304,五胡十六国のはじまり,(地図306),310,317,東晋興る,(地図319),320,330,340,350,360,(地図368),370,380,383,淝水大戦,386,北魏興る(地図),390,(地図394),400
西暦干支事件参照
※この年表では、中国の旧暦とユリウス暦が混在しています。厳密に言うと年月がずれるものもあるかもしれません。
301辛酉西晋
永康2
永寧1
張軌が河西に拠り、涼州刺史の位を求めて任ぜられた(前涼)。
趙王司馬倫が恵帝に禅譲を迫り、帝を称した。建始と建元した。恵帝は太上皇となり、永昌宮に蟄居した。何邵が太宰となり、孫秀が侍中・中書監・票騎将軍となった。
孫秀が衛将軍張林を殺させた。
趙廞が驍勇で衆心を得ている李庠(247-301)を忌み、これを殺した。兄の李特・李流はこれを怨み、成都を攻めた。趙廞は小船で落ち延び、広都で従者に殺された。李特は成都に入り、洛陽の朝廷に報告した。
益州刺史羅尚が成都に入った。
斉王司馬冏・成都王司馬穎が司馬倫・孫秀を討つべく起兵した。
河間王司馬顒が振武将軍張方を遣わして司馬倫を助けさせた。司馬冏・司馬穎の勢いが強くなると、司馬顒は寝返って二王のほうについた。
征虜将軍張泓らが陽翟に拠って斉王司馬冏を破った。勝ちに乗じて追撃し、孫髦・司馬譚らに敗れた。
成都王司馬穎が湨水で大戦し、士猗・許超・孫会らを破った。
王輿らが孫秀を殺し、恵帝を迎えて復位させた。司馬倫(?-301)父子は誅に伏した。
斉王司馬冏が洛陽に入り、大司馬となって輔政にあたった。成都王司馬穎が大将軍・都督中外諸軍事に、河間王司馬顒が侍中・太尉になった。常山王司馬乂が長沙王に改封された。
益州刺史羅尚が流民を郷里に帰そうとした。流民は李特・李流を領袖として起兵した。
302壬戌永寧2
太安1
李特の子の李蕩が督護張亀・衙博を破った。李特は大将軍・益州牧を自称した。
東海王司馬越が司空・中書監となった。
李驤が成都を攻め、その城門を焼いた。また李驤・李流が益州刺史羅尚の軍を破った。
斉王司馬冏は驕奢で朝野の失望を高めた。河間王司馬顒が斉王司馬冏に叛いて起兵し、成都王司馬穎がこれに応じた。
長沙王司馬乂が恵帝を奉じて大司馬府を襲い、司馬冏(?-302)を殺した。
慕容廆が鮮卑宇文部の素怒延を破り、建威将軍となった。
高句麗が玄菟郡を攻めた。
303癸亥太安2益州刺史羅尚が講和と偽って李特(?-303)を襲い殺した。弟の李流が跡を継いで大将軍・益州牧を称した。
李流は督護常深・何沖らを破って成都を攻めた。李蕩が戦死した。
新野王司馬歆の為政が厳酷で、荊州義陽蛮の張昌が流民を率いて叛乱し、江夏に拠った。張昌は豫州刺史劉喬を破ったが、都督荊州諸軍事の劉弘が陶侃を大都護に起用すると、これに敗れた。
張昌の将の石冰が揚州刺史陳徽を破り、揚州諸郡に進攻した。賀循・甘卓・周玘が起兵してこれをはばんだ。
李含らが長沙王司馬乂の謀殺を図って成らず、殺された。河間王司馬顒が長沙王司馬乂に叛き、成都王司馬穎も呼応した。
司馬顒の将の張方と司馬穎の将の陸機が分進して洛陽を攻めた。陸機の軍は敗れた。司馬穎は讒言を聞きいれて、陸機(261-303)・陸雲(262-303)兄弟を殺した。
李流(248-303)が病没し、甥の李雄が大都督・益州牧に推された。李雄は急攻して羅尚を破り、成都に入った。
304甲子永安1
建武1
永興1
成都王司馬穎は長沙王司馬乂と戦ったが勝てなかった。
東海王司馬越が長沙王司馬乂を捕らえ、成都王司馬穎を京師に迎えた。
張方が司馬乂(277-304)を殺した。
司馬穎は鄴に還った。司馬穎は丞相に、司馬越は尚書令に任ぜられた。
益州刺史羅尚が江陽に逃れ、劉弘に食糧援助を求めた。
広陵度支の陳敏と周玘が石冰を破り、石冰は逃亡の末に殺された。
司馬穎が皇太弟となった。司馬顒は太宰・大都督・雍州牧となった。
司馬越が恵帝を擁して鄴を攻め、司馬穎の将の石超に敗れた。恵帝は捕らえられた。侍中嵇紹(253-304)が恵帝を守って殺された。
恵帝が鄴に入った。
司馬越が東海に逃げ帰った。
琅邪王司馬覲が薨じ、司馬睿が跡を継いだ。王導がこれを補佐した。
司馬覃が上官巳・苗願を討って、張方を洛陽に迎えた。
司馬穎が和演を幽州刺史に任じ、王浚を殺させようとした。王浚が烏桓単于の審登と結んで和演を殺した。王浚は并州刺史司馬騰・鮮卑の段務勿塵・烏桓の羯朱と連合して司馬穎を討つべく起兵した。王浚の兵は幽州より南下して、鄴に入り、殺掠をほしいままにした。司馬穎は恵帝を擁して洛陽に逃げた。
荊州の兵が義陽蛮の張昌を殺した。
張方が洛陽で朝政を専断し、恵帝に迫って長安に西遷させた。
恵帝が長安にいたった。皇太弟司馬穎が廃された。
匈奴の左賢王劉淵が大単于に推戴された。王浚らを討伐する名目で離石に入り、これを都とした。
拓跋猗他が劉淵を討ち、これを破った。
李雄が成都王を称した()。晋の法を除き、法七章を約した。李驤が太傅に、李始が太保に、李離が太尉に、李雲が司徒に、閻式が尚書令になった。
劉淵が左国城に遷都して、漢王を称した()。劉宣が丞相に、劉宏が太尉に、崔游が御史大夫になった。
これより五胡十六国の時代はじまる。
劉淵が東贏公司馬騰の部将聶玄を破った。
劉淵が劉曜を遣わして太原を寇させた。
305乙丑永興2秦州刺史張輔が隴西太守韓稚の子韓朴に討たれて敗死した。
東海王司馬越が河間王司馬顒・張方を討つべく起兵した。范陽王司馬虓・王浚らは司馬越を盟主とした。
司馬穎の故将の公師藩が起兵し、鄴を攻めたが敗れた。
司馬越は琅邪王司馬睿に命じて下邳を守らせた。司馬睿は王導を司馬とした。
劉喬が劉輿・劉琨兄弟と対立した。司馬顒は劉褒・石超らを遣わして劉喬を助けさせた。
成都王司馬穎が鎮軍大将軍・都督河北諸軍事として復活した。
劉喬が許を襲い、范陽王司馬虓・劉輿・劉琨を敗走させた。
劉琨が滎陽で石超を斬り、劉祐を譙で破り、劉喬の軍は潰えた。
陳敏が司馬越に属し、江東の兵を収めて名をなし、歴陽にいたって楚公を称した。
王戎(234-305)
涼州刺史張軌が隴西太守韓稚を討ち降した。
鮮卑の若羅抜能が涼州を寇したが、張軌が司馬の宋配を遣わして撃たせ、抜能を斬り、十万余の俘虜を得た。
劉淵が東贏公司馬騰を攻め、司馬騰は拓跋猗他に救援を求めた。
離石が大いに飢え、劉淵は黎亭に屯した。
ディオクレティアヌス(位284-305)。
306丙寅永興3
光煕1
河間王司馬顒が謀反の罪で張方を殺した。司馬顒は東海王司馬越に和解を求めたが、司馬越は許さなかった。
劉柏根が惤で叛し、王弥がこれに従った。劉柏根は王浚に討たれて斬られた。王弥は長広山に入って群盗となった。
司馬越の部将祁弘が長安に入った。麾下の鮮卑兵が殺掠をほしいままにした。司馬顒は太白山に逃れた。
祁弘が恵帝を奉じて、洛陽に帰還した。鎮西将軍梁柳が関中を守った。
司馬顒の部将馬瞻らが長安に入り、梁柳を殺した。司馬顒は長安に復帰したが、弘農太守裴廙・安定太守賈疋らに敗れ、長安城を保つのみとなった。
司馬越が太傅・録尚書事に、范陽王司馬虓が司空に、平昌公司馬模が鎮東大将軍に、王浚が驃騎大将軍・都督東夷河北諸軍事になった。
成都王司馬穎(279-306)が武関から新野に逃れたが、捕らえられた。鄴の范陽王司馬虓のもとに送られたが、司馬虓の死後に殺された。
劉琨が并州刺史となった。
恵帝(位290-306)が中毒死した。司馬越に害されたともいう。皇太弟司馬熾が立った(懐帝)。
司馬顒(?-306)が洛陽に向かう途上に新安で殺された。(八王の乱の終結)
温羨が左光禄大夫・司徒となり、王衍が司空となった。
并州で飢饉があり、諸将は吏民を率いて冀州に食を求めさせた。
范長生が成都に入り、李雄が迎えて丞相とした。
李雄が帝を称して、国号を大成とした。


307丁卯永嘉1王弥が青徐二州を寇し、征東大将軍を自称した。
顧栄・甘卓・周玘が陳敏に叛いて起兵した。陳敏は敗死した。
高密王司馬略が征南大将軍として襄陽に鎮し、南陽王司馬模が征西大将軍として長安に鎮し、東燕王司馬騰が新蔡王・都督司冀二州諸軍事として鄴に鎮した。
公師藩の余衆を汲桑が糾合し、成都王の復仇を名分に鄴を攻めて鄴宮を灰燼と帰しめた。司馬越は荀晞を遣わして汲桑を討たせた。
琅邪王司馬睿が安東将軍・都督揚州江南諸軍事として建業に鎮した。司馬睿は王導を謀主とし、顧栄・賀循・周玘らを登用した。
荀晞が東武陽で汲桑を破った。汲桑・石勒は漢に投じた。
王衍が司徒となった。
司馬越が丞相・領兗州牧・都督兗豫司冀幽并州諸軍事となった。荀晞が都督青州諸軍事・青州刺史となった。
王弥が漢に降った。
秦州の流民鄧定・訇氐らが漢中を寇し、晋の巴西太守張燕の討伐を受けた。鄧定・訇氐は成に救援を求め、李雄は李離・李雲らを援軍に送った。成軍は張燕を破り、漢中の民をことごとく蜀に移した。
慕容廆が鮮卑大単于を称した。
拓跋禄官が没し、弟の拓跋猗盧が拓跋部の主となった。
308戊辰永嘉2太傅司馬越が清河王司馬覃を殺させた。
王浚が石勒を常山で破った。
涼州刺史張軌が病にたおれ、子の張茂が州事を摂った。隴西内史張越が取って代わろうとしたが、張軌の子の張寔に討たれて鄴に逃げた。
荀晞は王弥と連戦したが、勝てなかった。
王弥が洛陽に迫り、津陽門に屯したが、北宮純が勇士百余人をつのってこれを破った。左衛将軍王秉が王弥を追撃し、七里澗で破った。
豫州刺史裴憲が白馬で王弥をはばみ、車騎将軍王堪が東燕で石勒をはばんだ。
劉琨が上党太守劉惇に壷関を攻めさせた。
劉淵が撫軍将軍劉聡ら十将を遣わして太行に拠らせた。また輔漢将軍石勒ら十将を遣わして河北・河南を侵させた。
王弥が青徐兗豫四州を寇し、許昌に入った。
王弥が伊北で晋軍を破った。洛陽に迫ったが敗れ、劉淵に迎えられた。
劉淵が平陽を陥し、蒲子に遷都した。
石勒・王弥が鄴を攻めた。
漢王劉淵が皇帝を称し、永鳳と改元した。劉和が大将軍に、劉聡が車騎大将軍に、劉曜が龍驤大将軍となった。
石勒・劉霊が魏郡・汲郡・頓丘を攻めた。
劉宣(?-308)楊褒(?-308)
309己巳永嘉3高密王司馬略が薨じ、尚書左僕射山簡が襄陽に鎮した。
王敦が楊州刺史となった。
王衍が太尉となり、司馬越が司徒を領した。
この夏、大旱があって長江・漢水・洛水ともに徒歩で渡ることができた。
劉琨が黄粛・韓述を遣わして壺関を救わんとしたが、漢軍に敗れた。
漢の劉聡をはばむため、王曠・施融・曹超を遣わしたが、長平の間で戦って敗れ、施融・曹超は戦死した。
白部鮮卑の劉虎が漢についたため、劉琨がこれを討った。
平北将軍曹武が劉聡をはばんだが敗れた。弘農太守垣延が劉聡に偽降して夜襲し、劉聡を大敗させた。
王浚が段務勿塵を遣わして石勒を飛龍山に討って破り、石勒を黎陽に退かせた。
劉聡が洛陽に迫ったが、北宮純が呼延顥を破り、孫詢が呼延朗を斬り、劉厲を水死させるなど、晋軍が優勢を示し、劉聡を退かせた。
王堪・裴憲が石勒を攻めたが勝てず、裴憲は淮南に奔り、王堪は退いて倉垣を保った。
漢の劉淵が平陽に遷都した。
漢の劉景・朱誕が黎陽を陥し、王湛を延津で破り、男女三万余を黄河に沈めた。劉淵は劉景が細民を害したことを叱責した。
漢の安東大将軍石勒が鉅鹿・常山を攻め、衆十万にいたった。石勒は知識人を集めて君子営を作り、張賓を謀主とし、刁膺を股肱とした。
王弥が漢の侍中・都督青徐兗豫荊揚六州諸軍事・青州牧となった。
王弥・劉聡・石勒が壺関を攻め、劉聡が西澗で韓述を破り、石勒が封田で黄粛を破った。
劉聡が屯留・長子を抜き、壺関を降した。
劉淵が劉聡に洛陽攻略を命じた。劉聡は曹武を破り、宜陽にいたった。驕って備えを怠り、夜襲を受けて大敗を喫した。
劉聡・王弥・劉曜・劉景らが洛陽を攻めたが、利あらず軍を還した。
天水の訇琦が成の太尉李離を殺して羅尚に降った。李驤・李雲・李璜らがこれを攻めたが勝てず、李雲・李璜は戦死した。
王弥が河南の数万家を焼いた。
石勒が信都を攻め、晋の冀州刺史王斌を殺した。
310庚午永嘉4建威将軍銭璯が揚州刺史王敦の謀殺を図り、王敦は琅邪王司馬睿のもとに逃げ込んだ。銭璯は叛し、陽羨を攻めた。郭逸・周玘が銭璯を討ち、これを斬った。周玘は呉興太守となった。
王浚の将祁弘が漢の冀州刺史劉霊を広宗で破り、これを殺した。
幽并司冀秦雍六州で蝗害が発生し、農作物に大打撃を与えた。
羅尚が巴郡で没し、皮素がこれに代わった。
雍州の流民の多くが南陽にあり、郷里に帰るのを拒んだ。王如・厳嶷・侯脱らを領袖として叛き、漢の藩を称した。
并州刺史劉琨と拓跋猗盧が連合した。
劉琨が平北大将軍となり、王浚が司空となり、段務勿塵が大単于となった。
太傅司馬越が天下に兵を募ったが応じるものなく、京師への援軍もことごとく潰えた。司馬越は兵を率いて許昌へ向かい、王衍がこれに従った。
揚州都督周馥が寿春への遷都を上書して司馬越の怒りにふれ、淮南太守裴碩に討たれた。
涼州刺史張軌が鎮西将軍・都督隴右諸軍事の位を加えた。
羅尚の子羅宇が益州刺史皮素を殺し、建平都尉暴重が羅宇を殺して、巴郡は乱れた。韓松が益州刺史となり、巴東を治めた。
荀晞が曹嶷と連戦し、青州を救った。
西域の僧仏図澄が洛陽にいたった。
漢の鎮東大将軍石勒が黄河を渡り、王弥と会して徐豫兗三州を寇した。石勒は鄄城を襲って晋の兗州刺史袁孚を殺し、倉垣を抜いて王堪を殺した。
成の太尉李国が部下の文石に殺された。巴西の地が羅尚に降った。
成の張宝が訇琦より梓潼を奪い、訇琦を巴西に奔らせた。張宝は成の太尉となった。
漢の劉聡・劉曜・石勒・趙固が晋の河内太守裴整を降した。
漢の劉淵(位304-310)が没した。太子の劉和が立った。劉聡が劉和(位310)を殺して位を奪った。
略陽臨渭の氐の首長蒲洪が護氐校尉・秦州刺史・略陽公を自称した。
漢の劉粲・劉曜・石勒が洛陽を攻めた。
石勒が晋の陳留太守王讃に敗れ、文石津に退いた。
成の太傅李驤が涪城を攻めた。
漢主劉聡が兄の劉恭を殺した。
311辛未永嘉5荀晞が曹嶷に敗れ、高平に逃れた。
荊湘二州において杜弢を領袖とした流民の叛乱が起こった。杜弢は梁益二州牧・湘州刺史を称した。
琅邪王司馬睿が甘卓を遣わして寿春の周馥を攻めさせた。周馥は敗れて項に走り、憂死した。
揚州刺史劉陶が没し、再び王敦が揚州刺史となった。
東海王司馬越が兗州刺史楊瑁・徐州刺史裴盾を遣わして荀晞を討たせた。
司馬越(?-311)が軍中に没した。王衍らがその喪を奉じて東海に向かった。王衍らは石勒に敗れて捕らえられ、王衍(256-311)と晋室四十八王は殺された。
荀晞が大将軍・都督青徐兗豫荊揚六州諸軍事となった。
暴重が氐の苻成・隗文を討ち、益州刺史韓松を殺した。益州の将吏が暴重を殺し、巴郡太守張羅が代わった。張羅が戦死すると平西司馬王異が代わった。
杜弢が長沙を抜き、零・桂を破り、武昌を攻めた。
漢軍が洛陽を攻め陥し、皇太子司馬詮・右僕射曹馥・尚書閭丘沖・河南尹劉黙らが殺された。懐帝は平陽に連れ去られた。
洛陽の陥落以来、中原の士人の多くは南遷した。
江州刺史華軼・豫州刺史裴憲が司馬睿の節度を受けず。司馬睿は王敦・甘卓・周訪を遣わして華軼を討ち、周訪が華軼を斬った。裴憲は幽州に逃れた。
石勒の軍が飢疫に遭い、沔を渡って江夏を攻め、これを抜いた。
成の太傅李驤が涪城を抜いて、譙登を捕らえた。太保李始が巴西を抜いて、文石を殺した。
石勒が新蔡・許昌を抜いた。
石勒が王衍の軍を追撃して苦県寧平城にいたった。大いに晋兵を破り、王衍と晋室諸王を捕らえた。
石勒が王衍と晋室諸王を殺させた。
漢の趙固・王桑が彭城の裴盾を攻め、これを殺した。
漢の前軍大将軍呼延晏が洛陽を攻め、劉曜・王弥・石勒らもこれに会した。
漢軍が洛陽に入り、劉曜が官民三万余を殺し、懐帝を捕らえて平陽に帰った。
漢の趙染・劉雅・劉粲・劉曜が長安を囲んだ。劉粲が晋の南陽王司馬模を捕殺した。劉曜が車騎大将軍・雍州牧・中山王となり、長安に鎮した。
関西に飢饉があり、多数の死者が出た。
石勒が荀晞を捕らえ、これを左司馬に任じた。
石勒が王弥(?-311)を殺し、その衆を併せた。また荀晞・王讃を謀反の罪で殺した。
石勒が南下して長江を臨んで軍を返し、葛陂に屯した。
慕容廆が素喜連・木丸津を討ち、遼東を定めた。
ローマでキリスト教寛容令が出された。
312壬申永嘉6胡亢が竟陵で衆を集め、楚公を称した。
代公拓跋猗盧が晋陽を救い、漢兵を敗走させた。
賈疋らが長安を囲み、漢の劉曜を破って長安を奪回した。
秦王司馬鄴が長安に入った。
漢軍が晋陽を攻め、劉琨が救援に赴いたが間に合わず、晋陽を失陥した。
賈疋らが秦王司馬鄴を奉じて皇太子とした。
代公拓跋猗盧が拓跋六脩・拓跋普根らを遣わして晋陽を攻めさせ、劉曜を汾水の東で破った。
拓跋猗盧が漢軍を追撃し、藍谷で大いに破った。
賈疋が彭天護と戦って捕殺された。
王昌・段疾陸眷らが襄国の石勒を攻めた。段疾陸眷が石勒についたため、王昌も薊に退き、王浚の勢力が衰退した。
陶侃・周訪・甘卓が杜弢を討ち、王敦が豫章に進軍した。
軍諮祭酒王澄(269-312)が王敦を侮辱して殺された。
江陽太守張啓が益州刺史王異を殺してこれに代わった。
このころ張道陵の四世の孫の張盛が龍虎山に遷り、この山を代々の居とした。
漢の鎮北将軍靳沖・平北将軍卜珝が并州を攻め、晋陽を囲んだ。
石虎が寿春を攻めたが、紀瞻に敗れた。
劉聡が晋の懐帝を会稽郡公に封じた。
石勒が渡江を図って建業を攻めたが、長雨と疫病にはばまれて北還し、襄国に拠った。
劉曜が長安で敗れ、士民を殺掠して平陽に帰った。
石勒が漢の都督冀幽并営四州諸軍事・冀州牧・上党公となった。
劉曜・劉粲が并州を攻め、晋陽を奪った。
漢の王育が太保に、王彰が太尉に、任顗が司徒に、馬景が司空に、朱紀が尚書令になった。
劉曜が拓跋六脩に敗れた。また拓跋猗盧の追撃を受けて、藍谷で大敗した。
漢が彭天護を涼州刺史に任じた。
石勒が王浚の軍に襄国を囲まれたが、石虎を遣わして段氏と盟を結び、囲みを解いた。
南安赤亭の羌の姚弋仲が楡眉に東遷した。護羌校尉・雍州刺史・扶風公を自称した。
313癸酉建興1懐帝(位306-313)が劉聡に殺された。
司馬鄴が長安で即位した(愍帝)。梁芬を司徒とし、麹允を左僕射とし、索綝を右僕射とした。
麹允が黄白城で漢軍をはばんだ。
王浚が拓跋猗盧・慕容廆とともに段疾陸眷を討とうとしたが、拓跋六脩が敗れて潰えた。
琅邪王司馬睿が左丞相・都督陝東諸軍事となり、南陽王司馬保が右丞相・都督陝西諸軍事となった。
烏桓が王浚から叛き、石勒についた。
劉琨と拓跋猗盧が陘北に会し、ともに漢を攻めたが、劉粲らにはばまれた。
祖逖が琅邪王司馬睿に請われて中原恢復のために京口より出兵した。司馬睿は祖逖を豫州刺史に任じた。祖逖は渡江して淮陽に屯した。
杜曾が胡亢を殺してその衆を併せた。
陶侃・朱伺らが杜弢を討ち、杜弢を長沙まで敗走させた。
麹允への援軍に索綝を送った。
陶侃が杜曾に敗れたが、杜弢を破って敗辱をすすいだ。
建業が建康と改称された。
周玘(258-313)
漢の劉聡が晋の旧臣と懐帝を殺した。
劉聡が劉娥を皇后に冊立し、彼女のために凰儀殿を建てようとしたが、廷尉陳元達が諫めた。劉聡は怒り、陳元達を殺そうとしたが、群臣の諫言を容れてやめた。
成の李恭・費黒が晋の西夷校尉蘭維を迎撃して破った。
漢の中山王劉曜・司隷校尉喬智明が長安を攻めた。
石勒が石虎に鄴を攻めさせ、これを陥した。
石勒が李惲を上白に攻めてこれを斬った。
石勒が孔萇を遣わして定陵を撃ち、王浚麾下の田徽を殺し、薄盛の部衆を降して、山東を定めた。
劉粲が劉琨の北進をはばんだ。
劉曜・趙染が黄白城の麹允を攻めて破った。
氐の楊虎・楊難敵が梁州を攻め破り、梁州刺史を称した。
劉曜が長安に迫ったが、勝ちに驕って備えを怠り、麹允に襲われて大敗した。
石勒が王浚に偽って内附を申し出た。
劉曜が晋の河南尹魏浚を石梁で破り、これを捕殺した。
拓跋猗盧が盛楽を北都とし、新たに平城を築いて南都とした。
ローマでキリスト教が公認(ミラノ勅令)。
高句麗が楽浪・帯方の二郡を滅ぼしてその地を併せた。
314甲戌建興2張軌が太尉・涼州牧となり、西平郡公に封ぜられた。
杜弢の将王真が陶侃を襲い、陶侃は灄中に奔った。周訪が陶侃を救い杜弢の兵を破った。
張軌(位301-314)が没し、子の張寔が涼州牧・西平公となった。
漢軍が長安を攻めたのに対して、索綝が趙染を破り、麹允が殷凱を夜襲し、張肇が劉曜を走らせて、撃退した。
劉粲が漢の丞相・大将軍・録尚書事・晋王となった。
氐の楊虎が漢中の吏民を掠めて成に奔った。梁州の張咸が起兵して楊難敵を逐い、漢嘉・涪陵・漢中の地をもって成に帰順した。
李雄が蜀に学校を興し、史官を置き、徭役と賦税を軽くした。
石勒が薊にいたり、王浚(252-314)を襲い殺した。石勒が退いた後、鮮卑の段匹磾が薊に拠った。
中原の流民数万家が慕容廆に帰順した。
劉曜・趙染が長安を攻めた。趙染は新豊城西で索綝と戦って敗れた。
趙染が北地を攻め、麹允にはばまれ、弩に当たり戦死した。
晋王劉粲が漢の相国・大単于・総百揆となった。
315乙亥建興3義興の周氏が王導に叛いて失敗した。琅邪王司馬睿はその責任を追及せず、周札を呉興太守に任じてなだめた。
司馬睿が丞相・大都督・都督中外諸軍事に、南陽王司馬保が相国に、荀組が太尉・豫州牧に、劉琨が都督并冀幽三州諸軍事になった。
拓跋猗盧を代王に封じた。
司馬睿が王運を遣わして杜弢を降し巴東監軍とした。諸将がなお攻め寄せるので、杜弢は怒り、王運を殺して再び叛した。
杜弢が杜弘・張彦を遣わして豫章を陥した。周訪が張彦を攻め殺した。杜弘は臨賀に逃れた。
陶侃が杜弢を攻め殺し、湘州を定めた。
第五猗が安南将軍・荊州刺史となり、杜曾と結んだ。
陶侃が勝ちに乗じて杜曾を攻め、石城を囲んだが、反撃され囲みを破られた。
杜曾が宛で都督荊州江北諸軍事荀崧を囲んだ。荀崧の娘荀灌が囲みを抜けて襄城太守石覧に救いを求め、周訪・石覧が荀崧を救った。杜曾は逃げ去った。
陶侃が王敦にその功を疎まれて広州刺史に左遷された。王敦の従弟王廙が荊州刺史となった。王廙は杜曾に敗れた。
王敦が広州の王機に交州の梁碩を討たせた。杜弘・温卲らが広州に拠ったが、陶侃が杜弘を討ち、王機が病死して広州は定まった。
張冰が玉璽を得て西平公張寔に献じた。張寔は長安に遣使してこれを朝廷に返した。
劉聡が靳準の二女を後宮に納め、三皇后が並び立った。陳元達がこれを諫めた。
劉曜が上党を攻め、劉琨の軍を襄垣で破った。
劉曜が北地を攻め、麹允にはばまれた。劉曜は馮翊を抜き、上郡を攻めた。
316丙子建興4代王拓跋猗盧が末子の拓跋比延を後嗣にしようとしたので、長子の拓跋六脩が拓跋猗盧を殺した。拓跋普根が拓跋六脩を殺して立ち、拓跋部は乱れて勢が衰えた。まもなく拓跋普根も没した。
麹允が磻石谷で劉曜に敗れ、北地を失陥した。
焦嵩・竺恢・宋哲・華輯が来援したが、漢軍を恐れて進まず。胡崧が劉曜の軍を霊台で破ったが、麹允・索綝をはばかって槐里に帰った。
劉曜に長安を攻められ、内外断絶し、城中は飢えに苦しんだ。ただ涼州兵のみが宮城を守った。愍帝(位313-316)は泣いて劉曜に降った。西晋が滅んだ。
愍帝は平陽に送られた。麹允は自殺し、索綝は斬られた。
劉琨が石勒に敗れ、薊に走って段匹磾を頼った。
拓跋普根の子が没し、拓跋鬱律が立った。
劉聡が後宮に遊宴して朝政を視ず、相国劉粲に政を任せ、王沈・靳準らがこれにへつらった。劉易・陳元達らが王沈を弾劾したが、劉聡は聴かず、劉易は憂死し、陳元達は自殺した。
石勒が石虎を遣わして廩丘の劉演を攻めさせた。石虎は廩丘を抜き、劉演は段匹磾の弟の段文鴦に投じた。
漢の劉曜が北地を攻め、麹允を破って、北地を取った。
劉曜が涇陽にいたり、晋の渭北の諸城はことごとく潰えた。
劉曜が長安を破り、晋の愍帝を降した。
劉曜が秦王に封ぜられた。
石勒が箕澹・衛雄を破った。
317丁丑東晋
建武1
西平公張寔が韓璞・張閬らを遣わして漢を討ち、南安で諸羌を破った。
弘農太守宋哲が建康にいたった。愍帝の詔を受けたと称し、琅邪王司馬睿が建康において晋王に上った。東晋起こる。
王敦が大将軍となり、王導が中書監・録尚書事となった。
劉琨・段匹磾・慕容廆が建康に遣使して司馬睿に帝位につくよう勧めた。また、太尉荀組・冀州刺史卲続らも司馬睿に帝位につくよう勧めたが、司馬睿は拒んだ。
祖逖が北伐して太丘・譙城にいたったが、石虎の軍にはばまれた。
段匹磾が劉琨を大都督に推し、石勒を討った。兄の段疾陸眷と叔父の段渉復辰が段匹磾に従うのを恥として離脱した。
王敦が趙誘・朱軌を遣わして鄭攀を討ち降したが、杜曾に敗れて趙誘らは戦死した。
豫章太守周訪が杜曾を大いに破った。杜曾は武当に逃れた。
漢の劉暢が滎陽を攻めたが、滎陽太守李矩に敗れた。
漢の皇太弟劉义が謀反の罪を着せられて劉粲・靳準に討たれた。
石虎が譙城の祖逖を囲んだが、晋の桓宣が来援すると退いた。
司冀并青雍の五州に蝗害が発生した。
劉聡が劉粲を漢の皇太子・相国・大単于とした。
劉聡が懐安侯司馬鄴(晋の愍帝)に行酒を命じ、晋臣の多くは哭した。司馬鄴(300-317)は平陽で殺された。
氐王楊茂捜が没し、長子の楊難敵が立った。弟の楊堅頭と兵を分かち、楊難敵は左賢王を称して下弁に屯し、楊堅頭は右賢王を称して河池に屯した。
河南王吐谷渾が没し、長子の吐延が跡を継いだ。(吐谷渾興る)
318戊寅太興1遼西公段疾陸眷が没し、叔父の段渉復辰が継いだ。段末柸が段渉復辰を襲殺し、単于を自称した。段匹磾が段末柸を討ったが敗れて薊に還った。
愍帝の訃報が建康に届き、晋王司馬睿が帝位についた(元帝)。
慕容廆が龍驤将軍・大単于となった。北方の流人の多くは慕容廆に帰順した。
耿稚らが黄河を渡って漢軍を襲い、劉粲を敗走させた。
西平公張寔が南陽王司馬保を擁立しようとしたが断念し、建康に遣使した。しかしなお建興年号を使い続けた。
王敦が江州牧を加えられ、王導が驃騎大将軍・開府儀同三司を加えられた。
劉琨(271-318)が段匹磾に縊殺された。
段末柸が幽州刺史を自称した。
刁協が尚書令となり、荀崧が左僕射となった。
漢の済南王劉驥が大将軍・都督中外諸軍事となり、斉王劉勱が大司徒となった。
成の丞相范長生が没し、李雄はその子范賁を丞相に任じた。
石勒が曹嶷を東州大将軍・青州牧に任じ、琅邪公に封じた。
拓跋鬱律が劉虎を討ち、これを破った。
漢の劉聡(位310-318)が没した。子の劉粲が立った。劉曜が相国・都督中外諸軍事となり、靳準が大将軍・録尚書事となった。
靳準が劉粲(位318)を殺し、漢天王・大将軍を称した。
劉曜が長安より出て赤壁にいたり、漢帝として立った。石勒を趙公に封じ、これとともに靳準を討った。
靳準は部下の喬泰・王騰らに殺された。靳明が平陽で擁立された。
石勒・石虎が平陽を陥し、靳明は劉曜に降った。
成の梁州刺史李鳳が叛いた。李雄は李驤を遣わしてこれを討ち滅ぼした。
319己卯太興2蘇峻が曹嶷に追われて海を渡り、建康にいたった。
祖逖が蓬関を攻めたが、石虎に敗れて梁国に退いた。
梁州刺史周訪が杜曾を破り、これを斬った。また第五猗を捕らえて武昌に送った。王敦が第五猗を斬った。
漢の劉曜が長安を都とした。羊皇后を寵愛し、国事を預けた。
南陽王司馬保が晋王を自称し、張寔を征西大将軍に任じた。司馬保は陳安に攻められたが、張寔に救援された。
石虎が鮮卑の日六延を討ち、これを大いに破った。孔萇が幽州諸郡を取り、段匹磾は楽陵に逃れた。
劉曜が国号を趙と改めた(前趙)。
石勒が趙王を称した(後趙)。
崔毖が高句麗・段氏・宇文氏と語らって慕容廆を攻めた。慕容廆は三者を分断し、宇文大人悉独官を破った。崔毖は高句麗に逃げた。
高句麗が遼東を侵したが、慕容廆は慕容翰・慕容仁を遣わして撃退し、高句麗王乙弗利に和を請わせた。
氐の蒲洪が前趙に降り、劉曜は蒲洪を率義侯に封じた。
路松多が新平・扶風で起兵し、晋王司馬保についた。秦隴の羌氐の多くが司馬保になびいた。前趙の劉曜が諸将を遣わして司馬保を攻めたが、勝てなかった。
320庚辰太興3冀州刺史卲続が段末柸を破ったが、後趙の軍に敗れて捕らえられた。
裴嶷が入朝した。慕容廆を安北将軍・平州刺史に任じた。
周顗が左僕射となった。
祖逖が後趙の兵を破った。黄河以南の多くの郡県が東晋に帰順した。
このころ、王敦が功をたのんで専横はなはだしく、「王と馬と天下を共にす」と世人に語られた。
周訪(260-320)
劉曜が陳倉・草壁を抜き、路松多を隴城に敗走させた。晋王司馬保はおそれて桑城に遷った。
段末柸が段匹磾を攻め破った。段匹磾は卲続のもとに身を寄せ、卲続とともに段末柸を破った。
後趙の石虎・孔萇が卲続を攻めた。卲続は敗れて降り、石勒は卲続を従事中郎に任じた。
前趙の洛陽鎮将の尹安・宋始らが叛いて後趙に降った。後趙の石生が洛陽に向かったが、また尹安らは叛いて、晋の司州刺史李矩に帰順した。
晋王司馬保(294-320)が部将の張春・楊次らにより殺された。司馬瞻が継いで大将軍を称したが、陳安に討たれて滅んだ。
後趙の孔萇が段匹磾を攻めたが、段文鴦に敗れた。
西平公張寔(位314-320)が部下の閻渉らにより刺殺された。牙門将の史初が閻渉らを誅した。張寔の弟の張茂が涼州刺史・西平公として立った。
巴人が前趙の劉曜に叛いて起兵し、句渠知を主とした。氐・羌・羯族の多くがこれに応じた。
劉曜は游子遠を遣わして各部を招諭させ、句氏を攻め滅ぼした。
インドのマガダ地方にグプタ朝が建国。
321辛巳太興4戴淵が征西将軍・都督司兗豫并雍冀六州諸軍事として合肥に鎮し、劉隗が鎮北将軍・都督青徐幽平州諸軍事として淮陰に鎮した。後趙を討つと称して、王敦の兵乱に備えた。
祖逖(266-321)が没し、弟の祖約が代わって豫州刺史となった。
慕容廆が都督幽平二州諸軍事・車騎将軍・平州牧となり、遼東公に封ぜられた。
西平公張茂が霊鈞台を築いた。
後趙の石虎が厭次を攻め、段文鴦を捕らえた。段匹磾は後趙に降った。後趙は幽冀并三州を併せた。段匹磾・段文鴦・邵続らは処刑された。
拓跋猗他の妻の惟氏が代王拓跋鬱律を殺して、自ら産んだ子の拓跋賀傉を立てた。惟氏は国政を握って後趙に遣使し、「女国使」と称された。
322壬午永昌1王敦が劉隗・刁協を討つことを名目に武昌で起兵した。沈充が呉興で呼応した。
譙王司馬氶が王敦を討つべく湘州で挙兵し、湘東太守鄭澹を斬った。
甘卓が襄陽で挙兵し、武昌に入った。
王敦の叔父の魏乂が長沙を攻めた。
王敦が東下して建康に入った。刁協は逃亡の末に殺され、劉隗は後趙に奔った。
王敦が周顗(269-322)・戴淵(269-322)を殺した。
甘卓が襄陽に帰り、襄陽太守周慮に殺された。
王敦が武昌に帰って朝政を牽制した。
魏乂が湘州を攻め、譙王司馬氶を捕らえた。荊州刺史王廙が司馬氶を殺した。
元帝(位317-322)が憂憤のうちに崩じた。太子司馬紹が立った(明帝)。司空王導が輔政にあたった。
後趙の中山公石虎が徐龕を攻めた。
前趙の劉曜が楊難敵を攻め、楊難敵は仇池に退いた。楊難敵は前趙に降って称藩し、益寧南秦三州牧・武都王となった。
陳安が大都督・雍涼秦梁四州牧・涼王を自称して劉曜に叛いた。
石虎が泰山を抜き、徐龕を捕らえた。
後趙が河南を攻め、襄城・城父を抜き、譙を囲んで、祖約を寿春に退けた。
張茂が韓璞を遣わして隴西・南安の地を取り、秦州を置いた。
慕容廆が子の慕容皝を遣わして段末柸を討たせた。
張賓(?-322)
323癸未太寧1王敦が姑孰に移鎮し、自ら揚州牧を領した。
新昌太守梁碩が交州刺史王諒を囲んだので、広州刺史陶侃が交州を攻め、梁碩を斬った。阮放が交州刺史となった。
郗鑒が兗州刺史・都督揚州江西諸軍事として合肥に鎮したが、王敦がこれを忌み、尚書令として建康に召喚された。
王含が征東将軍・都督揚州江西諸軍事となり、王舒が荊州刺史となり、王彬が江州刺史となった。
荀組(258-323)
成の李驤・任回が台登を攻め、晋の越雟郡・漢嘉郡を降した。
後趙が彭城・下邳を攻め、晋の徐州刺史卞敦・征北将軍王邃を盱眙に退かせた。
成の李驤が寧州を攻めたが、晋将の姚獄に敗れた。
陳安が前趙の征西将軍劉貢を南安に囲んだ。休屠王石武が来援し、劉貢と呼応して陳安を破った。陳安は隴城に退いたが、前趙の軍に囲まれ、趙将の呼延青人により捕殺された。
赤亭羌の姚弋仲が前趙の平西将軍・平襄公となった。
後趙の石虎が広固を破り、青州を取り、曹嶷を殺した。
劉曜が二十八万の大軍を率いて涼州を攻めた。張茂は前趙に称藩し、涼王に封ぜられた。
楊難敵が前趙をおそれて漢中に逃げこみ、成に降った。趙軍が退くと、再び武都に帰り、成の命に服さなかった。成の李琀・李稚らが楊難敵を攻めたが、みな敗死した。
324甲申太寧2王敦が周嵩・周莚を謀反の罪で誣告して殺し、会稽を襲って周札を殺し、呉興の周氏を滅ぼした。
明帝が王導・温嶠・庾亮・郗鑒らに命じて、王敦を討たせた。
郭璞(276-324)が王敦の乱の失敗を予言して王敦に殺された。
王敦(266-324)が没した。王敦の部将銭鳳・沈充らは劉遐・蘇峻らに敗れて死んだ。
王導が太保・司徒となった。
謝鯤(281-324)
後趙の石瞻が東莞・東海を取った。
後趙の司州刺史石生が前趙の河南太守尹平を攻め殺し、許・穎を寇したが、郭誦に敗れた。
張茂(位320-324)が没した。甥の張駿が涼州牧・西平公として立った。
代王拓跋賀傉が東木根山に築城して居を遷した。
325乙酉太寧3陶侃が都督荊湘雍梁四州諸軍事・荊州刺史となった。
郗鑒が車騎将軍・都督徐兗青州諸軍事・兗州刺史となり、広陵に鎮した。
明帝(位322-325)が崩じ、太子司馬衍が立った(成帝)。成帝は幼少のため、庾太后が朝に臨んで称制し、王導・庾亮らが輔政にあたった。
辛晏が枹罕で張駿に降った。
後趙が宇文乞得帰に官爵を与え、慕容廆を討たせた。慕容廆は慕容皝・索頭・段国らに迎え撃たせて、宇文部を大いに破った。
段末柸が没し、弟の段牙が立った。
前趙の中山王劉岳が後趙の石佗を破った。
楊難敵が仇池を奪回し、趙将田崧を殺した。
後趙の石瞻が晋の兗州刺史檀斌を攻め殺した。
後趙の石生が晋の司州刺史李矩を攻めて破り、李矩は前趙に降って救援を求めた。前趙は劉岳を送り、後趙は石虎を送った。石虎が劉岳・劉黒を破り、淮北の地は後趙のものとなった。
段牙が令支に遷り、国人に不満がつのった。段遼が段牙を殺して自ら立った。
代王拓跋賀傉が没し、弟の拓跋紇那が立った。
ニケーアの公会議。
326丙戌咸和1庾亮は蘇峻・陶侃・祖約を疑い、温嶠に命じて武昌に鎮せしめ、また石頭城を補修して備えた。
南頓王司馬宗が謀反の罪で誅殺された。
前趙の劉咸が太尉となり、劉綏が大司徒となり、卜泰が大司空となった。
後趙の石生が汝南を攻めた。
程遐の謀に従い、石勒は石弘に鄴に鎮せしめた。鄴を去った石虎は程遐を怨んだ。
後趙の石聡が寿春を攻めた。
327丁亥咸和2庾亮が蘇峻の叛意を疑い、歴陽から建康に召し出そうとしたが、蘇峻は応じなかった。
蘇峻・祖約が起兵して叛した。彭城王司馬雄・章武王司馬休が呼応した。
琅邪王司馬昱を会稽王とし、呉王司馬岳を琅邪王とした。
前趙の劉朗が仇池の楊難敵を攻めたが勝てず。
張駿が前趙の官爵を去り、晋の大将軍・涼州牧を自称した。韓璞らを遣わして前趙の秦州諸郡を攻めたが、前趙の南陽王劉胤に大敗し、張閬・辛晏が前趙に降った。
石虎が代王拓跋紇那を攻めて破り、拓跋紇那は大甯に遷って難を避けた。
拓跋翳槐が賀蘭部の庇護を受けた。拓跋紇那と宇文部がともに賀蘭部を攻めたが勝てなかった。
328戊子咸和3蘇峻が長江を渡って建康に入り、ほしいままに兵に掠奪させた。
庾亮が尋陽にいたり、温嶠・陶侃と合流して蘇峻を討った。
蘇峻は成帝に石頭に遷るように迫ったが、王導がこれを阻んだ。
後趙軍に寿春を陥され、祖約は敗走して歴陽にいたった。
陶侃の部将の彭世・李千が蘇峻(?-328)を破り、これを斬った。蘇峻の弟蘇逸が余衆を引き継いだ。
桓彝(276-328)
後趙の石堪が宛を攻め、晋の南陽太守王国を降した。
後趙の石聡・石堪が寿春を攻め陥し、晋の祖約を敗走させた。
後趙の中山公石虎が前趙を攻めたが、高侯において劉曜に敗れた。石瞻(300-328)が敗死した。
前趙の劉曜が後趙の洛陽を囲んだ。石勒は自ら出馬して洛陽に入り、石堪が劉曜を捕らえた。劉曜(位318-328)は殺された。
成の漢王李驤が没し、その子李寿が成都に還った。
329己丑咸和4甘苗が歴陽で祖約を破り、祖約は後趙に奔った。
諸軍が石頭を攻め、蘇逸・蘇碩が戦死し、叛乱は終わった。
陶侃が侍中・太尉・長沙郡公に、郗鑒が侍中・司空・南昌県公に、温嶠が驃騎将軍・儀同三司・始安郡公になった。庾亮は豫州刺史・宣城内史として蕪湖に鎮した。
温嶠(288-329)
前趙の太子劉煕が南陽王劉胤と謀って秦州を保った。
劉胤が長安に向かったが、義渠で石虎に敗れて退いた。石虎は上邽を陥し、劉煕・劉胤を捕殺した。前趙が滅んだ。
氐の蒲洪・羌の楊弋仲が石虎に降った。
隴西鮮卑の乞伏述延が苑川より夾田に遷って没し、子の乞伏傉大寒が立った。乞伏傉大寒も没して乞伏司繁が立った。
拓跋翳槐が諸部に推されて代王となった。拓跋紇那は宇文部に逃れた。
コンスタンティヌス1世が東西ローマを統一。
葉延が立ち、国号を吐谷渾とした。
330庚寅咸和5庾亮・陶侃が郭默を討って降した。
陶侃が江州刺史となり、荊江雍梁交広益寧八州を領して武昌に鎮した。
後趙の軍が襄陽に来襲し、南中郎将周撫がおそれて武昌に逃げたため、襄陽を失陥した。
後趙の石勒が大趙天王を称した。石弘が太子となり、石宏が驃騎大将軍・都督中外諸軍事・大単于・秦王となり、石虎が太尉・尚書令・中山王となった。戦功の大きい石虎は不満を抱いた。
石勒が祖約(?-330)を殺した。
張駿が後趙の使者孟毅を抑留した。
石勒が帝位についた。
後趙の郭敬が晋の襄陽を攻め陥した。郭敬は襄陽を毀ち、民を沔北に遷して樊城に鎮し、荊州刺史となった。
休屠王羌が後趙に叛いて石生に敗れた。張駿はおそれて孟毅を返し、後趙に入貢した。
ローマ帝国がコンスタンティノープルに遷都。
331辛卯咸和6郗鑒が後趙の劉徴を討った。後趙の劉徴が婁県を攻め、武進を掠した。
成の大将軍李寿が陰平・武都を攻め、楊難敵を降した。
石勒が鄴宮を再建して遷り、洛陽を南都として行台を置いた。
332壬辰咸和7陶斌・桓宣が樊城を攻め、後趙の郭敬に敗れた。
陶臻・李陽が新野を攻めて抜いた。桓宣が襄陽を奪回した。
後趙の荊州刺史郭敬が襄陽を再び取った。
郭敬が桓宣を破ったが、新野を失陥して退いた。襄陽を失った。
成の李寿・費黒が寧州を攻めた。
333癸巳咸和8朱提を失陥し、寧州刺史尹奉が成に降った。
遼東の慕容廆(269-333)が没し、子の慕容皝が平州刺史となった。
後趙の郭権が石生の残部をもって来降した。京兆・新平・扶風・馮翊・北地の諸郡がこれに応じた。
張駿の使者の耿訪が建康にいたり、張駿を鎮西大将軍に任じた。
成の大将軍李寿が朱提を抜き、董炳・霍彪を降した。
後趙の石勒(位319-333)が没し、太子石弘が立った。
後趙の石虎が右光禄大夫程遐・中書令徐光らを殺した。石聡・彭彪が晋への亡命を図ったが、石虎に殺された。
石虎が後趙の丞相・魏王・大単于となった。
成の建寧・牂柯二郡が晋についたが、李寿がこれを討ち平らげた。
氐の蒲洪が雍州刺史を自称し、張駿についた。
後趙の石生が関中で、石朗が洛陽で起兵して石虎を討とうとした。石朗は石邃に敗れて捕殺された。石生は潼関でひとたび石虎の軍を破ったが、鮮卑の渉璝の寝返りで衆散じ、雞頭山に逃れたが部下に殺された。
石虎が麻秋を遣わして蒲洪を討ち降した。石虎は秦雍の民および氐・羌十余万戸を関東に遷させた。
慕容皝の弟の慕容仁・慕容昭が慕容皝に叛いた。慕容昭は誅されたが、慕容仁は慕容皝の軍を破って遼東に拠り、段遼や鮮卑諸部の外援を得た。
334甲午咸和9郭権が鎮西将軍・雍州刺史となった。
張駿を大将軍・都督陝西雍秦涼州諸軍事に任じた。
段部が柳城に来寇したので、慕容皝は慕容汗・封奕を援軍に遣わしたが、敗れた。
郭権が後趙に攻められ、上邽の豪族に殺された。
陶侃(259-334)が没し、庾亮が代わって武昌に鎮した。
趙の徐州従事朱縦が刺史の郭祥を殺して来降した。趙将王朗に討たれて淮南に遷った。
仇池の楊難敵が没し、子の楊毅が立ち、龍驤将軍・左賢王・下弁公を自称した。
段遼が徒河を攻めたが勝てず、段蘭・慕容翰が柳城を攻めたが抜けなかった。
段蘭・慕容翰が牛尾谷で慕容汗を大いに破った。
後趙の郭敖・石斌が郭権を攻め破った。陳良夫・薄句大らが北地を騒がしたので、石斌・石韜がこれを討ち破ったが、勝ちに乗じて深追いして敗れた。石虎は郭敖を誅した。
慕容仁が平州刺史・遼東公を自称した。
成の李雄(位304-334)が没し、子の李班が立った。
成の李越が李班(位334)を殺し、弟の李期が立った。李越は成の相国・建寧王となり、大将軍李寿が大都督・漢王を加えた。
後趙の石虎が石弘(位333-334)を殺し、居摂趙天王を自称した。蘷安が侍中・太尉・尚書令となり、郭殷が司空となった。
慕容皝が慕容仁を討ち、襄平に入城した。
335乙未咸康1後趙の石虎が南遊し、十数騎で歴陽にいたったが、歴陽太守袁耽がこれを朝廷に報告するときに数を述べなかったので、建康の朝廷は大騒ぎになった。
成の李期が尹奉を右丞相とし、王瓌を司徒とした。
後趙の征虜将軍石遇が襄陽を攻めて、桓宣と戦ったが勝てず。
後趙が鄴に遷都した。
このころ石虎は仏図澄を大和尚と呼んで尊崇した。国人は多くこれに帰依した。
後趙の石斌が秦雍二州の兵をもって薄句大を平らげた。
成の羅演・上官澹が李期の謀殺をはかったが漏れ、誅された。
張駿が楊宣を遣わして亀茲・鄯善を討ち、西域諸国を服属させた。
代王拓跋紇那が復位し、拓跋翳槐は鄴に逃れて後趙の庇護を受けた。
グプタ朝のチャンドラグプタ1世(位320-335)
336丙申咸康2壬辰詔書を公布して、山丘を封土とし湖川を占有することを禁止したが、実効はなかった。
司馬勳が漢中に兵を進めたが、成の漢王李寿に敗れた。
孔坦(286-336)
慕容皝が慕容評を遣わして慕容仁を討ち、これを捕殺した。
段遼が李詠・段蘭を遣わして慕容皝を討ったが敗れた。
後趙の石虎が襄国に太武殿を作り、鄴に東・西宮を作った。
後趙で旱があり、穀物の価格が高騰し、民は労役との二重苦におちいった。
林邑で范逸が没し、范文が国を奪った。
337丁酉咸康3後趙の石虎が大趙天王を称した。
段遼が段屈雲を遣わして慕容遵を襲わせたが敗れた。
後趙の太子石邃が石虎を殺そうと図ったが、事が洩れて殺された。
安定の侯子光が仏太子を自称して杜南山に拠った。石広に討たれて斬られた。
慕容皝が燕王を称した(前燕)。
ローマのコンスタンティヌス1世(位306-337)
338戊戌咸康4段遼が段屈雲を遣わして後趙の幽州を襲わせた。幽州刺史李孟は易京に退いた。
石虎が桃豹・王華・支雄・姚弋仲を遣わして段遼を討たせた。
成の李寿が李期(位334-338)を廃して自ら立ち、国号を漢と改めた。
代の拓跋翳槐が没し、弟の拓跋什翼犍が立った。燕鳳らを用いて法律を制定させた。
339己亥咸康5庾亮が諸将を襄陽・江陵・邾城に分遣した。
王導(276-339)郗鑒(269-339)
後趙が邾城を陥し、晋の守将毛宝を戦死させた。
340庚子咸康6庾亮(289-340)が没し、代わって弟の庾翼が武昌に鎮した。代王拓跋什翼犍が雲中盛楽に都を置いた。
341辛丑咸康7燕の使者の劉翔が入朝し、江南の士大夫の驕奢なるを批判した。またかれは晋が蜀を取ることを勧めた。
土断の詔が出た。
燕王慕容皝が龍城を築いた。
342壬寅咸康8成帝(位325-342)が崩じ、弟の琅邪王司馬岳が立った(康帝)。
孔愉(268-342)
343癸卯建元1庾翼が燕王慕容皝および涼州牧張駿と結び、後趙・成漢攻撃を準備した。成漢の李寿(位338-343)が没し、太子の李勢が立った。高句麗が国内城に遷都した。
344甲辰建元2桓宣が後趙の丹水を攻めたが敗れた。
康帝(位342-344)が崩じ、子の司馬聃が立った(穆帝)。褚太后が朝に臨んで称制した。
345乙巳永和1会稽王司馬昱が輔政にあたった。
庾翼(305-345)が没し、桓温が荊州刺史となった。
後趙の石虎が洛陽の宮殿を修築させたが、動員された民の多くは逃散した。
燕王慕容皝が封裕の諫めを聞いて、貧民に土地を給した。
346丙午永和2殷浩が揚州刺史に任ぜられた。
桓温が蜀を攻めた。
後趙の石虎が「私論朝政」の法を立て、密告を奨励した。
張駿(位324-346)が没し、子の張重華が立った。
近肖古王が百済を建国した。
347丁未永和3桓温の軍が成都にいたり、李勢が降った。李勢(位343-347)が東晋に降伏し、成漢が滅んだ。
後趙が涼を攻め、謝乂に敗れた。
後趙の太子石宣が軍を率いて猟をおこない、十五郡を通りすぎて資産を使いはたした。
348戊申永和4後趙の太子石宣が廃立を恐れて、石韜を殺した。石虎は石宣を殺し、東宮衛士十余万人を涼州に流した。
前燕の慕容皝が没し、慕容儁が立った。
仏図澄(232-348)
349己酉永和5後趙の石虎が皇帝を称した。
涼州に流された衛士が梁犢を領袖として起兵した。梁犢は晋の征東大将軍を称し、潼関を出て洛陽などを攻めたが、敗死した。
石虎(位334-349)が没し、諸子が位を争った。石遵が太子石世を殺して自立した。
石冲が石遵を攻めたが、石遵の将の石閔に攻殺された。
石閔が石遵(位349)を殺し、石鑒を立てた。
石閔が多くの胡・羯族を殺し、高鼻多須の漢族も多く誤殺された。
氐の蒲洪が秦雍の流民を率いて枋頭で自立した。
350庚戌永和6石閔が石鑒(位349-350)を殺し、自立して帝を称した。本姓の冉に復し、国号を大魏とした(冉魏)。
後趙の石祇が襄国において帝を称した。
前燕の軍が南下して薊・章武・河間を取った。
氐の蒲洪が苻姓に改めた。苻洪は降人により毒殺された。子の苻健が関中に入った。
ササン朝のシャープール2世がローマのコンスタンティウスを破った。
351辛亥永和7氐の苻健が長安で天王・大単于を称し、国号を大秦とした(前秦)。
漢人と胡族があい殺掠し、中原に耕す人なき惨状になった。
羌の姚弋仲が晋に降った。
352壬子永和8殷浩が北伐し、寿春に進んだ。降将張遇が叛いて洛陽・許昌に拠り、晋軍は進めなくなった。
姚弋仲が没し、子の姚襄が寿春にいたった。姚襄と謝尚が張遇を攻めた。
晋軍が前秦に敗れた。
謝尚が許昌を取った。
秦王苻健が帝を称した。
魏の冉閔が前燕の軍に敗れた。冉閔(位350-352)は捕らえられて龍城にいたり没した。
前秦が張遇を助けて晋軍を破った。張遇らは関中に入った。
前燕の陸続が北方諸郡を取った。慕容儁が薊で帝を称した。
353癸丑永和9殷浩ら晋軍が姚襄を先鋒とし、洛陽を目指して進軍した。姚襄が叛し、山桑で晋軍は敗れた。前涼の張重華(位346-353)が没し、子の張耀霊が立った。張重華の庶兄にあたる張祚が張耀霊(位353)を廃して自ら立った。
354甲寅永和10桓温の請願を容れ、殷浩を廃して庶人とした。晋の政権は桓温の手に帰した。
桓温は前秦を攻めて灞上にいたったが、糧食の欠乏で兵を退いた。このとき桓温と王猛が会見し、桓温は王猛に同行を求めたが王猛は断った。
前涼の張祚が涼王を称し、はじめて自立した年号を用いた。
姚襄が前燕に遣使してこれに降った。
謝艾(?-354)
355乙卯永和11前秦の苻健(位351-355)が没し、子の苻生が立った。苻生は多くの大臣諸人を殺した。
前涼で内乱が起こり、張祚が張耀霊を殺し、宋混が張祚(位353-355)を殺した。宋混と張瓘が張玄靚を立てた。前涼は再び晋の建興年号を使いはじめた。
ミラノの公会議。
356丙辰永和12桓温が洛陽への遷都を上奏したが、朝廷に容れられなかった。
桓温が姚襄を許昌で破った。
桓温が洛陽を恢復し、諸帝の陵墓を修復した。
殷浩(?-356)
姚襄が桓温に敗れて襄陵に逃れた。奈勿王が新羅を建国した。
357丁巳升平1穆帝が親政を開始した。姚襄が関中に入って敗死した。弟の姚萇が前秦に降った。
前秦の東海王苻堅が苻生(位355-357)を殺して自ら立ち、大秦天王を称した。
前燕が鄴に遷都した。
358戊午升平2会稽王司馬昱が謝万を豫州刺史に推挙し、桓温に対抗させた。
王洽(323-358)
前燕の慕容儁が前秦・東晋を攻めた。
359己未升平3謝万・郗曇が前燕を攻めた。
郗曇が病を理由に彭城まで退き、謝万も恐れて撤兵したので、戦線は崩壊した。
前燕が東晋の軍を破り、許昌を陥した。
前秦の苻堅は王猛を登用して京兆尹とした。
前涼の張玄靚が王号を去り、涼州牧を称した。
360庚申升平4謝安が桓温の召喚に応じて司馬となった。前燕の慕容儁(位348-360)が没し、子の慕容暐が立った。
匈奴の劉衛辰が前秦に降った。
361辛酉升平5穆帝(位344-361)が崩じ、成帝の子の司馬丕が立った(哀帝)。前秦の苻堅が孝廉・文学・政事を挙げて任じた。
匈奴の劉衛辰が前秦に叛いて代についた。
362壬戌隆和1桓温が再び洛陽への遷都を求めた。前秦の苻堅が太学で諸生・博士と経書を論じた。
363癸亥興寧1桓温が侍中・大司馬・都督中外諸軍・録尚書事を加えられた。
葛洪(283-363)
前涼の張天錫が甥の張玄靚(位355-363)を殺して自ら立った。ローマのユリアヌスがササン朝と戦い、クテシフォンを包囲。退却途中に戦死した。
364甲子興寧2三月庚戌、桓温の主導のもと、戸口が大規模に調査され、民が現地の戸籍に編入された(庚戌の土断)。
建康に瓦官寺創建。
沈勁が孤軍で洛陽を守った。
前燕の李洪が河南に出兵して東晋と争い、許昌・汝南・陳郡を奪った。
前秦の苻堅が張天錫を大将軍・涼州牧に任じた。
前秦の苻騰が叛乱したが、敗死した。
百済が倭に遣使した。
365乙丑興寧3桓温が姑孰に移鎮した。
哀帝(位361-365)が長生薬を飲んで崩じ、琅邪王司馬奕が立つ(廃帝海西公)。
梁州刺史司馬勳が梁益二州牧・成都王を自称した。
劉衛辰が代に叛き、代王拓跋什翼犍がこれを討った。
前燕の慕容恪・慕容垂の軍が洛陽を陥し、沈勁を殺した。
前秦の苻堅が匈奴の叛乱を討った。
366丙寅太和1朱序・周楚が司馬勳を攻めて捕らえ、桓温がこれを殺した。
支遁(314?-366)
前秦の王猛・楊安・姚萇らが荊州を寇掠した。
前涼の張天錫が前秦と絶縁した。
楽導らにより、敦煌の莫高窟の造営はじまる。
367丁卯太和2荊州刺史桓豁らが宛を攻めて落とした。
郗愔が北府を領し、京口に鎮した。
前涼が前秦に侵攻したが、姚萇・王猛が涼軍を撃退した。
前燕の皇伯慕容恪が薨じて前燕揺らぐ。
前秦の晋公苻柳・趙公苻隻・燕公苻武ら叛す。
368戊辰太和3前秦の苻堅が、楊成世・毛嵩に上邽・安定を討たせ、王猛・鄧羌に蒲阪を攻めさせ、楊安・張蚝に陝城を攻めさせた。
前燕の慕容恪が病にたおれ、慕容垂が侍中・車騎大将軍となった。
前秦の寧朔将軍呂光が趙公苻隻・燕公苻武を大いに破った。
晋公苻柳は鄧羌の夜襲を受けて敗れた。王猛が蒲阪を抜き、苻柳を捕殺した。
前燕の尚書左僕射悦綰が貴族・豪族が隠匿私物化した戸口二十余万を摘発した。
王猛らが陝城を陥し、前秦の内乱が平定された。
仇池公楊世が前秦の臣を称し、南秦州刺史に任ぜられた。
369己巳太和4桓温が歩騎五万を率いて前燕を攻めた。姑孰を発して湖陸を抜き、慕容厲・傅顔らを破った。枋頭にいたったが形勢が不利となったため退却した。襄邑・譙で追撃を受けて大敗した。桓温の北伐に対して、前燕の慕容垂はこれをはばみ、前秦は燕を援けた。晋軍は兵糧が尽きて退却し、燕・秦の軍はこれを追撃して大勝をおさめた。
前燕の呉王慕容垂、太傅慕容評や太后可足渾氏の忌避を受けて前秦に奔った。
前秦は前燕の違約を責め、洛陽を攻撃した。
高句麗、百済を攻めて敗れる。
370庚午太和5桓温が袁瑾を討って寿春に囲んだ。
広漢で李弘が叛乱し、聖王を称した。
前秦、洛陽を陥した。兵を進めて鄴を破り、慕容暐(位360-370)を捕らえた。前燕滅ぶ。
苻堅、王猛を都督関東六州諸軍事に任じて鄴に鎮せしむ。
371辛未咸安1袁瑾・朱輔は前秦に救援を求めた。桓温は寿春を陥して二人を捕らえた。
桓温は帝司馬奕(位365-371)を廃して海西県公に封じ、会稽王司馬昱を擁立した(簡文帝)。
孫綽(314-371)
前秦、関東の豪族と諸夷を関中に遷す。
前秦は仇池公楊纂を討った。
王猛が張天錫を討ち、前涼は再び前秦に藩属した。
苻堅、鄴の西山に狩猟を楽しみ、王洛に諫められた。
隴西鮮卑の乞伏司繁、前秦に敗れて降った。
百済が高句麗を攻めて故国原王を殺した。
吐谷渾が前秦に遣使した。
372壬申咸安2庾希・庾邈らが桓温に叛いて起兵したが敗れた。
簡文帝(位371-372)崩じ、太子司馬曜立つ(孝武帝)。
前秦は旧燕の諸王をことごとく辺郡に出した。
前秦は王猛を丞相・中書監・尚書令に任じた。
前秦の都督北蕃諸軍事・鎮北大将軍の朔方桓侯梁平老が没した。
373癸酉寧康1桓温が九錫を求めたが、吏部尚書の謝安と侍中の王坦之が引き延ばしているうちに、桓温(312-373)は病没した。弟の桓冲が代わって揚・豫二州の刺史に任ぜられ、姑孰に鎮した。代王の拓跋什翼犍が前秦に遣使した。
前秦が王統・朱肜らを遣わして東晋を攻めさせ、漢中・剣閣・江陵を抜き、梁・益二州を攻め取った。
隴西鮮卑の勃寒が隴右を侵したので、前秦は乞伏司繁にこれを討たせた。
374甲戌寧康2王坦之が都督徐・兗・青三州諸軍事となり、徐・兗二州の刺史を領して、広陵に鎮した。
竺道潜(286-374)
蜀人の張育・楊光が前秦に叛いて起兵した。前秦は鄧羌を遣わして鎮圧させた。
朱肜・趙整らが鮮卑族を誅することを請うたが、苻堅は聞き入れなかった。
拓跋什翼犍が劉衛辰を討った。
フン族、ヴォルガ川を渡り、ゴート族に迫った。
375乙亥寧康3桓冲が謝安に揚州を譲り、徐州刺史として京口に鎮した。前秦の丞相王猛(325-375)が病没した。苻堅はかれの死にのぞんで三哭した。
苻堅、老荘と図讖の学を禁じた。
ゲルマン民族大移動の開始。
376丙子太元1桓冲は徐州刺史の任を解かれ、姑孰に移鎮した。
謝安が中書監・録尚書事を加えられた。
袁宏(328-376)
前秦、前涼を攻めて張天錫(位363-376)を降した。前涼滅ぶ。張天錫は帰義侯に封ぜられた。
劉衛辰が救援を求めたため、苻堅は苻洛を遣わして代を攻めた。拓跋什翼犍が庶子に殺されたため、代が滅ぶ。前秦が華北を統一した。
乞伏司繁が没し、子の乞伏国仁が継いだ。
377丁丑太元2桓冲が荊州刺史に任ぜられた。
謝玄が兗州刺史・広陵相・都督江北諸軍事となった。劉牢之を参軍とし、北府を領した。
桓豁(320-377)、郗超(336-377)
高句麗・新羅、前秦に入貢す。
378戊寅太元3秦軍が襄陽に来寇したが、朱序の母の韓氏らが襄陽に内城を築いて守ったので、ここから襄陽の夫人城の称が生まれた。前秦は苻丕・苟萇・慕容暐らを遣わして襄陽を攻めた。
慕容垂が南陽を抜いて、襄陽包囲に加わった。
前秦の倶難・毛盛・邵保らが、淮陽・盱眙を攻めた。
豫州刺史苻重が洛陽で謀反し、呂光がこれを捕らえて長安に送ったが、苻堅はこれを許した。
西ゴート族の南下、アドリアノープルの戦い。
379己卯太元4冠軍将軍劉波、襄陽の援軍に向かったが秦軍を恐れて進まず。襄陽を失陥した。
謝玄、三阿を救い、秦兵を破って盱眙・淮陰を回復した。
王羲之(321-379)
前秦、東晋の襄陽を陥し、守将の朱序を捕らえた。また沙門の道安を連行した。
蜀人の李烏の乱を呂光が鎮圧した。
秦軍、彭城・淮陰・魏興・盱眙を陥し、三阿を囲んだ。謝玄に敗れて盱眙・淮陰を奪回された。
ササン朝ペルシアのシャープール2世(位309-379)
380庚辰太元5朝廷が秦兵をしりぞけた謝安・桓冲の功を讃えた。
九真太守の李遜が交州で叛した。
苻堅、氐族十五万戸を各地の方鎮に分散させた。サンピエトロ大寺院の完成。
381辛巳太元6李遜が杜瑗に斬られて交州が平定された。
慧遠が盧山に入り、蓮社を建てた。
この年、江東に飢饉があった。
東西六十二カ国が前秦に入貢した。
前秦の都貴・閻振・呉仲らが東晋の竟陵を攻めたが、桓石虔・桓石民らに敗れた。
コンスタンティノープル公会議。
アラリックが西ゴート王として即位。
382壬午太元7桓冲が朱綽を遣わして襄陽を攻めさせた。幽州で蝗害が発生し、散騎常侍劉蘭が幽・冀・青・并の民を動員してこれを駆除させた。
苻堅が東晋進攻を朝廷で議論した。群臣はこれを諫めた。
383癸未太元8五月、桓冲が兵十万を率いて襄陽を攻めた。また楊亮が蜀を攻めて五城を抜き、涪城に迫った。
前秦軍が来攻し、謝石・謝玄・謝琰・桓伊が八万人を率いてこれをはばんだ。
十一月、劉牢之が抵洛澗で前秦軍を破った。
謝玄・謝琰・桓伊ら、淝水で前秦百万の軍と大戦し、前秦軍を大いに破った(淝水の戦い)。謝安は戦捷を聞いて下駄の歯を折ったのも気づかず喜んだという。
寿陽を奪回した。
正月、前秦の呂光が兵を率いて西域に赴いた。
六月、慕容垂が襄陽へ、張蚝・姚萇が涪城へ援軍に赴き、これを救った。
七月、苻堅が征晋の詔勅を下した。八月、戎卒六十余万、騎二十七万を率いて長安を発した。
九月、苻堅が項城にいたり、苻融が三十万人を率いて穎口にいたった。十月、苻融が寿陽を陥し、朱序をつかわして、晋軍に降伏を勧告した。
十一月、淝水で大戦し、前秦軍は大敗を喫す。苻融は殺され、朱序・張天錫・徐元喜は東晋に帰順した。諸軍崩壊するなか、慕容垂のみ軍士を保全した。
十二月、苻堅が長安に帰還した。乞伏国仁が隴西で、慕容垂が河内で前秦に叛した。
西域の焉耆などが呂光に降った。
グラチアヌス、リヨンで暗殺さる。
384甲申太元9前秦の乱れに乗じて兵を発して北上させた。
劉牢之は譙城を抜いた。桓冲は郭宝を遣わして魏興・上庸・新城を攻めさせた。楊佺期は梁州を奪い、蜀を攻めた。謝玄は黄河北岸の黎陽までいたった。
桓冲(328-384)習鑿歯(?-384?)
慕容垂自立し、大将軍・燕王を称し、鄴を攻めた(後燕)。関東六州の郡県は多く後燕に降った。
慕容泓自立して長安を攻め、都督陝西諸軍事・大将軍・雍州牧・済北王を自称す(西燕)。慕容沖が河東で竇衝に敗れ、慕容泓を頼った。
姚萇、慕容泓の討伐を命じられたが大敗し、苻堅の怒りを恐れて渭北に遁走した。羌族の盟主となり、大将軍・大単于・万年秦王を称し、白雀と建元した(後秦)。
慕容泓(位384)が部下に殺され、慕容沖が継いだ。
呂光、亀茲・温宿などの兵を破り、西域三十余国を降した。
苻堅、前燕主だった慕容暐を殺した。
苻丕が東晋に鄴を救うよう援軍を求めた。
東晋から百済へ仏教が伝わる。
385乙酉太元10劉牢之が鄴を攻囲する後燕の軍を破り、鄴の囲みを解いた。さらに追撃したが利なく、帰還した。
任権が成都を攻めて抜き、益州を回復した。
謝安(320-385)
苻堅、西燕の慕容沖に敗れて長安を脱出した。慕容沖は帝を称した。関中は大乱となり、千里にわたって無人境となった。
姚萇、苻堅(位357-385)を捕らえて仏寺で縊り殺した。苻丕が晋陽で即位し、前秦を継いだ。
呂光、姑臧にいたり、涼州を根拠とす。鳩摩羅什が呂光に従って涼州にいたった。
乞伏国仁が自立し、大都督・大将軍・大単于・領秦河二州牧を自称した(西秦)。
後燕の慕容農が龍城にいたり、遼西を経営した。燕主慕容垂が中山を都とした。
道安(312-385)
386丙戌太元11翟遼が譙を攻めたので、朱序がこれを撃退した。
王献之(344-386)

北魏
登国1
拓跋珪、牛川で代王を称し、登国と建元した(北魏)。
後燕の慕容垂が帝を称した。
西燕の慕容沖(位384-386)が左将軍韓延に殺され、段随が燕王に立てられた。
拓跋珪が定襄から盛楽に遷り、国号を魏と改めた。
西燕の段随(位386)が慕容永・慕容恒らに殺された。宜都王慕容顗が燕王に立てられた。慕容韜が慕容顗(位386)を殺し、慕容恒が慕容瑤(位386)を立てたが慕容永に殺され、慕容忠が慕容永に擁立された。
後秦の姚萇、長安に入り、帝を称した。
西燕の慕容忠(位386)が刁雲らに殺された。慕容永が大将軍・河東王として立ち、後燕に藩属した。
前秦の苻丕が西燕に敗れ、南走して洛陽を襲ったが、東晋の馬該に殺された。
慕容永が長子で帝を称した。
劉衛辰が後秦に藩属し、大将軍・河西王を号した。
苻登が前秦を継ぎ帝を称した。
呂光が涼州牧・酒泉公を称した(後涼)。
387丁亥太元12翟釗が陳・穎を攻めたので、秦膺がこれを撃退した。登国2後燕の慕容垂が温詳らを討った。
後燕の軍が歴城に進み、青・兗・徐州の多くの郡県が降った。
前秦・後秦・西燕の間で関中混戦す。前秦の苻登が乞伏国仁ほか多くの戎夏を帰服させた。
388戊子太元13朱序が雍州刺史となって洛陽に鎮した。
謝玄(343-388)
登国3翟遼が魏天王を自称した。
乞伏国仁没し、弟の乞伏乾帰立つ。河南王を称し、都を金城に置いた。
前秦と後秦が関中で対峙した。関西の豪族の多くは前秦についた。
マクシムス暗殺され、ヴァレンチアヌス復位。
389己丑太元14十六歳から全丁、十三歳から半丁としていたのを、二十歳から全丁、十六歳から半丁に改めた。
孝武帝が酒色に溺れ、琅邪王司馬道子に政事を委ねるようになった。
謝石(327-389)
登国4前秦の苻登が、乞伏乾帰を金城王に封じた。
呂光が三河王を称した。
拓跋珪が吐突隣部を女水で討ち、大いに破った。
390庚寅太元15朱序が洛陽に侵攻しようとした慕容永、翟遼を連破した。朱序は朱略に洛陽を任せ、襄陽に遷った。
王恭、兗・青二州の刺史に任ぜられた。
劉牢之が翟釗を鄄城で破った。
王国宝が中書令・中領軍となった。
登国5慕容永が洛陽を攻めて敗れた。
前秦の鎮東将軍魏掲飛が衝天王を称して後秦を攻めたが、後秦の鎮遠将軍王超に斬られた。
劉直力鞮が賀蘭部を攻めたので、拓跋珪が魏兵を率いて賀蘭部を援けた。
越質詰帰が乞伏乾帰のもとより叛した。
サカ王朝滅び、グプタ朝の版図最大に。
吐谷渾が金城王乞伏乾帰に遣使した。
391辛卯太元16楊佺期が河南に侵寇した慕容永を撃退した。登国6乞伏乾帰が越質詰帰を討ち下した。
賀訥と賀染干の兄弟が争い、後燕は趙王慕容麟を遣わして賀訥を攻め、鎮北将軍蘭汗を遣わして賀染干を討った。
劉衛辰が北魏に敗れ、部下に殺された。
後秦の姚萇が前秦の苻登を安定で破った。
倭が半島に出兵し、百済・新羅が倭に服した。
392壬辰太元17朱序が病のため引退し、代わって郗恢が襄陽に鎮した。
殷仲堪が都督三州諸軍事・荊州刺史に上り、江陵に鎮した。
桓玄が義興太守に任ぜられたが、「父は九州の伯となり、子は五湖の長となるというか」と言い官を捨て帰国した。
琅邪王司馬道子が会稽王に改封された。
登国7前秦の驃騎将軍没奕干が後秦に降った。
姚萇が病にたおれ、子の姚興が姚方成の言に従って王統・王興・苻胤・徐成・毛盛ら前秦以来の将軍たちを斬った。
後燕の慕容垂が翟都を討って滑台に逐った。翟釗が西燕に援けを求めたが、慕容永は兵を出さなかった。翟釗は後燕の慕容鎮・慕容農らに討たれて西燕に逃亡した。
呂光が弟の呂宝らを遣わして乞伏乾帰を討ったが敗れた。
キリスト教がローマ帝国の国教に。
393癸巳太元18楊仏嵩が叛いて後秦に奔ったので、楊佺期・趙睦が追ったが、姚崇に討たれて敗れ、趙睦は戦死した。
朱序(?-393)
登国8前秦の苻登が野人堡を攻めたが、姚興に根拠地の平涼を襲われた。
十二月、後秦の姚萇(位384-393)が没し、子の姚興が大将軍を称した。
394甲午太元19
会稽王司馬道子が専権を握り、王国宝・王緒を引き立てて信任した。
登国9前秦の苻登が出戦したが廃橋で後秦の尹緯らに大敗し、平涼を棄てて馬毛山に入った。
後秦の姚興が帝を称した。
後燕の慕容垂が長子を破り、慕容永(位386-394)を捕殺す。西燕滅ぶ。
後秦の姚興が前秦の苻登(位386-394)を攻め殺した。子の苻崇(位394)が湟中で立ったが、乞伏乾帰に追われて殺された。前秦滅ぶ。
後燕が東晋の高平・泰山・琅邪などの郡を奪った。
乞伏乾帰、隴西をえて秦王と称した(西秦)。
柔然の社崙が曷多汗を殺して自立し、五原以西の諸郡を侵した。
395乙未太元20登国10西秦の乞伏乾帰が天水の姜乳を討ったが、敗れた。
後燕の太子慕容宝が北魏を攻めたが、参合陂で大敗す。
呂光が西秦を攻めた。
河西の鮮卑禿髪烏孤が廉川堡に都を置いた。
テオドシウス帝(位379-395)崩じ、ローマ帝国が東西に分裂した。
396丙申太元21孝武帝(位372-396)崩じ、子の司馬徳宗立つ(安帝)。皇弟司馬徳文・皇叔司馬道子が輔政にあたった。
会稽王司馬道子と侍中王国宝が政治を専断した。
登国11
皇始1
後燕の慕容垂(位384-396)が北魏を攻め、平城に入ったが、病に倒れて帰途に没した。太子の慕容宝が立つ。
呂光が天王を称し、国号を大涼とす(後涼)。
拓跋珪が天子の旌旗を掲げ、皇始と改元した。魏軍が後燕を攻め、晋陽を奪った。さらに常山を取った。北魏の遼西公賀頼盧・東平公拓跋儀が鄴を攻めた。
397丁酉隆安1王恭・殷仲堪が王国宝ら君側の奸を除く名分で起兵した。司馬道子が王国宝を誅し、王緒を斬市に処したので、王恭らは兵を退いた。
司徒左長史王廞が王恭を討とうとし、子の王泰を遣わした。劉牢之が王泰を斬り、また曲阿で王廞を破った。
皇始2後燕の慕容徳が北魏の賀頼盧・拓跋儀を破った。
後涼の呂光が西秦の乞伏乾帰を討った。
拓跋珪が信都を攻めて抜けず、慕容宝の反攻を受けて敗走した。魏軍は慕容宝が中山に帰還するところを討ち、これを大破した。魏軍は中山を囲んだ。
趙王慕容麟が慕容宝を弑殺しようとして失敗し、西山に逃げて丁零の余衆に依った。
慕容宝が逃亡し、無主となった中山を開封公慕容詳らが守り、魏軍をはばんだ。北魏は中山の囲みを解いた。
張掖盧水の匈奴沮渠蒙遜が後涼に叛いた。後涼の呂纂が沮渠蒙遜を忽谷で破った。沮渠蒙遜らは建康太守段業を大都督・竜驤大将軍・涼州牧・建康公に擁立した(北涼)。呂纂は段業を討ったが勝てなかった。
慕容詳が中山で帝を称したが、奢淫暴虐であったので、趙王慕容麟が迎えられて、慕容詳は殺された。慕容麟は帝を称した。
拓跋珪率いる魏軍は混乱する後燕を破って、信都を奪い、燕都・中山を抜いた。慕容宝は龍城に遷り、慕容徳に鄴を守らせた。
禿髪烏孤、後涼から自立して、大単于・西平王を称した(南涼)。
398戊戌隆安2王恭・殷仲堪が再び起兵した。王恭の部将劉牢之が王恭を殺したので、北府兵は退いた。また朝廷が殷仲堪の部将楊佺期・桓玄を官爵で買収したので、西府兵も退いた。
司馬道子が黄鉞を加えられ、子の司馬元顕が征討都督となった。
五斗米道の首領孫泰が起兵を謀って捕殺された。甥の孫恩が海に逃れた(孫恩の乱)。
天興1慕容徳、鄴から滑台に遷り、のち燕王を称した(南燕)。
後燕の慕容宝(位396-398)が頓丘王の蘭汗に殺された。慕容宝の子の慕容盛が蘭汗を殺して、帝を称した。
拓跋珪が平城に遷都し、帝を称した(道武帝)。
南涼の禿髪烏孤が武威王と改号した。
楊盛が北魏に遣使し、仇池王に封ぜられた。
399己亥隆安3後秦が洛陽を攻めたので、河南太守辛恭靖が百日にわたって固守奮戦した。楊佺期が北魏に援軍を求めたが間に合わず、洛陽を失陥した。
孫恩が起兵して会稽・呉郡など八郡を攻め下した。謝琰・劉牢之らが孫恩を攻め、孫恩再び海に逃れた。
桓玄が荊州四郡の都督を加えられた。桓玄は江陵を攻め、殷仲堪(?-399)・楊佺期(?-399)を敗死させた。
天興2禿髪烏孤が楽都に遷った。
北魏が高車を大いに破った。
北魏が五経博士を置いた。
段業が涼王を称した。
後梁の呂紹・呂纂が北涼を攻めたので、段業は南涼の禿髪利鹿孤・楊軌の援軍を得て撃退した。
南涼の禿髪烏孤(位397-399)が没し、弟の禿髪利鹿孤立ち、西平に遷った。
南燕の慕容徳が広固を取って都城とした。
後秦が東晋の洛陽を奪い、淮水・漢水以北の諸城の多くを降した。
後涼の呂光(位386-399)が没し、子の呂紹(位399)が継いだが、庶兄の呂纂が位を奪って天王を称した。
法顕、長安から出立し、経典を求めてインドに向かった。
林邑王范達が日南・九真を陥し、交趾を攻めた。
400庚子隆安4桓玄が都督荊・司・雍・秦・梁・益・寧・江八州及揚・豫八郡諸軍事となり、荊・江二州の刺史を領した。
孫恩が会稽・臨海を攻め、謝琰を殺したが、劉牢之に敗れ、また海に入った。
王珣(349-400)
天興3後燕の慕容盛が自ら庶人天王と貶号した。
乞伏乾帰が苑川に遷都した。
北涼の段業が李暠を敦煌太守に任じた。李暠が涼公を称した(西涼)。
後秦が西秦を破り、乞伏乾帰は姚興に臣属した。
酒泉太守の王徳が北涼に叛き、河州刺史を自称した。沮渠蒙遜が王徳を攻め下した。
南燕の慕容徳が広固で帝を称した。
吐谷渾の視羆が没し、弟の烏紇堤が立った。


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