枕流亭・本館

列女閑話


中国史上の女性に関する書き散らしをいくつか。

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荘王夫人・樊姫
  「三年鳴かず飛ばず」「鼎の軽重を問う」のエピソードで知られる楚の荘王(在位前613〜前591)は、春秋五覇のなかでも陽性にして豪放、親しみやすい人物だろうと思う。管仲が死んだ途端に馬脚をあらわしてしまう斉の桓公や、個人的な恩讐を晩年になって晴らした晋の文公などは、どうにも陰鬱なものを感じてしまう。荘王にはそういう陰翳を感じないところがいいのかもしれない。
  さて、話はその荘王の夫人の樊姫についてである。
  荘王は即位すると、狩猟を好んでよくした。樊姫は王を諫めたけれども、王は狩猟をやめなかった。そこで樊姫は獣の肉を食すのをやめて抗議した。
  三年鳴かず飛ばずの後、荘王は態度を改め、まじめに政治にはげむようになった。王は連日朝廷で人々の話を聞き、退出する時刻は遅くなっていた。樊姫は王を迎えていった。
「なんとも仕事帰りの遅いことです。さぞかし空腹でお疲れでしょうに」
「賢者とともにいるので、空腹も疲れも忘れてしまうのだ」
「王の言うところの賢者とはどなたですか?」
虞丘子だ」
  荘王の言葉に、樊姫は口をおおって笑った。王は不審に思って訊き返した。
「姫が笑うのはどうしてだ」
「虞丘子は賢いのは賢いのですが、忠義ではないからです」
「どういうことだ」
「わたしはあなたの妻となって十一年になります。人を鄭の国や衛の国に派遣して、賢人を求めて王に推薦してきました。今わたしより賢いものが二人、同列なものが七人おります。虞丘子は楚に宰相たること十余年ですが、かれの推薦するのはかれの子弟でなければ、一族の同輩たちです。かれが賢者を推薦して不肖な者をしりぞけたとは聞いたことがありません。これは君主の目をくらまして賢者を任用する道を閉ざすというものです。賢者を知っていながら推薦しないのは不忠です。賢者を知らないのなら不智です。わたしが笑ったのも当然でございましょう」
  荘王は喜んで、次の日に樊姫の言葉を虞丘子に告げた。虞丘子は恐縮して座席から立ち上がり、答える言葉を知らなかった。そこで虞丘子は引退し、人を派遣して孫叔敖を迎えさせて推挙した。王は孫叔敖を令尹とした。かれが楚を治めて三年で、荘王は覇者となった。
  樊姫はこのように荘王を助けたため、楚の史書に「荘王が覇者となれたのは樊姫の力である」と書かれたという。
  この話、樊姫の賢明さをたたえている話なのだが、樊姫自身も自分が賢いということを堂々と認めているし、控えめなところなどどこにもない。女性が政治に関与していることを非難されてもいない。めんどりがどうとか、『女誡』がどうとか、後世の儒教道徳も古代には通用しないといういい例だ。

牧角『列女伝』
  牧角悦子『列女伝 伝説になった女性たち』(明治書院)
  とりあえず「妲喜」はやめてもらいたいと思った。夏の「妹喜」と合体している。言わずと知れた殷の紂王のパートナー「妲己」のことである。

子貴くして母死す
  北魏で拓跋氏の皇子が太子となると、その生母を殺してしまうという独特の習慣があるが、いろいろ問題含みのようである。
  はっきり史書に書かれているのは、道武帝の宣穆皇后劉氏や文成帝の皇后李氏、孝文帝の貞皇后林氏くらいのものだ。だが、北魏初期の皇妃たちは、それらしい時期に亡くなった若死にばかり。宣穆皇后劉氏以後、霊太后胡氏が完全に破ってしまうまで、この風習は続いていたというべきだろう。
  しかし、この習慣は旧法によるとか書かれているわりには、代国のころの拓跋氏にはどうも見られないようだ。

東女国
  隋唐のころにチベット西北に実在した東女国と、西王母伝承との間に何らかの関係があったりしないだろうか…、とか思いつきで考えはじめた。『山海経』や『穆天子伝』以来の伝承とからめるのは、やっぱ無理か。

后族
  突厥における阿史徳氏、遼における蕭氏、元における弘吉剌氏…。皇后を産み出す一族「后族」は、遊牧民特有の装置なのだろうか?
  ならば、日本の摂関時代の藤原氏は?


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