枕流亭・本館

中国女将軍伝


中国史上の女将軍について。

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古代の女将軍
  中国史上最古の女将軍というと、殷の婦好(帚好)だろう。殷の武丁の夫人のひとりで、軍を率いて土方・巴方などを討った。安陽殷墟出土の甲骨文により知られた人である。
  時代下って西周の周公旦の東征のとき、王姜という婦人が出陣し、命を下し、臣下に賜物を与えていることが金文に見える。この王姜は武王の夫人の邑姜と同一人物といわれる。
  春秋戦国に下ると、女将軍の姿は見えなくなる。呉の闔閭呉孫子(孫武)に命じて宮女たちに軍事訓練を施す話はよく知られている。女性が軍を率いるということが、宮女たちの嘲笑に象徴されるとおり珍しい話となっていたのだろう。『史記』田単列伝に妻妾を軍隊に編入したり、平原君虞卿列伝に平原君が李同の進言を受けて令夫人以下を軍隊に編入した話がみえる。これは女将軍とはいえない。
  漢には赤眉の乱の嚆矢となる呂母の乱を起こした呂母がいる。はっきりと将軍を名乗っている例。叛乱指導者なので王朝に公認されていないが。

荀ケの子孫
  晋の荀灌は、荀ッの末娘である。荀ッが襄城太守のとき、杜曾の叛乱軍に包囲されて糧食が尽きようとしたが、荀灌が包囲を脱出。平南将軍の石覧や南中郎将の周訪に救援を求め、父を救った。このとき荀灌はわずか十三歳。ちなみに荀灌は、後漢の荀ケの孫のそのまた孫にあたる。

襄陽の夫人城
  東晋の太元三年(378)のことである。
  五胡の戦乱の中葉に立った英主に前秦の苻堅がおり、そのころ華北を統一して、江南の東晋と対峙していた。その年、苻堅は、長楽公苻丕・武衛将軍苟萇・尚書慕容暐らに騎兵歩兵七万を率いさせて襄陽を攻めさせた。ほかにも荊州刺史楊安・征虜将軍石越・京兆尹慕容垂・揚武将軍姚萇・領軍将軍苟池・右将軍毛当・強弩将軍王顕といった錚々たる面々の将軍たちが各方面から襄陽に迫っていた。
  当時、襄陽を守っていたのは、東晋の梁州刺史朱序であった。そのとき朱序は前秦側に水軍がなかったため、油断して充分な備えをしていなかった。前秦の将軍のひとり石越が騎兵五千を率いて漢水を浮かんで渡ってきたため、朱序は仰天して、急ぎ城を固めることにした。石越は城の外郭を落とし、船百隻あまりを奪って余軍を渡らせることができた。
  ときに朱序の母の韓氏は前秦の兵がやってきたのを聞き、自ら城に登ってながめわたし、西北隅が強固でないのを見抜いた。百人あまりの端女と城中の女丁を率いて城内にあらたな城を築いた。秦兵がやってくると、西北隅がはたして潰えたので、人々は新城にうつって抗戦した。襄陽の人はこれを「夫人城」といった。
  以上が「襄陽の夫人城」の話である。あとは余談になる。
  このとき東晋の桓沖は七万を率いていたが、前秦の強勢を恐れて進まなかった。また南郡の相の劉波が八千を率いて襄陽を救おうとしたが、やはり恐れて進むことなく、襄陽は孤立した。翌年二月、襄陽督護李伯護が苻丕に内応したため、襄陽は陥落し、朱序は捕らえられて長安に送られた。秦王苻堅は、朱序の守節を嘉して、度支尚書に任じた。裏切り者の李伯護は不忠のため斬られた。
  のちに苻堅が歩兵六十万余・騎兵二十七万と称する大軍を率いて南侵し、東晋との間に淝水の戦いが起こった。そのとき迎え撃つ東晋軍は約八万であったという。苻堅は戦場で軍を少し後退させたが、そのとき軍の後方で「堅、敗れたり!」と叫ぶものがいた。前秦の将として従軍していた朱序である。前秦の軍は群衆心理を増幅され、後退から潰走に転じた。東晋の謝玄・謝琰・桓伊らが、大いに追撃し、大勝を博した。朱序は東晋の謝石と通じていたのである。
  朱序は以後も東晋の将軍として活躍し、丁零の翟遼を討ったり、西燕の慕容永と戦ったりしている。
  この人、個人的にはかなり面白い人だと見ているのだが、あまり知られてはないよね。

任城国太妃孟氏
  北魏の任城王元澄の母。鉅鹿の人。

洗夫人
  「俚」という古い民族名がある。いまの華南の最も南の地方、広東省西南沿岸から広西自治区東南の一帯で生活していた少数民族である。もとは百越の一支族であり、漢代以前は「里」の字が当てられていた。俚は、後漢から隋唐にかけての史書に見える。横木の囲いのような家(ログハウスか?)に住み、銅鼓を尊んだ民族らしい。のちに多くは漢族と「同化」し、一部は清代になって壮族と「同化」した。一説には現代の黎族の祖先ともいう。
  さて、6世紀はじめの話である。その俚族の首長の家にある女性が生まれた。名は分からない。苗字は「洗」。本籍は高涼郡(現広東省陽江の西)ということになっている。
  彼女は幼いころから賢く、父母の家にあって部衆をなだめ従え、いくさ上手で南方諸族を従えたという。
  ときは南朝梁の武帝(蕭衍)の治世である。
  彼女の兄の洗挺は南梁州刺史に任ぜられたが、富強をたのんで隣郡を侵し、嶺南の官民を苦しめた。彼女は兄をしばしば諫めたので、攻掠は止み、海南の諸族も帰服した。
  大同年間(535-546)の初め、羅州刺史の馮融が彼女の高名を聞いて求め、その子の馮宝にめあわせた。馮氏は五胡の北燕の国主の末裔で、馮宝はこのとき高涼太守だった。
  のちに侯景の乱(549-552)が起こると、広州都督の蕭渤が兵を招集して建康の援兵におもむいた。このとき高州刺史の李遷仕が大皋口にあって、馮宝を召し出そうとした。馮宝は行こうとしたが、夫人は李遷仕の動向がおかしいのを察知して夫を止めさせた。
  数日後、李遷仕はやはり叛乱を起こした。李遷仕は部将の杜平虜を遣わして贛石に入らせた。夫人は馮宝にいった。
「杜平虜は、勇敢な将軍です。兵を率いて贛石に入り、官軍と対峙して、形勢は定まっていません。いっぽう李遷仕が州にいるのは、無能なためです。使者を派遣してかれを偽ってください。辞を低くして帰参を申し出れば、必ず無防備になるでしょう。わたしが千人あまりを率い、贈り物とともに行き、歌いながらのんびりしていれば、賊をたばかることができましょう」
  馮宝が彼女の言うとおりにすると、李遷仕ははたして大喜びし、夫人を迎えようとして、戦いの備えをしていなかった。夫人はこれを攻撃して、大勝を博した。李遷仕は敗走して寧都にいたった。夫人は長城侯陳覇先(のちの陳の武帝)と贛石で合流した。帰ってから馮宝にいった。
「陳(覇先)都督はおそるべき人物で、きわめて士心を得ています。必ずや賊を平定なさるでしょう。あなたはかれを援助なさるがよろしいでしょう」
  梁の末年、馮宝は亡くなった。そののち、嶺南はたいそう乱れた。夫人は南方諸族を懐柔し、数州を安定させていた。
  南朝陳の永定二年(558)、馮宝と夫人の間の子の馮僕はわずか九歳であったが、諸族の首長を率いて丹陽に朝見し、陽春郡守に任ぜられた。
  太建二年(570)、広州刺史欧陽紇が叛乱しようとはかり、馮僕を召して乱に呼応するよう誘った。馮僕が使者を発して夫人に告げさせると、夫人はいった。
「わたしは忠義をなして二代を経ています。おまえの身を惜しんで国家にそむくことはできません」
  兵を発して郡境を守り、諸族の首長を率いて車騎将軍章昭達を迎えた。官軍が欧陽紇を討つと、反軍は潰滅逃散した。
  馮僕は夫人の功により信都侯に封ぜられ、平越中郎将を加えられ、石龍太守に転じた。詔により夫人は中郎将・石龍太夫人となり、刺史相当のあつかいを受けた。
  至徳年間(583-587)に、馮僕は亡くなった。
  のちに南朝陳が滅ぶ(589)と、嶺南地方は帰順するところがなく、数郡がともに夫人をたてまつり「聖母」と号せしめて、地域を安定させた。
  隋の文帝(楊堅)は、総管韋洸を派遣して嶺南を平定しようとしたが、陳の旧将の徐璒が南康に拠ってはばんだ。このため韋洸は進むことができなくなった。晋王楊広(のちの煬帝)は、陳叔宝を夫人のもとに遣わして、隋に帰順するようにうながした。夫人は数千人を集めて、陳の亡国を嘆き、終日慟哭した。孫の馮魂に韋洸を迎えさせるべく派遣した。韋洸は馮魂の援軍を得て、徐璒を斬って広州に入り、嶺南はことごとく平定された。馮魂は儀同三司となり、夫人は宋康郡夫人となった。
  ほどなく番禺の王仲宣が叛乱を起こす(590)と、諸族の首長はみなこれに呼応して、韋洸を広州城に囲み、兵を進めて衡嶺に駐屯した。夫人は孫の馮暄に兵を率いさせて韋洸を救援させた。馮暄は、叛乱側の陳仏智と友好関係にあったので、故意にぐすぐすして進まなかった。夫人はこれを知ると激怒して、使者を派遣して馮暄を捕らえさせ、州の獄に放り込んだ。また孫の馮盎を出して陳仏智を討たせた。馮盎は勝利すると、陳仏智を斬った。馮盎は兵を南海に進めて、鹿愿の軍と合流し、ともに王仲宣を破った。夫人はみずから鎧を着て馬に乗り、勅使の裴矩を護衛して諸州を巡撫せしめた。蒼梧の陳坦・岡州の馮岑翁・梁化のケ馬頭・藤州の李光略・羅州の龐靖といった首長たちがみな参上して勅使に謁した。こうして嶺南は安定した。文帝は馮盎を高州刺史とし、馮暄を許して羅州刺史に任じた。馮宝に広州総管・譙国公の位を追贈し、夫人を譙国夫人とした。夫人に役所を開かせて、長史以下の属官を置き、印章を与え、危急のときには六州の兵馬を徴発して便宜をはかることができるようにした。勅書により五千段の褒美を彼女に賜った。
  ときに番州総管の趙訥が貪欲残虐で、諸族が多く離反していた。夫人は長史張融を遣わして上書して、趙訥の罪を告発し、人心の安定を図るよう論じた。文帝は趙訥の収賄贓得の罪を糺し、夫人に離反した諸族の招撫を任せた。夫人は詔書をいただいて十数州をめぐり、上意を伝えて諸族をさとしたところ、すべて帰順した。
  文帝はこれを嘉して夫人に臨振県湯沐邑の一千五百戸を賜った。馮僕に崖州總管・平原郡公を追贈した。仁寿初年(602ころ)、夫人は亡くなった。諡を誠敬夫人といった。
  ちなみに彼女の孫の馮盎は、のちの隋末群雄のひとりとして活躍し、嶺南二十州を平定したが、王号を名乗らなかった。のちに唐に帰順して、高州総管となり、越国公に封ぜられた。

木蘭
  姓は魏、名は木蘭。男装して従軍すること十二年。隋の恭帝のために後宮に入れられそうになって肯んぜず、自殺したとか。孝烈将軍の号を追贈されたとか。残念ながら史実としては信用できない。木蘭伝説にはさまざまなバリエーションがあり、時代も南北朝・隋・唐と諸説ある。「木蘭詩」についても、具体的なことはよく分からない。田中芳樹の小説『風よ万里を翔けよ』とかディズニー映画「ムーラン」とかも、伝説に新たな一ページが加えられたというしかない。

平陽公主
  「娘子軍」の語源というと、唐の高祖(李淵)の三女である平陽公主からである。しかし思うに平陽公主がすごいのは、娘子軍の名などにあるのではない。李淵の太原起兵のとき、公主は長安にいた。正史を信じるなら、そこから李淵らに合流するまでの間に、彼女は七万の兵を集めている。この大軍は初期の唐軍に多大な実力を付加したはずであり、彼女の隋唐革命における功労は凌煙閣の功臣たちに劣らないというべきだろう。

燕郡夫人
  唐の高宗のころ、燕国公李謹行の夫人に劉氏がいた。経史に通じ、武芸にくわしく、兵法をもっぱらにした。李謹行の征戦に従って、しばしば功績を立てた。李謹行が代奴城を守っていたとき、靺鞨部が来攻して城を攻めた。劉夫人は城の将士を激励して、城を背に堅守した。自ら鎧を着て馬にまたがり、精鋭を率いてしばしば敵陣を破った。靺鞨の軍は利なしとみて、兵を退いて去った。のちに高宗が夫人を燕郡夫人に封じた。

徇忠県君
  武則天のころ、飛狐県令の古元応の夫人に高氏がいた。ときに突厥が飛狐県を囲んだが、高夫人は将士を率いて県城を守った。突厥は久しく飛狐県を攻めたが、県城を落とすことができず、囲みを解いて退却した。武則天は高夫人をたたえ、徇忠県君に封じた。

誠節夫人
  武則天の万歳通天年間、平州刺史鄒保英の夫人に奚氏がいた。契丹の李尽忠が平州に侵攻すると、鄒保英の部隊は打撃を受け、孤立無援となり、城は陥落の危機に瀕した。奚夫人は平素から騎射をよくし、武芸にくわしく、勇略あって、女軍を訓練した。夫人は女軍と家僮を率いて、守城につとめた。契丹軍は長く城を攻囲したが、効なく、やがて退却して去った。夫人の名声は宮廷に伝わり、誠節夫人に封ぜられた。

浣花夫人
  剣南西川節度使崔旰の妻。姓は任。成都浣花渓畔浣花村に生まれ育ち、崔旰にとついだ。彼女は浣花夫人と称され、弓馬の業を好み、騎射をよくした。768年、崔旰は命により京師長安に向かった。おりしも瀘州刺史楊子琳が乱を起こし、騎兵数千を率いて成都に攻め入った。叛軍は殺掠を繰り返し、子城を占拠した。崔旰の弟の崔寛は退いて少城を守った。浣花夫人は家財を散じて勇士数千を集め、精悍な一部隊を編成した。彼女は馬にまたがって戈を横たえ、兵を率いて子城を奪回し、叛軍をさんざんに撃ち破った。楊子琳は残軍を率いて瀘州に逃げかえった。この一戦が京師に伝わり、朝廷は驚きにわいた。唐の代宗はその戦功をよみし、崔旰を冀国公とし、浣花夫人を冀国夫人とした。崔旰を工部尚書とし、名を賜って崔寧と改めさせ、浣花夫人には寧任氏と称させた。詩人岑参は、冀国夫人歌を作ってたたえた。彼女の出生地に近い梵安寺には、冀国夫人祠が立てられ、毎年旧暦四月十九日には人々が彼女の誕生日を祝っている。

梁夫人
  楚州北辰坊(江蘇省淮安)の人。はじめ京口の妓であった。宋の将軍の韓世忠の妻となった。南宋の高宗により、安国夫人に封ぜられ、のちに楊国夫人に改封された。1130年、韓世忠が黄天蕩で金兵の侵攻を四十八日にわたってはばんだとき、梁夫人は太鼓を叩いて宋兵の士気を鼓舞した。

楊妙真
  井上祐美子『梨花槍天下無敵』(学習研究社)の主人公楊妙真。号は四娘子。益都の人。楊安兒の妹にあたる。騎射をよくした。楊安兒の死後、紅祅軍を引き継いで首領となり、姑姑と称された。李全と磨旗山で会し、結ばれて夫婦となった。淮安一帯で活動し、のちに李全とともにモンゴルに降った。李全の死後、養子の李璮とともに山東に帰り、数年後に没した。ちなみに李璮はモンゴルの漢人四大世侯のひとりとなり、アリクブカの乱のときにフビライにそむいて起兵、史天沢に敗れて処刑されている。

許夫人
  元初の畬民叛乱の首領。1279年、黄華の叛乱勢力や宋の張世傑らと連係して、元軍や蒲寿庚の勢力を討ち、数度の勝利をえた。1280年、陳桂竜の漳州での蜂起を支援した。1282年、黄華での再度の蜂起を支援した。畬洞を根拠地として、畬民の叛乱を指揮した。

韓娥
  閬中(現四川省)の人。韓成の娘。十二歳のとき、男装して韓関保と改名し、王起巌率いる紅巾軍に参加した。部将の羅甲を義父とした。1363年、羅甲に従って雲南に遠征した。のちに軍を返して叙南(現四川省宜賓)に駐屯した。軍中生活十二年、彼女が女であると疑う者はいなかった。王起巌に従って成都にいたり、叔父叔母と会って、男装を解き、本名を名乗った。戦友の馬復宗と結婚した。のちに蜀王の召しにより面会し、報奨を給された。1409年、明代の文人劉惟徳が彼女のために『韓娥伝』を書いた。

唐賽児
  蒲台(現山東省博興)の人。林三の妻。石函の中から宝書と神剣を見つけだし、鬼神を使役し、紙を切って人馬を作り戦闘させたという。白蓮教の仏母を称し、山東であまたの信徒をえた。1420年、益都の卸石寨を根拠地として叛乱を起こし、高鳳を破った。賓鴻・董彦杲らの部将を派して莒州・即墨を落とし、官衙や倉を焼き、安邱を攻めさせた。明の永楽帝が柳升や劉忠に軍を率いさせ、鎮圧にあたらせた。官軍が卸石寨を包囲したが、唐賽児は官軍の降伏勧告を拒否し、夜襲をかけた。劉忠を殺して包囲を脱した。安邱を囲んだ叛乱軍は、知県張旟の奮戦のため城を落とすことができず、都指揮衛青の率いる官軍が来援すると敗れ、二千人が殺され、四千人余が捕らえられて斬られ、残余は逃げ散った。永楽帝は官憲を動員して唐賽児を捜索し、尼僧や女道士たちを大勢逮捕したが、唐賽児を見つけだすことができなかったという。

瓦氏夫人
  荘族の出身。帰順州(現広西自治区靖西)の人。田州土官岑猛の妻。1555年、倭寇が明国の東南沿海を襲った。夫人は兵を率いて蘇州にいたり、兪大猷の麾下に入った。王江の戦いにおいて湘西の「土兵」と連合して、倭寇を大いに破った。

沈雲英
  浙江省蕭山の人。沈至緒の娘。沈至緒が道州の守備にあたって、張献忠の部隊に殺されたとき、彼女は父の死体を奪い返し、城にこもって頑強に抵抗した。明朝により游撃将軍に任ぜられた。夫の賈万策が荊門で農民軍に殺されると、彼女は官を辞して帰郷した。清軍が入関すると、彼女は江に投身して自殺しようとしたが、救われた。1660年に亡くなった。

紅娘子
  李巌の妻。

彭妃
  南明永寧王世子の妃。永寧王父子が江西で清軍に敗れて死んだ後、家丁数十人を率いて福建に入り、汀州にいたった。妃継辰らの部隊と合流し、六千の人馬を集め、寧化・帰化など十余の州県を占領した。1648年、王夢Uに敗れた。捕らえられた後も屈しようとはせず、汀州の霊亀廟前で絞殺された。

秦良玉
  井上祐美子『女将軍伝』(学習研究社)の主人公。

李文成の妻
  張氏。1813年、李文成の叛乱軍が河南省滑県で包囲されると、彼女は牛亮臣・劉国明らとともに城を守った。彼女は夜ごと出撃して敵陣を襲い、砲台を焼き払った。滑県を守ること三カ月の長きに及んだ。1814年初頭、清軍の攻撃で県城は陥落した。ある人が彼女に変装して逃れるよう勧めたが、彼女は「城滅び余滅び、死なざる者は英雄にあらず」と答えて拒否した。乱戦を指揮し、多くの官兵を殺傷した。いくさ敗れて自縊して果てた。

王嚢仙
  名は阿従。またの名は阿崇。布依族の出身。貴州南籠府の人。巫女として病気の治療をおこない、「嚢仙」と称された。1797年、南籠で叛乱を起こし、首領として擁され、「皇仙娘娘」を称した。清軍に三路から攻められ、半年にわたって激戦を繰り広げた。九月、清軍の火攻を受けて、南籠府洞洒寨を破られ、捕らえられた。北京で処刑された。

洪宣嬌
  洪先嬌ともいう。太平天国の女将軍。広東省花県の人。洪秀全の異母妹にあたる。幼いころから豪快で、武芸を学び、刀槍をよくした。1849年、桂平で外国宣教師に西洋医学を学んだ。蕭朝貴と結婚した。1851年、金田蜂起に参加。婦人たちを集めて女軍を編成し、元帥と自称して統率した。1852年、蕭朝貴が長沙戦役で戦没すると、その軍を引き継いで作戦を継続した。1856年、北王韋昌輝らと組んで東王楊秀清を謀殺し、のちに韋昌輝を洪秀全に処刑させるなど、いわゆる天京大乱をみちびいたという。1863年、難民たちに従って天京を離れ、以後の消息は知られなくなった。

楊二姑
  太平天国の女将軍。広西省桂平の人。楊輔清の妹にあたる。江得勝の妻。

紅軍の女将軍
  李貞・賀子珍・李珊・烏蘭・郭長春・聶力らが知られる。
  最も有名な李貞は、1908年生まれで、湖南省瀏陽の人。1925年に秋収蜂起に参加。瀏東遊撃隊を率いた。1934年から長征にも加わって、第二方面軍政治部組織部副部長などをつとめた。抗日戦と国共内戦のときには、一二○師や西北野戦軍に所属し、転戦した。1951年、中国が朝鮮戦争に参戦すると、志願軍軍委防空政治部幹部部長をつとめた。1955年、解放軍少将に上った。以後、全人代常任委員や中国婦女連合会執行委員をつとめた。
  最も階級を上りつめた聶力は、元帥聶栄臻の娘で、軍の科学技術畑を歩み、1993年に解放軍中将に上っている。


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