枕流亭・本館

張飛・曹操親戚の説


 2004年年頭に駆け抜けたのは1月14日付時事「曹操と張飛、実は親せきだった=『三国志演義』研究者が新説−中国」という衝撃的ニュースだったのですが、夏侯淵がらみで別に新説でも新発見でもないってことで、三国志ファンから早くも白眼視されてしまいました。
 「むじん掲示板」でむじんさんが指摘されていることではありますが、元記事で沈伯俊氏は新説とは言ってないし、学者としての資質を疑われる言動はしていないし、この件で学会で発表がおこなわれたわけでもないでしょう。「新説」報道は日本で生まれたものですね。誤解をもとに沈氏を疑ってしまったことを自省しつつ。

 元記事は、「天府早報」電子版2004年1月12日でして、それを以下に訳してみました。
 自動翻訳から出たのを適当に校訂いれただけなので、訳の質はまったく保証できません。あしからず。
 (2004年1月18日公開、1月21日修正)

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    張飛は曹操の姪の婿である

 成都で20年間にわたって三国時代を研究している専門家の沈伯俊氏は、昨日本紙に独自の驚異的な発見を公表した。曹操と張飛は津々浦々に知れ渡っている歴史上の人物であるが、この不倶戴天の宿敵どうしが意外にも親戚だったというのだ!昨日(2004年1月11日)、(四川)省の社会科学院の研究員で、中国《三国演義》学会常務・副会長でもある沈伯俊氏は、この驚異的な発見を漏らした。
 「これは奇談ではなく、明々白々な史実だ。」三国学の研究に20年間専心してきた沈伯俊氏は弁舌さわやかに語って、曹操と張飛の親戚関係は夏侯淵を通して明らかになるという。

■■親族の血縁:曹操は夏侯淵のいとこにあたる
 曹操の父の曹嵩は、後漢の末期の大宦官である曹騰の養子だが、彼の本家は夏侯氏であった。
 《三国志・魏書・武帝紀》の注に引く《曹瞞伝》と《世語》の二書によると、「(曹)嵩は、夏侯氏の子で夏侯惇の叔父にあたる。太祖(曹操を指す)は惇の従兄弟にあたる」という。血縁関係からみて、曹操は実は夏侯氏の後裔で、彼の麾下の筆頭の将軍である夏侯惇は彼の従弟で、別の将軍の夏侯淵も彼の従弟だ。夏侯惇は長期にわたって前線の一正面にあたって、「(曹操に)特に親しく重んぜられ、寝室の中にまで出入りして、諸将に比肩するものがなかった」(《三国志・魏書・夏侯惇伝》)といい、夏侯淵は何度も兵を率いて出征し、「関右を勇ましく歩けば、向かうところ敵がなかった」といい、たいそうな信任を受けていた。彼ら自身の才能による功業が、曹操の親族だったという以外にも、彼らがこのように寵遇されたひとつの重要な原因なのだ。

■■続柄は演繹的に推測される:張飛は夏侯淵の姪の婿だから
 「張飛は劉備の腹心の将軍であって、その家柄出身について政治的観点からみて論じられることがなく、もともと夏侯氏の家族との関わりを考えるのが難しかった。」沈伯俊氏は、天下大乱の中にあって人の運命の変転つねなき年代にあって、ひとつの偶然の機会のため、張飛は夏侯氏の娘婿になったと言っている。
 《三国志・魏書・諸夏侯曹伝》の注に引く《魏略》によると、事情はこのようになる。建安五年(西暦200年)、夏侯淵のめいと夏侯覇の妹は薪取りに出かけて、張飛に捕らえられた。飛は彼女が良家の女性であると知り、彼女をめとった。女子を出産して、これが劉禅の皇后となった。続柄を論ずると、張飛はどうやら夏侯淵の姪の婿だ。曹操は夏侯淵の族兄であるから、張飛が夏侯淵の姪の婿であるといえるのなら、張飛は曹操の姪の婿だともいえる。このようにいくと、蜀漢の後主の劉禅(張飛の娘が彼の皇后)は、どうやら曹操の従孫の娘婿にかぞえられる。

■■おのおのその主に仕えて:出会うことは稀でも、私情は忘れない
 建安五年正月に、曹操自ら率いた軍が劉備を打ち破って、徐州をふたたび占領してからより、曹・劉の両陣営はずっと鋭い対立の情勢にあった。だから、曹操と張飛は親戚になったが、お互いに行き来する機会がなく、互いに親戚のよしみを通じあえなかった。しかし、たとえ双方が戦争しているあいだがらでも、完全にはこの特別な関係を忘れていない。
 建安二十四年(西暦219年)、劉備は進軍して(曹操と)漢中を奪い合った。建安二十年(西暦215年)以来ずっと漢中を守っていた夏侯淵は、劉備と交戦し、定軍山で黄忠に殺された。張飛の妻が、そのいきさつを聞いた後、「(夏侯淵の遺体を)埋葬してくれるよう願い出た」という。どうやらこれが叔父に対する一点の孝道であったらしい。
 魏の正始十年(西暦249年)、司馬懿が政変を起こし、曹爽の党派を滅ぼして、大権を独占した。当時、右将軍・「征蜀護軍」だった夏侯覇は、連座を恐れて、蜀国に身を寄せようとした。陰平に向かう途上で道に迷い、食糧が底をついたので、馬を殺して飢えを満たし、歩いていくと足を傷つけた。蜀漢はニュースを聞いて、急いで人を派遣して迎えた。夏侯覇が成都に到着すると、劉禅は自ら接見して、「君の父(夏侯淵)は戦いの中で害されたので、先人(劉備)が手をかけて殺したのではないぞ」とわざわざ彼に釈明している。劉禅はまた自分の息子を指して「これは夏侯(覇)どのの甥御だ」といっている。劉禅は夏侯覇を「厚く爵位を加え、寵遇し」て、彼を車騎将軍とした。夏侯覇は蜀漢の後期の重要な将領のひとりとなった。

  [対話]
■■小説はこの背景を捨てており、とても惜しまれる。
早報記者:曹操と張飛の親戚の関係はどのように考証して出てきたのですか?
 沈伯俊:《三国演義》は、六百数十年前に羅貫中が史実を根拠に写生した小説です。曹・張の親戚関係に対する考証は、主に多くの史料の中から手がかりを探しました。《三国志》は最も主要な考証の道具です。曹魏の集団のなかでも、夏侯惇・夏侯淵の一族は高貴で権勢が高く比類がありませんでした。だから、陳寿は《三国志》を書く時、はっきりと夏侯惇・夏侯淵や曹仁、曹洪などの曹氏の親族を一伝にまとめて、《諸夏侯曹伝》と名づけました。
早報記者:曹・張の親戚関係は元来とてもよい小説の材料なのに、羅貫中はどうしてこの事実を捨てたのですか?
 沈伯俊:羅貫中が《三国演義》を文章に書く時、まったくこの点に触れず、張飛の妻はもとから顔を出すことがありませんでした。夏侯覇が蜀漢に身を寄せる時を書いても、同じく省略されています。羅貫中がこの特別な親戚関係に気づいていないのか、家庭の生活を描写したくないためにわざとこの事実を捨てたのか、それともこの点を書いて作品の中の「尊い劉氏が曹氏を制する」という考えの傾向をあいまいにしてしまうのをおそれたのか、これは分かりません。これはひとつの解釈を求めにくい謎です。謎の答えがどのようなものでも、私はこれに対して残念な気持ちを感じます。

  [観点]
■■曹操のイメージはひとつの文化現象だ
 沈伯俊氏は、曹操の麾下には謀士が最も多く、海内の一代の英雄たちが縦横に走るなか、曹操はもっとも早く人材を招き寄せることに注意をはらったと言っている。曹操はちょうど兗州で自立して、積極的に有能な人々を集め、郭嘉、劉曄、満寵といった重要な謀士たちを次から次へと彼の幕下に帰順させ、「猛将は雲のごとく謀臣は雨のごとく」といったふうに急速に盛んな勢力を形成した。歴史上での曹操に対する評価は、一面では罵声をあびているが、けっして真っ黒ではない。西晋から晩清の1600年あまりの時間の中では、曹操に対する毀誉褒貶があり、曹操のイメージは今後も依然としてひとつの文化現象として人々に議論されるだろう。
 「文学でイメージされた曹操は、歴史人物の曹操の真実の複製品ではない。しかし、それは歴史人物の曹操の基本的な特徴を演繹したものである。その特徴とは、雄才にして大略あり、志が統一にあった傑出した政治家としての一面と、極端に利己的で、人民に対して残酷な封建的統治者の一面とである。兵法の極意に精通しており、用兵に長じている一面であり、また賢く有能なものをねたむ一面である。」沈伯俊氏は、曹操のイメージは千百とある同類型の封建的統治者の品性を集めたうえ、さらに高次のものをそなえており、より広い範疇での歴史的真実性を持つと言っている。
 中国の文学史上において、曹操のように墨の深みと濃淡のような真偽・善悪・美醜を集めた像を封建的政治家の典型とみるのは難しい。曹操のイメージの複雑性は、人類社会にある自律的な発展の歴史の過程の中で、功利を求めることと、道徳の進歩へのあこがれとの矛盾した関係を体現している。人々が、曹操の性格に道徳的批判の意義を見出すとき、深刻な啓示に到達するだろう。人類は絶えず物質的文明を推進すると同時に、決して真善美に対する追求を軽視することはできないのだという。

  [間違いを正す]
■■張飛の字は「益徳」であり「翼徳」ではない
 張飛は《三国演義》の中で知名度のきわめて高い人物だ。彼の字(あざな)について話が及ぶと、多くの人はいずれも迷いもなく「字は翼徳」という。「実は、これはひとつの根強い習慣的な誤りで、正しい言い方は『字は益徳』のはずだ」沈伯俊氏はきわめて真剣にいう。
 沈伯俊氏は、文学作品が張飛のように歴史上で実在する人物を描写するとき、その姓・名・字は史書の記録のまま抜き出すべきで、思うままに変えるべきでないと思っているという。これと、ストーリーを構成して人物の芸術的な虚像を作るのとは、完全に別のことだ。《三国演義》は、張飛の芸術的イメージを形作るため、多くのすばらしいストーリーを設計しており、その中の「怒って督郵をむち打つ」、「虎牢関の前で呂布と戦う」、「夜に馬超と戦う」などの人々によく知られたストーリーは虚構であるが、これは芸術上のことで許されるし、みごとに成功をおさめている。しかるに人物の字や号を変えるのは、イメージを形成するいかなる助けにも決してならず、ある誤りを醸成することができるだけだ。沈伯俊氏の分析によると、何人かの人が、張飛の名の「飛」のためかもしれないが、史籍の明文の記録を顧みることなく、字面だけを見て憶測解釈して、勝手に「益徳」を「翼徳」に変えたのだ。
───「早報」記者:雲源/実習生:趙陳/撮影:韓傑


 人物: 沈伯俊、男性、1946年4月重慶生まれ、原籍は安徽省廬江。1970年四川大学外文系を卒業。1980年中国社会科学院の人員募集の試験に参加し、文学専門で四川省第一位の成績をおさめた。四川省社会科学院の文学研究所で古典文学の研究に従事する。現在、文学研究所所長・研究員。中国《三国演義》学会常務・副会長兼秘書長、中国俗文学学会理事、四川三国文化研究所所長を兼任している。
 主要な著作:《三国演義辞典》、《校理本三国演義》、《三国演義》評点本、《羅貫中と<三国演義>》など。その中でも《三国演義辞典》は、全国古籍優秀図書賞を獲得して、そして日本語版・韓国語版を出版しており、何種類かの《三国》ものを整理して国内外の学術界の高度な評価を受けて、「沈本《三国演義》」だと讃えられている。


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