枕流亭・本館

廁の話


  中国のトイレの歴史について。お食事中のかたや下品な話の嫌いなかたはご遠慮ください。

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 ☆廁に落ちて死んだ君主
  『春秋左氏伝』成公十年(前581)の話。細かいところは端折っていきます。
  晋の景公はあるとき夢に亡霊を見た。桑田の巫がその夢解きをして「今年収穫した新しい麦を召し上がることはできないでしょう」と予言した。
  その年の六月、景公は献上された麦を調理させて、いざ食べようという段、急に腹がおかしくなったので、廁に行ったところ転落して亡くなった。
  このころの廁でポットンするための穴はきわめて深く、その下に便を受ける壺があったらしい。注意をおこたると危険な構造をしていたにはちがいない。

 ☆廁で豚を飼う
  古代の中国では、廁の穴の中で豚を飼っていた。豚は人糞を食って生きていたのである。呂后が戚夫人を殺したときの人豚事件も、このことを理解していないとその陰険さは理解できない。

 ☆王敦の干しナツメ
  『世説新語』紕漏篇に見える話。晋の王敦が襄城公主と結婚した当初、廁に行ったところ漆塗りの箱に乾棗が盛ってあった。王敦は廁にも食用の果物が用意してあるものと思いこみ、全部食べてしまった。実はこの乾棗には悪臭を防ぎ、乾燥すると芳香を出す特性があり、貴人が廁に入るときに鼻につめるためのものだった。
  
 ☆全裸でトイレ
  加藤四季のマンガ『お嬢様と私』(白泉社)P131でネタにされているが、昔の貴人は裸で用を足した。衣服に用便の臭いが染みつくのを避けるためである。衣服を脱がせ、着替えさせる係がおり、これを「更衣」といった。たとえば衛子夫は漢の武帝の更衣をつとめたところから、寵愛を受けていたりする。脱線だが、日本の源氏物語あたりで「桐壺の〜」とか女官の位があるが、トイレの意味は消えているはず…だ。
  また晋の石崇は、廁にいつも美しく着飾った十数人の端女を並ばせ、香を焚いて新しい衣服に着替えさせたので、たいていの客は恥ずかしくて廁に行けなかったという。

 ☆何で拭いたか
  紙が貴重品だった時代、大便の後のお尻を何で拭いたのか。その答えは籌(ちゅう)と呼ばれるものである。籌という木片で弾き落とし、ぬぐった後、浄水で洗ってから服を着る。けっこう面倒な作業である。
  廁で紙を使用した記録は元代になってはじめて見える。皇太子チンキムの妃が世祖皇后(チャピ)に孝事して廁で使う紙を頬でこすって柔らかくしたという話が見える。

 #参考文献
  尚秉和・秋田成明編訳『中国社会風俗史』(平凡社東洋文庫)


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