[殷(前1600?〜前1046?)]
天乙(成湯)−〔大丁?〕−外丙−仲壬−太甲(太宗)−沃丁?−太庚−小甲−雍己−太戊(中宗)−仲丁−外壬−河亶甲−祖乙−祖辛−沃甲−祖丁−南庚−陽甲−盤庚−小辛−小乙−武丁(高宗)−〔祖己?〕−祖庚−祖甲(帝甲)−廩辛?−庚丁−武乙−太丁−帝乙−帝辛(受,紂王)
成湯(?〜?)
  天乙。大乙。殷(商)の初代湯王。姓は子、名は履。主癸の子。西亳(偃師商城?鄭州商城?)に都した。夏の方伯となり諸侯征伐の権をえて、まず葛伯を討った。連年兵を動かして、有洛・荊・温・韋・顧・昆吾氏を討ち、ついに夏の桀王を討って、天下を平定した。天子の位に上り、殷王朝を開いた。「湯の徳は禽獣にも及ぶ」と称する有徳の君主とされる。考古学的にはかれの代からはじまる殷の前期は、二里頭文化を継承した二里岡文化期に相当する。

伊尹(?〜?)
  伊、伊奭、黄尹とも。名は阿衡。はじめ有莘氏の下僕となり、料理人として殷の成湯に近づき、王道を説いて用いられるようになった。のちに湯のもとを去って夏王朝に仕えた。しかし桀王の非道に失望して、亳に帰って再び成湯に仕えた。以来、成湯が諸侯の心服を得られるようにつとめ、その放伐と統治を助けた。成湯の死後も、仲壬、外丙、太甲に仕えた。『史記』によると、伊尹は、帝太甲がはじめ暴恣で成湯の法を犯したので、三年にわたって放逐した。のちに改心したので、政権を譲り渡したという。帝沃丁の代に没した。『竹書紀年』に見える異説として、伊尹は帝太甲の位を奪って自立したが、桐より脱出した帝太甲に殺されたというものもある。殷の末年にも伊尹の祭祀が継続していることが甲骨文で確認されており、伊尹の簒奪説は信憑性が薄い。

仲虺(?〜?)
  莱朱ともいう。奚仲の後裔で、薛に住んでいた。殷の成湯に仕え、左相となった。

太丁(?〜?)
  大丁。殷の成湯(大乙)の太子。夭逝した。

外丙(?〜?)
  卜丙。殷の二代。名は勝。成湯の子。太丁の弟にあたる。伊尹に擁立された。

仲壬(?〜?)
  南壬。殷の三代。成湯の子。太丁・外丙の弟にあたる。伊尹を卿士として政にあたらせた。

太甲(?〜?)
  大甲。殷の四代太宗。名は至。太丁の子。暴虐で成湯の法を乱したので、伊尹により三年にわたって桐宮に放逐された。のちに過ちを悔いたので、政権を返された。徳を修め、諸侯は帰服し、百姓は安んじたという。

沃丁(?〜?)
  殷の五代。名は絢。帝太甲の子。伊尹を亳に葬り、咎単が伊尹を讃えて「沃丁」を作った。

太庚(?〜?)
  大庚。殷の六代。名は辯。帝太甲の子。

小甲(?〜?)
  小甲。殷の七代。名は高。帝太庚の子。

雍己(?〜?)
  邕巳。殷の八代。帝太庚の子。殷の徳が衰え、諸侯には入朝しないものが出たという。

太戊(?〜?)
  大戊。殷の九代中宗。帝太庚の子。帝小甲・帝雍己の弟。帝雍己の死後、天子となった。伊陟・巫咸らの賢臣を登用し、殷の中興の主となった。

伊陟(?〜?)
  伊尹の子孫にあたる。殷の帝太戊が即位すると宰相となった。太戊の中興を支えた。

巫咸(?〜?)
  殷の帝太戊に仕えた。「咸艾」「太戊」の文章で讃えられた賢臣とされる。

仲丁(?〜?)
  中丁。殷の十代。帝太戊の子。帝太戊の死後、天子となった。元年、都を囂(隞、小双橋遺跡?)に遷した。藍夷を討った。

外壬(?〜?)
  卜壬。殷の十一代。帝太戊の子。

河亶甲(?〜?)
  戔甲。殷の十二代。名は整。帝太戊の子。都を相にうつし、藍夷・班方を攻めた。殷は衰えたという。

祖乙(?〜?)
  且乙。殷の十三代。名は勝。帝仲丁の子。帝河亶甲の死後、天子となった。都を庇(耿)にうつし、巫賢を登用して、殷の中興の主となった。

祖辛(?〜?)
  且辛。殷の十四代。帝祖乙の子。

沃甲(?〜?)
  開甲。羌甲。名は踰。殷の十五代。帝祖乙の子。

祖丁(?〜?)
  且丁。殷の十六代。帝祖辛の子。

南庚(?〜?)
  殷の十七代。帝祖辛の子。都を庇から奄に遷した。

陽甲(?〜?)
  虎甲。殷の十八代。帝祖丁の子。殷は衰え、諸侯で入朝するものがなくなったという。

盤庚(?〜?)
  般庚。殷の十九代。帝祖丁の子。帝陽甲の弟。帝陽甲の跡を継ぎ、天子となった。『史記』によると、都を河北から成湯の都(西亳)に遷し、さらに亳に遷した。『竹書紀年』では、奄から北蒙に遷都し、これが殷墟であるという。諸侯が再び来朝するようになり、「盤庚」三編の文章で讃えられた。考古学上ではかれの代から殷の後期は、安陽(殷墟)文化期に相当する。近年、かれの居城は安陽殷墟ではなく、殷墟の北に位置する洹北商城ではないかとする説が有力になりつつある。

小辛(?〜?)
  殷の二十代。名は頌。帝祖丁の子。殷は衰え、群臣は盤庚の代を懐かしんだという。

小乙(?〜?)
  殷の二十一代。名は斂。帝祖丁の子。

武丁(?〜前1192?)
  殷の二十二代高宗。名は昭。在位前1250?〜前1192?。帝小乙の子。若いころ外にあって民とともに辛労した。帝小乙の跡を継ぎ、天子となった。父帝の喪を守って三年物言わなかったという。夢で会ったという聖人の傅説を探索し、かれを登用して相とした。吉方、土方、鬼方、馬方、粥方、龍方、猷、羌などの異民族を征服した。在位は五十九年間におよび、殷の中興の主となったという。

祖己(?〜?)
  且己。帝武丁の子。

祖庚(?〜?)
  且庚。殷の二十三代。名は躍。帝武丁の子。

祖甲(?〜?)
  帝甲。且甲。殷の二十四代。名は載。帝武丁の子。

廩辛(?〜?)
  馮辛。祖辛。且辛。殷の二十五代。名は先。帝祖甲の子。

庚丁(?〜?)
  康且丁、康丁。殷の二十六代。帝祖甲の子。

武乙(?〜?)
  武且乙。殷の二十七代。在位前1147?〜前1113?。帝庚丁の子。武乙は人形を作り、これを天神と称して博打をした。天神が敗れると、その人形を辱めたという。また革の袋に血を入れ、高所にかけて弓で射ると、これを天を射ると称したという。三十五年、周の季歴が西落鬼戎を討ち、二十の翟王を捕らえた。武乙は落雷にあって死んだという。

太丁(?〜?)
  文丁。文武丁。殷の二十八代。在位前1112?〜前1102?。帝武乙の子。周の季歴を殷の牧師に任じたが、のちに殺した。

帝乙(?〜?)
  父乙。殷の二十九代。在位前1101?〜前1076?。帝太丁の子。

紂王(?〜前1046?)
  帝辛。殷の三十代。名は受。在位前1075?〜前1046?。帝乙の子。帝乙の跡を継ぎ、天子となる。はじめ身体強健で勇武にすぐれ、才知にたけた君主であった。のちに酒池肉林や妲己との情愛におぼれ、政治をかえりみず、重税を課し、炮烙とよばれる酷刑で民衆を苦しめたという。やがて西方に周が台頭し、周と諸侯の連合軍と牧野に決戦して敗れ、鹿台で死んだ。甲骨文によると、帝辛は必ずしも暴恣な君主ではなかったが、度重なる遠征や多くの祭祀のために国力が消耗して、周に滅ぼされるに至ったらしい。

妲己(?〜前1046?)
  
妲己⇒
費中(?〜?)
  殷の紂王に仕えた。政治の実権を握ったが、紂王におもねり、また利殖にふけって、人心を失わせた。

悪来(?〜?)
  姓は嬴。飛廉の子。殷の紂王に仕えた。讒言をよくした。

祖伊(?〜?)
  殷の紂王に仕えた。西方から周が台頭してくるのを警戒し、紂王をたびたび諫めたが、聞き届けられないので殷を去った。

微子啓(?〜?)
  微子開とも書く。殷の帝乙の庶長子。紂王の庶兄にあたる。はじめ微に封じられた。紂王をたびたび諫めたが、聞き届けられないので殷を去った。のちに周の成王によって宋に封じられ、殷の遺民を統治した。

比干(?〜?)
  殷の帝太丁の子。紂王の叔父にあたる。殷の少師となった。紂王を諫めたが、かえって怒りを買い、「聖人の胸には七つの穴があるというがほんとうか」といって殺され、心臓を暴かれてさらされたという。

箕子(?〜?)
  殷の帝太丁の子。紂王の叔父にあたる。殷の大師となった。箕に封じられた。紂王の勘気を逃れるため、佯狂したが、投獄された。のちに周の武王に仕えて、政務の相談役となった。また朝鮮に封じられたといわれる。

伯夷(?〜?)
  孤竹君の子。父の死後、弟の叔斉に君主の位を譲って出奔した。西伯昌(周の文王)の噂を聞いて、そこに赴こうとしたが、昌はすでに亡く、子の発(周の武王)が殷の紂王討伐に乗り出していた。武王に対してその不忠・不孝を諫めたが、聞き入れられなかった。天下が周に帰属すると、周の穀物を食べることを恥じ、叔斉とともに首陽山で餓死した。

叔斉(?〜?)
  孤竹君の子。父の死後、君主になろうとせず、兄の伯夷を追って出奔した。周の武王に対してその不忠・不孝を諫めたが、聞き入れられなかった。天下が周に帰属すると、周の穀物を食べることを恥じ、伯夷とともに首陽山で餓死した。
↓次の時代=西周

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