502,梁興る(地図),510,520,523,六鎮の乱,530,534,東魏興る,535,西魏興る,540,550,北斉興る,557,北周・陳興る,560,570,580,581,隋興る,589,陳滅び、隋の統一,590,600
西暦干支事件参照
※この年表では、中国の旧暦とユリウス暦が混在しています。厳密に言うと年月がずれるものもあるかもしれません。
501辛巳
中興1
南康王蕭宝融が相国を称した。蕭宝融は王茂を江州刺史に、曹景宗を郢州刺史に、蕭宝攸を荊州刺史に任じた。
蕭衍は竟陵にいたり、王茂・曹景宗を先鋒にして東進した。
三月、南康王蕭宝融が江陵で帝を称した(和帝)。
蕭衍の軍が首都建康にいたり、王珍国・張稷らが内変を起こして東昏侯(位498-501)を殺した。
孔稚珪(447-501)
北魏
景明2
宣武帝が親政をはじめた。彭城王元勰が太尉となり、咸陽王元禧が太保・司空となり、北海王元詳が大将軍・録尚書事となった。
咸陽王元禧が太保・太尉となり、広陵王元羽が司空となった。
咸陽王元禧は上相となり、驕奢貪淫で不法を多く犯したので、宣武帝に憎まれた。咸陽王元禧はおそれて謀反を図り敗死した。
広陽王元嘉に命じて、洛陽城を大修築した。
穆亮が司空となり、北海王元詳が太傅・司徒となった。
東豫州刺史田益宗が斉を攻め、斉の建寧太守黄天賜を破った。
王粛(464-501)
502壬午中興2蕭衍が都督中外諸軍事となり、王亮が中書監・尚書令となった。
蕭衍が大司馬・相国・総百揆・揚州牧・梁公となった。
蕭衍が梁王に進んだ。
蕭衍が斉の明帝の諸子を殺した。
景明3

斉の建安王蕭宝寅が来降した。
魯陽蛮が反し、湖陽を囲んだ。撫軍将軍李崇がこれを撃破した。
六世に仕えた平陽公元丕が洛陽にいたり、三老となった。
河州で飢饉が起こった。
西域の二十七カ国が遣使した。
このころ天水麦積山石窟が開かれた。
穆亮(451-502)
ササン朝のクバート1世、アルメニアに侵入。
倭王武が梁の武帝により征東大将軍に任ぜられた。

天監1
蕭衍が斉の和帝(位501-502)より禅譲を受けて、帝位についた(武帝)。国号は斉滅ぶ
王亮が尚書令となり、王瑩が中書監となり、沈約が尚書僕射となり、范雲が散騎常侍・吏部尚書となった。
斉の和帝が鄭伯禽に殺された。
孫文明らが乱をなし、神虎門を焼いて衛尉府に入ったが、王茂・張恵紹により捕殺された。
江州刺史の陳伯之が梁に叛いて起兵し、王茂に敗れて北魏に奔った。
南郡太守劉季連が、益州刺史鄧元起の入蜀をはばんだが敗れ、成都にこもった。
蔡法度らが旧律を修訂して梁律を定めた。
503癸未天監2沈約が左僕射となり、范雲が右僕射となった。王亮が左光禄大夫となったが、詐病により昇殿せず、官爵を削られ庶人に落とされた。
劉季連が成都を開城して降り、一命を赦されて庶人となった。
范雲(451-503)が没し、徐勉・周捨が国政に参与した。王瑩が右僕射となった。
司州刺史蔡道恭が北魏の元英の軍をはばむため楊由を送ったが、賢首柵で斬られた。
南梁太守馮道根が党法宗ら二万の軍を破り、高祖珍の軍を撃って豫州刺史に上った。
景明4梁州氐の楊会が叛し、行梁州事の楊椿がこれを討った。
蕭宝寅が東揚州刺史・斉王として東城に鎮し、陳伯之が江州刺史として陽石に鎮した。
任城王元澄の節度により、魏軍が梁の淮南の地を攻めた。魏軍は関要・穎川・大峴を抜き、白塔・牽城・清渓を潰した。党法宗らが焦城を抜き、淮陵を破ったが、阜陵で梁の南梁太守馮道根にはばまれた。
鎮南将軍元英が賢首柵を抜き、梁将呉子陽を白沙で破った。
武興安王楊集始が没し、子の楊紹先が武興王に封ぜられた。
李崇が東荊州蛮樊素安の乱を討った。
散騎常侍趙脩が驕恣な行いを憎まれて免官され、その党与で連座して誅されるものが相次いだ。ただ高肇のみが免れた。
504甲申天監3姜慶真が北魏の寿陽を攻めたが、蕭宝寅に敗れた。
曹景宗・王僧炳が義陽の救援に向かったが、王僧炳は樊城で敗れた。蔡道恭が戦陣で病没し、蔡霊恩が継いだが敗れ、義陽を失陥した。
吐谷渾王伏連籌が河南王に封ぜられた。
景明5
正始1
陳伯之が東関で梁将趙祖悦を破った。
東荊州刺史楊大眼が樊季安を破った。
任城王元澄が梁の鍾離を攻めたが、淮水が氾濫してさまたげられ、撤退した。
北海王元詳が執政したが、驕奢なため宣武帝に忌まれて捕らわれ、まもなく薨じた。
李崇が東荊蛮の樊素安を捕らえた。
元英らが梁の義陽を陥した。
元英が中山王となった。
柔然が沃野・懐朔二鎮を侵した。車騎大将軍源懐がこれを逐った。
505乙酉天監4武帝が五経博士を置き、広く生徒を招き、また州郡に博士祭酒を派遣して、学問を振興した。
漢中太守の夏侯道遷が北魏に降り、漢中を失陥した。王足に剣閣を奪われ梁州十四郡を失陥した。魯方達・王景胤らが敗死した。
臨川王蕭宏を都督北討諸軍事に任じて大挙北伐させた。蕭宏の軍は洛口に屯した。
江淹(444-505)
正始2高陽王元雍が司空となり、広陽王元嘉が儀同三司となった。
梁彌博が宕昌王に封ぜられた。
邢巒が漢中に入り、諸城を攻略した。邢巒は梁秦二州刺史となった。王足が剣閣を奪い、梁州十四郡は北魏に帰属した。
中山王元英が梁の雍州を攻めた。
王足が魯方達・王景胤らを破り、涪城を囲んだ。
氐王楊紹先が帝を称し、北魏に叛いた。光禄大夫楊椿がこれを討った。
王足は益州刺史を代行していたが、宣武帝が新たに羊祉を益州刺史に任じたので、王足は不満を抱いて軍を返した。
506丙戌天監5冀州刺史の桓和が北魏の南青州を攻めたが勝てず。
徐州刺史昌義之が陳伯之と梁城で戦ったが敗れた。
蕭昞が北魏の徐州を攻め、淮陽を囲んだ。
陳伯之が梁に帰順した。
王茂が北魏の荊州を攻めたが、楊大眼に敗れた。
張恵紹が宿豫を抜き、昌義之が梁城を抜いた。韋叡が闘艦で合肥の四面を囲み、これを陥した。
張恵紹が彭城を攻めたが、奚康生にはばまれて利あらず。仮徐州刺史宋黒が戦死した。
臨川王蕭宏が夜間の風雨に驚き、軍を捨てて江南に逃げた。このため全軍潰乱し、撤退に転じた。
正始3傅豎眼が武興を破り、楊紹先を捕らえて洛陽に送った。氐王楊氏が滅んだ。
秦州の屠各・王法智が呂苟兒を主と立てて乱を起こした。また涇州の陳瞻が衆を集めて王を称した。右衛将軍元麗が呂苟兒を討った。
荊州刺史趙怡・平南将軍奚康生が淮陽を救った。
中山王元英が征南将軍・都督揚徐二州諸軍事となり、兵十余万を率いて梁軍をはばんだ。
梁軍に宿豫・梁城を抜かれ、合肥の守将杜元倫が戦死してこれを失陥した。
元麗が王法智を破り、呂苟兒を降した。楊椿が陳瞻を討って、これを斬った。
元英が梁の徐州刺史王伯敖を陰陵で破った。
邢巒が梁将藍懐恭を破った。邢巒・楊大眼が宿豫を奪回した。
元英が鐘離を囲んだ。
柔然の庫者可汗が没し、子の伏図が立つ(他汗可汗)。
507丁亥天監6鍾離で梁魏が攻防す。昌義之が鍾離を堅守し、韋叡・曹景宗が援軍におもむいて魏軍を火攻し大いに破った。
王茂が尚書右僕射となり、安成王蕭秀が江州刺史となり、建安王蕭偉が揚州刺史となった。
徐勉が吏部尚書となった。
臨川王蕭宏が司徒・太子太傅となり、沈約が尚書令となり、袁昂が右僕射となった。
正始4中山王元英・平東将軍楊大眼らが鐘離を攻めたが、梁軍に大敗した。
元英・蕭宝寅が庶民に落とされ、楊大眼が営州に移されて一兵卒となった。
李崇が征南将軍・揚州刺史となった。
フランクのクローヴィス、西ゴートを破る。
508戊子天監7詔により、百官九品十八班、将軍十品二十四班、不登十品八班、外国二十四班、合わせて一百九の官号を立てた。
呂僧珍が雍州刺史となった。
太府・太僕などの卿を増やし、合わせて十二卿とした。
安成王蕭秀が荊州刺史となった。
任昉(460-508)曹景宗(457-508)
正始5
永平1
高貴嬪が皇后に立てられ、尚書令高肇の権はますます高くなった。
京兆王元愉が信都で叛し、帝を称した。都督北討諸軍の李平が元愉を破った。
高肇が彭城王元勰を誣告して殺した。
元愉が捕らえられ、群臣はこれを誅することを求めたが、宣武帝は許さなかった。高肇が人をやって密かに元愉を殺させた。
中山王元英を都督南征諸軍事として復活させた。
白早生が豫州刺史司馬悦を殺して自立し、梁に救援を求めた。尚書邢巒が白早生を破った。
安東将軍楊椿が宿豫を攻めた。
柔然の他汗可汗が高車に敗れて殺され、子の醜奴が立つ(豆羅伏跋豆伐可汗)。
509己丑天監8臨川王蕭宏が司空となり、王茂が開府儀同三司となった。
青冀二州刺史の元翼が北魏に降ろうと図ったが、事が洩れて死んだ。
永平2中山王元英が武陽関・平靖関を攻めて抜き、馬仙琕を破った。これをさらに追撃したが、韋叡が援軍に現れたため退いた。
荊州刺史元志が潺溝を攻めたが、朱思遠に敗れた。
広陽王元嘉が司徒となった。
宣武帝が諸僧に維摩詰経を講じさせた。これにより洛陽の仏教は全盛を迎えた。
510庚寅天監9沈約が左光禄大夫となり、王瑩が尚書令となった。
武帝が詔して皇太子以下の王侯の子弟を国子学に入学させた。
永平3中山王元英(?-510)サリ法典
511辛卯天監10張稷が青冀二州刺史となった。
琅邪の王万寿が東莞琅邪二郡太守の劉晣を殺して昫山に拠り、魏軍を呼び寄せた。
張稷が北魏の琅邪戌主傅文驥と戦ったが勝てなかった。
張充が尚書左僕射となった。
馬仙琕が昫山を囲んだ。傅文驥を降し、敗走する魏軍を追撃した。
永平4汾州の劉龍駒が衆を集めて叛した。諫議大夫薛和がこれを討った。
昫山に傅文驥・蕭宝寅・張遐らが拠り、徐州刺史盧昶の節度を受けた。
北魏で天文学を禁じた。
昫山が梁軍に囲まれ、糧秣が欠乏して傅文驥が降った。盧昶が逃亡して諸軍が潰えた。ただ蕭宝寅のみ軍を保全した。
512壬辰天監11臨川王蕭宏が太尉となり、王茂が司空・尚書令となった。
呉郡太守袁昂が尚書右僕射を兼ねた。
五礼を完成し、合わせて八千一十九条を詔した。
永平5
延昌1
高肇が司徒となり、清河王元懌が司空となり、広平王元懐が驃騎大将軍・儀同三司となった。
詔により燕恒二州と六鎮の飢民を食につかせた。
元詡が皇太子となったが、北魏で初めてその母(胡氏)を殺さなかった。
桓叔興を南荊州刺史とし、安昌を治めさせた。
513癸巳天監12鬱州の徐道角が青冀二州刺史張稷を殺して北魏に降った。
臨川王蕭宏が司空となった。
沈約(441-513)
延昌2高陽王元雍が太保となった。
六鎮・河南・青州の地方が飢饉におそわれた。
寿陽が長雨のため水没し、揚州刺史李崇は寿陽をひとたび放棄した。
揚州治中裴絢が南に走り、豫州刺史を自称した。李崇の甥の李神が水軍をもって裴絢を破り水死させた。
恒肆二州で大地震が発生した。
百済、日本に五経博士を送る
514甲午天監13鍾離に浮山堰を築き、淮水の流れを北魏の寿陽城にそそぎこむ準備をした。延昌3田魯生・田魯賢らが淮南で叛し、梁兵を引き入れた。李世哲が田魯生らを討ち破った。
高肇が大将軍・平蜀大都督となり、益州を討った。
幽州の僧劉僧紹が衆を集めて叛し、浄居国明法王と号した。州郡がこれを捕殺した。
515乙未天監14益州に侵攻した魏軍に対し、寧州刺史任太洪が派遣された。任太洪は北還する魏軍を追撃したが、北魏の益州刺史傅豎眼に敗れた。
浮山堰が潰えて、役夫に死者が多く出た。淮水沿岸の木石が尽きはてたという。
この冬、厳寒のため淮水・泗水が凍り、浮山堰で多くの死者が出た。
延昌4宣武帝崩じ(位499-515)、太子元詡立つ(孝明帝)。帝は幼く、高陽王元雍が庶政を決した。
高肇が召還され、征蜀軍も北に引き揚げた。
于忠が司徒高肇(?-515)を殺し、高陽王元雍の権を剥奪して、自ら尚書令に任じて専権を握った。
胡太后が朝廷に臨んで称制し、于忠を外官に出し、任城王元澄を尚書令に任じて政務にあたらせた。まもなく于忠は録尚書事となった。
冀州の僧法慶が起兵し、大乗を称したが、元遙に討たれて敗死した。
516丙申天監15北魏の侵攻に対して昌義之・王神念が硤石を守った。
浮山堰が完成し、淮水を寿陽に引きこんでそそいだため、寿陽城は壊れた。
淮水が増水して堰が壊れて、淮水の沿岸十余万口が漂流し、海にいたった。
煕平1李平が鎮軍大将軍となって寿陽にいたり、崔亮・李崇を督して梁の硤石を攻めた。
魏軍内で李平と崔亮が不和をおこした。
李崇が寿陽の破壊に備えて八公山の東南に魏昌城を築いた。
胡太后の父の胡国珍が驃騎大将軍・雍州刺史となった。
胡太后が永寧寺を造営させ、伊闕石窟を増築させた。
鄭道昭(?-516)
柔然の伏跋可汗が高車を破り、高車王弥俄突を捕殺した。
517丁酉天監16巴州刺史牟漢寵が叛し、北魏に降った。
馮道根が豫州刺史となった。
煕平2胡国珍が司徒となった。
尚書の崔亮が河内の王屋などの山で採銅して鋳銭する勅許をえた。
柔然の伏跋可汗が尉比建らを北魏に遣わして和を求めた。
518戊戌天監17臨川王蕭宏の妾の弟にあたる呉法寿が殺人を犯して、蕭宏の府内に匿われた。このため蕭宏は司徒・驃騎大将軍・揚州刺史を解任された。
蕭宏が中軍将軍・中書監として復活した。
蕭宏が司徒に復した。
柳惲(469-518)鍾嶸(469-518)何遜(?-518)僧祐(445-518)
煕平3
神亀1
氐の楊定が陰平王に封ぜられた。
国子博士李郁らに洛陽の三字石経の残缺を補わせた。
河州羌の郤鉄忽が叛し、水池王を自称した。源子恭が行台となり、これを平定した。
胡太后が宋雲・慧生らを遣わして、仏典を求めて西域に向かわせた。
胡国珍(439-518)楊大眼(?-518)
東ローマでユスチヌス朝おこる。
519己亥天監18袁昂が尚書令となり、王暕が左僕射となり、徐勉が右僕射となった。神亀2羽林・虎賁軍の千人余が、武人の権を抑制するよう建議した張仲瑀の家を焼き討ちし、その父兄を殴打殺害した。
任城王元澄が司徒となり、京兆王元継が司空となった。
胡太后が仏教を好み、諸寺を造営し、諸王大臣もこれに倣ったため、夫役が増加し民力は疲弊した。源子恭が諸役を軽減するよう上書して容れられたが、実際の効果がなかった。
東平王元匡が任城王元澄の奪権を議論して官爵を削られた。
任城王元澄(?-519)
宋雲がエフタル王に謁見した。
520庚子普通1臨川王蕭宏が太尉・揚州刺史となり、王份が左僕射となった。
高句麗の世子安が遣使入貢した。
達磨がインドから海路を取り広州にいたり、建康に入った。
呉均(469-520)韋叡(442-520)
神亀3
正光1
侍中の元义・衛将軍の劉騰が清河王元懌(487-520)を殺して胡太后を幽閉した。
中山王元煕が鄴で起兵したが、長史柳元章に捕らえられ、のち殺された。
高陽王元雍が丞相となり、元义とともに政務を決裁した。
汝南王元悦が侍中・太尉となった。
京兆王元継が司徒となった。
劉善明を梁に遣使し、好を結んだ。
このころグプタ朝が分裂。
柔然の伏跋可汗が殺され、弟の阿那瓌が立ったが、族兄の示発に敗れた。阿那瓌は魏に奔り、蠕蠕王として立てられた。
521辛丑普通2建康に孤独園を置き、窮民を収めて養わせた。
北魏の南荊州刺史恒叔生が来降した。
裴邃が北魏の義州刺史封寿を討ち、義州を取った。裴邃は豫州刺史に任ぜられて、合肥に鎮した。裴邃は寿陽の李瓜花の内応を得て寿陽を攻めたが失敗し、李瓜花は族誅された。
周興嗣(?-521)
正光2奚康生(468-521)が胡太后の復辟を図ろうとして、元义に捕殺された。奚康生の子の奚難当は安州に流され、のち殺された。
劉騰が司空となった。
崔光が司徒・侍中・祭酒となった。
梁の義州刺史文僧明が来降した。
河間王元琛が東益・南秦の氐を討ったが大敗した。
柔然の婆羅門が示発を破り、弥偶可社句可汗として立ったが、高車に敗れて涼州にいたり、北魏に帰順した。北魏が阿那瓌には懐朔鎮の北に、婆羅門には旧西海郡に住むように命じた。
522壬寅普通3袁昂が中書監となり、王暕が左僕射となった。
西豊侯蕭正徳が北魏に奔ったが、間もなく逃げ戻った。
王僧孺(463-522)
正光3宋雲・慧生が西域より経典百七十部をえて帰国した。
高車王伊匐が北魏に遣使入貢し、鎮西将軍・西海郡公に任ぜられた。
十一月丙午より正光暦を通行させた。
柔然の弥偶可社句可汗が北魏に叛き、魏軍に捕らえられた。
高車王伊匐が柔然に敗れ、弟の越居が伊匐を殺して立った。
523癸卯普通4袁昂がふたたび尚書令となった。
銅銭をやめて鉄銭を鋳造した。
正光4尚書令李崇・左僕射元纂が十万騎を率いて柔然の阿那瓌の侵攻を迎え、北逃した阿那瓌を追撃した。
懐荒鎮の民が懐荒鎮将于景を殺して叛乱した。また破六韓抜陵が沃野鎮の兵民を率いて鎮将を殺し叛乱した。ここに六鎮の乱がはじまった。
破六韓抜陵が部将を遣わして懐朔・武川の二鎮を攻めさせた。
劉騰(464-523)
柔然の阿那瓌が北魏の国境を侵し、平城にいたって退いた。
524甲辰普通5成景儁が北魏の睢陵を抜いた。北兗州刺史趙景悦が荊山を囲んだ。裴邃が寿陽を撃ち、また淮陽を攻め、渦陽を囲んだが、いずれも陥せなかった。
青冀州刺史王神念が北魏の河間王元琛に敗れた。
裴邃・元樹が北魏の建陵を陥し、曲木を抜いた。彭宝孫が琅邪・檀丘を抜いた。曹世宗が曲陽を抜いた。
李国興が北魏の平靖関を攻め、また楊乾が武陽関・峴関を攻め、三関ことごとく陥した。李国興は郢州を囲んだが、北魏の援軍がいたって退いた。
太子詹事周捨に代わって散騎常侍朱异が朝廷の密議に預かった。
周捨(469-524)
正光5臨淮王元彧を都督北討諸軍事とし、破六韓抜陵を討たせた。
高平鎮民の赫連恩らが叛乱し、敕勒首長の胡琛を高平王として立てた。魏将盧祖遷がこれを破り、胡琛は北逃した。
破六韓抜陵の部将が懐朔・武川の二鎮を攻めくだした。
臨淮王元彧が破六韓抜陵と五原で戦って敗れた。
李崇を持節・北討大都督として、北伐させた。
秦州の莫折大提が叛乱し、莫折大提が死ぬと、莫折念生が衆を率いた。
崔暹が李崇の命にそむいて破六韓抜陵と白道で戦い、大敗した。李崇はやむなく雲中に退いた。
秀容の首長の爾朱栄が地元の牧民の乱を鎮圧した。
元脩義が西道行台に任ぜられて莫折念生を攻めたが、病に倒れ、斉王蕭宝寅が西道行台大都督となって代わった。
河間王元琛が寿陽を救い、渦陽の囲みを解き、荊山を復した。
朔方胡が叛き、夏州刺史源子雍が囲まれ、城内は飢えた。源子雍はひとり城を抜け、北海王元顥の兵を借りて、胡軍を打ち破った。
賀拔度拔父子と宇文肱が衛可孤を襲って殺した。
元志・裴芬之が莫折天生により捕殺された。
京兆王元継が太師・大将軍・都督西道諸軍となって莫折念生を攻めた。
525乙巳普通6元法僧が北魏より来降し、朱异を遣わしてこれを迎えた。これにより彭城をえた。
豫章王蕭綜と諸将が北進した。裴邃が新蔡・鄭城を陥し、北魏の河間王元琛を破った。河南の多くの城が梁になびいた。
豫章王蕭綜が彭城に鎮し、徐州を預かって魏軍と対峙した。蕭綜は武帝に隔意を抱き、北魏に奔った。このため梁軍は潰えた。ただ陳慶之のみ軍を保全した。
曹義宗が北魏の荊州を囲み、順陽・馬圏を取ったが、北魏の征虜将軍裴衍に敗れた。順陽を奪われ、馬圏を囲まれたが、裴衍を撃退し、再び順陽を取った。
邵陵王蕭綸に非行多く、免官削爵された。
正光6
孝昌1
徐州刺史元法僧が張文伯・高諒らを殺して帝を称した。魏軍を発してこれを撃つと、元法僧は梁に降った。
崔延伯・蕭宝寅が莫折天生を撃った。崔延伯は小勢で勇戦し、魏軍は莫折天生を追撃して小隴にいたった。
河間王元琛が寿陽から出て梁軍と決戦したが大敗し、寿陽に籠もった。
安楽王元鑒が梁の元略を破ったが、元法僧に敗れた。
高陽王元雍が胡太后・孝明帝を迎えて復権させた。元义は恐懼して免位を求めたが、驃騎大将軍・尚書令・侍中としてとどまった。胡太后が再び朝議に臨んで摂政した。
柔然の阿那瓌を用いて破六韓抜陵を討ち、破六韓抜陵の部衆の多くは北魏に降り、冀・定・瀛の三州に分置して食を与えた。
胡琛が高平に拠り、部将の万俟醜奴・宿勤明達らを遣わして涇州を攻めさせた。魏将盧祖遷・伊甕生はこれを破れなかった。崔延伯は奮戦したが、宿勤明達に大敗した。
安豊王元延明・臨淮王元彧らが彭城を攻めたが、決着せず。梁の蕭綜の来降により彭城を回復し、梁軍を追撃して大勝した。
蕭綜は司空・高平郡公となり、名を賛と改めた。
柔玄鎮鎮民の杜洛周が上谷で叛乱した。
高徽がエフタルに使いし、帰還した。
臨淮王元彧が征南大将軍となり、魯陽蛮を討った。
李崇(455-525)
柔然の阿那瓌が敕連頭兵伐可汗を称した。
526丙午普通7郢州刺史元樹らが北道より黎漿を攻め、豫州刺史夏侯亶らが南道より寿陽を攻めた。
揚州刺史李憲が寿陽を降し、北魏の五十二城を取った。寿陽に豫州を置き、合肥に南豫州を置き、夏侯亶が豫南豫二州刺史となった。
曹義宗が新野に迫ったが、北魏の魏承祖・辛纂にはばまれ、進めなかった。
臨川王蕭宏(473-526)
孝昌2汝南王元悦が太尉を領した。
鮮于修礼が流民を率いて定州左人城で叛乱した。
斛律洛陽が桑乾の西で叛したが、爾朱栄に敗れた。
杜洛周が薊を掠め、梁仲礼に敗れて上谷に還った。
長孫稚が鮮于修礼に敗れた。
高陽王元雍が大司馬となり、広陽王元深が大都督となって、鮮于修礼討伐の命を受けた。
絳蜀の陳隻熾が叛し、始建王を号した。長孫稚が討蜀都督となってこれを討ち、薛脩義が陳隻熾を降した。
杜洛周が薊を掠め、于景らに敗れた。
鮮于修礼の部将の元洪業が鮮于修礼を殺し、北魏に降を請うた。葛栄が元洪業を殺して天子を称した。
爾朱栄が肆州を襲い、肆州刺史尉慶賓を捕らえた。魏朝はこれを制することができなかった。
元义(486-526)が謀反を企てていると告発されて兵権を解かれ、処刑された。
胡琛が破六韓抜陵の部将の費律に誘い殺され、万俟醜奴が継いで衆を率いた。
杜洛周が范陽を囲み、北魏の幽州刺史王延年や行台の常景を捕らえ、これを陥した。
東ゴートのテオドリック(位493-526)
527丁未普通8
大通1
徐勉が僕射となった。
彭羣・王弁が琅邪を攻めたが勝てなかった。
裴之礼が北魏の平静・穆陵・陰山の三関を陥した。
成景儁が北魏の彭城を攻めて敗れた。
同泰寺が建立され、武帝が捨身した。
成景儁が北魏の臨潼・竹邑を抜き、蘭欽が蕭城・厥固を抜いた。
譙州刺史湛僧智が、北魏の東豫州刺史元慶和を広陵で囲み降した。
曹仲宗・陳慶之らが北魏の渦陽を攻め、これを降した。
孝昌3皇甫度が司徒となり、蕭宝寅が司空となった。
蕭宝寅が涇州で敗れた。莫折念生が岐州に進出し、北海王元顥もまた敗れた。
蕭宝寅の部将の羊侃が莫折天生を射殺した。
北魏が潼関を奪回した。
葛栄が信都を囲み、源子邕がこれを防いだ。
柔然の頭兵可汗が北魏に入貢した。
蕭宝寅がひとたび官爵を削られたが、雍州刺史・西討大都督として復活した。
楽安王元鑒が鄴に拠って叛き、葛栄に降った。源子邕らが鄴を攻め、元鑒を斬った。
莫折念生が部将の杜粲に秦州で殺された。
蕭宝寅が涇州の敗北の咎めをおそれて長安で自立し、斉帝を称した。
蕭宝寅が酈道元(466?-527)を殺した。
葛栄が信都を破り、源子邕・裴衍らを殺し、相州を囲んだ。
駱超が杜粲を殺して北魏に降った。
筑紫国造磐井の乱。
528戊申大通2爾朱氏の禍を避けて、北魏の郢州刺史元顕達・汝南王元悦・臨淮王元彧・北海王元顥・北青州刺史元世儁・南荊州刺史李志・泰山太守羊侃らが次々と梁に降った。
曹義宗が北魏の荊州を囲んだ。
臨淮王元彧が北魏に帰った。
武帝は北海王元顥を魏王とし、陳慶之にその北還を送らせた。
元顥が銍城に拠った。
武泰1
建義1
永安1
北海王元顥が驃騎大将軍・相州刺史となった。
北道行台楊津が三年にわたって定州城を守ったが力尽き、杜洛周が北魏の定州・瀛州を破った。
蕭宝寅が北魏の長孫稚の軍に敗れ、部将の侯終徳に裏切られて、万俟醜奴に降った。長孫稚は車騎大将軍・雍州刺史となった。
李神軌・費穆が鞏県の李洪の乱を平定した。
葛栄が杜洛周を攻め殺し、その衆を併せた。
高歓・段栄・尉景・蔡儁らが杜洛周から葛栄につき、さらに爾朱栄についた。爾朱栄が強盛となる。
孝明帝が爾朱栄を召しだし、胡太后を牽制しようとした。
胡太后が孝明帝(位515-528)を毒殺し、元釗を擁立した。
爾朱栄が河陽にいたり、長楽王元子攸を擁立した(孝荘帝)。爾朱栄は侍中・都督中外諸軍事・大将軍・尚書令となり、太原王に封ぜられた。
爾朱栄が兵を率いて洛陽に乱入し、胡太后(?-528)・元釗を河に沈めた(河陰の変)。また高陽王元雍・司空元欽ら二千余人を殺した。
万俟醜奴が帝を称し、百官を置いた。
葛栄が鄴を囲み、その衆百万と号した。爾朱栄は七千騎を率いてこれを破り、葛栄(?-528)を捕らえ殺した。
尚書左僕射于暉が梁に降らんとする羊侃を瑕丘で囲んだが逃げられた。
上党王元天穆が大将軍・并州刺史となった。
葛栄の余党の韓楼が幽州で叛した。
達磨(?-528?)
529己酉大通3
中大通1
汝南王元悦が北還するのを許した。
陳慶之が七千人を率いて北上し、北魏の三十二城を取り、元顥を洛陽に送った。
陳慶之が爾朱栄に敗れ、剃髪して僧形で南逃した。
武帝が再び同泰寺に捨身した。群臣は銭一億を払って身受けした。
兗州刺史張景邕・荊州刺史李霊起・雄信将軍蕭進明が叛き、北魏に降った。
陳慶之を北兗州刺史とした。僧強・蔡伯龍が起兵し北徐州を陥したが、陳慶之がこれを討ち平らげた。
永安2都督丘大千が梁国に鎮して梁の陳慶之を阻んだが、敗れて降った。
楊昱が滎陽で陳慶之をはばみ、元天穆・爾朱吐没兒らが来援したが、ことごとく敗れた。
孝荘帝が河内に避難した。臨淮王元彧・安豊王元延明が元顥を洛陽に迎えた。
上党王元天穆が大梁を攻めて抜き、費穆が虎牢を攻めたが、陳慶之がいたると元天穆は逃げ、費穆はこれに降った。
爾朱栄が渡河して南下し、梁の陳慶之を破り、元顥(495-530)を捕らえ殺した。
孝荘帝が洛陽に入り、爾朱栄は天柱大将軍となった。
大都督侯淵が薊を攻め、韓楼を追捕し、幽州を平定した。
万俟醜奴が東秦州を攻めて抜いた。
ベネディクト教団の成立
530庚戌中大通2汝南王元悦を魏王とした。
元悦が北還の途につき、北魏の東徐州刺史斛斯椿を帰順させた。
元悦が爾朱兆の入洛を聞いて南逃し、斛斯椿も再び北魏に降った。
陳慶之が都督南北司西豫豫四州諸軍事・南北司二州刺史となった。懸瓠を囲み、北魏の潁州刺史婁起・揚州刺史是云宝を溱水で破り、行台孫騰らを楚城に討った。
建明1益州刺史長孫寿・梁州刺史元儁が厳始欣を捕殺し、梁の援将蕭玩を敗死させた。
下邳の呂文欽が東徐州刺史元大賓を殺して叛したが、樊子鵠がこれを討ち捕殺した。
爾朱天光を驃騎大将軍・雍州刺史とし、賀抜岳を左大都督、侯莫陳悦を右大都督として万俟醜奴を討たせた。岐州を抜き、平涼・高平にいたって万俟醜奴・蕭宝寅を捕らえた。万俟醜奴(?-530)・蕭宝寅(486-530)は洛陽に送られて処刑された。叛軍の余党の万俟道洛・王慶雲らを掃討し、三秦・河・渭・瓜・涼・鄯の諸州を次々と平定した。賀抜岳が涇州刺史、侯莫陳悦が渭州刺史となった。
吐谷渾王仏輔が西秦河二州刺史となった。
爵位をもつ胡氏をことごとく削って民とした。
孝荘帝が城陽王元徽らと謀って爾朱栄(493-530)・上党王元天穆(?-530)を殿中で誅殺した。爾朱世隆は逃亡し、建州を攻め取った。
汾州刺史爾朱兆らが晋陽で長広王元曄を擁立した。爾朱兆が大将軍、爾朱世隆が尚書令、爾朱度律が太尉、爾朱仲遠が左僕射となった。爾朱仲遠が兵を発して、西兗州で王衍を捕らえ、滑台の東で賀抜勝を降した。爾朱兆は丹谷を抜き、洛陽に入った。孝荘帝は捕らわれ、臨淮王元彧・范陽王元誨らが殺された。孝荘帝(位528-530)は晋陽に移され三級仏寺で縊殺された。
河西の紇豆陵歩蕃が秀容で爾朱兆の軍を破り、晋陽に迫ったが、爾朱兆・高歓の軍が合撃してこれを破った。
爾朱兆が高歓に命じて、葛栄の残兵を統率させ、山東で寄食させた。
531辛亥中大通3北魏の右僕射鄭先護が来降した。
昭明太子蕭統(501-531)が薨じた。朝野惋愕し、建康の男女は宮門に走り、号泣したという。
晋安王蕭綱が皇太子に立てられた。
武帝が二回にわたって同泰寺で経典を講じた。
楽山侯蕭正則が番禺を攻めようとして、広州刺史元仲景に斬られた。
北魏の南兗州が降り、元樹を都督北討諸軍事・郢州刺史として譙に鎮せしめた。
建明2
普泰1
中興1
爾朱世隆が長広王元曄(位530-531)を廃し、広陵王元恭を立てた(節閔帝)。爾朱兆は廃立の謀議に預からず、激怒した。
崔祖螭が青州七郡の兵を集めて東陽を囲んだ。
幽安営并四州行台劉霊助が燕王を称して起兵し、博陵の安国城に入った。
晋州刺史高歓が晋陽より滏口に出て、冀州に拠り、信都に入った。封隆之・高乾・李元忠らを用い、軍紀厳正であった。
長広王元曄が東海王に、魯郡王元曄が太師に、淮陽王元欣が太傅に、爾朱世隆が太保に、趙郡王元諶が司空になった。爾朱兆は天柱大将軍に任ぜられたが受けず、都督十州諸軍事を求めた。
侯淵・叱列延慶が劉霊助を討ち、これを斬った。
爾朱天光が宿勤明達を討ち、これを捕殺した。
爾朱仲遠が魏僧勗らを遣わして崔祖螭を討ち、これを斬った。
高歓が爾朱氏に叛いて信都で起兵した。
楊椿(455-531)楊津(469-531)兄弟が謀反を謀ったと爾朱世隆に誣告されて殺された。楊津の子の楊愔が高歓に投じ、行台郎中となった。
爾朱仲遠・爾朱度律が高歓を討つべく兵を発した。
高歓が孫騰の議を容れ、渤海太守の元朗を帝に擁立した(廃帝朗)。高歓が丞相・都督中外諸軍事・大将軍・録尚書事・大行台となり、高乾が侍中・司空となり、高敖曹が驃騎大将軍となった。
高歓は爾朱一族の離間を図り、爾朱仲遠は爾朱兆を疑って動かず、爾朱兆は仲遠の部将賀抜勝を捕らえた。爾朱仲遠は南遁した。
高歓が爾朱兆の軍を広阿で破った。
高歓が鄴を攻めた。
532壬子中大通4南平王蕭偉を大司馬とし、元法僧を太尉とし、袁昂を司空とした。
蕭正徳が朱异と結び、臨賀王に封ぜられた。
薛法護を司州牧とし、魏王元悦の入洛を送らせた。
元法僧を東魏王として北還させ、兗州刺史羊侃に送らせた。
北魏の乱が定まったため、元法僧を再び郢州刺史とした。
元悦が北魏に殺された。
劉勰(465?-532?)
太昌1
永興1
永煕1
高歓が鄴を抜き、相州刺史劉誕を捕らえた。
高歓が丞相・柱国大将軍・太師となり、高澄が驃騎大将軍となった。
爾朱兆と爾朱世隆は互いに猜疑して動きを阻んだ。
爾朱兆が鄴を襲ったが勝てず、高歓は爾朱兆の大軍を破り、賀抜勝・杜徳が降った。爾朱兆は晋陽に帰り、爾朱仲遠は東郡に逃げた。
爾朱世隆(500-532)が部将の賈顕智・張勧らに殺され、その首が高歓のもとに送られた。あわせて爾朱度律・爾朱天光(496-532)の身も高歓に送られ、まもなく斬られた。
爾朱仲遠が梁に降った。
斛斯椿が洛陽において、賀抜岳が長安において、高歓に降った。
高歓が節閔帝(位531-532)を崇訓仏寺に幽閉した。また元朗(位531-532)を廃し、安定王とした。平陽王元修を擁立した(孝武帝)。高歓は自ら大丞相・天柱大将軍に任じた。まもなく節閔帝は殺された。
高歓が爾朱兆を討ち、晋陽を取ってこの地に大丞相府を置いた。
安定王元朗・東海王元曄を殺した。
爾朱兆が秀容に逃げたが、都督竇泰の攻撃を受けた。
533癸丑中大通5労州刺史曹鳳・東荊州刺史雷能勝が北魏に降った。
武帝が同泰寺に御幸し、般若経を講じた。
北魏より来降した耿翔を兗州刺史とした。
何敬容が左僕射となり、謝挙が右僕射となった。
廬陵王蕭続が北魏の賀抜勝に敗れた。電威将軍柳仲礼が穀城で賀抜勝をはばんだ。
永煕2竇泰が爾朱兆の軍を追い、赤谼嶺で破った。
爾朱兆(?-533)が窮山に逃れ、樹で自縊した。慕容紹宗が残部を率いて高歓に降った。
諸行台を廃止した。
賀抜勝が都督三荊等七州諸軍事となった。
高乾が驃騎大将軍・徐州刺史となった。咸陽王元坦が司空となった。
阿至羅が高歓に降った。
高乾が高歓に殺された。
趙郡王元諶が太尉となり、南陽王竇炬が太保となった。
青州の耿翔が三斉を攻めかすめ、膠州刺史の裴粲を殺して梁に降った。
東徐州の王早らが刺史を殺して梁に降った。
済州刺史の蔡儁らが耿翔を討ち、敗走させた。
広陵王元欣を大司馬とし、趙郡王元諶を太師とし、賀抜允を太尉とした。
賀抜岳が宇文泰を洛陽に派遣し、宇文泰は武衛将軍となった。
賀抜岳が雍華等二十州諸軍事・雍州刺史となり、斛抜弥俄突や万俟受洛干、斛律沙門らがその節度を受けた。
殷州刺史の邸珍が徐州刺史となり、下邳を討った。
荊州刺史の賀抜勝が梁の雍州を攻め、刺史の蕭続を破った。
534甲寅中大通6武興王楊紹先が秦・南秦州刺史となった。
元慶和を鎮北将軍とし、東魏を討たせた。
元慶和が瀬郷で勝利した。
永煕3高歓が河西で伊利を討った。
東梁州の民が乱を起こし、行東雍州事の泉企がこれを平定した。
賀抜岳が侯莫陳悦に殺されたため、関中諸将は宇文泰を推して帥とした。宇文泰は大都督となった。
衛将軍李虎が宇文泰についた。
三月、宇文泰が侯莫陳悦を討ち、原州に入った。
李弼が宇文泰に内応し、侯莫陳悦は大敗して、野に縊死した。
宇文泰が上邽に入った。泰の軍は秋毫も犯さず。
氐王楊紹先が武興に逃げ帰り、再び武興王を称した。涼州刺史李叔仁を捕らえ、氐・羌・吐谷渾の蜂起は河西に及んだ。楊紹先は宇文泰に藩属した。
宇文泰が侍中・驃騎大将軍・関西大都督・略陽県公となった。宇文泰は、寇洛を涇州刺史に、李弼を秦州刺史に、張献を南岐州刺史とした。
孝武帝が晋陽の高歓を討とうとはかった。
宇文泰が尚書僕射・関西大行台を兼ね、馮翊長公主をめあわされた。
斛斯椿が帝の前軍として渡河しようとしたが、とどめられた。
賈顕智が高歓に降り、侯幾紹が戦死し、田怙が内応をはかって斬られ、孝武帝の軍は敗れた。
孝武帝は長安の宇文泰のもとに逃れた。
高歓が洛陽に入った。
高歓が辛雄・叱列延慶・崔孝芬らを殺した。
高歓は清河王元亶を大司馬とした。
宇文泰が大将軍・雍州刺史・尚書令となった。
高歓が潼関を攻め破った。毛鴻賓を捕らえ、薛崇礼を降した。
侯景が荊州に向かい、元穎を捕らえ、賀抜勝を敗走させた。
フランク、ブルグントを併合。
東ローマ、ヴァンダルを滅ぼす。
宇文泰が潼関を攻め、薛瑜を斬って、長安に戻った。宇文泰は大丞相となった。
宇文泰が李虎・李弼らを派遣して霊州の曹泥を攻めさせた。
孝武帝の閨房乱れ、宇文泰は平原公主を殺したので、孝武帝はこれを恨んだ。閏十二月、孝武帝(位532-534)が毒殺され、北魏が滅亡した。
独弧信が都督三荊州諸軍事となった。
樊五能が淅陽郡をもって帰順し、東魏の辛纂の攻撃を撃退した。
独弧信・楊忠が辛纂を斬った。
賀抜勝・独弧信・楊忠が東魏の高敖曹・侯景に迫られ、梁に降った。
東魏
天平1
高歓は元善見を擁立し帝とした(孝静帝)。東魏が成立する。
斉州刺史侯淵が東莱王元貴平を斬った。
趙郡王元諶を大司馬とし、咸陽王元坦を太尉とし、高盛を司徒とし、高敖曹を司空とした。
鄴に遷都した。
535乙卯大同1司州刺史陳慶之が東魏を討ち、堯雄と戦ったが、利あらず帰還した。
元慶和が東魏の南頓を攻めたが、堯雄に敗れた。
益州刺史蕭範・南梁州刺史樊文熾が晋寿を囲み、西魏の東益州刺史傅敬和が来降した。
北梁州刺史蘭欽が南鄭を攻め、西魏の梁州刺史元羅を降した。
鄱陽の鮮于琛が乱を起こしたが、鄱陽内史の陸襄が討ち捕らえた。
徐勉(466-535)
西魏
大統1
宇文泰が南陽王元宝炬を擁立し(文帝)、西魏が成立した。
李虎らが霊州の曹泥を降した。
宇文泰が都督中外諸軍・大行台となり、安定公に封ぜられた。斛斯椿が太保となり、広平王元賛が司徒となった。
乙弗氏が皇后となり、元欽が皇太子となった。
広陵王元欣が太傅となり、万俟寿洛干が司空となった。
華州刺史王羆が東魏の司馬子如の軍を撃退した。
東魏の婁昭の攻撃により、兗州刺史の樊子鵠が敗死した。
宇文泰が新制二十四条を定めた。
蘇綽を大行台左丞として用いた。
念賢が太尉となり、万俟寿洛干が司徒となり、越勒肱が司空となった。
文帝が高歓の二十罪を数えた。
念賢が太傅となり、梁景叡が太尉となった。
天平2可朱渾道元が東魏に帰順した。
稽胡の劉蠡升が天子を自称していたので、高歓がこれを破った。
大行台尚書の司馬子如が竇泰・韓軌らを率いて潼関を攻めた。さらに華州を攻めたが、王羆に敗れて退いた。
咸陽王元坦が太傅となり、西河王元悰が太尉となった。
尚書右僕射高隆之が洛陽の宮殿を撤去し、その建材を鄴に運んだ。
婁昭が兗州を攻め、東平を抜き、瑕丘を落とした。
高盛が太尉となり、高敖曹が司徒となり、済陰王元暉業が司空となった。
高歓が稽胡の劉蠡升をだまし討ちにしてその首級をえた。
封延之が青州刺史となった。前刺史の侯淵が叛いたが、斬られた。
元晏が元慶和を討った。
司空元暉業と七兵尚書薛琡が西魏に通じたとして免官された。
七万六千人を動員して鄴に新宮を造営し、また城南に城壁を築いた。
襄城王元旭が司空となった。
高洋が驃騎大将軍・太原公となった。
柔然の頭兵可汗が東魏と通婚を求め、蘭陵公主をめとった。
536丙辰大同2武帝が父の蕭順之を追福するため、皇基寺を建てようとした。孟少卿が帝に媚びるために曲阿の弘氏を冤罪に落とし、その木材を奪って寺建築に用いさせた。
三月、「山中宰相」こと陶弘景(452?-536)が亡くなった。
元法僧が太尉となった。
賀抜勝が北還の兵を挙げたが、侯景に迎撃されて敗れ、再び西魏に降った。
東魏の侯景が兵七万を率いて侵攻してきたが、南北司二州刺史の陳慶之がこれを迎撃した。
大統2霊州刺史曹泥および涼州刺史劉豊が叛いて東魏に降った。西魏の軍が霊州を囲んだが、東魏の援軍が来たり、囲みを解いた。
李叔仁が司徒となり、万俟洛が太宰となった。
司空の越勒肱が亡くなった。
万俟普・万俟洛・叱干宝楽・破六韓常らが東魏に亡命した。
扶風王元孚が司徒となり、斛斯椿が太傅となった。
この年、関中で大飢饉が発生した。
天平3高歓が自ら西魏の夏州を攻め、刺史の斛抜俄弥突を捕らえた。
阿至羅が三万騎で霊州を救援し、曹泥・劉豊を迎えた。劉豊は南汾州刺史となった。
高澄が尚書令・京畿大都督となった。
孫搴が亡くなり、陳元康が大丞相功曹となった。
阿至羅が西魏の秦州刺史万俟普を攻めた。
華山王元鷙が大司馬となった。
太尉の高盛が亡くなった。
侯景が賀抜勝を破った。
定州刺史侯景が尚書右僕射・南道行台を兼ね、諸将を率いて梁を攻めた。梁の楚州刺史桓和を捕らえ、淮上に進軍したが、陳慶之に敗れ輜重を捨てて逃れた。
尉景が太保となった。
高歓が諸軍を率いて西魏を攻め、高敖曹が上洛におもむき、竇泰が潼関におもむいた。
咸陽王元坦が太師となった。
537丁巳大同3東魏の李諧・盧元明らが梁に招聘され、武帝は二人と談じて大いに傾倒した。
蕭子顕(489-537)
大統3高歓の二度にわたる関中進攻をしりぞけた。軍を東進させて洛陽を奪った。天平4一月、高歓が関中に迫ったが、東魏の驍将竇泰が敗れて自殺したため、兵を退いた。
九月、高歓が再び関中を攻めたが、翌月に沙苑で宇文泰に敗れた。
サンタソフィア寺院の完成。
538戊午大同4大統4東魏と河南の支配を争い、洛陽の官寺民居は多くが焼かれた。西魏軍ははじめ不利だったが、のちに優勢となり、東魏の将高敖曹を殺した。
王思政をとどめて恆農を守らせ、宇文泰は引き揚げた。
元象1西魏と河南を争い、優勢をくつがえされて敗れた。百済より日本に仏教伝来す。
539己未大同5何敬容が尚書令となった。
劉孝綽(481-539)陳慶之(484-539)
大統5興和1
540庚申大同6大統6興和2新羅の法興王(位513-540)
吐谷渾が東魏と通交す。
541辛酉大同7大統7興和3東魏、調は絹四十尺をもって一匹と定めた。
542壬戌大同8大統8興和4曇鸞(476-542)
543癸亥大同9大統9東魏と虎牢を争奪し、高歓と邙山で決戦す。西魏軍は敗れて関中に敗走した。王思政をとどめて恆農を守らせた。武定1西魏と虎牢を争奪し、宇文泰と邙山で戦い、勝利をおさめた。
肆州北山に長城を築き、西は馬陵から東は土墱にいたった。
ベネディクトゥス(480-543)
544甲子大同10大統10武定2高歓の子の高澄が大将軍・中書監となり、高歓は晋陽に鎮した。
東魏は流寓者を本籍に還した。
このころ賈思勰が『斉民要術』を著した。
545乙丑大同11散騎常侍の賀琛が時政の弊を上奏して、武帝の譴責に遭った。
尚書令何敬容が免職された。
皇侃(488-545)
大統11西魏がはじめて突厥に遣使した。
宇文泰が蘇綽に命じて「大誥」を作らせた。文章を改めんと文人が競い、西魏に浮華の風がおこった。
武定3
546丙寅大同12
中大同1
武帝が同泰寺で経典を講じた。大統12蘇綽(498-546)武定4高歓が西魏の玉壁を攻めたが、韋孝寛が五十日にわたって堅守したため、撤退した。トリボニアヌス(480-546)
547丁卯太清1侯景が梁に帰順し、河南王に封ぜられた。
東魏を討つ詔を下して、貞陽侯蕭淵明が諸将を督した。梁軍は彭城に迫り、寒山にいたったが、東魏軍に敗れて蕭淵明が捕らえられた。
武帝が同泰寺に捨身した。
大統13武定5高歓(496-547)が没し、高澄が継いだ。
侯景が河南において叛き、はじめ西魏に降り、のちに梁に降った。
慕容紹宗が来攻した梁軍を撃退した。
慕容紹宗が侯景を攻め、侯景と譙城で対峙した。
楊衒之、『洛陽伽藍記』を撰す。
温子昇(495-547)
548戊辰太清2一月、侯景が東魏に敗れて残衆を率いて南走し、梁の寿陽を占拠した。
八月、侯景が梁から叛す。武帝は侯景を討つべく詔を下した。
十月、侯景が渡江し、臨賀王蕭正徳が呼応して叛した。叛軍が石頭城を陥し、建康の台城を包囲した。
十一月、蕭正徳が帝を称した。
大統14武定6
549己巳太清3三月、台城が陥落した。戦前、城内は十万余口あったが、十のうち死者は八、九という惨状であった。援軍として来ていた梁の諸軍は詔を受けて退いた。侯景が蕭正徳を廃した。
五月、武帝(位502-549)が崩じ、太子蕭綱立つ(簡文帝)。
六月、湘東王蕭繹が侯景を討つべく江陵で起兵した。侯景が蕭正徳を殺した。
朱异(483-549)蕭子雲(487-549)羊侃(495-549)
大統15このころ漢姓の鮮卑人を旧姓に復させた。武定7東魏が梁の淮南を奪った。
高澄(521-549)、蘭京らに刺殺された。
高洋、叛乱者らを殺して、相国・斉王の位を継いだ。
慕容紹宗(501~549)
550庚午大宝1西魏の侵攻に対して、湘東王蕭繹は人質を送って和を求めた。
侯景が漢王・宇宙大将軍を称した。ときに江南は旱蝗が起こり、賊が殺掠を繰り返したので、死人が野に満つ惨状となった。
王筠(482-550)庾肩吾(?-550?)
大統16西魏、梁の漢東の地を取った。
このころ、宇文泰が府兵制を立てた。
武定8南インドにカルキア朝おこる。
北斉
天保1
高洋、孝静帝から禅譲を受け、帝を称す(文宣帝)。国号は斉。北斉建国された。
551辛未天正1侯景西進し、湘東王蕭繹の遣わした王僧弁の軍に巴陵でやぶれた。
侯景、簡文帝(位549-551)を廃殺して豫章王蕭棟を擁立。その禅譲を受けるかたちで帝を称す。国号は漢。
徐擒(474-551)
大統17文帝崩じ、子の元欽立つ(廃帝)。天保2突厥の土門が鉄勒を破り、その衆を併せた。
552壬申承聖1王僧弁・陳覇先らが建康を陥し、侯景を逐った。
侯景(503-552)が瀘涜に逃れて、妻の兄にあたる羊鯤に殺された。
北斉が広陵を取ったので、陳覇先が渡江して広陵を囲んだ。
湘東王蕭繹が江陵で即位した(元帝)。
廃帝1天保3斉軍が梁の広陵を奪った。梁の陳覇先が広陵を囲んだので、これを放棄した。
北斉が長城を築き、黄櫨嶺の北から社平戌にいたった。
突厥の土門が柔然を破り、可汗を称す(伊利可汗)。
柔然の頭兵可汗は自殺し、余衆は甥の鉄伐を立てた。
553癸酉承聖2廃帝2魏軍、梁の益州を取った。天保4合肥の水軍が整ったので、建康を襲おうとしたが、東関において梁軍に敗れて挫折した。柔然が突厥に敗れ、衆を挙げて北斉に逃げこんだ。
突厥の伊利可汗が没して乙息記可汗が立ち、乙息記可汗が没して俟斤が立った(木杆可汗)。
554甲戌承聖3魏軍が江陵を陥し、梁の元帝(位552-554)は捕らえられて殺された。このとき帝は城将に命じて所蔵図籍をことごとく焼いてしまったという。
庾信が西魏に使いし、その後は北方に住んだ。
慧皎(496-554)
恭帝1宇文泰が帝元欽を廃し、斉王元廓を擁立した(恭帝)。皇室を拓跋姓に戻し、中原の大姓を鮮卑姓に改めた。
梁の巴州を取った。
于謹らが江陵を陥し、梁の元帝を捕殺す。
江陵の男女数万口を奴婢とし、三軍に分配す。
蕭詧を梁主として立て、江陵東城に鎮させた。
天保5柔然の菴羅辰が北斉に叛いたため、文宣帝が親征した。百済の聖明王(位523-554)
555乙亥天成1
紹泰1
北斉が貞陽侯蕭淵明を梁帝として立て、王僧弁はこれを建康に迎えて即位させた。
陳覇先、王僧弁(?-555)を攻めて殺し、貞陽侯を廃して、蕭方智を擁立した(敬帝)。
恭帝2蕭詧が江陵で帝を称し、西魏に藩属した(後梁)。天保6蕭淵明を梁帝として立て南に送った。
長城を築き、東は幽州の北の夏口から、西は恒州にいたった。
北斉は道士に禿髪を強要して僧とならせた。
北斉の征討をうけて柔然(蠕蠕)滅ぶ。
556丙子紹泰2
太平1
陳覇先、来攻した北斉軍を倪塘において撃破した。恭帝3西魏、『周礼』にならって六官を立てた。
宇文泰(505-556)が薨じ、子の宇文覚に跡を継がせた。甥の宇文護が軍事国事を統括した。
年末、宇文護が恭帝に禅譲を迫り、恭帝が退位して西魏が滅んだ。
天保7蕭軌らを遣わして渡江させ梁を攻めさせたが、陳覇先に破られた。
557丁丑太平2八月、陳覇先が太傅に進み、黄鉞を加えられた。
九月、陳覇先が相国となり、陳公に封ぜられ、九錫を賜った。
十月、陳覇先が陳王に進んだ。
北周
孝閔帝1
明帝1

宇文覚が天王を称し(孝閔帝)、北周が建国された。
太傅張貴が宇文護を殺そうとして、かえって殺された。
独孤信(503-557)が自殺させられた。
晋公宇文護が大冢宰となった。
孝閔帝(位557)が宇文護を除こうとして失敗し、殺害された。寧都公宇文毓が擁立されて、天王となった(明帝)。
李弼(494-557)
天保8吐谷渾が北周の涼・鄯・河三州を攻めた。

永定1
陳覇先、梁の敬帝(位555-557)を廃して自ら即位した(武帝)。国号は
558戊寅永定2王琳が梁の永嘉王蕭荘を奉じて陳に叛いた。
四月、梁の敬帝を殺害した。
五月、武帝が大荘厳寺に捨身した。
もとの高涼太守馮宝の妻洗氏が、子の馮僕を遣わして陳に入朝させた。
明帝2宇文護が太師となった。天保9文宣帝が北巡す。
559己卯永定3武帝(位557-559)崩じ、甥の陳蒨が立った(文帝)。武成1天王宇文毓がはじめて帝を称した。天保10
乾明1
文宣帝(位550-559)崩じ、太子高殷立つ(廃帝)。
560庚辰天嘉1陳軍が出兵して、北周・後梁と巴・湘を争った。武成2宇文護が明帝(位557-560)を廃し、弟の宇文邕を立てた(武帝)。乾明1
皇建1
楊愔(511-560)、常山王高演を除こうとして、事が洩れて殺された。
常山王高演が帝高殷(位559-560)を廃して自ら立った(孝昭帝)。
561辛巳天嘉2陳軍と北周の軍が対峙し、周軍が退いた。陳の江南支配が確立した。保定1陳軍と対峙し、軍中に疫病が流行したため、周軍は退いた。皇建2
太寧1
孝昭帝(位560-561)が崩じて、弟の長広王高湛立つ(武成帝)。
562壬午天嘉3北斉と和を結んだ。保定2後梁の蕭詧(位555-562)が没し、蕭巋が立った。太寧2
河清1
陳と和平を結んだ。ササン朝ホスロー1世のエジプト・アラビア遠征。
563癸未天嘉4保定3突厥と結んで北斉を攻め、晋陽に迫った。河清2
564甲申天嘉5保定4北周が北斉の洛陽を攻めた。斉の援軍に敗れて退いた。河清3段韶が晋陽で周軍を破った。
北周が洛陽を攻めたので、段韶・斛律光・蘭陵王高長恭らが救援し、周軍を破った。
山東で大水が発生し、多数の被害が出た。
565乙酉天嘉6保定5河清4
天統1
武成帝が和士開・祖珽の勧めを聞き入れ、位を太子の高緯に譲って(後主)、太上皇帝を自称した。東ローマのユスティニアヌス1世(位527-565)
566丙戌天康1文帝(位559-566)が崩じ、太子伯宗が立つ(臨海王)。文帝の弟の安成王陳頊が輔政した。天和1天統2北斉、士人を用いて県令に任ずることをはじめた。
567丁亥光大1天和2天統3祖珽が和士開と権を争い、罪をえて獄に下された。アヴァール人の王国建国。
568戊子光大2安成王陳頊が帝陳伯宗(位566-568)を廃して臨海王とした。天和3天統4北イタリアにランゴバルド王国が建国。
569己丑太建1安成王陳頊が帝位についた(宣帝)。
真諦(499-569)
天和4周軍が北斉を攻め、宜陽を囲んだ。天統5後主、祖珽をまた秘書監として任用した。
570庚寅太建2天和5武平1斛律光らが宜陽を救援し、周軍と対峙して一年を経た。斛律光が汾水の北に築城したので、周軍は囲みを解いた。和士開が尚書令となり、淮陽王に封じられた。
571辛卯太建3天和6北斉と対峙し、宜陽を取った。武平2北周と対峙し、汾州を取った。
和士開(523-571)、高儼・庫狄伏連らによって弾劾を受け、逮捕され処刑される。
後主、高儼を誅殺した。
572壬辰太建4天和7
建徳1
武帝は宇文護(495-572)の専権を忌み、宮中に召しだして誅殺した。武平3斛律光(515-572)が祖珽らの誣告を受けて殺された。
魏収(507-572)
突厥の木杆可汗(位554-572)没し、弟の侘鉢可汗が立った。
573癸巳太建5呉明徹が北斉を攻めて、淮南を回復した。建徳2武帝が群臣と沙門・道士を召しだして三教の先後を論じ、儒を先とし、道を次とし、仏を後とした。武平4後主が文林館を置き、李徳林・顔之推を同判館事とした。
祖珽が外官に出された。
後主が蘭陵王高長恭(?-573)の威名をにくみ、酖毒を与えて殺した。
574甲午太建6建徳3武帝が仏教・道教を禁止し、経典・仏像を毀させ、沙門・道士に還俗を命じた。(三武一宗の法難の二)。武平5
575乙未太建7呉明徹が北斉の彭城を攻めて呂梁において斉軍を破った。建徳4周軍が北斉に連勝したが、武帝の急病により兵を退いたため、放棄した諸城が抜かれた。武平6
576丙申太建8建徳5北斉を攻めて、平陽を陥した。平陽を囲んだ斉軍を大いに破った。
晋陽を陥し、鄴に迫った。
王褒(513-576)
隆化1後主は軍を率いて平陽を囲んだが、周軍に大敗した。後主は鄴に逃れた。
577丁酉太建9北斉が滅んだことを知った陳は、呉明徹に徐州を攻めさせ、黄河以南の地を切り取ろうとした。
慧思(515-577)
建徳6周軍が鄴を陥し、逃亡した北斉の上皇(後主)と幼主高恒を青州で捕らえた。また信都で任城王高湝を捕らえた。承光1後主(位565-577)は太子の高恒に位を譲った。
周軍に鄴を陥され、上皇(後主)と帝高恒は逃亡したが、青州で捕らえられた。北斉滅ぶ。
578戊戌太建10陳軍が彭城において大敗し、呉明徹(512-578)はじめ将士三万人が周軍に捕らえられた。宣政1武帝、突厥に遠征す。その帰途に武帝(位560-578)は病を発して崩じ、太子宇文贇立つ(宣帝)。
579己亥太建11大政1
大象1
北周の君臣が胡服を着用するのをやめ、漢魏のころの衣冠を着けるよう改めた。
洛陽を東京と改めた。
宣帝(位578-579)が太子宇文衍(静帝)に位を譲り、自身は天元皇帝を自称した。
韋孝寛が陳を攻めて、江北の地をことごとく奪った。
仏像と天尊像の禁止を解いた
ササン朝ペルシアのホスロー1世(位531-579)
580庚子太建12任忠が南豫州刺史となる。
晋安王陳伯恭が僕射となる。
北周の司馬消難を迎え、大都督・総督九州八鎮諸軍事・司空・随公とした。任忠を歴陽に、陳慧紀を南兗州に向かわせた。
淳于陵が臨江で勝利した。
魯広達が北周の郭黙城を落とし、淳于陵が祐州城を落とした。
陳紀・蕭摩訶が広陵を攻めた。
任忠が周将王延貴を歴陽で破った。
大象2天元皇帝が制を天制と改め、勅を天勅と改めた。
天元皇帝が宇文温の妻の尉遅氏と通じ、天左太皇后として迎えた。天元五皇后立つ。
天元皇帝が崩じた。天元皇帝の妻の父にあたる楊堅が左大丞相となり、黄鉞を賜り、国政を専断した。
仏・道二教を解禁した。
相州総管尉遅迥・青州総管尉遅勤・勛州総管司馬消難らが前後して起兵し楊堅に叛いた。
楊堅が趙僭王宇文招・越野王宇文盛を謀反の罪で誣告して殺した。
豫・荊・襄三州の蛮がそむいた。
司馬消難が陳に降った。
益州総管王謙が楊堅にそむき始州を攻めた。梁睿が王謙を討った。
高熲・韋孝寛が尉遅惇を破った。
韋孝寛が尉遅迥を大いに破り、鄴城を囲んだ。尉遅迥は弓を地に擲って自殺した。尉遅勤・尉遅惇は青州に逃れた。
于仲文が尉遅迥の残党を連破した。
韋孝寛が関東を平定し、鄴城を廃毀した。
漢王宇文賛を太師とし、申公李穆を太傅とし、宋王宇文実を大前疑とした。
朝廷は鮮卑姓の者は漢姓に戻すよう命じた。
竇毅が大司馬となり、斉公于智が大司空となった。
楊堅が大丞相となった。
梁睿が王謙を破り、成都に入った。王謙は新都に逃れて捕殺された。
楊堅が相国・総百揆となり、随王に封ぜられた。
韋孝寛(509-580)
突厥が北周に入貢し、千金公主を迎えた。
581辛丑太建13晋安王陳伯恭が尚書左僕射となり、袁憲が右僕射となった。
周羅睺が隋の故墅を攻めて抜き、蕭摩訶が江北を攻めた。
朝廷が広州刺史の馬靖を疑い、人質を出させた。
始興王陳叔陵と新安王陳伯固が謀反の密約を交わした。
顧野王(519-581)
大定1隋王楊堅、独孤氏を王后とし、楊勇を太子とした。吐谷渾が涼州を攻めた。
突厥の佗鉢可汗が没し、沙鉢略可汗・阿波可汗・達頭可汗ら立つ。

開皇1
楊堅、北周の静帝(位579-581)の禅譲を受けて立つ(文帝)。国号は(随)。北周滅ぶ。
隋、北周の六官を廃し、尚書・門下・内史・秘書・内侍の五省を置いた。
王后独孤氏を皇后とし、楊勇を皇太子とした。静帝を介公とした。
虞慶則が文帝に北周宗室の宇文氏誅戮を勧め、容れられた。
文帝の子の雁門公楊広が晋王となり、楊俊が秦王となり、楊秀が越王となり、楊諒が漢王となった。
晋王楊広が并州総管となり、賀若弼が呉州総管となり、韓擒虎が廬州総管となった。
汾州刺史韋沖が散騎常侍を兼ねた。
北周の静帝がひそかに殺害された。
上柱国の長孫覧と元景山を行軍元帥とし、陳を攻めさせた。
五銖銭を鋳造し、古銭や私鋳銭の使用を禁じた。
文帝が高熲・鄭訳らに新律を定めさせ、施行させた。
庾信(513-581)
582壬寅太建14正月、宣帝(位569-582)が崩じた。始興王陳叔陵が乱を起こしたが、蕭摩訶がこれを捕殺した。太子陳叔宝立つ(後主)。
長沙王陳叔堅が驃騎将軍・揚州刺史となり、蕭摩訶が車騎将軍・南徐州刺史となった。
沈氏が皇后に立った。
晋安王陳伯恭が湘州刺史となり、永陽王陳伯智が尚書僕射となった。
長沙王陳叔堅が司空を加えた。
開皇2河北道行台を并州に置き、晋王楊広を尚書令とした。西南道行台を益州に置き、蜀王楊秀を尚書令とした。秦王楊俊が河南道行台尚書令となった。
元景山が漢口に出て、鄧孝儒に甑山を攻めさせ、陸綸を破った。
大将軍韓僧寿が突厥を雞頭山で破った。
隋の新しい都城として大興城を建設した。
皇太子楊勇が咸陽に駐屯して突厥に備えた。
達奚長儒が突厥の沙鉢略可汗と奮戦して満身創痍となり、上柱国に任ぜられた。
後梁の蕭巋の娘を晋王妃に迎えた。
突厥の五可汗が隋の西北辺を寇掠した。
583癸卯至徳1長沙王陳叔堅が江州刺史となった。江総が吏部尚書となった。
長沙王陳叔堅が江州に赴任しないうちに司空に返り咲いた。

徐陵(507-583)
開皇3三月、大興城に遷都した。
二十一歳より丁とし、年役二十日、調は絹二丈を一匹と定めた。
地方の郡を廃止し、州に改めた。
吐谷渾が臨洮に来攻し、洮州刺史皮子信が敗死した。汶州総管梁遠が撃退した。
突厥のたびたびの侵攻に手を焼き、衛王楊爽を行軍元帥として、八道に分かれて進撃させた。白道において沙鉢略可汗を破った。
幽州総管李崇が、突厥の侵攻を受けて奮戦したが、敗死した。
黎陽・常平・広通に三倉を置いた。
突厥の沙鉢略可汗が隋に敗れ、突厥に内紛起こる。
584甲辰至徳2江総が僕射となった。
後主が光昭殿の前に臨春・結綺・望仙の三閣を造営させ、張貴妃はじめ夫人たちを住まわせた。
施文慶・沈客卿らが中書舎人となり、後主に重用されて実権を握った。
開皇4後梁の蕭巋が入朝し、臣礼を取った。
張賓・劉暉らが甲子元暦を作り、公布された。
虞慶則が右僕射となった。
広済渠を開き、大興城の西北から渭水を引き、東は潼関にいたった。
ビザンツ軍、コルドバを陥す。
突厥の沙鉢略可汗が隋に和親を請うた。
585乙巳至徳3豊州刺史章大宝が朝廷の派遣した新刺史の李暈を殺して叛いた。のち討伐を受けて捕殺された。
隋使の李若が来朝した。
傅縡が施文慶・沈客卿の誣告を受けて投獄され、上書して後主の怒りを買い、死を賜った。
後梁の大将軍戚昕が水軍を率いて公安に来攻したが、撃退した。
開皇5尚書左僕射高熲が左領軍大将軍となった。
度支尚書長孫平の提言により諸州に義倉を設けて凶年に備えさせた。
後梁の蕭巋(位562-585)が没し、蕭琮が立った。
沙鉢略可汗の子の庫合真が入朝した。
楊素を信州総管とした。
司農少卿の崔仲方が三万人を動員して朔方・霊武に長城を築いた。
西ゴート、スエヴィを併合。
586丙午至徳4皇弟の陳叔謨を巴東王とし、陳叔顕を臨江王とし、陳叔坦を新会王とし、陳叔隆を新寧王とした。
周磻らを隋に遣使した。
江総が尚書令となり、謝伷が僕射となった。
開皇6党項羌が降伏を請うた。
毎年暮れに刺史に入朝させ帝の考課を受けるよう定めた。
崔仲方が十五万人を動員して朔方以東の辺要の地に数十城を築かせた。
梁士彦・宇文忻らが謀反の罪で誅殺された。
楊尚希が礼部尚書となった。
山南道行台を襄州に置き、秦王楊俊を行台尚書令とした。
盧思道(535-586)
587丁未禎明1散騎常侍王亨らを隋に遣使した。
豫章王陳叔英が司徒を兼ねた。
開皇7諸州から毎年貢士三人を出すよう命じた。
十万人余を動員して長城を修築させた。
長孫晟を突厥に遣使した。
楊同を陳に遣使した。
後梁の蕭琮(位585-587)が入朝した。隋の荊州刺史慧紀が江陵に入り、文帝が梁国を廃して、後梁滅ぶ。蕭琮は莒公に封ぜられた。
文帝が江南平定のため水軍を準備させた。楊素が永安に鎮した。
物部氏、蘇我氏により滅ぼされる。
突厥の沙鉢略可汗が没し、處羅候が立った(葉護可汗)。
588戊申禎明2散騎常侍袁雅らを隋に遣使した。
周羅睺に隋の峽州を攻めさせた。
太子の陳胤を廃して呉興王とし、始安王陳深を太子とした。袁憲を尚書僕射とした。
王琬・許善心が隋に抑留された。
周羅睺を都督巴峽縁江諸軍事として、隋の楊俊をはばんだ。
隋軍が長江に迫り、袁憲らがたびたび奏請したが、江総らに抑えられて、朝議長く決せず。
開皇8散騎常侍程尚賢を陳に遣使した。
文帝が陳叔宝(陳の後主)を責める詔を下した。
淮南行省を寿春に置き、晋王楊広を尚書令とした。
征陳の戦が宣布され、諸軍はことごとく晋王楊広の節度を受けることとなった。高熲が晋王元帥長史として補佐した。
荊州刺史劉仁恩が江陵へ、蘄州刺史王世積が蘄春へ、廬州総管韓擒虎が廬江へ、呉州総管賀若弼が広陵へ出た。
秦王楊俊が漢口に鎮した。
楊素が水軍で三峽を下り、陳将の戚昕を討って敗走させた。
吐谷渾の拓跋木弥が隋に降った。
突厥の葉護可汗が没し、雍虞閭が立った(頡迦施多那都藍可汗)。
589己酉禎明3南徐州刺史黄恪が賀若弼に捕らえられた。
蕭摩訶・任忠らが迎撃作戦を上奏するが容れられず。
陳軍の士気低く、ただ魯広達のみが奮戦した。
陳の騎兵が潰乱し、蕭摩訶が捕らわる。
任忠が隋に降り、韓擒虎の軍を城内に引き入れた。
隋軍により建康を陥され、後主(位582-589)は張・孔の二妃とともに宮中の井戸に隠れていたが、捕らえられた。陳滅ぶ。
魯広達は残兵を率いて賀若弼と戦っていたが、後主が捕らえられたと聞くと慟哭した。
南康内史呂忠粛が巫峽に拠って楊素・劉仁恩あいてに奮戦したが、ついに大敗した。
周羅睺・陳慧紀らが次々と隋に降った。
開皇9賀若弼・韓擒虎の軍が渡江した。
晋王楊広が六合鎮桃葉山に駐屯した。
賀若弼が京口を落とした。
韓擒虎が姑孰を落とした。
王世積が九江で陳将の紀瑱を破った。
賀若弼の部将の員明が蕭摩訶を捕らえた。
韓擒虎が朱雀門より建康に入った。陳の後主および張貴妃・孔貴嬪を捕らえた。
賀若弼が陳の後主と面会した。
高熲がいたると、張貴妃を斬らせた。
王世積が豫章諸郡を降した。
淮南行省を廃した。
宇文述・燕栄らが陳の呉州刺史蕭瓛を討って捕らえ、長安に送った。
劉仁恩・薛胄が陳の岳陽王陳叔慎を討って捕らえ、漢口に送って秦王楊俊がこれを斬った。
新羅の僧圓光が隋に入る。
開皇9高涼の洗夫人を隋官に迎え、嶺南を平定した。これにより隋が中国を統一した。
建康の城邑・宮室を毀ち平らげ、石頭に蒋州を置いた。
晋王楊広が王韶に後事を委ねて帰還の途についた。陳の後主・太子・諸王・司馬消難らが長安に送られた。
陳の恩倖の施文慶(?-589)・沈客卿(?-589)が石闕の前で斬られた。
楊広は太尉となり、楊俊は揚州総管となった。
楊素を越公とし、高熲を上柱国・斉公とした。
賀若弼・韓擒虎が文帝の前で功を争った。韓擒虎が後主を捕らえた功で上柱国となった。賀若弼には先献十策・蒋山の功を賞した。
江総・袁憲・蕭摩訶・任忠ら、陳の旧官旧将たちに官位を与えた。
蘇威が右僕射となり、楊素が納言となった。
永州総管呂法尚が定州刺史呂子廓を討ち、これを斬った。
590庚戌開皇10李徳林が懐州刺史に左遷され、まもなく没した。
李円通や柳荘らが文帝の寵遇をうけた。
文帝は過失に対して重罪を課し、宮殿の中で人をむち打つことが多かった。高熲・柳荘が諫めたが聞き入れなかった。
軍人防府を廃止し、軍人の戸籍もひとしく州県に属させた。
五十歳以上のものに庸役を免じた。
楊素が内史令となった。
旧陳領で叛乱が頻発した。婺州の汪文進、越州の高智慧、蘇州の沈玄懀らが叛き、天子を称した。楽安の蔡道人、蒋山の李稜、饒州の呉世華、温州の沈孝徹、泉州の王国慶、杭州の楊宝英、交州の李春らが大都督を自称した。詔により楊素を行軍総管としてこれらを討たせた。
楊素・麦鉄杖が夜に長江を渡り、賊にあってこれを斬った。
楊素が京口で朱莫問を破った。進軍して晋陵の顧世興や無錫の葉略を討って平定した。沈玄懀を追ってこれを捕らえた。
楊素・来護児が水軍の奇兵を用いて高智慧を破った。高智慧は逃走した。
楊素が汪文進や蔡道人を平定した。
総管史万歳が兵二千を率いて七百余戦し、千里あまりを転戦して音信不通となった。隋の人々はみな彼が亡くなったものと思った。史万歳は竹筒に手紙を入れて水に流し、これを拾う者があって生存を知らされ、楊素は喜び、文帝も感嘆した。
楊素が温州で沈孝徹を破った。
王国慶が州を捨てて海島に潜伏した。楊素は諸将を分遣して追捕にあたった。
王国慶が高智慧を捕らえて隋に投降した。余党もことごとく降った。江南は平定された。
秦王楊広が揚州総管となり、江都に鎮した。秦王楊俊が并州総管となった。
番禺夷の王仲宣が叛いた。嶺南の首領たちの多くがこれに応じ、広州を囲んだ。高涼の洗夫人が孫の馮暄を派遣して広州を救援した。馮暄が賊将の陳仏智と馴れあったので、洗夫人は馮暄を捕らえさせた。孫の馮盎を派遣して、陳仏智を斬らせた。馮盎は慕容三蔵とともに王仲宣を討ち、これを大いに破った。
アヴァール人のフランク侵入
591辛亥開皇11吐谷渾が入朝した。
高熲の推薦により、劉曠を莒州刺史として抜擢した。
滕穆王楊瓚が暴死し、毒殺が疑われた。
吐谷渾の夸呂が没し、子の世伏が立った。
592壬子開皇12蜀王楊秀が内史令・右領軍大将軍となった。
国子博士の何妥と右僕射の蘇威が争い、蘇威が失脚した。
楊素が尚書右僕射となり、高熲とともに朝政をつかさどった。
賀若弼が獄に下った。
韓擒虎(538-592)
593癸丑開皇13文帝が岐州の北に仁寿宮を築かせ、役夫が多く死んだ。
礼部尚書牛弘らに明堂の制度を議論させた。文帝は安業里に立てさせようとしたが、諸儒の意見が異なり、とりやめた。
牛弘が祖孝孫らに雅楽を定めさせた。
慧可(487-593)
推古帝即位し、聖徳太子が摂政に。
594甲寅開皇14新楽が成ったが、万宝常が楽声淫厲と嘆いた。
公卿以下に職田を給した。
蘇威が納言となった。
関中に大干魃があって、士民の多くが飢えた。文帝は賑給を認めず、民を洛陽で食につかせた。
江総(519-594)信行(540-594)
推古帝、仏教興隆の詔。
595乙卯開皇15文帝が斉州にいたり、泰山で天を祀った。
天下の兵器を収集し、その私蔵を禁じた。
仁寿宮が完成した。役夫の死者が多数出たことに楊素が不満を漏らした。
韋世康が荊州総管となった。
596丙辰開皇16詔により死罪は三度の上奏ののち刑を執行することとした。
党項が会州を寇したので、隴西の兵にこれを討たせた。
光化公主を吐谷渾の世伏にとつがせた。
597丁巳開皇17史万歳が南寧の羌を討ち、平定した。
桂州俚の李光仕が乱を起こしたので、王世積と周法尚が討伐にあたり、李光仕を斬り、その党を降した。
「一銭でも盗めば棄市、三人で一瓜を盗めばひとしく死罪」の法を廃止した。
寵臣劉昶の子の劉居士に不法のこと多く、斬られた。
張胄玄が新暦を成し、これを公布した。
桂州の李世賢が叛し、虞慶則が桂州道行軍総管となってこれを平定した。
嶺南俚の甯猛力が欽州刺史となり、入朝したがまもなく没した。子の甯長真が刺史を継いだ。
趙什住が虞慶則を誣告し、虞慶則は死を賜った。
吐谷渾が乱れ、世伏殺され、国人は弟の伏允を立てた。
突厥の突利可汗が安義公主を迎えた。
598戊午開皇18高句麗の遼西への侵入を営州総管の韋沖が撃退した。
文帝が漢王楊諒・王世積らに水陸三十万を率いさせ、高句麗を攻めさせようとした。
延州刺史独孤陀の婢の徐阿尼が猫鬼を使って殺人を犯し、独孤皇后や楊素の妻鄭氏の病の原因になったとして、死を賜った。
漢王楊諒の軍が臨渝関を出たが、糧食乏しく、疫病に遭った。また周羅睺の率いる水軍も大風のため船の多くを失った。高句麗王が謝罪の使者を送ったため、遠征は中止された。
南寧夷の爨翫がそむいた。
智顗(538-598)
高句麗王嬰陽が遼西に侵入。
599己未開皇19突厥の突利可汗が都藍・達頭の両可汗に敗れて、長安に逃れてきた。
趙仲卿・高熲・楊素らが都藍・達頭を破った。
豫章王楊暕が内史令となった。
涼州総管王世積が皇甫孝諧の誣告により誅された。
高熲が独孤皇后に誣告されて、免官され庶民にされた。
牛弘が吏部尚書となった。
突利可汗に意利珍豆啓民可汗の称を与え、義成公主をとつがせた。
韓洪が達頭可汗に敗れた。趙仲卿が達頭を破った。
突厥の都藍可汗が部下に殺され、達頭可汗が自立して歩迦可汗を称し、西突厥が成立した。
600庚申開皇20賀若弼がまた獄に下った。
突厥の達頭可汗が侵入したので、晋王楊広・楊素が霊武道から、漢王楊諒・史万歳が馬邑道から出て討ち、これを破った。
秦王楊俊が亡くなった。
晋王楊広は楊素らと結んで独孤皇后の歓心をえた。文帝は讒言を聞いて、太子楊勇を廃した。
史万歳が廃太子の党与として誣告され、冤により処刑された。
晋王楊広が皇太子に立てられた。宇文述が左衛率となった。


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