枕流亭・本館

中国史雑表


中国史に関係する表のようなものをいくつか。

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■中国中世の人口の減少
 中国の中世の前期に人口の急減少があったという説がある。
 戦乱や飢餓によって人口が五分の一から十分の一くらいに減ったというのだ。
 はたしてそれは本当だろうか?ということを考えてみた。
 下の表は、『中国歴史大辞典』(上海辞書出版社)の付録より抜粋した。
年代西暦戸数(戸)口数(人)墾田(畝)参照
前漢平帝元始二年21223306259594978827053600『漢書』地理志。『後漢書』郡国志の注に引く『帝王世紀』は戸数を13233612、口数を59194978とする。
後漢光武帝建武中元二年57427963421007820『後漢書』郡国志の注。
後漢明帝永平十八年75586057334125021『後漢書』郡国志の注。
後漢章帝章和二年88745678443356367『後漢書』郡国志の注。
後漢和帝元興元年105923711253256229732017080『後漢書』郡国志の注。原文は元興を永興と誤る。
後漢安帝延光四年125964783848690789694289213『後漢書』郡国志の注。
後漢順帝永和五年140969863049150220『後漢書』郡国志。
後漢順帝建康元年144994691949730550689627156『後漢書』郡国志の注。
後漢沖帝永嘉元年145993768049524183695767620『後漢書』郡国志の注。
後漢質帝本初元年146934827747566772693012338『後漢書』郡国志の注。
後漢桓帝永寿三年1571067796056486856『晋書』地理志。『帝王世紀』は永寿二年、戸数を16070906、口数を50066856とする。
呉大帝赤烏五年2425320002400000『晋書』地理志。
蜀後主炎興元年263280000940000『通典』食貨七。
魏元帝景元四年2636634234432881『通典』食貨七。
西晋武帝太康元年280245984016163863『晋書』地理志、『通典』食貨七。
前燕慕容暐建煕十一年37024589699987935『十六国春秋』前秦録。
宋孝武帝大明八年4649068704685501『通典』食貨七。
北魏孝明帝のとき515-5285000000『通典』食貨七。
北魏孝荘帝永安年間528-5303375368『通典』食貨七。年の記載はなく、『古今図書集成』食貨典九により年号を付す。
北斉幼主承光元年577303252820006880『通典』食貨七。『周書』武帝紀は戸数を3302628とする。
北周静帝大象年間579-58135900009009604『通典』食貨七。
陳宣帝のとき569-582600000『冊府元亀』巻四六八
陳後主禎明三年5895000002000000『通典』食貨七。
隋文帝開皇九年5891940426700『通典』食貨二。
隋煬帝大業五年609890754646019956『通典』食貨七。
唐高祖武徳年間618-6262000000『通典』食貨七は二百余万戸とする。
唐太宗貞観年間627-6493000000『通典』食貨七、『新唐書』食貨志はともに三百万戸に満たないとする。
唐高宗永徽元年6503800000『通典』食貨七。『旧唐書』高宗紀上は永徽三年とする。
唐中宗神龍元年705615614137140000『資治通鑑』巻二〇八
唐玄宗開元十四年7267069565414197121440386213『旧唐書』玄宗紀上。田の数は呂夏卿『唐書直筆』巻四より。ただし『通典』食貨二が記す天宝年間の受田数と等しく、疑う向きもある。
 確かに資料から見ると、二世紀の後漢中・後期に五千万人前後だった人口が、三世紀には急減し、魏・呉・蜀の三国合わせて八百万人弱に減っているように見える。
 しかし、そう素直に取るにはいくつか問題があるように思う。
1.当時の調査方法がどれだけ信頼できるのだろうか?
 中世の人口調査法が、現代の国勢調査のような信頼性を持っているとはいえないのではないかとも考えられる。当時の人口記録は徴税のための記録、または均田施行のための記録である。これは後の3.ともかぶる。
2.史料が多岐にわたっているが信頼性に違いはないだろうか?
 史料には多少なりと過誤が含まれ、信頼性の高い史料とそうでない史料がある。複数の史料にわたっている場合はその取捨選択のための「史料批判」が不可欠だ。また現在ひとつの史料にまとまっていても、それは二次史料であり、原史料が複数であることもある。史料批判が充分であるといえるだろうか。
3.記録上消えた人口が、本当に亡失した人口とはいえないのではないか?
 戦乱が起こると大量の流民が発生する。そうすると、実際には生存していても、王朝の力によって把握できないということが起こりうる。
 また、中世は貴族(豪族)の時代である。貴族(豪族)が人々を属民・隷農として私物化し、中央政府に対しては隠秘するということがかなり大規模に起きたのではないか。
 (むろん、中央も徴税人口の把握には努力していたはずであり、南朝で数回断行された土断などがその代表であろうけれども)

 そういうふうに考えると、上の表もあまり素直には受け取れない。
 とくに、三国時代に約八百万人にまで減っていた人口が、数十年とたたない西晋代ではおよそ千六百万人に倍増するなどは、実人口の変化としては不自然だ。
 また滅亡年の北斉に約二千万人の人口があり、版図が華北・四川にわたった静帝年間の北周の人口が九百万ほどなどということもありえないだろう。
 唐の最盛期より隋の煬帝の治世のほうが戸数が多いのも、違和感を感じる。
 やはり人口記録をそのまま単純には扱えないとみたほうが自然ではないか。

 そうは言っても戦争・飢餓・疫病による実際の人口減少も過小評価すべきではないし、生き残る者が十人にひとりふたりというような悲惨な事件が頻発していたのも確かと思う。
 いくら言葉を操っても印象論にしかすぎないが、中世の実相はまだ多く闇につつまれているということか。


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nagaichi@ehm.enjoy.ne.jp