591 | 辛亥 | 開皇11 | 吐谷渾が入朝した。 高熲の推薦により、劉曠を莒州刺史として抜擢した。 滕穆王楊瓚が暴死し、毒殺が疑われた。 | 吐谷渾の夸呂が没し、子の世伏が立った。 |
592 | 壬子 | 開皇12 | 蜀王楊秀が内史令・右領軍大将軍となった。 国子博士の何妥と右僕射の蘇威が争い、蘇威が失脚した。 楊素が尚書右僕射となり、高熲とともに朝政をつかさどった。 賀若弼が獄に下った。 韓擒虎(538-592) | |
593 | 癸丑 | 開皇13 | 文帝が岐州の北に仁寿宮を築かせ、役夫が多く死んだ。 礼部尚書牛弘らに明堂の制度を議論させた。文帝は安業里に立てさせようとしたが、諸儒の意見が異なり、とりやめた。 牛弘が祖孝孫らに雅楽を定めさせた。 慧可(487-593) | 推古帝即位し、聖徳太子が摂政に。 |
594 | 甲寅 | 開皇14 | 新楽が成ったが、万宝常が楽声淫厲と嘆いた。 公卿以下に職田を給した。 蘇威が納言となった。 関中に大干魃があって、士民の多くが飢えた。文帝は賑給を認めず、民を洛陽で食につかせた。 江総(519-594)信行(540-594) | 推古帝、仏教興隆の詔。 |
595 | 乙卯 | 開皇15 | 文帝が斉州にいたり、泰山で天を祀った。 天下の兵器を収集し、その私蔵を禁じた。 仁寿宮が完成した。役夫の死者が多数出たことに楊素が不満を漏らした。 韋世康が荊州総管となった。 | |
596 | 丙辰 | 開皇16 | 詔により死罪は三度の上奏ののち刑を執行することとした。 党項が会州を寇したので、隴西の兵にこれを討たせた。 光化公主を吐谷渾の世伏にとつがせた。 | |
597 | 丁巳 | 開皇17 | 史万歳が南寧の羌を討ち、平定した。 桂州俚の李光仕が乱を起こしたので、王世積と周法尚が討伐にあたり、李光仕を斬り、その党を降した。 「一銭でも盗めば棄市、三人で一瓜を盗めばひとしく死罪」の法を廃止した。 寵臣劉昶の子の劉居士に不法のこと多く、斬られた。 張胄玄が新暦を成し、これを公布した。 桂州の李世賢が叛し、虞慶則が桂州道行軍総管となってこれを平定した。 嶺南俚の甯猛力が欽州刺史となり、入朝したがまもなく没した。子の甯長真が刺史を継いだ。 趙什住が虞慶則を誣告し、虞慶則は死を賜った。 | 吐谷渾が乱れ、世伏殺され、国人は弟の伏允を立てた。 突厥の突利可汗が安義公主を迎えた。 |
598 | 戊午 | 開皇18 | 高句麗の遼西への侵入を営州総管の韋沖が撃退した。 文帝が漢王楊諒・王世積らに水陸三十万を率いさせ、高句麗を攻めさせようとした。 延州刺史独孤陀の婢の徐阿尼が猫鬼を使って殺人を犯し、独孤皇后や楊素の妻鄭氏の病の原因になったとして、死を賜った。 漢王楊諒の軍が臨渝関を出たが、糧食乏しく、疫病に遭った。また周羅睺の率いる水軍も大風のため船の多くを失った。高句麗王が謝罪の使者を送ったため、遠征は中止された。 南寧夷の爨翫がそむいた。 智顗(538-598) | 高句麗王嬰陽が遼西に侵入。 |
599 | 己未 | 開皇19 | 突厥の突利可汗が都藍・達頭の両可汗に敗れて、長安に逃れてきた。 趙仲卿・高熲・楊素らが都藍・達頭を破った。 豫章王楊暕が内史令となった。 涼州総管王世積が皇甫孝諧の誣告により誅された。 高熲が独孤皇后に誣告されて、免官され庶民にされた。 牛弘が吏部尚書となった。 突利可汗に意利珍豆啓民可汗の称を与え、義成公主をとつがせた。 韓洪が達頭可汗に敗れた。趙仲卿が達頭を破った。 | 突厥の都藍可汗が部下に殺され、達頭可汗が自立して歩迦可汗を称し、西突厥が成立した。 |
600 | 庚申 | 開皇20 | 賀若弼がまた獄に下った。 突厥の達頭可汗が侵入したので、晋王楊広・楊素が霊武道から、漢王楊諒・史万歳が馬邑道から出て討ち、これを破った。 秦王楊俊が亡くなった。 晋王楊広は楊素らと結んで独孤皇后の歓心をえた。文帝は讒言を聞いて、太子楊勇を廃した。 史万歳が廃太子の党与として誣告され、冤により処刑された。 晋王楊広が皇太子に立てられた。宇文述が左衛率となった。 | |