491 | 辛未 | 永明9 | 北魏の使者の李彪をもてなし、武帝が親しく琅邪まで送った。 王奐が雍州刺史となった。 范當根純を林邑王に封じた。 孔稚珪が晋律の新註の書『律文』『録序』を完成させて上奏した。 | 太和15 | 孝文帝が皇信東室で聴政をはじめた(孝文帝親政の始)。 吐谷渾王伏連籌が入朝した。 明堂・太廟が完成した。 | 高句麗の長寿王(位413-491) |
492 | 壬申 | 永明10 | 竟陵王蕭子良が尚書令を領し、ついで揚州刺史となった。 蕭琛・范雲を北魏に遣使した。 沈約の『宋書』袁粲伝に疑いが起こり、その多くが削除された。 范諸農が范當根純を攻めて林邑を奪回したので、これを林邑王に封じた。 豫章王蕭嶷(444-492) | 太和16 | 孝文帝は晋の後を受けて北魏を水徳の王朝と定めた。 高句麗王弟の升干が入朝した。 吐谷渾王世子の賀虜頭が入朝した。 宋弁を斉に遣使した。 陽平王拓跋頤・鎮北大将軍陸叡らが三道に分かれて柔然を攻め、大勝した。 武興の氐王楊集始が北魏に降り、南秦州刺史・武興王となった。 安定王拓跋休が大司馬となり、馮誕が司徒となった。 | 柔然の伏名敦可汗が殺され、叔父の那蓋立つ(候其伏代庫者可汗)。 |
493 | 癸酉 | 永明11 | 王敬則が司空となり、陳顕達が江州刺史となった。 文恵太子蕭長懋が薨じた。 雍州刺史王奐が寧蛮長史劉興祖を獄に繋ぎ、これを殺した。武帝は呂文顕・曹虎らに王奐を攻めさせ、裴叔業らが王奐を斬った。王奐の子の王粛が北魏に奔った。 僧法智・周盤龍が徐州で乱を起こしたが、刺史の王玄邈に迎え撃たれて殺された。 武帝(位482-493)が崩じ、太孫蕭昭業立つ(前廃帝)。西昌候蕭鸞が中書令となり、輔政にあたった。 王融(467-493)が獄に下され、死を賜った。 | 太和17 | 邢巒を斉に遣使した。 襄陽蛮の雷婆思らが北魏に帰順した。 孝文帝が洛陽遷都を議したが、群臣は反対した。ただ任城王拓跋澄のみがひそかに賛同した。 孝文帝が南征に名を借りて、洛陽遷都を強行した。 尉元(413-493) | オドアケル(位476-493) |
494 | 甲戌 | 建武1 | 陳顕達を車騎大将軍とし、襄陽に鎮せしめた。 西昌候蕭鸞がしばしば帝の素行を諫めたが、帝蕭昭業は聞き入れなかった。 蕭鸞が徐龍駒・周奉叔らを殺した。 西昌候蕭鸞が前廃帝(位493-494)を廃殺して、新安王蕭昭文を擁立した(後廃帝)。王晏・徐孝嗣・蕭坦之・陳顕達らがこれに従った。王敬則が太尉に、蕭鏘が司徒に、陳顕達が司空に、王晏が尚書令となった。 蕭鸞が随王蕭子隆・鄱陽王蕭鏘・晋安王蕭子懋ら諸王を次々と殺した。 蕭鸞が帝蕭昭文(位494)を廃して海陵王とした。蕭鸞は自ら立って帝を称した(明帝)。王敬則が大司馬に、陳顕達が太尉になった。まもなく海陵王は殺された。 竟陵王蕭子良(460-494) | 太和18 | 孝文帝が北巡して平城にいたったが、群臣による洛陽遷都撤回の議をしりぞけた。 宋王劉昶を持節・都督呉楚越諸軍事・大将軍とし、彭城に鎮せしめた。 孝文帝が北鎮を巡幸し、平城・信都・鄴を回って洛陽に帰還した。 孝文帝が士民による胡服の着用を禁止した。 魏軍が大挙して斉を攻めた。薛真度が襄陽に、劉昶・王粛が義陽に、拓跋衍が鐘離に、劉藻が南鄭に向かった。孝文帝自身も洛陽を発し、北海王拓跋詳・李沖らに留守を任せた。 この年、雲崗石窟が完成した。 このころ龍門石窟の開鑿がはじまった。 | 扶余、高句麗に降る。 |
495 | 乙亥 | 建武2 | 王広之が司州の、蕭坦之が徐州の、沈文季が豫州の諸軍を率いて魏軍の侵攻をはばんだ。斉の諸将が魏軍を鍾離・義陽・寿陽・赭陽・南鄭で破って退けた。 明帝が蕭諶・蕭誕を誅し、また西陽王蕭子明・南海王蕭子罕らを殺させた。 | 太和19 | 拓跋衍が鐘離で斉の徐州刺史蕭恵休にはばまれ、崔慧景・裴叔業らに敗れた。劉昶・王粛が義陽で斉の司州刺史蕭誕を攻めたが、王広之・蕭衍らの斉の援軍がいたって敗れた。孝文帝は寿陽を経て長江を臨もうとしたが、崔慧景にはばまれて進めず、鐘離に退いたがこれを抜けず、洛陽に還った。 拓跋英・劉藻が漢中を攻めたが、斉の蕭懿にはばまれ退いた。 城陽王拓跋鸞らが赭陽を攻めたが、斉の垣歴生らに敗れた。薛真度が斉の南陽太守房伯玉に敗れた。 武勇の士十五万人を選抜して、羽林・虎賁として帝の宿衛にあてた。 孝文帝が魯城で孔子を祀り、孔墓を改修させた。 三十歳以下の者が北魏の朝廷で胡語を用いることを禁止した。 北魏が散佚した古典書籍を野に求めさせた。 洛陽に住む鮮卑人を北方に葬ることを禁じた。 北魏で太和五銖銭を通行させるようになった。 | |
496 | 丙子 | 建武3 | 魏軍が司州を寇したが、檪城の魏僧珉がこれを破った。 | 太和20 | 孝文帝が詔を下して、鮮卑姓を漢風に改め、姓族分定を行った。帝室の姓を拓跋から元に改めた。 太子の元恂が平城に戻ることを企てて廃された。 吐京胡が叛き、朔州刺史元彬がこれを討った。 穆泰・陸叡らが遷都・改制に反対して謀反を図ったが、任城王元澄に追捕された。 | クローヴィス、カトリックに改宗。 |
497 | 丁丑 | 建武4 | 明帝が王晏を誅した。 徐孝嗣が尚書令となった。 魏軍が南陽・新野に来攻したが、雍州刺史曹虎と南陽太守房伯玉の間に隙があり、協力しあわなかった。裴叔業・蕭衍・張稷・崔慧恵らが援軍に向かった。 王曇紛が北魏の南青州を攻めた。 | 太和21 | 元恪が皇太子となった。 穆泰・陸叡らが殺され、廃太子が死を賜った。 孝文帝が魏軍を率いて斉の南陽・新野を囲んだ。 劉昶(436-497) | 高昌王の馬儒が殺され、麹嘉が王となった。高昌の麹氏政権はじまる。 |
498 | 戊寅 | 建武5 永泰1 | 明帝の病が重くなり、河東王劉鉉・臨賀王劉子岳ら諸王が殺された。 新野が陥され、崔慧恵・蕭衍らが鄧城で敗れた。 裴叔業が渦陽を攻め、義陽の囲みを救い、魏の広陵王元羽を破った。また魏の援軍劉藻・高聡らを破った。しかし王粛らに大敗した。 会稽太守王敬則が叛した。その衆十余万にふくれあがり、建康に迫ったが敗死した。 蕭衍が雍州刺史となった。 明帝(位494-498)が崩じ、太子蕭宝巻立つ(東昏侯)。 | 太和22 | 統軍の李佐が新野を抜いた。斉の劉思忌・黄瑤起を捕殺した。南陽を陥し、房伯玉を降した。 孝文帝の軍十万が斉の樊城を囲んだ。 斉の裴叔業が渦陽を攻め、広陵王元羽・劉藻・高聡らを破ったので、王粛・楊大眼・奚康生が義陽の囲みを解いて渦陽を救い、裴叔業を大いに破った。 僕射の李冲(450-498)が没した。 孝文帝は斉の明帝が死んだことを聞いて、「禮不伐喪」といって軍を還した。 高車への北伐を詔した。江陽王元継が胡族を慰撫し、叛帥は相次いで降った。 | 林邑王范諸農が没し、范子文が立った。 |
499 | 己卯 | 永元1 | 太尉陳顕達が失地回復を図って北伐し、馬圏・南郷を抜いたが、鷹子山で敗退した。陳顕達は江州刺史に左遷された。 始安王蕭遙光が簒奪を図ったが、敗死した。 北魏の南徐州刺史沈陵が来降した。 蕭坦之・劉暄・曹虎が東昏侯の命により次々と殺された。徐孝嗣(453-499)が許準に廃立を勧めたことが暴露され、死を賜った。 江州刺史陳顕達(427-500)が建安王蕭宝寅を奉じて尋陽で起兵したが、敗死した。 | 太和23 | 元英が斉の陳顕達の北伐をはばんだが敗れ、馬圏を失陥した。孝文帝が出馬し、武衛将軍元嵩が斉軍を大破した。 孝文帝(位471-499)が崩じ、太子元恪が立つ(宣武帝)。 尚書令の王粛が南朝の官制に倣って官品を定めた。 | |
500 | 庚辰 | 永元2 | 東昏侯は殺人を好み、大臣から庶人まで多く落命した。豫州刺史裴叔業が寿陽で北魏に降った。 崔慧景が寿陽を討つよう命を受けて出兵したが、矛をさかしまにして建康を攻めた。部将の崔覚・崔恭祖が功を争って豫州刺史蕭懿に敗れ、崔慧景(438-500)は逃亡の末に漁人に斬り殺された。 尚書令蕭懿が東昏侯により殺され、弟の雍州刺史蕭衍が襄陽で挙兵した。 蕭穎冑が南康王蕭宝融を擁立して江陵で挙兵した。 祖沖之(429-500) | 景明1 | 斉の豫州刺史裴叔業の降を容れ、寿陽に李醜・楊大眼を入城させた。また奚康生を援軍に送った。 奚康生が寿陽を固守した。彭城王元勰・王粛らが斉の蕭懿の部将の胡松・陳伯之を破った。 王粛が豫州刺史・西豊公となり、彭城王元勰が大司馬・司徒となった。 太陽蛮の田育丘ら二万八千戸が北魏に帰順した。 北魏が吐谷渾に遣使して、吐谷渾が魏の礼制を真似て百官を置いていることを譴責した。 彭城王元勰・傅永が斉の陳伯之の寿陽進攻をはばみ、これを破った。 東荊州刺史桓暉が斉を寇した。 氐王楊集始が北魏に降った。 このころ鞏県石窟の開鑿がはじまった。 | |