は建康を陥落させ、司馬道子は放逐され、司馬元顕は殺された(桓玄の乱)。桓玄は太尉・揚州牧を自称し楚王に封ぜられた。
劉牢之は桓玄に叛こうとしたが、北府の将兵が従わず、新洲で自殺した。
孫恩が臨海を攻めたが、太守の辛景に破られ、海に投げ出されて没した。このとき従う者百余人。妹の夫の盧循が残部の衆を率いた。桓玄は盧循を永嘉太守に任じた。
三呉の地方が大いに飢え、戸口が半減した。
司馬道子が安成郡に移される途中に毒殺された。
桓玄が高素・竺謙之・竺朗之ら劉牢之の旧将を殺した。司馬休之・劉敬宣らが南燕に亡命した。
天興5後燕が北魏の令支を陥した。
北魏が黜弗・素古延などの諸部を破った。柔然の社崙が諸部を救おうとしたが、北魏の逆撃を受けて敗走した。
姑臧で大飢饉があり、餓死者十余万口、呂隆に坑殺される者も多数に及んだ。沮渠蒙遜がこの機に乗じて姑臧を攻めた。呂隆は禿髪利鹿孤の援軍をえて撃退した。
河西王禿髪利鹿孤(位399-402)が没し、弟の禿髪傉檀が立ち涼王を称した。
後秦の姚興が諸軍を発して北魏を攻めた。北魏は拓跋順・長孫肥を先鋒にして迎撃した。北魏は秦軍を連破した。
柔然の首長の社崙が可汗を称した(丘豆伐可汗)。
403癸卯元興2盧循が徐道覆を遣わして東陽を寇し、劉裕に敗れた。劉裕は盧循を永嘉で破り、晋安まで追った。盧循は海に入って南走した。
十二月、桓玄が帝を称し、国号を楚とした。安帝を廃して尋陽に幽閉した。
天興6泰山で王始が衆数万を集め、太平皇帝を自称した。南燕の慕容鎮がこれを攻め下した。
北涼の沮渠蒙遜・南涼の禿髪傉檀が後涼の呂隆を攻め破った。呂隆(位401-403)は後秦に降った。後涼滅ぶ。
拓跋珪が平城に新都を建設した。子の拓跋嗣を相国とし、斉王に封じた。
北魏が高車を破った。
404甲辰元興3益州刺史毛璩が桓玄討伐の兵を挙げ、白帝に進んだ。劉裕・劉毅・何無忌らが京口で桓玄討伐の兵を挙げた。呉甫之・皇甫敷らを破り、建康に入った。
劉毅・劉道規・何無忌らが桓玄を追撃した。桓玄(369-404)が安帝を連れて江陵にいたった。蜀に逃れようとしたところ、益州督護・馮遷に斬られた。
桓玄の甥の桓振が、江陵で安帝を立てて復位させた。
盧循が広州に入った。
天賜1南涼の禿髪傉檀が年号を去り、後秦に遣使した。
劉敬宣・高雅之らが、青州の大姓や鮮卑の将帥らと結んで南燕王慕容徳を殺して司馬休之を主に立てようと謀った。事が洩れて、劉敬宣・司馬休之らは東晋に逃げた。
乞伏乾帰が楊盛を破った。
帯方郡の故地で高句麗と倭の軍が戦った。
405乙巳義煕1劉毅が江陵を攻め破り、桓謙・桓蔚らは後秦に走った。
蜀で参軍の譙縦が毛璩を殺し、成都王を称した。
桓振が司馬休之を破り、江陵を再び奪った。劉懐粛・唐興が桓振を破って敗死させ、江陵をまた回復した。
安帝を建康に迎えた。
劉裕は荊・司など十六州の軍事を都督し、青・徐・兗三州の刺史を領した。
桂陽太守司馬秀・益州刺史司馬軌之が謀反したが斬られた。
劉裕が後秦に遣使し、和を結んだ。
天賜2後燕の慕容煕が高句麗を攻めたが勝てず。
後秦の姚興が鳩摩羅什を国師とした。
西秦の乞伏乾帰が吐谷渾を破った。
西涼の李暠が大将軍・大都督・秦涼二州牧を自称した。
南燕の慕容徳(位398-405)が没し、甥の慕容超が立つ。
乞伏乾帰が仇池を攻め、楊盛に敗れた。
西涼の李暠が酒泉に遷都した。
ゲルマン諸族のイタリア侵入。
406丙午義煕2梁州刺史の劉稚が叛いたが、劉毅がこれを討って捕らえた。
桓石綏・司馬国璠らが歴陽郡界に兵を集めて寇した。劉毅が劉懐粛を遣わしてこれを討ち平らげた。
顧愷之(344-406)
天賜3南燕の慕容超は猜虐甚だしく、桀紂に喩えられたが改めず。南燕の人士の多くが去った。
後燕の慕容煕が高句麗を攻めたが、利なく退却した。
柔然が北魏の辺郡を寇した。
南涼の禿髪傉檀が北涼の沮渠蒙遜を討ったが、城固く退却した。
スエヴィ・ヴァンダルのイスパニア侵入。
407丁未義煕3桓胤を主として立て、乱をなそうとしていたとして、駱冰・殷仲文らが斬られた。
劉裕は劉敬宣らを遣わして蜀の譙縦を攻めさせた。
天賜4氐王楊盛が苻宣を立てて漢中に侵入した。楊盛は東晋と通じた。
匈奴鉄弗部の劉(赫連)勃勃が大夏天王・大単于を称して、後秦から自立した()。
後燕の慕容煕(位401-407)は、無道なふるまいが多く、将軍の馮跋らに殺された。後燕は事実上滅ぶ。馮跋らは高雲(慕容雲)を奉じて天王に立てた。(北燕
蜀の譙縦が後秦に藩属すると称した。
夏王劉勃勃が鮮卑薛千部など三部を破った。また夏軍は南涼の禿髪傉檀を討って大勝した。
408戊申義煕4朝廷内で劉裕の勢力が伸張し、劉毅と対立した。
劉敬宣は成都に迫ったが、軍中に疾疫起こり、功なくして蜀より帰還した。劉敬宣は免官された。
天賜5後秦が桓謙を成都に遣わした。
後秦が姚弼・乞伏乾帰らを遣わして南涼の禿髪傉檀を攻めさせたが敗れた。また斉難を遣わして夏を攻めさせたが、これも敗れた。
後秦が蜀の譙縦への援軍として姚賞・王敏を遣わした。
409己酉義煕5劉裕が南燕討伐を上表す。朝議は反対が大勢を占めたが、孟昶・謝裕・臧熹らが賛成した。
劉裕が南燕を攻めて、要所に築城しながら進軍し、琅邪にいたった。大峴山を抜き、慕容超を臨昫で破り、広固を囲んだ。
永興1南燕の慕容興宗らが東晋を攻めて宿豫を抜いた。
夏王劉勃勃が後秦を攻めた。
東晋の侵攻に対して、公孫五楼は大峴山で迎え撃つよう進言したが、慕容超はそれを無視し、臨昫で迎撃して敗れた。晋軍に広固を囲まれ、後秦に援軍を求めたが、後秦は夏に敗れて余力がなかったため、南燕は孤立した。
乞伏乾帰が後秦姚氏の衰えを見て再び自立し、秦王を称した(西秦)。
高雲(位407-409)が寵臣の離班・桃仁に殺された。馮跋が二人を殺し、昌黎で天王を称した(北燕)。
北魏の道武帝拓跋珪(位386-409)、次男の拓跋紹に殺害されて崩じた。太子の拓跋嗣が拓跋紹を殺して立つ(明元帝)。
410庚戌義煕6劉裕が広固を陥し、慕容超を捕らえ、南燕を滅ぼした。
盧循・徐道覆が、北伐の虚に乗じて北進した。江州刺史の何無忌がこれをはばんだが、豫章において戦死した。盧循・徐道覆は、劉毅を桑落州において大いに破った。
劉裕、北伐より帰還して建康にいたり、沈田子らを遣わして、海上から広州を占拠させた。
大雷の戦により、劉裕は盧循・徐道覆を破り、さらに進撃して左里において破った。盧循・徐道覆は南方に落ちのびた。
永興2広固が陥落し、慕容超(位405-410)が捕らえられ、南燕滅ぶ。
西秦の乞伏乾帰が後秦の金城を抜いた。
夏王劉勃勃が後秦の平涼を寇し、定陽を抜いた。
南涼の禿髪傉檀が将を遣わして沮渠蒙遜を討ったが大敗し、衆の多くが北涼に降った。
北魏の明元帝が柔然を攻め、可汗の社崙を敗死させた。
沮渠蒙遜が西涼を攻めて破った。
西ゴート王アラリックのローマ侵入。
柔然の丘豆伐可汗が敗死し、弟の斛律立つ(藹苦蓋可汗)。
411辛亥義煕7晋軍が始興を陥し、徐道覆を殺した。盧循、さらに南に逃げ、交州にいたり敗死した。永興3後秦で姚弼が尚書令・大将軍となり、国人に憎まれた。
夏軍が楊仏嵩を降した。
南涼の禿髪傉檀が沮渠蒙遜を討ったが敗れた。
馮跋が楽浪公主を柔然の斛律に降嫁させた。
乞伏乾帰が南涼を寇した。
沮渠蒙遜が西涼を攻めたが敗れた。
乞伏乾帰が後秦を攻めた。
スエヴィ、北西イスパニアに建国
412壬子義煕8劉毅が荊州刺史となり、荊・寧・秦・雍四州を都督した。劉毅は交州・広州を兼領することを求めた。
劉裕は劉毅が謀反を謀ったと告発した。劉藩・謝混が劉毅に連座して誅された。
劉裕は王鎮悪を先陣として江陵に出兵した。劉毅は敗れて自殺した。
劉裕、朱齢石を遣わして蜀を攻めさせた。
法顕が海路より帰国し、青州牢山に漂着した。翌年、建康にいたった。
永興4乞伏乾帰が西羌の彭利髪を攻め殺した。
乞伏熾磐が南涼の三河太守呉陰を討った。
西秦の乞伏乾帰(位388-412)が甥の乞伏公府に殺され、子の乞伏熾磐が乱を平らげて立つ。
北魏の明元帝が東巡した。
仇池公楊盛が後秦に叛いた。
北涼の沮渠蒙遜が姑臧に遷り、河西王を称した。
高句麗の広開土王(位391-412)
413癸丑義煕9劉裕が諸葛長民を誅した。
劉裕が豪族が山湖川沢を占有することを禁じた。また庚戌の土断の令の励行を上奏した。
朱齢石が成都を陥し、譙縦が自殺して蜀が平定された。
永興5西秦の乞伏熾磐が後秦を攻め、白石川で大勝して、隴右ことごとく西秦に降った。
夏の劉勃勃、統万に都城を築き、姓を赫連に改めた。
西秦が吐谷渾を討ち、泣勤川・渴渾川で大勝した。
沮渠蒙遜が南涼を討った。
鳩摩羅什(343-413)
グプタ朝のチャンドラグプタ2世(位375-413)
林邑の范胡達が九真を寇し、杜慧度に斬られた。
414甲寅義煕10荊州刺史司馬休之の子の司馬文思が官吏を殺した罪で告発された。司馬文思は江陵に送られたが、司馬休之が廃嫡して陳謝するのみですませたので、劉裕は喜ばなかった。
司馬国璠らが広陵を襲ったが、青州刺史檀祇が防いだ。
神瑞1後秦が叛いた羌・氐を討った。
唾契汗・乙弗らの部が南涼に叛いた。機に乗じて西秦の乞伏熾磐が南涼を攻めて楽都を抜いた。
北燕が契丹・庫莫奚を降した。
北魏の博士祭酒崔浩、帝に『易』『洪范』を講じて信任をえて、軍国の密謀に参与す。
禿髪傉檀(位402-414)が左南で西秦に降った。南涼滅ぶ。禿髪傉檀はのちに毒殺された。禿髪氏の一族は北涼に逃れ、のち北魏に降った。
僧肇(384?-414)
高句麗で広開土王碑が建立。
柔然の歩鹿真が斛律の可汗位を奪う。大檀が歩鹿真を殺して立つ(牟汗紇升蓋可汗)。
415乙卯義煕11司馬休之の子の司馬文宝・甥の司馬文祖が誅殺され、劉裕が荊州刺史を領した。司馬休之が劉裕の罪を鳴らして挙兵した。雍州刺史魯宗之・竟陵太守魯軌が呼応した。徐逵之が魯軌に敗れて戦死した。劉裕は司馬休之を破り、江陵を陥した。王鎮悪らの追撃をうけ、司馬休之・魯宗之らは後秦に奔った。神瑞2夏の赫連勃勃が後秦の杏城を抜いた。
沮渠蒙遜が西秦の広武を抜いた。
赫連勃勃と沮渠蒙遜が盟を結んだ。
北魏で霜旱の害があり、雲・代の民が多く餓死した。鄴への遷都が検討されたがしりぞけられた。
北燕の馮跋が尚書令孫護・遼東太守務銀提らを殺した。
嵩山の寇謙之、新天師道を創始す。
416丙辰義煕12太尉の劉裕が兗州刺史を加え、二十二州を都督す。
劉裕が後秦を攻め、水軍が黄河に入った。晋軍は滑台に入り、王鎮悪・檀道済らを先陣に西進して洛陽を陥した。
朝廷が劉裕を相国・揚州牧に任じ、宋公に封じようとしたが、劉裕は固辞して受けなかった。
泰常1後秦が魯宗之を遣わして襄陽を攻めたが途上で没し、魯軌が代わって寇したが趙倫之に敗れた。
西秦が後秦を攻め、北涼が西秦を攻めた。沮渠蒙遜と乞伏熾磐が和睦した。
後秦の姚興(位394-416)没し、子の姚泓が継ぐ。姚興の死後、諸羌の多くは叛いた。
氐王楊盛が祁山を攻め、秦州に迫ったが姚平に撃退された。夏の赫連勃勃が上邽を攻め陥し、陰密・雍城を抜いた。
北魏は晋軍の来寇を恐れて滑台から退き、黄河北岸に防衛線を築いた。
姚洸が洛陽を守ったが、敵せず東晋に降り、洛陽を奪われた。
姚懿が挙兵して帝を称したが、敗れて捕らえられた。
丁零の翟猛雀が北魏の吏民を掠し、張蒲・長孫道生らに討たれた。
417丁巳義煕13劉裕が洛陽に入った。
晋軍は水陸から分進して関中に入り、後秦軍を破った。後秦滅ぶ。
劉裕は長安に入城し、鍾鼎・渾天儀・土圭・記里鼓・指南車などを建康に送った。
劉裕は、劉穆之が没したのを聞いて、次男の劉義真を残して南帰した。
慧遠(334-417)
泰常2後秦が内訌し、斉公姚恢が討たれた。
西涼の李暠(位400-417)没し、子の李歆立つ。
西秦の安東将軍木弈干が吐谷渾の樹洛干を攻め破った。
北魏が天地四方の六部に大人を置いた。
後秦は晋軍に敗れ、姚泓(位416-417)が降り、後秦滅ぶ。
夏の赫連勃勃、劉裕が帰還したのを聞いて出兵し、関中を争った。
吐谷渾の樹洛干が没し、弟の阿柴立つ。
418戊午義煕14関中の晋将が互いに殺し合った。沈田子は王鎮悪を殺し、罪を問われて沈田子は誅された。また劉義真は讒言を信じて王脩を殺した。
劉裕、建康において相国に任ぜられ、宋公に封ぜられ、九錫を受けた。
夏軍が長安に迫り、劉義真は東走した。晋軍は青泥で大敗し、傅弘之が捕殺された。長安を失陥し、朱齢石が捕殺された。
十二月、劉裕が安帝(位396-418)を殺し、琅邪王司馬徳文を擁立した(恭帝)。
泰常3夏の赫連璝が池陽において傅弘之に敗れ、寡婦渡においてまた敗れた。
北魏が長孫道生・李先らを遣わして北燕を攻め、乙連城を抜き、万余家の民を掠して軍を還した。
夏軍が咸陽を陥し、劉義真を追って青泥で大勝し、長安に入った。
夏の赫連勃勃が灞上において帝を称した。
西ゴート、南ガリアに建国。
419己未元煕1夏の進攻により毛徳祖は彭城に退いた。
劉裕は毛徳祖に命じて虎牢を守らせた。
司馬順明・司馬道恭・薛弁らが北魏に降った。
劉裕、宋王に上り、寿陽に移鎮した。
泰常4夏の叱奴侯提が毛徳祖を蒲阪に攻めて逐った。
赫連勃勃が長安遷都の議をしりぞけた。
西秦が吐谷渾を弱水の南で破った。
420庚申元煕2四月、傅亮が建康に入り、劉裕受禅を工作す。
六月壬戌、宋王劉裕が建康に入った。
泰常5司馬国璠・司馬道賜らが謀反を図り、北魏はふたりを誅した。
劉宋の成立により、涼公李歆に征西大将軍・酒泉公を賜り、秦王乞伏熾磐に安西大将軍を賜った。
西涼の李歆(位417-420)が北涼を攻めて敗死した。弟の李恂が立つ。沮渠蒙遜は酒泉に入った。
フランク族、ラインを渡る。

永初1
六月丁卯、劉裕が晋の恭帝(位418-420)より禅譲を受け帝位についた(武帝)。国号は。都を建康におく。東晋滅ぶ。
退位した恭帝は零陵王に封ぜられた。
劉道憐を太尉とし、長沙王に封じた。劉義慶が臨川王に、劉義真が廬陵王に、劉義隆が宜都王に、劉義康が彭城王に封ぜられた。
交州刺史の杜慧度が林邑を大いに破り、林邑は降を乞うた。
421辛酉永初2劉義真を司徒とし、徐羨之を尚書令・揚州刺史とし、傅亮を尚書僕射とした。
武帝(劉裕)が零陵王(晋の恭帝)を殺した。
泰常6北涼の沮渠蒙遜が敦煌を攻め陥した。李恂(位420-421)は降を乞うたが許されず、自殺した。西涼滅ぶ。
沮渠蒙遜が沮渠鄯善・沮渠苟生らを遣わして西秦を攻めさせたが、敗れた。
倭王讃が劉宋に入貢した。
吐谷渾王阿柴が西秦に遣使した。
422壬戌永初3徐羨之を司空・録尚書事とし、王弘を衛将軍・開府儀同三司とし、謝晦を領軍将軍・散騎常侍とした。
武帝が病にたおれ、檀道済が鎮北将軍・南兗州刺史として出され、劉義真が車騎将軍・南豫州刺史として出された。
武帝(位420-422)崩じ、太子の劉義符立つ(少帝)。傅亮が中書監・尚書令に、謝晦が中書令となった。徐羨之・傅亮・謝晦らが輔政にあたった。
法顕(337?-422?)
泰常7北魏の皇子拓跋燾が相国・大将軍となり、太平王に封ぜられた。
拓跋燾を皇太子とした。
北魏の明元帝は劉裕が死んだことを聞き、崔浩の言をいれて宋を攻めた。滑台を陥し、虎牢にせまった。また青州・兗州の諸郡を奪った。
423癸亥景平1毛徳祖が北魏の公孫表・奚斤に敗れ、虎牢を囲まれること二百日、ついに捕らえられた。
檀道済が湖陸に、劉粹が項城に、沈叔狸が高橋にあったが、魏軍をおそれて進軍せず、虎牢・許昌を失陥した。
孔琳之(369-423)
泰常8北魏の于栗磾が宋の河南太守王涓之を破り、豫州刺史として洛陽に鎮した。
北魏の叔孫建・奚斤らが虎牢を囲み、毛徳祖を捕らえた。
北魏、長城を赤城の西から五原にいたる長城を築いて、柔然に対する防壁とした。
沮渠蒙遜が宋に入貢した。
北魏は宋を攻めて虎牢・許昌・高平を占領した。
禿髪虎台らが乞伏熾磐を殺そうと図ったため、返り討ちにあった。
北魏の明元帝(位409-423)崩じ、太子の拓跋燾立つ(太武帝)。
吐谷渾王阿柴が劉宋に入貢した。
424甲子景平2
元嘉1
徐羨之が廬陵王劉義真の一党を憎み、謝霊運を永嘉太守に、顔延之を始安太守に出した。劉義真は廃された。
徐羨之・傅亮・謝晦らが少帝(位422-424)を廃殺し、宜都王劉義隆を擁立した(文帝)。
徐羨之が前廬陵王劉義真を新安で殺させた。
謝晦が荊州刺史に任ぜられた。徐羨之が司徒となり、王弘が司空となり、傅亮が開府儀同三司を加えた。王曇首・王華が侍中となった。
始光1西秦が吉棗を遣わして南伐し、白苟・車孚・崔提・旁為が降った。
西秦が乞伏暮末・木弈干らを遣わして貂渠谷に出て、河西を攻めた。
柔然が明元帝の死を聞いて北魏に来寇し、雲中の吏民を掠し、盛楽を抜いた。太武帝は雲中に急行して柔然の騎兵に囲まれたが、大将於陟斤を射殺したため、紇升蓋可汗はおそれて逃走した。
夏の太子赫連璝が廃され、酒泉公赫連倫が代わって立てられた。赫連璝がこれを聞いて赫連倫を高平で討ち、敗死させた。太原公赫連昌が赫連璝を襲殺したので、赫連勃勃は大いに喜んで赫連昌を太子に立てた。
吐谷渾の阿柴没し、弟の慕璝継ぐ。
425乙丑元嘉2徐羨之・傅亮が帰政を上表し、文帝の親政はじまる。始光2北魏が長孫嵩を太尉とし、長孫翰を司徒とし、奚斤を司空とした。
武都王楊盛が没し、楊玄が立つ。
西秦が吉棗を遣わして黒水羌を攻めて破った。
夏の赫連勃勃(位409-425)が没し、子の赫連昌が帝を称した。
北魏の太武帝、大挙して柔然を攻めた。柔然の大檀、北走す。
倭王珍が劉宋に入貢した。
426丙寅元嘉3文帝が徐羨之・傅亮・謝晦に少帝廃殺の罪を問うた。徐羨之(364-426)・傅亮(374-426)は誅され、謝晦(390-426)は到彦之・檀道済・張茂度らに討たれて敗死した。
帝が謝霊運を秘書監に、顔延之を中書侍郎に任じた。
始光3西秦が北魏に遣使し、夏に兵を用いることを請うた。
太武帝が雲中より西巡して五原にいたり平城に還った。
西秦の乞伏熾磐が河西を攻めたが勝てず、虚に乗じて夏が呼盧古・韋伐を遣わして西秦を攻めた。夏軍は南安を抜き、枹罕・西平を攻め掠めた。
北魏の太武帝が夏を攻め、統万を囲んだ。奚斤が蒲阪で赫連乙斗を破り、赫連助興・赫連乙斗が長安を棄てたため、奚斤が長安に入城した。
427丁卯元嘉4陶淵明(365-427)王華(385-427)始光4太武帝ひとたび平城に戻ったが、夏が平原公赫連定を遣わして長安を攻めさせたので、再征した。
山羌が西秦に叛いた。慰撫に向かった左丞相曇達は捕らえられ、征南将軍吉棗は大敗した。
太武帝率いる魏軍が夏軍を大いに破り、夏の都統万を陥した。夏主赫連昌は上邽に逃れた。
拓跋素・桓貸・莫雲らに統万に留まらせ、太武帝は東還した。
氐王楊玄が北魏により南秦王に封ぜられた。
ヴァンダル族、アフリカに侵入。
アウグスティヌス『神の国』
高句麗、平壌に遷都した。
428戊辰元嘉5謝霊運、王曇首・殷景仁らが寵遇を受けているのに失望し、病と称して朝勤せず。飲酒にふけっていたため免官された。神カ1北魏の平北将軍尉眷が上邽を攻め、赫連昌は平涼に逃れた。奚斤・丘堆らが安定に進軍したところ、赫連昌がこれを攻めた。尉眷の謀により、赫連昌(位425-428)は魏軍に捕らえられた。
夏の大将軍の平原王赫連定が平涼において帝を称した。北魏の元帥奚斤が輜重を捨てて平涼を攻めたが、夏軍反撃して魏軍を大いに破り、長安を奪回した。
西秦の乞伏熾磐(位412-428)が没し、乞伏慕末が立つ。
河西王沮渠蒙遜が西秦の喪中に乗じて楽都を攻めた。相国の元基や東羌の乞提らが楽都を救い、涼軍を撃退した。
師子王刹利摩訶・天竺の迦棗黎王月愛が劉宋に入貢した。
429己巳元嘉6彭城王劉義康が侍中・司徒・録尚書事・南徐州刺史となり、政務を総覧した。また江夏王劉義恭が都督荊・湘等八州諸軍事・荊州刺史となった。
河西王沮渠蒙遜・吐谷渾王慕璝が入貢した。
神カ2丁零の鮮于台陽らが北魏に降った。
沮渠蒙遜が西秦の西平を抜き、さらに枹罕を攻めたが、元基にはばまれた。
北魏の太武帝が崔浩・鄧穎に未完成の『国記』の続成を命じ、『国書』三十巻が成る。
太武帝が親征して柔然を攻め、涿邪山まで追った。また高車の数十万部落を帰順させて、平城に還った。
武都王楊玄が没し、楊保宗が立った。楊難当が自立して楊保宗を廃し、武都王を称した。
太武帝が崔浩に侍中・特進・撫軍大将軍の位を加えた。
ヴァンダルのガイゼリック、カルタゴの故地に建国。
柔然の紇升蓋可汗が没し、子の呉提が立つ(敕連可汗)。
430庚午元嘉7到彦之が北魏を攻め潼関にいたった。魏軍が大挙反攻してきたため、到彦之・王仲徳らは支えられず彭城に退いた。朱脩之が滑台を扼して魏軍をはばんだ。
檀道済が都督征討諸軍事となり、増援のため北上した。
朝廷が四銖銭を鋳した。
到彦之・王仲徳が敗戦の罪で獄に下り、竺霊秀が誅された。
王曇首(394-430)
神カ3北魏が夏の前主の赫連昌を秦王に封じた。
北魏が虎牢・洛陽をひとたび放棄した。太武帝は冠軍将軍安頡を遣わして到彦之を討たせた。安頡が洛陽を抜き、安頡・陸侯が虎牢を陥した。
北燕の馮跋が病にたおれ、太子の馮翼が摂政した。
夏が魏・宋間の対峙の隙をついて北魏を攻めた。太武帝が親征して夏を攻め、平涼を破り、長安を奪った。
北燕の馮跋(位409-430)が没し、中山公馮弘が馮翼を殺して天王を称した。
北魏が済南を攻めたが、蕭承之がはばんだ。魏の叔孫建が湖陸で竺霊秀を破った。
林邑王范陽邁が劉宋に入貢した。
聖アウグスティヌス(354-430)
431辛未元嘉8檀道済は連戦して歴城にいたったが、兵糧の不足で進めなくなった。滑台が陥落したため、檀道済は撤退した。
青州刺史の蕭思話が平昌に退いた。
秘書官の謝霊運が四部目録を作った。
求那跋摩(367-431)
神カ4夏の赫連定が南安を攻め、乞伏慕末(位428-431)が降り、西秦滅ぶ。のち乞伏慕末は族誅された。
北魏の安頡・司馬楚之らが滑台を攻め陥し、朱脩之を捕らえた。太武帝は朱脩之の守節を嘉し、宗女を降嫁させた。
夏の赫連定(位428-431)、北魏を避けて西遷したところ、吐谷渾の慕利延・拾虔らに捕らわれた。夏滅ぶ。
北魏は、太尉の長孫嵩に柱国大将軍を加え、崔浩を司徒とし、長孫道生を司空とした。
北魏が沮渠蒙遜を侍中・都督涼州西域羌戎諸軍事・涼州牧に任じ、涼王に封じた。
エフェソスの公会議。
432壬申元嘉9王弘が太保・中書監となり、檀道済が司空に進んだ。
このころ益州刺史劉道済が費嫌・張煕らを信任して酷政を布いていた。司馬飛龍が氐王楊難当の援軍をえて益州を攻めたが、劉道済がこれを討ち取った。さらに趙広・唐頻が叛し、益州諸郡が陥った。叛軍が成都を囲み、城内は飢えた。
王弘(379-432)
神カ5
延和1
拓跋晃が皇太子となった。
赫連定が吐谷渾から北魏に送られ、魏人に殺された。
北魏が鄧穎を宋に遣使した。
北魏が北燕を攻め、燕主の軍を破り、燕の尚書高紹を斬った。
太武帝が曇無讖を招こうと李順を涼州に遣わしたが、北涼の沮渠蒙遜がこれをはばんで、翌年に曇無讖を殺した。
433癸酉元嘉10劉道済が陣没した。荊州刺史劉義慶が援軍を出し、成都を救った。裴方明が涪城で張尋・唐頻を破り、趙広の叛衆が散じた。益州刺史甄法崇が入蜀し、費嫌を誅した。
梁・南秦二州刺史甄法護の刑政治まらず、代えて蕭思話を任じた。蕭思話が下向しないうちに楊難当が梁州を襲ったため、漢中を失陥した。
謝霊運(385-433)の「韓亡子房奮、秦帝魯連恥」の一節が謀反の志ありと弾劾され、広州に流されて殺された。
謝恵連(394-433)
延和2北魏が宋宣を宋に遣使した。
楽安王拓跋範が秦・雍等五州諸軍事として長安に鎮した。
北涼の沮渠蒙遜(位401-433)没し、子の沮渠牧犍立つ。
北魏が氐王楊難当を南秦王に封じた。
林邑王范陽邁が劉宋に入貢し、交州を領することを求めた。
434甲戌元嘉11氐王楊難当が漢中で掠奪し、趙温を残して西還した。蕭承之・裴方明らが趙温を攻め、漢中を奪還した。
北涼の沮渠牧犍が遣使して河西王に封じられた。
延和3北燕の馮弘が和を請うたが、太武帝は許さなかった。
北魏が柔然の敕連可汗に西海公主を降嫁させた。
赫連昌が北魏に叛いて西走したが、捕殺された。
アッティラがフン王となる。
435乙亥元嘉12北燕の馮弘が遣使して宋の藩を称し、燕王に封じられた。江南人は燕を黄龍国と称した。
揚州で大水が起こり、豊作の徐・豫・南兗州より穀物を運んだ。
太延1亀茲・疏勒・烏孫など西域の九カ国が北魏に入貢した。
北魏がしばしば北燕を討った。
北魏の尚書左僕射安原が謀反の罪で誅された。
ネストリウス派の追放。
高句麗王漣が北魏に入貢した。
436丙子元嘉13文帝は檀道済の威名をおそれ、劉義康に捕らえさせた。三月、詔が下って檀道済(?-436)は処刑された。太延2太武帝は北燕の入貢を許さず、馮弘(位430-436)は北魏をおそれて宮殿を焼き、高句麗に奔った。北燕滅ぶ。
北魏は燕主馮弘を迎えたことをとがめて高句麗を討とうとしたが、楽平王拓跋丕が反対したため取りやめた。
吐谷渾の慕璝が没し、弟の慕利延が立つ。
437丁丑元嘉14趙広・張尋らが降った。周籍之を益州刺史とした。太延3北魏の董琬・高明らが西域にいたり、西域の十六カ国が北魏と通交した。以後毎年朝貢を絶やさなくなった。
太武帝が妹の武威公主を沮渠牧犍に降嫁させた。
長孫嵩(358-437)
438戊寅元嘉15豫章の雷次宗が建康にいたり、鶏籠山で儒学を立てた。何尚之の玄学・何承天の史学・謝元の文学とともに四学ならびたつ。太延4馮弘が高句麗で殺された。
太武帝が五原より北伐したが、柔然と会戦することなく引き揚げた。漠北は旱害ひどく人馬が多く倒れた。
テオドシウス法典。
倭王珍が劉宋に遣使した。
439己卯元嘉16司徒劉義康が大将軍・南兗州刺史を兼ね、劉義恭が司空に進んだ。
衡陽王劉義季が荊州刺史となった。
趙広・張尋らが再び謀反を図ろうとして誅された。
太延5沮渠牧犍が兄嫁の李氏と通じ、李氏が北魏から来た公主を毒で害しようとした。太武帝は怒り、北涼を攻めた。魏軍が姑臧を破り、沮渠牧犍(位433-439)が降った。北涼滅ぶ。北魏が華北を統一し、十六国の時代が終わった。
太武帝が姑臧を攻めた虚に乗じて柔然が北魏を攻めたが、嵆敬・拓跋崇らが撃退した。
コンスタンティノープルの城壁が築かれる。
440庚辰元嘉17文帝は劉湛(392-440)を誅し、専権をふるっていた彭城王劉義康を江州刺史として出し、代わって江夏王劉義恭を司徒・録尚書事とした。
文帝は沈慶之に劉斌を殺させた。
臨川王劉義慶を南兗州刺史に任じた。
殷景仁(390-440)が揚州刺史となったがまもなく病没した。
太延6
太平真君1
沙州刺史沮渠無諱が酒泉を陥した。さらに張掖を攻めたが抜けなかった。太武帝は討伐を加えず、これを詔諭した。
永昌王拓跋健が禿髪保周を蕃禾で破り、禿髪保周は自殺した。
沮渠無諱が北魏に降った。
441辛巳元嘉18氐王楊難当が苻沖を遣わして蜀を攻めさせた。梁・秦二州刺史の劉真道が苻沖を斬った。楊難当が葭萌を抜き、涪城を攻めたが、劉道錫が撃退した。
天門蛮の田向求が叛き、漊中を破ったが、荊州参軍の曹孫念がこれを鎮圧した。
太平真君2沮渠無諱が北魏により酒泉王に封ぜられた。沮渠唐兒が無諱に叛いたが敗死した。
北魏は辺患を終わらせるために鎮南将軍奚眷に酒泉を攻めさせた。奚眷は酒泉を陥した。
442壬午元嘉19裴方明・劉真道が武興・下辯を抜き、苻弘祖を破り、楊保熾・楊虎を捕らえ、仇池を平定した。楊難当は北魏に奔った。
雍州刺史劉道産が没した。劉道産は善政で知られた。その死後、群蛮が蠢動したが、朱脩之が鎮圧できず、沈慶之が代わって万余人を殺して鎮圧した。
羊欣(370-442)
太平真君3太武帝が道壇に詣でて符籙を受けた。
魏軍に敗れた沮渠無諱が鄯善に逃れ、さらに高昌に入った。劉宋に遣使して河西王に封ぜられた。
李宝が敦煌に拠り、北魏に内附した。
太武帝が詔して魯の孔子廟および学舎を修復した。
443癸未元嘉20胡崇之が北魏に敗れ、仇池を失陥した。楊保熾が逃れた。
楊文徳が仇池公を称し、仇池を囲んだが、魏軍に敗れた。楊文徳は武都王に封ぜられた。
姜道盛・楊文徳が北魏の濁水戌を攻めたが、姜道盛が敗死した。
太平真君4魏軍が仇池を奪った。
太武帝が漠南にいたり、四道に分かれて柔然を攻めたが、勝てず。
倭王済が劉宋に遣使する。
ブルグント、ローヌ上流に建国。
444甲申元嘉21江夏王劉義恭が太尉となり、司徒を領した。
衡陽王劉義季が南兗州刺史となり、南譙王劉義宣が荊州刺史となった。
何承天が元嘉新暦を撰して上奏した。
劉義慶(403-444)
太平真君5太武帝が詔により沙門・巫覡を家で養うことを禁じた。
沮渠無諱が没し、弟の沮渠安周が代わって立った。
太武帝がまた漠南に入り、柔然を攻めて敕連可汗を追った。
晋王伏羅が吐谷渾王慕利延を破り、白蘭に逐った。
柔然の敕連可汗が没し、子の吐賀真が立つ(處羅可汗)。
445乙酉元嘉22元嘉新暦を用いはじめた。
武陵王劉駿が雍州刺史となり、襄陽に鎮した。
劉駿が沈慶之を遣わし、沔水沿岸の諸蛮の反抗を鎮圧した。
太平真君6北魏が宋愔を宋に遣使した。
高涼王拓跋那が吐谷渾王慕利延を討った。
盧水の胡蓋呉が杏城で叛乱し、薛永宗が呼応して起兵した。
淮水・泗水以北の青・徐の民を河北に移住させた。
吐谷渾王慕利延が西逃し、于闐に入って于闐王を殺した。
446丙戌元嘉23范曄(398-446)・謝綜・孔煕先が、彭城王劉義康を擁立する謀に参与したとして殺された。
文帝は交州刺史檀和之を遣わして林邑を攻めさせ大勝をおさめた。
太平真君7太武帝自ら東雍州で薛永宗を囲んだ。薛永宗は敗死し、族人の薛安都が宋に奔った。
胡蓋呉が敗れてひとたび降ったが、再起してまた敗れ、殺された。
太武帝は崔浩の言を聞き、廃仏の詔を出して僧侶を坑殺した(三武一宗の法難の始)。
447丁亥元嘉24民間での盗鋳により悪銭が増えたため、江夏王劉義恭が大銭一をもって一両に当てるよう上奏した。
胡誕世が豫章において叛乱したが、檀和之に斬られた。
太平真君8沮渠牧犍が毒物を隠匿し、その姉妹が左道を学んでいたことが発覚し、沮渠牧犍が誅された。
扶風公處真ら八将が軍資を贓匿していた罪で斬られた。
丁零の三千家が平城に遷された。
448戊子元嘉25武陵王劉駿が徐州刺史となり、南譙王劉義宣が司空となった。
皇子劉彧を淮陽王に封じた。
太平真君9北魏の仇池鎮将の皮豹子が楊文徳を破った。
河西離石の民五千家を平城に遷した。
成周公万度帰に焉耆・亀茲を討たせた。
寇謙之(365-448)奚斤(360?-448)
コンスタンティノープルの公会議。
449己丑元嘉26広陵王劉誕を雍州刺史とした。
沈慶之・柳元景らが沔北の諸蛮を討った。
太平真君10太武帝が柔然を討ち、處羅可汗は敗走した。これより柔然は衰退に向かった。アングロサクソン族のブリタニア侵入。
450庚寅元嘉27沈慶之が雍州蛮をことごとく討った。
豫州刺史の劉鑠が四十二日にわたって懸瓠を守った。
文帝が劉康祖・沈慶之らの反対を押し切って北伐を決めた。王玄謨らを遣わして淮北に進軍させた。碻磝で勝ち、滑台を囲んだが、太武帝が渡河してくると、王玄謨は敗走した。
柳元景・薛安都・龐法起らの軍は連勝し、潼関まで進んでいたが、王玄謨が敗れたため、文帝の命により撤退した。
太平真君11太武帝が洛陽に行幸した。
太武帝が宋の懸瓠を攻めたが抜けず、軍を退いた。
国史事件が起こり、司徒の崔浩(381-450)が誅殺された。清河崔氏・范陽盧氏・太原郭氏・河東柳氏が連座して族滅された。
太武帝親しく南征し、宋の王玄謨を破り、南進して瓜歩にいたり、長江に迫った。
このころクシャーナ朝が崩壊す。
451辛卯元嘉28文帝が彭城王劉義康(409-451)を誅させた。
敗戦の責めを負って太尉の劉義恭が驃騎将軍に、鎮軍将軍の劉駿が北中郎将に降格となった。
魯爽・魯秀が宋に降った。
劉義恭が南兗州刺史・都督十二州諸軍事となった。
裴松之(372-451)
太平真君12
正平1
魏軍は北に転進して盱眙を囲んだが落とせず、撤退をはじめた。このとき、いたるところで虐殺を行い、地は赤く染まった。魏軍は疫疾におそわれ、士卒の過半は死傷した。
太子の拓跋晃が監国となり、側近を重用し、中常侍宗愛と対立した。宗愛は太子の側近の仇尼道盛らを冤罪に落として斬った。拓跋晃はこのため憂死した。
拓跋晃の子の拓跋濬が高陽王に封ぜられた。
長孫道生(370-451)
カタラウヌムの戦。
カルケドンの公会議。
452壬辰元嘉29北魏太武帝の死に乗じて、冀州刺史張永らが碻磝に向かい、魯爽・魯秀・程天祚らが許昌・洛陽に向かった。
汝陰王劉渾を武昌王に、淮陽王劉彧を湘東王に改封した。
ときに呉興の厳道育が巫覡の事をおこなっており、太子劉劭・始興王劉濬がこれを尊崇していた。二皇子が呪詛巫蠱を行っていたことが発覚して文帝は激怒した。
張永・崔訓が敗北し、蕭思話が諸軍をまとめて歴城に退かせた。魯爽らは連勝して虎牢に迫ったが撤退した。
西陽五水の群蛮の乱を沈慶之が鎮圧した。
正平2
承平1
興安1
中山の旧宋民五千余家を謀反の罪で誅し、冀州刺史沮渠万年が連座して死を賜った。
中常侍の宗愛が太武帝(位423-452)を弑殺し、南安王の拓跋余を立てた。宗愛が国政を専断した。
拓跋余は奪権を志して宗愛の遣わした賈周に殺された。
尚書の源賀・陸麗らが宗愛・賈周を捕殺し、太武帝の孫の拓跋濬が立てられた(文成帝)。
拓跋寿楽が太宰・都督中外諸軍・録尚書事となり、長孫渇侯が尚書令となったが、ふたりは権力を争ってともに誅された。
北魏で仏教が解禁された。
周忸が太尉となり、陸麗が司徒となり、杜元宝が司空となったが、周忸はまもなく誅された。
吐谷渾王慕利延が没し、拾寅が立つ。
453癸巳元嘉30蕭道成が氐・羌の軍を率いて北魏の武都を攻めた。
文帝が太子劉劭を廃そうとし、江湛は南平王劉鑠を、徐湛之は随王劉誕を立てるよう勧めた。
皇太子劉劭が父の文帝(位424-453)を弑殺し、江湛・徐湛之らを殺して帝を称した。蕭斌を尚書僕射に、何尚之を司空に、劉義恭を太保に、劉義宣を太尉に、劉濬を驃騎将軍に任じた。
沈慶之が武陵王劉駿を擁立して西陽を発し、尋陽に入り、州郡に檄を飛ばした。劉駿が南洲にいたると、降るものが相次いだ。柳元景が新亭で劉劭の軍を破った。魯秀・褚湛之・檀和之・劉義恭らが劉劭から劉駿についた。
劉駿は帝位についた(孝武帝)。劉義恭を太尉に、劉義宣を中書監・揚州刺史に、劉誕を荊州刺史に、臧質を車騎将軍・江州刺史に、沈慶之を領軍将軍に、蕭思話を尚書左僕射に任じた。
丹楊尹尹弘ら降り、城門が開いた。蕭斌が斬られた。台城において劉劭は捕殺された。
柳元景を雍州刺史、何尚之を司空・尚書令に任じた。沈慶之を南兗州刺史に任じ、盱眙に鎮させた。
南海太守蕭簡が叛し、沈法系がこれを討った。
興安2京兆王杜元宝が謀反の罪で誅された。
永昌王拓跋仁が謀反の罪で死を賜り、濮陽王閭若文が誅された。
文成帝が信都・中山に行幸した。

アッティラが没し、フン族の王国瓦解す。
454甲午孝建1孝建四銖銭を鋳した。
豫州刺史魯爽・南譙王劉義宣・江州刺史臧質が叛した。
薛安都が魯爽を斬った。また王玄謨らが劉義宣の軍を討ち破った。
朱脩之が江陵に入って劉義宣を斬った。
興安3
興光1
伊馛が司空となった。
文成帝が道壇に詣でて図籙を受けた。
庫莫奚国が名馬を献じた。
文成帝が東巡し、中山・信都・霊丘に幸し、温泉宮に至って還った。
455乙未孝建2武昌王劉渾が戯れに楚王を号し、永光と建元し、百官を置いた。劉渾は廃され、自殺させられた。
蕭思話(406-455)
興光2
太安1
楽平王拓跋抜が罪をえて死を賜った。
遼西王常英が太宰となった。
遮逸・波斯・疏勒などが入貢した。
456丙申孝建3劉義恭が太宰に進み、司徒を領した。
濮陽太守姜龍駒・新平太守楊自倫が北魏に奔った。
孝建四銖銭の盗鋳相次ぎ、改鋳が議論されたが、実施されなかった。
顔延之(384-456)
太安2貴人馮氏を皇后に立てた。
拓跋弘を太子に立てた。
于判・元提が謀反の罪で誅された。
漁陽公尉眷が伊吾を攻めて勝った。
西平王源賀が冀州刺史・隴西王となった。源賀が謀反を企んでいると密告したものがあったが、文成帝は源賀の忠誠を嘉し、信じなかった。
エフタル、北魏に入貢す。
457丁酉大明1北魏が兗州を攻めたが、薛安都・沈法系が撃退した。
土断をおこない、流寓の民を戸籍に編入した。
官品の高下により、占有できる山沢の限度を定めた。
太安3漁陽公尉眷が太尉に上った。
皇弟拓跋新成が陽平王に封ぜられた。
文成帝が東巡のため、遼西の黄山に行宮を設けさせた。
蝗害がおこり、百姓が飢えたので、倉を開いて給した。
扶余・于闐など五十余カ国が北魏に遣使した。
458戊戌大明2南彭城で高闍が帝を称したが、誅に伏された。王僧達が連座して死を賜った。太安4北魏が禁酒令を発した。
文成帝が東巡し、温泉宮・平州を経て、碣石山に登り、滄海を観た。
文成帝が平城に還ると、中書侍郎高允が帝を諫めた。
文成帝が柔然を攻め、處羅可汗を逐った。
459己亥大明3柳元景が尚書令となった。
竟陵王劉誕が広陵で叛いた。沈慶之がこれを破り、劉誕は殺された。
孝武帝は広陵の屠城を命じたが、沈慶之の請願により、身長が五尺に満たない者は許され、それ以外の男子は殺され、女子は軍人に賞与として給された。
沈慶之が司空となった。
太安5皇弟子推を京兆王に封じた。
居常国が入貢した。
文成帝が陰山・雲中に行幸した。
六鎮・雲中などで旱害があった。
伊馛(?-459)
460庚子大明4魏軍が北陰平に来攻し、朱提太守楊帰子が撃退した。
沈慶之が江蛮の反抗を鎮圧した。
和平1北魏の楽安王拓跋良が河西の胡族の叛乱を鎮圧した。
陽平王新成らを遣わして吐谷渾を討たせた。
盧度世を宋に遣使させた。
このころ雲崗石窟の開鑿はじまる。
柔然が高昌を攻め、沮渠安周を殺した。闞伯周が高昌王となった。
461辛丑大明5雍州刺史の劉休茂が司馬の庾深之や典籤の楊慶を殺し、襄陽が乱れた。尹玄慶が劉休茂を誅した。和平2文成帝が并・肆州の民を徴発し、河西の猟道を整備させた。
皇弟小新成を済陽王として平原に鎮させ、天賜を汝陰王として虎牢に鎮させ、萬寿を楽浪王として和龍に鎮させた。
ローマ教皇レオ1世(位440-461)
462壬寅大明6侍中沈懐文が誅された。
孝武帝の寵姫の殷氏が没し、これを龍山に葬るため、丘を掘り抜いて道を通したため、民夫の多くが死んだ。
祖冲之が新暦を奏上し、何承天の元嘉暦の誤りを正した。
和平3乙渾が太原王に封ぜられた。
高句麗・疏勒・石那などが北魏に入貢した。
石樓胡の賀略孫が叛し、長安鎮将の陸真がこれを平定した。また陸真は氐の仇傉檀を討ち平らげた。
游明根を宋に遣使した。
倭王済死し、子の興が立つ。
463癸卯大明7王僧朗が太常となり、顔師伯が尚書僕射となった。
孝武帝が豪族の山川私有の状況を検断するよう厳命した。
和平4定・相二州で霜害があり、二州の田租を免じた。
北魏で異なる身分間の通婚を禁じた。
尉眷(?-463)
464甲辰大明8孝武帝(位453-464)が崩じ、太子劉子業立つ(前廃帝)。戴法興・巣尚之らが輔政にあたり、朝権を握った。
米価が高騰し、餓死者が多く出た。
和平5皇弟拓跋雲を任城王に封じた。
柔然の部真可汗の軍が北辺を侵したが、北鎮の遊軍が撃退した。
司馬楚之(390-464)楊難当(?-464)
柔然の處羅可汗没し、予成立つ(受羅部真可汗)。
465乙巳永光1
景和1
泰始1
朝廷が二銖銭を鋳し、民に私鋳を許したため、銭質が劣悪となった。
帝が「宮中有二天子、法興真天子」の謡言があるのを聞き、戴法興(414-465)を免官し死を賜った。
柳元景(406-465)・顔師伯(419-465)らが、帝を廃して太宰劉義恭(413-465)を立てようとして、事が洩れてことごとく殺された。
義陽王劉昶が入朝を求めたが容れられず、かえって謀反と決めつけられた。劉昶は徐州で兵を集めたが、衆従わず北魏に奔った。
沈慶之(386-465)が帝を諫めたが聞かれず、死を賜った。
寿寂之・姜産之らが前廃帝劉子業(位464-465)を殺した。湘東王劉彧立つ(明帝)。
晋安王劉子勛は新帝を受け入れず、自立した。
和平6高句麗・蓰王などが入貢した。
破洛那国が汗血馬を献じた。
文成帝(位452-465)が崩じ、拓跋弘立つ(献文帝)。
車騎大将軍の乙渾が専権をふるい、尚書楊保年・平陽公賈愛仁・南陽公張天度らが禁中で殺された。また平原王陸麗・穆多侯らが召し出されて殺された。
乙渾が丞相となった。
466丙午泰始2晋安王劉子勛が尋陽において帝を称した。州郡の多くは尋陽の朝廷に従い、明帝の朝廷には丹楊・淮南など数郡が従うのみであった。
張永・蕭道成が薛索兒を破った。
寧朔将軍沈攸之が尋陽を破り、晋安王劉子勛(456-466)を殺した。
徐州刺史薛安都が尋陽において敗れた後に北魏に降り、魏兵を引き入れて彭城に入った。
沈攸之が兵を進めて彭城に迫った。
益州刺史蕭恵開の刑政が苛酷なため、蜀人がこれに叛いた。蕭恵開は明帝に召喚された。
二銖銭を廃止し、古銭(五銖銭)に復した。
謝荘(421-466)鮑照(405-466)
天安1太原王乙渾が謀反の罪で誅された。
馮太后が朝廷に臨んで称制した。高允・高閭・賈秀らが政権に参与した。
高允らの言を用いて、郷学を立てさせ、郡に博士二人・助教二人・学生六十人を置いた。
この年、十一の州で旱害があり、倉を開いて救恤にあたった。
467丁未泰始3張永・沈攸之が彭城を攻めたが失敗し、退いて淮陰を守った。これによって冀・兗・徐州と豫州の淮西の地を失陥した。
沈攸之が再び彭城を攻めたが、敗れた。
天安2
皇興1
東平王拓跋道符が長安で叛した。司馬の段太陽が拓跋道符を斬った。
長孫陵・慕容白曜が青州を攻め、四城を抜いた。
孔伯恭が宋の沈攸之の軍を撃退した。
慕容白曜の軍が宋の崔道固を攻めて歴城を囲んだ。
馮太后が献文帝に政権を返した。
468戊申泰始4交州の李長仁が刺史の劉牧を殺して叛し、刺史を称した。のちに劉勃が刺史となり、李長仁は降って行州事となった。
蕭道成が南兗州刺史となった。
沈文静が東陽を救援に向かったが、不其城で敗死した。
このころ阮佃夫・王道隆・楊運長らが政事に参与した。
求那跋陀羅(394-468)
皇興2尉元が宋の東徐州刺史張讜を誘って降した。
慕容白曜が歴城を陥し、崔道固を降した。
慕容白曜が宋の東陽を囲んだ。
469己酉泰始5孤立無援のまま東陽を守ること三年、青州刺史沈文秀は北魏に降った。これによって青州の全地方が失われた。
柳欣慰らが叛し、廬江王劉禕を立てようとした。明帝は劉禕を宣城に出し、柳欣慰らを誅した。のちに劉禕は自殺させられた。
臨海の田流が東海王を自称し、海塩を寇した。
皇興3魏軍が宋の東陽を陥し、青州刺史の沈文秀を捕らえた。
慕容白曜が青州刺史・済南王となった。
北魏は民を貧富三等に分けて、租税を運ぶ法を定めた。上品のものは都の平城まで運び、中品のものは別の州に運び、下品のものは自分の州に運ぶこととした。
青州・斉の民を都の平城に遷した。
拓跋宏が太子となった。
北魏は宋に使者を派遣して修好した。
薛安都(410-469)
470庚戌泰始6蕭道成が淮陰に鎮し、劉勔が広陵に鎮した。
朝廷が総明覡を立て、祭酒の位を設け、儒・玄・文・史の四学の学士をおのおの十人おいた。
皇興4陸定国が司空となった。
長孫観が吐谷渾を討った。
柔然の部真可汗が北辺を寇した。京兆王拓跋子推・任城王拓跋雲・汝陰王拓跋天賜らが兵を発して、柔然を大いに破った。
慕容白曜が謀反の罪で誅された。時論はこれを冤罪とみなした。
471辛亥泰始7明帝は太子が幼弱であるため、諸弟を忌んだ。まず晋平剌王劉休祐が落馬を装って殺された。建安王劉休仁は謀反の罪で殺された。巴陵王劉休若は宴に招かれて死を賜った。ただ桂陽王劉休範のみ庸劣であるとして免れた。
明帝が故第を改修して湘宮寺を建立した。
皇興5
延興1
邢祐を宋に遣使した。
敕勒の諸部が叛した。汝陰王拓跋天賜が羅雲を遣わしてこれを討ったが、偽降に欺かれて羅雲は敗死した。
献文帝(位465-471)が太子の拓跋宏に位を譲った(孝文帝)。献文帝は太上皇帝を称す。
太尉源賀が敕勒を討って破った。
472壬子泰予1明帝の病篤く、権勢を忌まれて王景文が死を賜った。
明帝が夢に「豫章太守劉愔反す」と告げられたため、劉愔を殺させた。
明帝(位465-472)が崩じ、太子劉昱立つ(後廃帝)。袁粲・褚淵が輔政す。
群蛮が武陵城下に迫ったが、内史の張英兒がこれを撃破した。
褚淵が蕭道成を衛尉として推挙し、兵権を掌握させた。
延興2大陽蛮の桓誕が北魏に降り、襄陽王に封ぜられた。
柔然が魏境を侵したので、上皇(拓跋弘)がこれを討った。東部敕勒が叛いて柔然に奔ったので、上皇はこれを追ったが、益なくして還った。
敦煌の鎮将の尉多侯が柔然の侵攻を撃退した。
柔然がまた魏境を侵し五原にいたったので、上皇がこれを討った。
高句麗・庫莫奚・高昌などが入貢した。
473癸丑元徽1尚書令袁粲が母の喪のため職を去った。
江州刺史劉休範が太尉に進んだ。
延興3吐谷渾王拾寅が澆河を寇したので、長孫観がこれを討った。
武都氐が叛して仇池を攻めたので、長孫観がこれを討った。
武都王楊僧嗣が没し、従弟の楊文度が武興王として立った。
474甲寅元徽2桂陽王劉休範が江州で起兵した。
蕭道成が張敬兒らに命じて劉休範(448-474)を騙し討ちにした。
蕭道成が中領軍に任ぜられ、袁粲・褚淵・劉秉らとともに執政にあたった。
延興4敦煌の尉多侯が柔然の侵攻を撃退した。
元蘭を遣わして蜀を討たせた。
粟特・敕勒・吐谷渾・高句麗などが入貢した。
475乙卯元徽3張敬兒が雍州刺史となった。
袁粲が再び尚書令となり、褚淵が中書監となった。
延興5北魏で牛馬を殺すのを禁じた。
賈伯奴が恒農王を称し、田智度が上洛王を称して叛したが、討たれた。
高句麗・吐谷渾・亀茲・契丹などが入貢した。
高句麗が百済の都漢城を陥した。
476丙辰元徽4蕭道成が尚書左僕射を加えられた。
建平王劉景素が叛した。高回・高道慶・垣祗祖らが呼応して、建康は乱れた。張倪奴が劉景素・垣祗祖を捕殺して、乱は鎮まった。
延興6
承明1
司空の陸定国が不法行為の咎で免官され、一兵卒に落とされた。
宋伏龍が南平王を自称して衆を集めたが、郡県に捕殺された。
馮太后が太上皇帝(献文帝)を毒殺し、再び朝廷に臨んで称制した。安城王万安国が死を賜った。安楽王長楽が太尉・尚書左僕射となり、宜都王目辰が司徒となり、李訢が司空となった。
柔然・高句麗・庫莫奚などが入貢した。
西ローマ帝国が滅んだ。
477丁巳元徽5
昇明1
蕭道成が帝劉昱(位472-477)を殺し、安成王劉准を擁立した(順帝)。死んだ後廃帝は蒼梧王に追封された。
蕭道成が驃騎大将軍・開府儀同三司となった。
荊州刺史の沈攸之が蕭道成に叛いて起兵した。
司徒の袁粲(420-477)が蕭道成に叛いて起兵し、殺された。
阮佃夫(427-477)
太和1略陽の王元寿が衆を集めて衡天王を自称した。秦益二州刺史の尉洛侯が王元寿を撃破した。
東陽王拓跋丕が司徒となった。
陸定国の官爵を復した。
楊文弘が仇池を攻め陥した。皮歓喜らが兵を率いて迫ると、楊文弘は城を棄てて逃げた。
律令が改められた。
李長仁を宋に遣使した。
高句麗・契丹・庫莫奚などが入貢した
478戊午昇明2張敬兒が江陵に攻め入り、沈攸之が敗死した。
楊文弘が武都王に封ぜられた。
蕭道成が奢侈の風を戒めるため、民間の華美な玩物・服飾を禁じた。
蕭道成が黄鉞を加えられ、都督中外諸軍事・太傅に上り、揚州牧を領した。
太和2彌機が梁秦二州牧・河南公・宕昌王に封ぜられた。
北魏において異なる身分間の通婚を禁じた。
高允が老病を理由に故郷に帰ったが、呼び戻されて鎮軍大将軍・中書監に任ぜられた。
鄭羲を宋に遣使した。
亀茲国が名馬珍宝を献じた。
倭王武が劉宋に遣使し、安東大将軍に任ぜられた。
479己未昇明3三月、太傅蕭道成が相国に上り、斉公に封ぜられ、九錫を賜った。
四月、斉公蕭道成は斉王に進んだ。
太和3尉元が淮陽王となった。
秦州刺史尉洛侯・宜都王目辰が誅殺された。
東陽王拓跋丕が太尉・侍中となり、陳建が司徒・侍中となり、苟頽が司空となった。
安楽厲王長楽が謀反の罪で死を賜った。
拓跋嘉・拓跋琛・薛虎子らが、宋の丹楊王劉昶を奉じて斉を攻めた。
柔然が十余万騎を率いて寇したが、まもなく退いた。
吐谷渾・地豆干・契丹などが入貢した。
契丹の莫賀弗勿干が部落を率いて北魏に従属し、白狼水の東に居住す。

建元1
四月、斉王蕭道成は順帝(位477-479)より禅譲を受け帝位についた(高帝)。国号は宋滅ぶ。順帝は汝陰王に封ぜられて、丹徒宮に遷され、のち殺された。
蕭嶷が尚書令・揚州刺史となった。
蕭賾が皇太子に立てられ、蕭嶷が豫章王となり、蕭映が臨川王となった。
高帝は諸王が地方に封ぜられたときに実地を経営することを禁じた。また将帥が軍員を増募することを禁じた。
司空褚淵が尚書令を領した。
480庚申建元2王倹が尚書左僕射となった。
徐州刺史崔文仲が鍾離で魏軍を撃退した。
魏軍が寿陽を寇したが、豫州刺史垣崇祖が撃退した。
李烏奴が梁州を寇したが、崔慧景・王図南が撃退した。
魏軍に昫山を囲まれたが玄元度がこれを破った。
高帝は、宋末以来の戸籍の混乱を正し、黄籍を検定するよう命じた。
褚淵が司徒となり、豫章王蕭嶷が中書監・司空となり、臨川王蕭映が荊州刺史となった。
太和4鷹やハシタカを飼っていたところを廃止し、その地に報徳仏寺を建てさせた。
襄城王韓頽が罪をえて、官爵を削られて辺地に流された。
魏軍が斉の鍾離を攻めたが敗れた。
梁郡王嘉・劉昶らの魏軍が寿陽を攻めたが、敗れた。
梁郡王嘉が昫山を囲んだが、斉軍に敗れた。
徐州の民の桓標之・兗州の民の徐猛子らが司馬朗之を立てて、北魏に叛いた。淮陽王尉元・薛虎子がこれを討った。
尚書令王叡が中山王に封ぜられた。
481辛酉建元3李安民らが淮陽で魏軍を破った。
垣崇祖が淮水を渡って魏軍を大いに破った。
車僧朗を北魏に遣使した。
太和5魏軍が斉の淮陽を攻めたが、また敗れた。
桓標之らが魏軍に敗れて滅ぼされ、三万戸が平城に遷された。淮陽王尉元・薛虎子が五固を陥し、司馬朗之を斬った。淮北四州の乱平定される。
沙門の法秀が平城で起兵を謀ったが、捕殺された。
馮誕を南平王に封じた。
中書令の高閭が新律を定めた。
高車が高昌の闞氏を滅ぼし、代わって張明を高昌王に立てた。まもなく国人が張明を殺し、馬儒を王に立てた。
吐谷渾の拾寅が没し、子の度易侯が立った。
482壬戌建元4高帝(位479-482)が崩じ、太子蕭賾立つ(武帝)。褚淵・王倹が輔政にあたった。
褚淵が録尚書事となり、王倹が侍中・尚書令となり、王奐が尚書左僕射となり、蕭嶷が太尉となった。
吏部尚書江謐が死を賜った。
褚淵(435-482)
太和6白蘭王吐谷渾翼世が誅された。
州郡の五万人を徴発して霊丘道を修めた。
楊文弘が没し、楊後起を武都王に封じた。
李崇を荊州刺史に任じて荊州の巴・氐を鎮撫させた。
孝文帝が七廟を立てた。
地豆干・吐谷渾などが遣使した。
483癸亥永明1垣崇祖が江北の荒人と結託した罪で誅され、また荀伯玉が乱を図ったとして殺された。
張敬兒が武帝に疑われて誅された。
太和7粟二十万石を瑕丘・琅邪に送った。
李彪を斉に遣使した。
北魏で同姓の婚姻を禁じた。
秦州刺史于洛侯が酷刑の濫用甚だしく、誅された。
484甲子永明2竟陵王蕭子良が護軍将軍となり、西州に鎮した。蕭子良が西邸を開き、文学の士を集めた。范雲・蕭衍・謝脁・沈約ら八人を竟陵八友と称した。
柳世隆が尚書左僕射となり、李安民が尚書右僕射となった。
陳顕達が益州の大度獠を討った。始興王蕭鑑が益州刺史となり、陳顕達が中護軍となった。
太和8一戸あたりの調帛を二匹から三匹に増やした。
高句麗王漣が北魏に入貢した。
十五の州鎮で洪水と干魃があり、官倉を開いて救恤にあたらせた。
東西教会の分離
485乙丑永明3劉楷を交州刺史に任じ、前交州刺史の李叔献を討たせた。
富陽の唐寓之が迷信によって衆を集め、富陽を陥した。
王僧虔(426-485)周顒(?-485)
太和9北魏が讖緯・巫覡・卜筮を禁絶した。
梁彌承を宕昌王に封じた。
給事中の李安世の提議を用いて、北魏で均田制を施行した。
柔然が魏塞を侵したので、任城王拓跋澄が撃退した。拓跋澄は梁州刺史に任ぜられ、氐・羌の乱を平定した。
柔然の部真可汗が没し、子の豆崙立つ(伏名敦可汗)。
486丙寅永明4唐寓之が銭塘を占拠し、帝を称し、国号を呉とした。まもなく敗死した。太和10孝文帝が朝廷で袞衣・冕冠の着用をはじめた。
楊後起が没し、楊集始が武都王として立った。
秘書令の李冲の提議を用いて、宗主督護の制を改め、三長制を制定した。
五等公服の制を始めた。
中書学を改めて国子学とした。
クローヴィス、フランク王国を建国。
487丁卯永明5豫章王蕭嶷が大司馬となり、竟陵王蕭子良が司徒となった。
桓天生が南陽故城に拠って、北魏の援兵を請うて、入寇した。陳顕達がこれを討って破り、雍州刺史となった。
太和11公孫邃・張儵が桓天生とともに斉の舞陰を攻めたが、陰公愍に敗れた。
この年は旱害がひどく、斉州刺史韓麒麟の提議を用いて、官倉を開いて貸しつけを行い、民を関外に出して食に就かせた。
陸叡が柔然の伏名敦可汗を破った。
高允(390-487)
488戊辰永明6淮南軍の王僧慶が角城を救った。
曹虎が桓天生を破った。
陳顕達が魏を攻めて澧陽を陥したが、北魏の長楽王穆亮に敗れた。
沈約が『宋書』を撰した。
太和12初めて五牛旌旗を建てた。
梁衆保が謀反の罪で誅された。
孝文帝が秘書丞李彪の提議を容れて、各州郡の官倉に粟を備蓄させた。
魏軍が百済を討ったが敗れた。
東ゴート王テオドリック、イタリアに遷る。
489己巳永明7柳世隆が尚書令となり、王奐が尚書左僕射となった。太和13尉元が司徒となり、穆亮が司空となった。
490庚午永明8荊州刺史の巴東王蕭子響が不行跡を都に報告されたのを怒って、長史劉寅ら八人を殺した。武帝は胡諧之・尹略らに命じて逮捕に向かわせたが、逆上した蕭子響に敗れた。丹楊尹蕭順之が兵を出して蕭子響を討ち、これを殺した。
交州長史伏登之が交州刺史房法乗を逐い、交州刺史に上った。
蜀の厳道銅山の銅を使って鋳銭させたが、費用が多くかかりすぎるため取りやめた。
太和14陽平王拓跋頤が地豆干を討った。
樓龍兒が庫莫奚を討った。
馮太后(442-490)が薨じ、孝文帝は五日のあいだ食を断った。
高車が魏に遣使し、柔然の脅威を除くよう懇請した。
吐谷渾の度易侯が没し、子の伏連籌が立つ。
百済王牟大が斉に遣使し、鎮東大将軍に任ぜられた。
491辛未永明9北魏の使者の李彪をもてなし、武帝が親しく琅邪まで送った。
王奐が雍州刺史となった。
范當根純を林邑王に封じた。
孔稚珪が晋律の新註の書『律文』『録序』を完成させて上奏した。
太和15孝文帝が皇信東室で聴政をはじめた(孝文帝親政の始)。
吐谷渾王伏連籌が入朝した。
明堂・太廟が完成した。
高句麗の長寿王(位413-491)
492壬申永明10竟陵王蕭子良が尚書令を領し、ついで揚州刺史となった。
蕭琛・范雲を北魏に遣使した。
沈約の『宋書』袁粲伝に疑いが起こり、その多くが削除された。
范諸農が范當根純を攻めて林邑を奪回したので、これを林邑王に封じた。
豫章王蕭嶷(444-492)
太和16孝文帝は晋の後を受けて北魏を水徳の王朝と定めた。
高句麗王弟の升干が入朝した。
吐谷渾王世子の賀虜頭が入朝した。
宋弁を斉に遣使した。
陽平王拓跋頤・鎮北大将軍陸叡らが三道に分かれて柔然を攻め、大勝した。
武興の氐王楊集始が北魏に降り、南秦州刺史・武興王となった。
安定王拓跋休が大司馬となり、馮誕が司徒となった。
柔然の伏名敦可汗が殺され、叔父の那蓋立つ(候其伏代庫者可汗)。
493癸酉永明11王敬則が司空となり、陳顕達が江州刺史となった。
文恵太子蕭長懋が薨じた。
雍州刺史王奐が寧蛮長史劉興祖を獄に繋ぎ、これを殺した。武帝は呂文顕・曹虎らに王奐を攻めさせ、裴叔業らが王奐を斬った。王奐の子の王粛が北魏に奔った。
僧法智・周盤龍が徐州で乱を起こしたが、刺史の王玄邈に迎え撃たれて殺された。
武帝(位482-493)が崩じ、太孫蕭昭業立つ(前廃帝)。西昌候蕭鸞が中書令となり、輔政にあたった。
王融(467-493)が獄に下され、死を賜った。
太和17邢巒を斉に遣使した。
襄陽蛮の雷婆思らが北魏に帰順した。
孝文帝が洛陽遷都を議したが、群臣は反対した。ただ任城王拓跋澄のみがひそかに賛同した。
孝文帝が南征に名を借りて、洛陽遷都を強行した。
尉元(413-493)
オドアケル(位476-493)
494甲戌建武1陳顕達を車騎大将軍とし、襄陽に鎮せしめた。
西昌候蕭鸞がしばしば帝の素行を諫めたが、帝蕭昭業は聞き入れなかった。
蕭鸞が徐龍駒・周奉叔らを殺した。
西昌候蕭鸞が前廃帝(位493-494)を廃殺して、新安王蕭昭文を擁立した(後廃帝)。王晏・徐孝嗣・蕭坦之・陳顕達らがこれに従った。王敬則が太尉に、蕭鏘が司徒に、陳顕達が司空に、王晏が尚書令となった。
蕭鸞が随王蕭子隆・鄱陽王蕭鏘・晋安王蕭子懋ら諸王を次々と殺した。
蕭鸞が帝蕭昭文(位494)を廃して海陵王とした。蕭鸞は自ら立って帝を称した(明帝)。王敬則が大司馬に、陳顕達が太尉になった。まもなく海陵王は殺された。
竟陵王蕭子良(460-494)
太和18孝文帝が北巡して平城にいたったが、群臣による洛陽遷都撤回の議をしりぞけた。
宋王劉昶を持節・都督呉楚越諸軍事・大将軍とし、彭城に鎮せしめた。
孝文帝が北鎮を巡幸し、平城・信都・鄴を回って洛陽に帰還した。
孝文帝が士民による胡服の着用を禁止した。
魏軍が大挙して斉を攻めた。薛真度が襄陽に、劉昶・王粛が義陽に、拓跋衍が鐘離に、劉藻が南鄭に向かった。孝文帝自身も洛陽を発し、北海王拓跋詳・李沖らに留守を任せた。
この年、雲崗石窟が完成した。
このころ龍門石窟の開鑿がはじまった。
扶余、高句麗に降る。
495乙亥建武2王広之が司州の、蕭坦之が徐州の、沈文季が豫州の諸軍を率いて魏軍の侵攻をはばんだ。斉の諸将が魏軍を鍾離・義陽・寿陽・赭陽・南鄭で破って退けた。
明帝が蕭諶・蕭誕を誅し、また西陽王蕭子明・南海王蕭子罕らを殺させた。
太和19拓跋衍が鐘離で斉の徐州刺史蕭恵休にはばまれ、崔慧景・裴叔業らに敗れた。劉昶・王粛が義陽で斉の司州刺史蕭誕を攻めたが、王広之・蕭衍らの斉の援軍がいたって敗れた。孝文帝は寿陽を経て長江を臨もうとしたが、崔慧景にはばまれて進めず、鐘離に退いたがこれを抜けず、洛陽に還った。
拓跋英・劉藻が漢中を攻めたが、斉の蕭懿にはばまれ退いた。
城陽王拓跋鸞らが赭陽を攻めたが、斉の垣歴生らに敗れた。薛真度が斉の南陽太守房伯玉に敗れた。
武勇の士十五万人を選抜して、羽林・虎賁として帝の宿衛にあてた。
孝文帝が魯城で孔子を祀り、孔墓を改修させた。
三十歳以下の者が北魏の朝廷で胡語を用いることを禁止した。
北魏が散佚した古典書籍を野に求めさせた。
洛陽に住む鮮卑人を北方に葬ることを禁じた。
北魏で太和五銖銭を通行させるようになった。
496丙子建武3魏軍が司州を寇したが、檪城の魏僧珉がこれを破った。太和20孝文帝が詔を下して、鮮卑姓を漢風に改め、姓族分定を行った。帝室の姓を拓跋から元に改めた。
太子の元恂が平城に戻ることを企てて廃された。
吐京胡が叛き、朔州刺史元彬がこれを討った。
穆泰・陸叡らが遷都・改制に反対して謀反を図ったが、任城王元澄に追捕された。
クローヴィス、カトリックに改宗。
497丁丑建武4明帝が王晏を誅した。
徐孝嗣が尚書令となった。
魏軍が南陽・新野に来攻したが、雍州刺史曹虎と南陽太守房伯玉の間に隙があり、協力しあわなかった。裴叔業・蕭衍・張稷・崔慧恵らが援軍に向かった。
王曇紛が北魏の南青州を攻めた。
太和21元恪が皇太子となった。
穆泰・陸叡らが殺され、廃太子が死を賜った。
孝文帝が魏軍を率いて斉の南陽・新野を囲んだ。
劉昶(436-497)
高昌王の馬儒が殺され、麹嘉が王となった。高昌の麹氏政権はじまる。
498戊寅建武5
永泰1
明帝の病が重くなり、河東王劉鉉・臨賀王劉子岳ら諸王が殺された。
新野が陥され、崔慧恵・蕭衍らが鄧城で敗れた。
裴叔業が渦陽を攻め、義陽の囲みを救い、魏の広陵王元羽を破った。また魏の援軍劉藻・高聡らを破った。しかし王粛らに大敗した。
会稽太守王敬則が叛した。その衆十余万にふくれあがり、建康に迫ったが敗死した。
蕭衍が雍州刺史となった。
明帝(位494-498)が崩じ、太子蕭宝巻立つ(東昏侯)。
太和22統軍の李佐が新野を抜いた。斉の劉思忌・黄瑤起を捕殺した。南陽を陥し、房伯玉を降した。
孝文帝の軍十万が斉の樊城を囲んだ。
斉の裴叔業が渦陽を攻め、広陵王元羽・劉藻・高聡らを破ったので、王粛・楊大眼・奚康生が義陽の囲みを解いて渦陽を救い、裴叔業を大いに破った。
僕射の李冲(450-498)が没した。
孝文帝は斉の明帝が死んだことを聞いて、「禮不伐喪」といって軍を還した。
高車への北伐を詔した。江陽王元継が胡族を慰撫し、叛帥は相次いで降った。
林邑王范諸農が没し、范子文が立った。
499己卯永元1太尉陳顕達が失地回復を図って北伐し、馬圏・南郷を抜いたが、鷹子山で敗退した。陳顕達は江州刺史に左遷された。
始安王蕭遙光が簒奪を図ったが、敗死した。
北魏の南徐州刺史沈陵が来降した。
蕭坦之・劉暄・曹虎が東昏侯の命により次々と殺された。徐孝嗣(453-499)が許準に廃立を勧めたことが暴露され、死を賜った。
江州刺史陳顕達(427-500)が建安王蕭宝寅を奉じて尋陽で起兵したが、敗死した。
太和23元英が斉の陳顕達の北伐をはばんだが敗れ、馬圏を失陥した。孝文帝が出馬し、武衛将軍元嵩が斉軍を大破した。
孝文帝(位471-499)が崩じ、太子元恪が立つ(宣武帝)。
尚書令の王粛が南朝の官制に倣って官品を定めた。
500庚辰永元2東昏侯は殺人を好み、大臣から庶人まで多く落命した。豫州刺史裴叔業が寿陽で北魏に降った。
崔慧景が寿陽を討つよう命を受けて出兵したが、矛をさかしまにして建康を攻めた。部将の崔覚・崔恭祖が功を争って豫州刺史蕭懿に敗れ、崔慧景(438-500)は逃亡の末に漁人に斬り殺された。
尚書令蕭懿が東昏侯により殺され、弟の雍州刺史蕭衍が襄陽で挙兵した。
蕭穎冑が南康王蕭宝融を擁立して江陵で挙兵した。
祖沖之(429-500)
景明1斉の豫州刺史裴叔業の降を容れ、寿陽に李醜・楊大眼を入城させた。また奚康生を援軍に送った。
奚康生が寿陽を固守した。彭城王元勰・王粛らが斉の蕭懿の部将の胡松・陳伯之を破った。
王粛が豫州刺史・西豊公となり、彭城王元勰が大司馬・司徒となった。
太陽蛮の田育丘ら二万八千戸が北魏に帰順した。
北魏が吐谷渾に遣使して、吐谷渾が魏の礼制を真似て百官を置いていることを譴責した。
彭城王元勰・傅永が斉の陳伯之の寿陽進攻をはばみ、これを破った。
東荊州刺史桓暉が斉を寇した。
氐王楊集始が北魏に降った。
このころ鞏県石窟の開鑿がはじまった。


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