604,煬帝即位,607,科挙進士科の始,610,大運河竣工,618,唐興る,(隋末唐初群雄図),620,624,唐均田の始,626,玄武門の変
西暦干支事件参照
※この年表では、中国の旧暦とユリウス暦が混在しています。厳密に言うと年月がずれるものもあるかもしれません。
601辛酉
仁寿1
楊素を左僕射とし、蘇威を右僕射とした。
河南王楊昭を晋王に改封した。
晋王楊昭が内史令となった。
潮・成など五州の獠がそむき、馮盎が討伐して平定した。
楊素が雲州道行軍元帥となり、啓民可汗とともに歩迦可汗を挟撃した。
突厥の歩迦可汗が代州を犯した。
602壬戌仁寿2楊素が突厥の歩迦可汗を大いに破った。楊素の子楊玄感が柱国となった。
益州総管にして蜀王の楊秀が廃されて庶民にされた。
交州の李仏子が乱を起こし、越王故城に拠った。劉方がこれを討ち、降らせた。
独孤皇后(544-602)
百済、新羅を攻めて破る。
603癸亥仁寿3王通が太平十二策を文帝に献じたが、取りあげられなかった。冠位十二階を制定。
突厥の歩迦可汗の部衆が乱を起こし、歩迦可汗は吐谷渾に逃れた。部衆は啓民可汗に帰属した。
604甲子仁寿4太子楊広が張衡を用いて文帝(位589-604)を弑逆させ、楊広が立った(煬帝)。煬帝は張衡を殺し、また廃太子の楊勇を殺した。
漢王楊諒が晋陽で起兵したが、楊素に破られた。楊諒は幽閉されてのち死んだ。
男子を二十二歳で丁とするよう改めた。
陳叔宝(553~604)、洛陽で没す。
蕭摩訶(532-604)顔之推(531?-604)
憲法十七条を制定。
ローマ教皇グレゴリウス1世(位590-604)
605乙丑大業1晋王楊昭が皇太子となった。
劉方に水軍を率いて林邑を攻めさせた。
三月、宇文愷に命じて洛陽に東京を造営させ、ひと月に丁二百万人を役につかせた。
河南・淮北の民を徴発して通済渠を開かせ、淮南の民を徴発して邗溝を開かせた。
劉方は林邑の国都を破り、凱旋の途中で没した。士卒の多くが病にたおれた。
西苑を築かせ、内海をつくり、東海三山を模した。煬帝は西苑で清夜遊曲を作った。
八月、煬帝が竜船に乗って江都に遊んだ。
韋雲起が契丹を大いに破った。
このころ、李春が趙州安済橋を建てた。
契丹が営州に侵攻した。
606丙寅大業2正月、東京洛陽城が完成した。宇文愷が開府儀同三司となった。
牛弘らに輿服・儀衛の制度を定めさせた。
六月、楊素が司徒となった。
皇太子楊昭が薨去した。
鞏の東南に洛口倉が置かれた。洛陽の北に回洛倉が置かれた。
楊素(?-606)
607丁卯大業3突厥の啓民可汗が入朝した。
朱寛を遣わして海に入らせ、琉求(台湾)にいたった。
牛弘らが大業律十八篇を作り、これを公布した。
度量衡を改めた。
官制を改め、五省三台五監十六府を置いた。
煬帝が北巡し、雁門・楡林・雲中・太原を経て東京に帰った。
科挙に進士科を置いた。
高熲(?-607)・賀若弼(544-607)が朝政を誹謗したとの罪で殺された。
長城を築き、西は楡林から東は紫河にいたった。
倭の国書に「日出處天子致書日没處天子」とあり、煬帝これをみて悦ばず。
小野妹子を隋に遣使す。
法隆寺創建。
高句麗、百済を大いに破る。
608戊辰大業4河北の民を徴発して永済渠を開かせた。
元寿が内史令となった。
崔君蕭が西突厥の處羅可汗のもとに使いした。
煬帝が五原に御幸す。
汾州の北に汾陽宮を造営。
二十万人を動員して楡谷から東に長城を築く。
宇文述が吐谷渾を討ち、曼頭・赤水を抜いた。
煬帝が天下の鷹師一万人余を東京に集めた。
常駿が赤土国にいたった。
薛世雄が伊吾を攻め、伊吾は降った。
隋使裴世清が日本に来朝。
吐谷渾が鉄勒に敗れ、次いで隋に敗れて雪山に逃れた。
609己巳大業5東京(洛陽)を東都と改めた。
天下に均田を詔す。
民間の武器を禁じた。
煬帝が西巡し、吐谷渾を攻めて伏允を逐い、その故地に鄯善・且末・西海・河源の四郡を置いた。
煬帝は燕支山にいたり、高昌・伊吾の君長が来て朝見を受けた。
裴蘊が民間の戸籍に脱漏が多いことを上奏した。
薛道衡(540-609)
東突厥の啓民可汗(位587-609)が没し、始華可汗が立った。
610庚午大業6東都に弥勒仏を称する賊が起こり、斉王楊暕がこれを討ち、連座する者千余家に及んだ。
正月十五日、洛陽において百戯をならべ催し、各族の君長に誇示し、灯火終夜消えず(元宵行楽の始)。
張鎮州・陳稜が琉求を攻め、俘虜七千口を帝に献じた。
煬帝が楽工三万人余を集め、周・斉・梁・陳の音楽を蒐集した。
御史大夫張衡が労役の緩和を求めたが容れられず、庶民に落とされた。
煬帝が江南の河を掘削することを命じた。
巣元方らの著『諸病源候論』成る。
劉焯(544-610)
ムハンマドがアラーの啓示を受け、教えを説く(イスラム教団の成立)。
東ローマでヘラクリウス朝おこる。
611辛未大業7煬帝が江都から涿郡へ巡幸した。
高句麗出兵の詔が下され、徴兵・運粮・造船のため、各地は一大騒動となった。
山東・河南に大水が起こり、三十余郡が水没した。
西突厥の處羅可汗が来朝した。
鄒平民・王薄が長白山において叛乱を起こした。
劉霸道・孫安祖・張金称・高士達・竇建徳など、叛乱が多発する。また翟譲・徐世勣が瓦崗寨で蜂起した。
牛弘(545-611)
612壬申大業8煬帝が自称三百歳の道士潘誕を斬った。
隋軍左右二十四軍兵百十三万人を涿郡に結集させた。
隋軍が出立して高句麗を攻めた。宇文述ら、平壌まで三十里に迫ったが、力尽きて撤退した。
この年、大干魃と疫病があり、山東の被害がもっとも大だった。
張衡が朝政を誹謗していると讒言されて死を賜った。
ヴァルダナ朝、北インドを統一。
613癸酉大業9再び天下の兵を涿郡に召集した。
霊武の白瑜娑が突厥と連係して隴右を寇した。
左光禄大夫郭栄が高句麗遠征を諫めたが、容れられなかった。
済陰の孟海公が盗となり周橋に拠った。
斉郡の王薄・孟譲・北海の郭方預・清河の張金称・平原の郝孝徳・河間の格謙・渤海の孫宣雅らが山東で群起した。
張須陀が王薄を臨邑で破り、孫宣雅・郝孝徳らを章丘で破った。
高句麗への再遠征をおこない、煬帝は自ら諸将を率いて遼東城を攻め、宇文述らは平壌に向かった。
礼部尚書の楊玄感が黎陽で起兵して叛乱した。煬帝はこれを聞いて撤兵を決めた。
余杭の劉元進が楊玄感に呼応して起兵した。
楊玄感、洛陽を攻めて陥せず、西進して弘農を攻めたがまた勝てなかった。楊玄感(?-613)はまもなく敗死した。
呉郡の朱燮・晋陵の管崇が江左を寇した。
東海の彭孝才が盗となった。
煬帝が上谷・博陵に御幸した。
呂明星が東郡を囲み、費青奴に撃破された。
劉元進が長江を渡り、呉郡で帝を称した。
馮孝慈が張金称を清河に討ったが、敗死した。
扶風の向海明が弥勒の化身を自称し、帝を称した。楊義臣に撃破された。
劉元進が丹陽を攻め、吐万緒に敗れたが、再び勢力を盛り返した。王世充が劉元進を討ち、劉元進・朱燮・管崇らを殺し、降衆三万余人を黄亭澗に坑殺した。
章丘の杜伏威・臨済の輔公袥らが盗となって南下した。下邳の苗海潮もまた盗となる。
嶺南で梁慧尚が盗となった。
614甲戌大業10扶風の唐弼が李弘芝を立てて天子を称させた。自らは唐王を称した。
楡林太守董純が彭城の賊の張大虎を破った。
延安の劉迦論が皇王を自称した。屈突通に討たれて敗死した。
第三次の高句麗遠征を行ったが、士卒の逃亡が続々と起こった。
煬帝が懐遠鎮にいたったところで、高句麗王が講和を求めたので、撤兵した。
煬帝が南帰の途上、邯鄲で楊公卿の叛乱軍に襲撃された。
離石胡の劉苗王が天子を自称した。潘長文がこれを討ったが勝てず。
董純が東海の彭孝才を捕らえた。しかし董純は讒言を受けて煬帝の怒りを買い、東都で斬られた。
王世充が孟譲を破った。
張須陀が斉郡の左孝友を降し、斉郡通守・河南道討捕大使となった。羅士信・秦叔宝が涿郡の盧明月を破った。
犬上御田鍬を隋に遣使す
615乙亥大業11上谷の王須抜が漫天王を称し、魏刀兒が歴山飛を称した。
李渾・李敏らが宇文述の誣告を受け、誅殺された。
煬帝が太原に行幸し、汾陽宮に避暑した。
李淵が山西・河東撫慰大使に任ぜられ、龍門の毋端兒を討った。
煬帝が北巡して雁門にいたり、突厥の始華可汗に囲まれ、援軍の到着でようやく免れた。
盧明月が衆十万を率いて陳・汝を寇した。
李子通が左才相のもとを離れ、杜伏威と合流した。まもなく決裂し、李子通が杜伏威を破った。
来整が杜伏威・李子通を連破した。李子通は海陵に逃れた。
県吏の朱粲が起兵し、荊・沔・山南を攻略して、迦楼羅王を称した。
樊子蓋が絳の敬盤陀らを討ったが、降った者を坑殺したので、盗となるものがますます増えた。
616丙子大業12正月、郡使の朝廷に至らざるもの二十余郡に及んだ。
三月、煬帝が西苑水上で群臣と宴し、学士の杜宝に『水飾図経』を撰させた。
張金称が平恩・武安・鉅鹿・清河の諸県を落とした。諸賊の中で最も残暴で知られた。
歴山飛の別将の甄翟兒が太原を寇した。
煬帝が江都に赴き、東都に越王楊侗を残して留守を守らせた。
馮翊の孫華が挙兵して盗となった。
趙万海が恒山より高陽を寇した。
宇文述が没し、子の宇文化及が右屯衛将軍に、宇文智及が将作少監となった。
李密が翟譲の軍に投じ、滎陽で隋軍を破り、張須陀(565-616)を殺した。
林士弘が虔州で楚帝を称した。
唐公李淵が太原留守に任ぜられた。
楊義臣が張金称・高士達を攻め殺した。竇建徳が高士達の余党を統率して叛乱を続けた。
河間の格謙が燕王を称したが、王世充に斬られた。
隋将の羅芸が涿郡で幽州総管を称した。
ササン朝、エジプトに遠征す
617丁丑大業13正月、杜伏威が陳稜を破り、歴陽に拠って総管を称した。
竇建徳が楽寿で長楽王を称した。
魯郡の徐円朗が東平を攻め落とし、琅邪より西、北は東平にいたるまで領有した。
二月、盧明月が河南・淮北を寇略し、無上王を称したが、江都通守王世充に討たれて斬られた。
朔方の梁師都が郡丞唐世宗を殺して郡に拠り大丞相と称して突厥と連合した。
馬邑の劉武周が太守の王仁恭を殺して太守を称し、突厥に帰附した。
李密が翟譲を瓦崗軍の首領に擁立し、興洛倉を開いて部衆を集めた。
陳孝意・王智弁が劉武周を討ったが、劉武周は突厥と連合して陳・王を破り、三月には楼煩・汾陽を抜いた。始畢可汗は劉武周を定揚可汗として立てた。
梁師都が延安・弘化などを奪い、帝を称して、国号を梁とした。
郭子和が楡林の郡丞を殺して永楽王を称し、突厥に帰附した。
薛挙が金城で挙兵して西秦覇王を称した。群盗・群羌を擁して隴西を略取した。
李密が回洛倉を破り、煬帝の罪を鳴らした。
李淵が李世民らの強諫を受けて挙兵した。
李建成・李世民が西河を落とした。
六月、李密が東都を攻めた。
李淵と突厥が交易し、李淵は馬千匹を得た。
七月、煬帝が王世充・王隆・王弁らに東都に向かわせた。
李淵が李元吉に留守を委ね、晋陽を発した。
武威の李軌が起兵し、河西大涼王を称した。河西五郡はその有に帰した。
薛挙が秦帝を称し、薛仁果が皇太子を称した。
竇建徳が、隋の薛世雄の軍を破った。
八月、李世民が宋老生を破った。李淵が臨汾に入り、絳郡を抜いた。孫華を降し、河東を囲んだ。
王世充らが洛口の李密を討った。
蕭銑が巴陵で梁国を建てた。
李密が王世充と洛水で戦い敗れ、柴孝和が溺死した。王世充は深追いして逆撃を食った。
十一月、李淵が長安を落とした。
李密が翟譲を殺した。
義寧1李淵が代王楊侑を隋の恭帝として擁立した。李淵は大丞相となり、唐王に封ぜられた。
李孝恭が朱粲を破った。これ以後、巴蜀三十余州を経略していった。
屈突通が捕らえられ長安に送られた。李淵はかれを兵部尚書に任じ、蒋国公に封じた。
劉文静が弘農を取り、新安以西の地を定めた。
大業13薛挙が薛仁果を遣わして扶風を侵したが、李世民に撃退された。
王世充がしばしば李密と戦ったが、利あらず。
方与の張善安が廬江を落とし、また林士弘を襲って破った。
蕭銑が蘇胡兒を遣わして豫章を落とし、林士弘は余干に退いた。
618戊寅義寧2唐王李淵が李建成を左元帥とし、李世民を右元帥とした。
斉公李元吉を鎮北将軍とし、太原に鎮させた。
李世民が趙公となった。
唐王李淵が相国・総百揆となった。
四月、稽胡が富平を寇したが、王師仁が撃退した。また宜春を寇したが、竇軌がこれを破った。
李世民が三王陵で段達を破った。
張長遜が五原太守に任ぜられた。
李密の将の王君廓が来降した。
五月、馬元規が朱粲を破った。
大業14李密が王世充を破り、王弁を敗死させた。
李密が楊汪を上柱国・宋州総管とした。
三月、宇文化及・宇文智及・司馬徳戡らが隋の煬帝(位604-618)を殺した。また蜀王楊秀・斉王楊暕・虞世基・来護児らを殺した。宇文化及は秦王楊浩を擁立して、自身は大丞相を称した。
宇文化及は陳稜を江都太守として留守を預け、北還せんとした。
沈光・麦孟才が宇文化及を討とうとして、敗死した。
武康の沈法興が宇文化及を攻め、余杭・丹陽を下して、江南道大総管を自称した。
司馬徳戡が宇文化及を討とうとしたが、事洩れて捕殺された。
蕭銑が梁帝を称した。董景珍ら功臣七人を王に封じた。都を江陵に遷した。
突厥の始華可汗が骨咄禄特勒を長安に遣わした。

武徳1
李淵が隋の恭帝(位617-618)から禅譲を受けて立つ(高祖)。国号は唐。
裴寂・劉文静が律令を修定した。
六月、李世民が尚書令となり、裴寂が右僕射となり、劉文静が納言となった。
李建成が皇太子となり、李世民が秦王となり、李元吉が斉王となった。
薛挙が涇州に来攻したので、李世民がこれをはばんだ。
李密が王世充に敗れて唐に帰順した。
十一月、黎陽の徐世勣に帰順を勧め、国姓の李を与えた。
十二月、李密(582-618)が東帰をはかり、中途に捕らえられて処刑された。
この年、唐朝は郡を廃して州を設け、太守を刺史に改めた。
王通(584-618)
皇泰1王世充らが東都洛陽に越王楊侗を擁立した。王世充は納言・鄭国公となった。
王世充らは宇文化及を恐れ、李密の罪を赦して魏国公に封じた。
九月、王世充が李密と偃師で戦い、李密を破った。
六月、宇文化及が黎陽にいたり、徐世勣を囲んだ。
七月、李密が宇文化及を破った。宇文化及は魏県に逃亡し、秦王浩を殺して帝を称した。
薛挙が没し、子の薛仁杲が継いだ。薛仁杲は李世民に敗れて降ったのち殺された。
呉興太守沈法興が江南十余郡を定め、江南道大総管を称す。
蕭銑が帝を称し、江陵を都とした。
竇建徳が国号を夏とす。
李軌、帝を称す。
朱粲が冠軍で帝を称す。
619己卯武徳2李世民が河東を救うために出兵した。
李軌が唐に降ったのち殺された。
杜伏威が唐に降った。
この年、高祖が裴寂の讒言を聞いて、劉文静を殺した。
唐が租庸調法を定めた。
皇泰2王世充が鄭帝を称し、楊侗を殺した。李密の旧将の秦叔宝・程知節・羅士信らが唐に降った。竇建徳が聊城で宇文化及(?-619)を殺した。アヴァール人のビザンツ領侵入。
突厥の始華可汗が没し、處羅可汗立つ。
竇建徳が唐の黎陽を陥し、李世勣が降った。
劉武周の将の宋金剛が唐の并州を奪った。李世民と対峙した。
李子通が江都において呉帝を称した。
沈法興が梁王を称して、毘陵に都をおいた。
朱粲が王世充に降った。
620庚辰武徳3李世勣が西に逃れ、唐に戻った。
李世民が宋金剛の軍を破った。尉遅敬徳が唐に降り、劉武周と宋金剛は突厥に逃れてのちに殺された。
李世民が王世充を討ち、洛陽の北邙に進軍す。
李子通が沈法興を殺し、余杭に遷都した。
突厥が隋の宗室楊政道を隋王として立て、定襄に拠らせた。
突厥の處羅可汗が没し、頡利可汗立つ。その甥の突利可汗もあわせて立った。
621辛巳武徳4李世民が武牢で夏軍を大いに破り、竇建徳を捕らえた。
王世充が降ったのち、李世民が洛陽に入り、段達・単雄信・朱粲らを殺した。
高祖は竇建徳(573-621)を殺し、王世充を許した。王世充はまもなく仇人に殺された。
李孝恭・李靖が梁を攻めて江陵にいたり、蕭銑を破って降し、のち殺した。
李靖が嶺南各州を招撫し、唐朝への帰順をうながした。
李世民が天策上将となり、館を開いて文学の士を招致す。
唐が開元通宝銭を通行させる。
竇建徳は王世充を救うため出兵したが、武牢で唐軍に捕らえられた。王世充は唐に降った。
竇建徳の旧将の劉黒闥が起兵し、夏の旧領をことごとく手中にした。
杜伏威が李子通を攻め、李子通は敗れて降った。
622壬午武徳5李世民が劉黒闥を破り、山東を平定す。
太子中允の王珪・太子洗馬の魏征が太子李建成に劉黒闥を討たせ、李建成の威望を確立するよう進言した。高祖はこれを許した。
李建成・李元吉が魏州を救った。劉黒闥が敗れて館陶に退いた。
杜伏威が入朝して、長安にとどまった。李子通は逃れたが、捕らえられた。
馮盎が高・羅・崖・儋などの州とともに唐に帰順した。
突厥の頡利可汗が并州を擾したが、唐使が和親の利を説いたので、頡利可汗は退いた。
劉黒闥が相州において漢東王を称し、都を洺州におく。
李世民が劉黒闥を破って帰還したのち、劉黒闥は定州で再起して旧地を回復した。
林士弘が没して、衆は離散した。
ムハンマド、メディナに逃れる(ヒジュラ)。
聖徳太子没する。
623癸未武徳6劉黒闥が部下に捕らえられて唐軍に献じられ、洺州で斬られた。輔公袥が唐に叛き、丹陽で宋帝を称した。
624甲申武徳7三公・六省・九寺を設け、尚書省の下に六部を置くよう、官制を定めた。
均田租庸調制を定めた。
杜伏威が毒殺された。
李孝恭・李靖らが輔公袥を攻め殺し、江南がことごとく平定された。これによって唐が中国を統一した。
高祖が突厥の脅威を避けて遷都を議したが、李世民が諫止した。
突厥の頡利・突利両可汗が豳州に迫ったので、李世民が兵を率いてこれをはばみ、突利可汗と盟を結んで突厥兵を退かせた。
625乙酉武徳8
626丙戌武徳9玄武門の変が起こる。秦王李世民が、太子李建成と斉王李元吉を殺した。
高祖が李世民を太子に立てた。
李世民が高祖より位を譲られて立つ(太宗)。
太宗が李建成の旧臣の王珪・魏徴らを召した。
突厥の頡利・突利両可汗の兵が渭水の便橋の北にいたった。
弘文館を置き、虞世南・欧陽詢らが学士を兼ねた。
蘇我馬子が没する。子の入鹿が大臣となる。
627丁亥貞観1天下を十道に分けた。
蕭瑀が封建を建議した。
玄奘が国禁を犯し、西方への取経の旅に出発した。
薛延陀・回紇などの部が突厥にそむいた。
回紇の首長の菩薩が五千騎を率いて突厥十万人を破った。
628戊子貞観2
629己丑貞観3
630庚寅貞観4日本の遣唐使第一回。犬上御田鍬が唐に派遣される。
631辛卯貞観5
632壬辰貞観6ムハンマド(571-632)。
633癸巳貞観7
634甲午貞観8
635乙未貞観9
636丙申貞観10
637丁酉貞観11
638戊戌貞観12
639己亥貞観13
640庚子貞観14
641辛丑貞観15ネハーヴァントの戦い。
642壬寅貞観16ササン朝倒れる。
643癸卯貞観17
644甲辰貞観18
645乙巳貞観19蘇我氏滅亡し、大化の改新はじまる。
646丙午貞観20
647丁未貞観21
648戊申貞観22
649己酉貞観23ラテラノの公会議。
650庚戌永徽1
651辛亥永徽2
652壬子永徽3班田収授法を施行。
653癸丑永徽4
654甲寅永徽5
655乙卯永徽6
656丙辰顕慶1
657丁巳顕慶2
658戊午顕慶3阿倍比羅夫、蝦夷を討つ。
659己未顕慶4
660庚申顕慶5
661辛酉龍朔1アリ、クーファで暗殺され、正統カリフ時代終わる。
ウマイヤ朝建国。
662壬戌龍朔2
663癸亥龍朔3白村江の戦い。
664甲子麟徳1
665乙丑麟徳2
666丙寅乾封1
667丁卯乾封2
668戊辰総章1
669己未総章2
670庚午咸亨1
671辛未咸亨2
672壬申咸亨3壬申の乱。
673癸酉咸亨4
674甲戌上元1
675乙亥上元2新羅が百済を併合する。
676丙子儀鳳1新羅の半島統一。
677丁丑儀鳳2
678戊寅儀鳳3
679己卯調露1
680庚辰永隆1
681辛未開耀1
682壬午永淳1
683癸未弘道1
684甲申嗣聖1
文明1
光宅1
八色の姓を制定。
685乙酉垂拱1
686丙戌垂拱2
687丁亥垂拱3
688戊子垂拱4
689己丑永昌1飛鳥浄御原令。
690庚寅載初1
天授1
691辛卯天授2
692壬辰如意1
長寿1
693癸未長寿2
694甲午延載1藤原京に遷都。
695乙未証聖1
天冊万歳1
696丙申万歳登封1
万歳通天1
697丁酉神功1
698戊戌聖暦1
699己亥聖暦2
700庚子久視1

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