校勘
〔一〕公是卿坐 『太平御覧』巻五一三に引くところでは、「公」の上に「三」の字がある。
〔二〕何可使孤魂無所依邪 「何」は、各本では「不」とし、『通志』巻一八五では「豈」とし、呉本では「何」としているが、今は呉本に従う。
〔三〕有庶子沈生命棄之 『太平御覧』巻五一七に引くところでは「生」を「休」とし、「休」以下に連なった句となる。
〔四〕仍盡發其家僮 『斠注』:銭塘先賢伝の賛に引くところでは「仍」を「乃」とする。
〔五〕謝韶 各本では「謝歆」とするが、今は謝万伝に従って改める。『世説』の賢媛、人名譜ではひとしく「韶」とする。
〔六〕悉周氏所出 「周」は、各本では多く「孟」とするが、今は宋本、呉本に従い「周」とする。
〔七〕時稱韋氏宋母焉 周校:当然ながら「韋母宋氏」とするべきである。
〔八〕眭邃 「眭」は、各本ではひとしく「畦」とするが、今は『魏書』と『北史』の隠逸伝、慕容廆伝および『資治通鑑』巻一〇八により改める。
(1)嬀汭は、山西省南部の嬀水の流れの入りこんだ曲がったところ。ここで舜が堯のふたりのむすめ(娥皇・女英)をめとったという。『尚書』堯典、『史記』五帝本紀第1、『列女伝』母儀参照。
(2)塗山氏の長女は、夏を開いた禹の妻で、啓を生んだ。禹は治水工事の仕事が忙しく家に帰ることもできなかったが、塗山氏は啓をしっかりと教育して、啓に禹の跡を立派に継がせたという。『尚書』皋陶謨、『史記』夏本紀第2、『列女伝』母儀参照。
(3)有娀氏(ゆうしゅうし)の長女の簡狄は、堯のとき、玄鳥の卵を口にふくんで飲み込んでしまった。簡狄はこの事件により殷の伝説的開祖である契(せつ)を生んだ。簡狄は契を教育し、契は堯のもとで司徒にのぼった。有娎氏(ゆうしんし)のむすめは、殷の湯王の妻となり、仲壬・外丙を生んだ。九嬪(婦官)を統領し、後宮に秩序があったという。『史記』殷本紀第3、『列女伝』母儀参照。
(4)大姙(たいじん)は、周の文王(姫昌)の母で、摯任氏の真ん中のむすめ。お腹の中の子に胎教をほどこして文王を産んだという。大姒(たいじ)は、文王の妻で、有娎氏のむすめ。朝夕に勤労して、婦道につとめた。文王との間に伯邑考・武王発・周公旦ら十人の子を産み、かれらを教育した。『史記』周本紀第4、『列女伝』母儀参照。
(5)馬ケは、漢の明徳馬皇后と和熹ケ皇后を指す。馬氏は、馬援のむすめで、後漢の明帝(劉荘)の皇后となる。つつしみ深く、政治の見識もあったので明帝に信頼された。ケ氏は後漢の和帝(劉肇)の皇后。質素倹約につとめ、皇太后として殤帝(劉隆)・安帝(劉祐)を後見した。『後漢書』巻10上皇后紀第10上参照。
(6)宣昭は、魏の武宣卞皇后と文昭甄皇后を指す。卞氏は曹操の妻で、もとは歌妓であったが、曹操の子で母のいない者を分け隔てなく養育した。甄氏は文帝(曹丕)の皇后。もとは袁煕の妻だったが、曹操が冀州を平定すると、曹丕が彼女を迎えて寵愛した。のちに曹丕が郭氏らを寵愛するようになると、恨み言をいって曹丕を怒らせ、自殺させられた。『三国志』魏書后妃伝第5参照。
(7)恭姜は、衛の僖侯の世子である恭伯の妻。恭伯が早死した後、父母は彼女を再嫁させようとしたが、彼女は再嫁しないことを誓って許さなかった。『文選』巻16賦辛・哀傷・潘安仁寡婦賦并序の李善注参照。
(8)孟母は、孟母三遷の教えや断機の教えで有名な孟子の母。『列女伝』母儀参照。
(9)華は、孟姫といい、華氏の長女で、斉の孝公の夫人。礼を好み、「礼なくして生きるは早死するにしかず」といって自縊しようとした。『列女伝』貞順参照。
(10)樊は、楚の荘王の夫人の樊姫。荘王に令尹の虞丘子を解任するよう勧め、孫叔敖を迎えさせた。「荘王が覇者となれたのは、樊姫のおかげである」といわれた。『列女伝』賢明参照。
(11)文伯は、魯の大夫。文伯が若いころ、その遊び仲間を従え、かれらに剣を奉じさせて、一人前の顔をしているのを、その母の敬姜は強く叱責した。『列女伝』母儀参照。
(12)子発は、楚の将軍。子発が秦を攻めて勝利のうちに凱旋したとき、その母は子発が兵士たちに豆類などの粗食を強い、自分はぜいたくな肉や穀物の食事を取っていたことを責めて家に入れさせなかった。『列女伝』母儀参照。
(13)少君は、桓氏のむすめで、勃海の鮑宣の妻となった。つつましく礼儀正しく自ら勤労して婦道につとめたので、郷里にたたえられた。『後漢書』巻84列伝74参照。
(14)孟光は、後漢の梁鴻の妻。字は徳曜。梁鴻に隠居を勧め、ともに霸陵山中に入り、耕田織布を生業とした。『後漢書』巻83列伝73参照。
(15)子政は、前漢の劉向(前77-前9)の字。ここでいう「子政緝之於前」とは、劉向が『列女伝』(古列女伝・列女伝頌図ともいう)七巻を著したことを指す。
(16)元凱は、西晋の杜預(222-284)の字。『春秋左氏経伝集解』を著したことで知られる。ここでいう「元凱編之於後」とは、杜預が『女記讃』(女記・列女記ともいう)を編纂したことを指していると思われる。杜預は本書巻34列伝4に伝がある。
(17)羊耽の妻の辛氏の話は、『三国志』魏書辛毗楊阜高堂隆伝第25の裴注に引く『世語』に同じ話が見える。また『太平御覧』巻815にも別伝の逸文が残る。
(18)王渾の妻の鍾氏の話は、『世説新語』賢媛篇第19・排調篇第25にも見える。
(19)『世説新語』注に引く『王氏譜』に曰く「鍾夫人は名は琰之、太傅鍾繇の孫」。
(20)『世説新語』注に引く『王氏譜』に曰く「夫人、黄門侍郎鍾琰の女」。しかしむすめの名字が親の諱を犯すとは考えにくく、鍾徽のむすめとする本書の記述が正しいだろう。
(21)王湛の妻の郝氏は、『世説新語』賢媛篇第19にも見える。郝普のむすめで、王承を産んだ。
(22)「吉凶導従の儀」…調べ中です。本書巻37列伝7宗室の司馬孚伝に「吉凶導從二千餘人」とあるが…。
(23)「雁行」は、雁の群れのように、少しずつ遅れて斜めに並んで進むこと。『礼記』王制では「道路:男子由右、婦人由左、車從中央。父之齒隨行、兄之齒鴈行、朋友不相踰」という。「雁行の礼」は、弟が兄に少し遅れて進む礼法と解される。ここの本文では、孫氏の遺体を改葬するにあたって、曹氏が孫氏の棺の斜め後ろについたと解釈すべきか?
(24)春秋時代の晋の重耳(のちの文公)が驪姫の事件(注34参照)より狄に亡命すると、臣下の趙衰はこれに従った。狄は叔隗を趙衰にめあわせた。叔隗は趙盾を生んだ。重耳が帰国して晋公として立つと、自分のむすめの趙姫を趙衰にとつがせた。趙姫は趙同(原同)・趙括(屏括)・趙嬰斉(楼嬰)の三人を生んだ。趙姫は狄にいる前妻の叔隗を迎えるよう固く請うた。叔隗と趙盾が晋に入国すると、趙姫は趙盾の才能を認め、趙盾を後嗣として立てるよう請い、自分の生んだ三子の地位を下げさせ、叔隗を嫡妻として、自分はその下についた。『左伝』僖公23、24年、『列女伝』賢明参照。
(25)陶侃の母の湛氏の話は、『世説新語』賢媛篇第19にも見える。
(26)周の母の李氏の話は、『世説新語』識鑒篇第7・賢媛篇第19にも見える。
(27)王凝之の妻の謝氏の話は、『世説新語』言語篇第2・賢媛篇第19にも見える。
(28)詩はうた、賦は韻文、誄は死者をたたえることば、頌は功績や人柄をたたえる文。
(29)東海の呂母は、新末の人。息子が県の小吏となったが、宰に冤罪を着せられて殺された。呂母は息子の復讐のために家財を散じ、少年百余人を集めて叛乱を起こした。海曲県城を攻め落とし、宰を殺して息子の墓に供えた。のちに海上に入って、その衆は一万人あまりとなった。彼女の余党は樊崇らに合流し、赤眉の軍となった。
(30)『尚書』皋陶謨「天の聰明は、我が民の聰明に自(よ)る。天の明畏は、我が民の明威に自(よ)る」からの引用。
(31)「迴文旋圖詩」…調べ中です。
(32)『資治通鑑』巻107晉紀29孝武帝太元14年では毛氏の台詞は、「姚萇、汝先に已に天子を殺し、今また皇后を辱めんと欲す。皇天后土、寧ぞ汝を容れんか!」とある。
(33)本伝の段氏は、段儀のむすめで慕容垂の後妻であるが、『資治通鑑』巻100晉紀22穆帝升平2年によると、慕容垂は段末柸のむすめの段氏をめとっており、これが先妻であろう。先妻の段氏が巫蠱の罪を着せられて獄中で死んだ後、慕容垂は先妻の女弟の段氏をめとっているが、可足渾氏に退けられ、可足渾氏の妹の長安君をめとることを強要されている。これが慕容垂の前燕出奔の遠因となったという。『資治通鑑』巻103晉紀25孝武帝寧康2年に慕容垂夫人(胡注によると段夫人)が前秦の苻堅の行幸を迎えているが、この夫人がはたして誰かは不明。本伝によると、段元妃が後妻となったのは慕容垂が燕王となった後のことである。そうすると、慕容垂には妻とした段氏が三人いた可能性もある。
(34)晋の献公は、春秋時代の晋の国君。後妻の驪姫を寵愛するあまり、太子の申生を廃して自殺に追いこみ、重耳と夷吾のふたりの公子を亡命させ、驪姫の生んだ子の奚斉を後継とした。献公の死後まもなく奚斉は里克に殺され、その弟の卓子もやはり里克に殺され、夷吾が秦の助力で帰国し晋の国君となった(恵公)。重耳(文公)が放浪の末に帰国して立つのは、さらに後のことである。『左伝』僖公4、9、10年、『史記』晋世家第9参照。
(35)安思閻后は、後漢の安帝の皇后閻氏。諱は姫。安帝(劉祐)の死後、北郷侯劉懿(少帝懿)を擁立して垂簾政治をおこなおうとした。劉懿が二百余日で亡くなると、彼女は宦官の孫程らによって廃され、離宮にうつされて翌年亡くなった。本伝における閻后の故事とは、閻后が廃位されながらも安帝とともに恭陵に合葬されたことを指す。『後漢書』巻10下皇后紀第10下参照。
(36)「知足不辱」は、「足るを知れば辱められず、止まるを知れば殆からず」という『老子』の一節からの引用。
(37)「夫繁霜降節」とあるが、「降節」とは見慣れない表現。「節」の音は入声の屑韻で、「雪」と音通している。ここは「繁霜降雪(霜の繁く雪の降らす)」を意識した比喩表現と思われる。
(38)「荐之以劉石、汨之以苻姚」は、「劉石をもってこれを荐(し)き、苻姚をもってこれを汨(べき)す」。「劉」は前趙の劉氏、「石」は後趙の石氏、「苻」は前秦の苻氏、「姚」は後秦の姚氏。この一文は五胡諸国の風俗に染まった意をあらわす。同時にここでは「劉石」を敷き、「苻姚」を水に投じるという比喩表現にもなっている。「劉」はばらばらに切り離す、「石」は石、「苻」は鬼目草または植物のさや、「姚」は細身で美しいの意。「石をばらばらにして敷きつめ、たおやかな鬼目草を水に投げ入れる」の意味も取れる。一種の掛詞。
(39)『周礼』大司徒では、万民を教化する六徳、六行、六芸があるとする。六行は、孝(親孝行)、友(兄弟愛)、睦(同族愛)、婣(外戚愛)、任(力による扶助)、恤(財貨による扶助)の六種の行い。
(40)曹大家(班昭)『女誡』婦行第四に「女に四行有り。一に曰く婦徳、二に曰く婦言、三に曰く婦容、四に曰く婦功」とある。婦徳は控えめに行動し、世間の掟に従って恥を避けること。婦言は慎重に発言し、悪口を言わず、人から嫌われぬようにすること。婦容は清潔を心がけること。婦功は紡織・料理に専念し、享楽を避けること。
(41)『詩経』邶風静女に「静かなる女の其れ孌(れん)たり、我に彤管(とうかん)を貽(おく)る」とある。彤管は、赤い管。筆・笛などの説がある。ここでは赤い筆と解釈した。