枕流亭・本館

南漢国の興亡



 ここでは、五代十国のうち最南に位置した王朝「南漢」(917-971)の歴史を扱います。
 なかなかエキゾチックで面白い題材なので、少し小説っぽく料理しようとも思ったんですが、 いかんせん筆力と構想力の不足のために断念しました。どうせへたな料理にするよりはと、生の材料に 近いかたちにしておきました。おかげで年代記っぽく淡泊な文体になってますね(笑)。まあ相変わら ず読みにくい文章ですみません。
 創作を入れたわけではないのですが、どこかで聞いたような話もちらほら見られると思います。 大ざっぱな地図をふたつ用意したので、分かりにくければ参照して下さい。
   *目次*
1.南海の覇者たち
2.殺人王の憂鬱
3.劉氏を滅ぼす者は龔なり
4.南漢の特異性
五代十国要図
嶺南地方要図
参考文献

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1.南海の覇者たち

 五代十国の世に、六十七年の栄華をほこった南漢国主劉氏のことを語ろうと思う。

 南漢劉氏の出自については諸説がある。劉氏の祖先は、『旧五代史』によると
彭 城の人だという。また『新五代史』によると、上蔡の人ともいう。じつはアラ ブ出身なのだという研究者さえいる。
 歴史にその名が現れるのは、劉安仁という人がはじめである。閩中に 移住し、南海交易をおこなって栄えた。の官吏としても 潮州長史(州刺史の補佐)まで上った。
 唐の咸通年間(860-874)、劉安仁の子の劉謙は、広州に下向してきた唐の宰相 の韋宙のもとで牙校となった。かれの地位は低かったが、才気煥発であったので韋宙の目にとまり、韋宙の 娘をめとったという。

 唐朝は衰え、各地で節度使・藩鎮の割拠が進むなか、塩の密売人や没落した小農民を中核とした 大叛乱が山東より勃発する。これが黄巣の乱(875-884)である。中原を転戦して官軍に追われた 黄巣軍は、乾符六年(879)九月に広州になだれこみ、周辺の州県を荒らし回った。一月後に黄巣軍は退 いたが、劉謙はこの間に官軍側に立って戦い、戦功を上げたらしい。
 劉謙は、功績によって封州刺史・賀水鎮使(賀江鎮遏使)に 推挙されて任につき、梧州桂州より西を守備した。 管轄する兵は一万人におよび、管轄する戦艦は百余隻におよんだという。
 さて、劉謙の三人の息子は、劉隠、劉台、劉巌といった。

***

 南漢烈祖(南平襄王)の劉隠は、劉謙と韋氏のあいだの長男である。乾寧元年(894)に 劉謙が亡くなると、麾下の賀水諸将の無頼のものたちは、これを機に乱を起こした。劉隠は、計略をもって かれらを制圧した。嶺南節度使の劉崇亀はこれを聞いて、劉隠を右都押牙に任じ、劉謙の旧領の賀水鎮 を与え、封州刺史に推挙して上奏したので、劉隠はどうにか父の職を継ぐことができた。
 乾寧三年(896)ころに、劉崇亀は死に、薛王の知柔が代わって清海節度使(広州守備を任 とする)となったが、湖南までやってきて、広州の将軍の盧琚や覃[王巳](譚 弘[王巳]ともいう)が叛乱を起こして入境を拒んだので、知柔は進めなくなってしまった。 劉隠は、封州の兵を率いて端州で覃[王巳]をだまし討ちにし、広州を攻めて盧琚を斬って、 知柔を迎えた。知柔は劉隠を行軍司馬として召し出した。
 光化元年(898)、
韶州刺史の曾袞が挙兵して広州を攻め、また州の将の 王瓌が戦艦を率いてこれに呼応した。劉隠は一戦してこれをほうむった。韶州の将の劉潼が 湞・[氵含]に拠ったが、劉隠はこれを斬った。
 光化三年(900)、門下侍郎・同平章事の徐彦若が知柔に代わって清海節度使に任じられたので、 その下で劉隠は節度副使をつとめ、軍政を任された。
 天復元年(901)、徐彦若が亡くなると、広州の軍内は劉隠を留後(節度使の留守役・代理) に推薦した。唐朝はこれを許さなかったので、崔遠が節度使に任ぜられたが、崔遠は江陵まで いたって群盗がはびこっているのにおそれをなし、任地に向かおうとしなかった。劉隠は、朱全忠に 遣使して賄賂を重ねた。けっきょく天祐元年(904)にいたって、詔により劉隠は清海節度使に任ぜられた。 翌年、同平章事を加えられた。
 朱全忠が後梁を建てた開平元年(907)には、検校太尉を 加えられ、侍中を兼ね、大彭郡王に封じられた。二年(908)、王の 馬殷麾下の将・呂師周と戦い、昭・賀・梧・蒙・龔・富の六州を奪われた。
 この年、劉隠は清海節度使に加えて静海節度使(交州つまりハノイ守備を任とする) を兼ね、安南都護ともなった。またこのころ膳部郎中の趙光裔(趙光胤ともいう.趙隠の子. 趙光逢の弟)や右補闕の李殷衡(李衡ともいう.牛李の党争で有名な宰相・李徳裕の孫) らを登用した。
 劉隠は賢士を好み、唐末の乱を避けて南方にやってきた人々を多く迎えた。ほかにも、王定保 (容管の巡官)、倪曙(唐の太学博士)、劉濬(劉崇望の子) 、周傑(天文・暦に通じた.唐の司農少卿)、楊洞潜(邕管の巡官. のちに節度副使となる)らの名が挙げられる。
 三年(909)、検校太師を加え、中書令を兼ね、南平王に封じられた。
 四年(911)、劉隠は南海王に封ぜられ、この年の三月に亡くなった。享年は三十八歳であった。 弟の劉巌が代わって立った。

***

 南漢高祖の劉巌は、劉謙の庶子である。またの名を劉陟ともいう。母の段氏は外屋敷におい て劉巌を産んだ。
 劉謙の正妻の韋氏は嫉妬深かったので、段氏が子を産んだと聞くとおおいに怒った。そこでその子を 殺してしまおうと決意して、剣を抜いて家を飛び出した。ところが劉巌をひと目見たところおそれおの のいて、剣を地面に落としてしまったのだという(劉巌のどこにそんなに驚いたのかは正史では 定かでない)。ずいぶんたってから我にかえり、
「これはただの赤児ではない!」
 三日後、韋氏は段氏を殺し、劉巌をおのれの子として養った。劉巌は成長すると、騎射を よくし、身長は七尺で、垂れた手が膝にとどいたという。
 兄の劉隠が薛王知柔のもとで行軍司馬となったとき、劉巌はまた薛王府の諮議参軍として召し出 された。

 ときは唐末のころである。天下は麻のごとく乱れ、それは嶺南地方も例外ではなかった。
 
交州には曲裕・曲が、桂州には劉士政が、 邕州には葉広略が、容州には龐巨昭が、 それぞれ兵を率いて拠っており、割拠の状態にあった。また盧光稠が虔州に拠って 嶺上地方を攻め、その弟の盧光睦が潮州に拠り,子の盧延昌が韶 州に拠っていた。また高州刺史の劉昌魯や新州刺史の劉 潜および七十余のとりでは、みな節度使が統制することができなかった。 そこで劉隠はまず韶州を攻めた。劉巌は次のように兄を諫めた。
「韶州が頼りにしているのは盧光稠で、韶州を討てば虔州の兵が必ず応戦してきます。すると二面に 敵を受けることになって不利です。正面決戦を避けて、計略を用いてこれを取るべきです」
 しかし、劉隠はこれを聞き入れなかった。はたして敗れて帰ってきたので、それからというもの いくさ事には劉巌を必ず付けるようにしたので、七十余のとりでをことごとく平定し、劉昌魯らを殺して 代わりの刺史を置いた。また出兵して盧氏を攻め破って潮州、韶州を取った。また西に馬殷 と容州桂州の支配権を争って、馬殷が桂州を取って劉士政 を虜とし、劉巌は容州を取って,龐巨昭を追い出し、また邕州も取ったのだった。
 劉隠が節度使として広州に駐屯するようになると、劉巌はそのもとで副使をつとめた。

 開平四年(911)に劉隠が亡くなると、劉巌は兄に代わって立ち、留後となった。
 乾化二年(912)、清海節度使・検校太保・同平章事に任ぜられた。
 三年(913)、検校太傅を加えられた。この年に後梁の朱友貞(末帝)が即位すると、中書令・ 建武節度使(邕州守備を任とする)を兼ねた。さらに南海王に封ぜられた。

 貞明元年(915)、銭鏐呉越王に冊封されていたのに対抗 して、劉巌は南越王に封じられることを求めた。しかし後梁朝はそれを許さなかった。
「中原は事件が多いので、はたして誰が真の天子なのかさっぱり分からない。どうして万里のむこ うの偽の朝廷に仕えることができるだろうか?」
 こういって後梁への貢使を断絶した。

 貞明三年(917)八月、劉巌は皇帝の位につき、国号を大越とし、乾亨と改元した。祖父の劉安仁を文 皇帝と、父の劉謙を聖武皇帝と、兄の劉隠を襄皇帝と追尊し、三廟を立てた。百官を置き、楊洞潜を 兵部侍郎とし、李殷衡を礼部侍郎とし、倪曙を工部侍郎とし、趙光裔を兵部尚書とし、かれらをみな 平章事(宰相)とした。各州に刺史を置いたが、その刺史には武人がおらず、文官ばかりだったという。
 兵部尚書に任じられた趙光裔は、唐の貴族であったことを誇りとしていて、偽朝に仕えていること を恥と思っていた。それでいつも故郷に帰りたいと不平を鳴らしていた。劉巌は趙光裔の筆跡をまねて 偽手紙を書き、使者を派遣して間道より洛陽に向かわせ、趙光裔の子の趙損、 趙益のふたりとその家族郎党を召しだしたところ、みな無事に広州に到着した。趙光裔は驚喜して、 劉巌に忠誠を尽くすことを誓った。

 乾亨二年(918)、南郊において天を祀り、国内で大赦をおこない、国号をと改めた。
 かつて劉巌が帝号を僭称したいと考えたとき、王定保が反対するのをはばかって、王定保を 荊南に使者として派遣し、その隙をついて即位した。王定保が帰国して くるに及んで、非難されることをおそれ、倪曙をつかわして王定保の労をねぎらい、建国のことを告げ た。そこで王定保はいった。
「国を建てるには当然に制度というものがあります。わたしは南門から王城に入りましたが、清海軍の 古い額がいまだなお掛かっていました。四方の人々はこれがまだ取れていないことを笑うでしょうか」
 これを聞いて劉巌は笑っていった。
「わしには定保がついてくれて久しい。このことをもし忘れて定保をしりぞけたりすれば、非難される のも当然ということになろうな」

 三年(919)、越国夫人の馬氏を皇后に冊立した。馬氏は、楚王馬殷の娘である。
 四年(920)春、楊洞潜の建言により、貢挙(科挙)をおこなう役所を置き、進士、明経十余人を 選んだ。唐制のとおり、これは例年おこなわれるようになった。
 またこの年、前蜀に遣使した。
 六年(922)、劉巌は梅口鎮で遊んでいたところ、の将軍の 王延美の兵に襲われそうになったが、あやうく虎口を逃れた。

 七年(923)、後唐李存勗(荘宗)が 汴州に入って強盛をほこったので、劉巌はこれをおそれた。宮苑使の何詞を 派遣して入朝させて後唐の実力のほどを量らせた。このとき「大漢国主が大唐皇帝に書を致す」と称した のである。何詞が帰還すると、「後唐には必ず乱があり、憂慮するには及びません」と報告したので、 劉巌はたいへん喜んで、後唐と通交するのをやめた。
 劉巌は、なにごとにもおおげさに誇示することを好んだ。 嶺北の商人たちが南海にやってくると、よくこれを召しだして、宮殿に上らせ、珠玉の富を誇示した。 自ら家はもともと咸秦の出であると言い、後唐の天子のことを「洛州刺史」と呼んだりした。
 この年、雲南驃信の鄭仁旻(南詔の後継政権・大長和国の二代目の王)が使者を 派遣して朱色のたてがみの白馬を持参して通婚を求めてきた。使者は「皇親母弟、清容布燮兼理、金錦袍 虎綾紋攀金装刀を賜う、帰仁慶侯に封ぜらる、食邑一千戸、持節・鄭昭淳」を自称していた。鄭昭淳は 学問を好み文章の修辞にたくみであったので、劉巌は遊宴において詩を賦させたところ、劉巌や群臣は いずれもかれの詩に及ぶことはできなかった。そこで劉隠の娘にあたる増城公主を鄭仁旻にめあわせる こととした。

 八年(924)、南宮が建てられ、王定保が「南宮七奇賦」を献じてこれをめでた。
 この年、劉巌は親征して閩を攻めたが敗れた。

 九年(925)冬、白龍が南宮の三清殿で見られるという瑞祥があったという。このため白龍と改元された。
 劉巌は、この瑞祥にあやかって劉龔と改名した。
 この瑞祥があったとき、ある胡僧が言ったという。
「讖書に『劉氏を滅ぼす者は龔なり』と出ている」
 そこで字を変えて劉龑とした。「龑」の字は、新しく作られた字であり、『周易』の 「飛龍在天」の意味を取ったもので、音は「儼」と同じとされた。

 白龍四年(928)春、楚が舟を使って軍を封州に侵攻させた。封州の兵は賀江に おいて敗れた。劉龑は憂慮して、『周易』でこれを占ったところ、たまたま「大有」の卦に当た った。このため国内で大赦をおこない、大有と改元した。
 蘇章を派遣して、神弩軍三千をもって封州を救わせた。
 蘇章は二本の鉄製の綱を賀江を横断するように沈め,岸上に巨輪を用意しておき、堤を築いて これを隠しておいた。軽舟でもって戦をしかけ、いつわって敗走したところ、楚の兵はこれを追撃してきた。 蘇章は巨輪を使って綱を引き楚の舟をつかまえた。強弩をもちいて江の中の楚軍をはさみ射ちにし、 ことごとく楚の兵を殺した。
 またこの年、劉龑は籍田の礼(天子が祖先に供える米をみずから耕作する儀式) をおこなった。

 さて、かつて交州の地は曲が拠ったところであるが、その子の曲承美も その地盤を引き継いでいた。曲承美は、以前に後梁に遣使して旄鉞を授けられ、交州の支配権を公認され ていた。劉龑にとってはそれが長らく不満の種であった。
 大有三年(930)、李守鄘(李知順?)と梁克貞を派遣して交趾(交 州)を攻めた。二将はみごと曲承美を捕らえて劉龑に献じた。
 曲承美が広州に連行されたので、劉龑は義鳳楼に登って捕虜の接見をしたとき、曲承美に 対していった。
「君はいつもわしの朝廷を偽朝廷とさげすんできたが、今はかえって北面して縛についている。 どうしてかな?」
 曲承美は頓首して罪をわびたので、劉龑はこれを許した。
 この年、梁克貞はさらに占城(チャンパ、ヴェトナム南部 の王国)を攻めた。その宝物財貨を掠奪して帰還した。

 四年(931)、愛州の楊廷芸が叛乱を起こし、交州刺史の李進を攻めた。 李進はのがれて広州に帰還した。劉龑は承旨の程宝をつかわして廷芸を攻めたが、程宝は戦死した。

 五年(932)、子の耀枢を邕王に、亀図を康王に、洪度を秦王に、洪熙を晋王に、洪昌を越王 に、洪弼を斉王に、洪雅を韶王に、洪沢を鎮王に、洪操を万王に、洪杲を循王に、洪暐を息王に、 洪邈を高王に、洪簡を同王に、洪建を益王に、洪済を弁王に、洪道を貴王に、洪昭を宣王に、 洪政を通王に、洪益を定王にそれぞれ封じた。

 九年(936)、将軍の孫徳晟を派遣して蒙州(象州?)を 攻めたが、勝てなかった。

 十年(937)、交州の牙将の皎公羨が楊廷芸を殺して自立した。廷芸の旧将の呉権が交州を攻めた ので、皎公羨は(恥も外聞もなく)援軍を請うために広州へ使者を出した。 劉龑は息子の洪操を交王に封じて先鋒とし、みずから出兵して皎公羨を救援しようとした。
 劉龑は海門に兵を進めたが、呉権はすでに皎公羨を殺しており、呉権は河口で南漢の水軍を 迎撃した。呉権はひそかに海中に鉄のくいを植えており、呉権の兵は満潮に乗って乗り越えたが、洪操は これを追って引き潮に船を戻されて、くいに船底を轢かれてみな転覆してしまい、洪操は戦死した。
 劉龑は残軍を収めて帰還の途についた。

 劉龑は聡明でもあったが、性格が苛烈で残酷でもあり、刀鋸、支解、刳剔、炮烙、截舌、 灌鼻の刑などをおこなったという(どんな刑罰であるかはあえて解説しないでおく)。 人を殺すのを見るたびに、その喜びにたえられず、無意識にあごを下げ、よだれを垂らしうめき声を上げ て、あたかも人の姿を借りたみずち(竜の一種)のようであったという。
 またかれは奢侈を好み、南海の珍宝をことごとく蒐集し、西は黔州・蜀と 通交してその珍玩をえた。治世の末年には、玉堂珠殿を建て、金碧翠羽で飾りたてたという。
 また嶺北の諸藩とも歳時に応じて通交し、使者を送っていた。

 十五年(942)夏四月、劉龑は亡くなった。享年は五十四。諡は天皇大帝、廟号は高祖、陵墓は 康陵という。子の劉玢が代わって立った。




2.殺人王の憂鬱

 殤帝劉玢は、劉龑の三男である。はじめの名を洪度といい、賓王に封じられて いた。のちに秦王に改封された。劉龑の子の耀枢、亀図がみな早死したので、劉玢が後継者と なったのである。
 劉龑が病にふせって床にあり、右僕射の王翻を召して語りあったことがあった。このとき、 洪度、洪熙の小字を呼んでいった。
「寿(洪度)、儁(洪熙)は成長しているといっても、いずれもわしの事業を任せるにはもの足りない。 ただ洪昌だけがわしに似ている。わしはこれを立てたいと思う。それにしてもわしの子孫たちの不肖な ことといったらどうしたらよいものだろうか。鼠が牛の角に入る(将来が先細りになるたとえ) ように、後世は勢いが尻すぼみになるだろうな!」
 こうしてすすり泣いた。王翻は、劉龑のために、洪度を
邕州 に、洪熙を容州にそれぞれ出し、しかる後に洪昌を太子として立てるように謀った。 密議が定まったところ、崇文使の蕭益が見舞いに入室してきた。劉龑はこのことを告げた。
 蕭益は諫めていった。
「年少者を立てて、年長者がこれを争うとしたら、禍はここから始まるのですぞ!」
 こういうわけでどうにか洪度は父の没後に立つことができた。玢と改名し、光天と改元し、 尊母の趙昭儀を皇太妃とし、晋王洪熙を輔政とした。

 劉玢が即位すると、はたしてやはり王業を任せることのできないていたらくであった。父 劉龑の殯(かりもがり=死体の安置期間)のあいだであるのに、楽士を召しだして 音楽を鳴らし、宮中で飲酒し、裸の男女をたわむれさせ、あるいは喪服を着て遊女と夜間外出し、民家に 出入りするという具合である。こういうふうであるから国内でも盗賊がきそって蜂起し、妖人の張遇賢 というものが、中天八国王を自称して循州を攻め落とした。劉玢は越王の 洪昌と循王の洪杲を派遣してこれを攻めた。張遇賢は銭帛館で洪昌らを包囲した。裨将の万景忻や陳道庠 が力を尽くして戦ったので、二王に囲みを破られて張遇賢は敗走した。劉玢はそれでもかえりみる ことがなかったので、嶺東はいずこも乱れた。

 洪熙はわざわざ芸人や歌手を献上して劉玢を放恣荒淫の道に誘った。劉玢は諸弟の 意図を疑い、宦官に命じて宮門を守らせ、宮殿に入る者は縄一本さえ取りあげられた。洪熙、洪杲、洪昌 の兄弟は、陳道庠を使って劉思潮、譚令禋、林少強、林少良、何昌廷らといった勇士を養わせ、 劉玢に献じる名目で相撲を習わせた。劉玢は長春宮で宴をもよおし、かれらの相撲を観覧 した。劉玢が酔って眠りこけ、眼をさましたところ、陳道庠と劉思潮らが寝室にきていた。 かれらは劉玢を素手でひしぎ殺した。またことごとくその左右の側近たちを殺した。劉玢は、 立つこと二年で亡くなった。享年は二十四で、諡は殤帝といった。弟の劉晟が代わって立った。

***

 中宗劉晟は、劉龑の四男である。はじめの名を洪熙といい、勤王に封じられた。 のち晋王に改封され、父の死後は兄皇帝の劉玢の輔政をつとめた。兄を弑逆して自ら即位し、 応乾と改元した。弟の洪昌を兵馬元帥・参知政事とし、洪杲を副元帥とし、また劉思潮ら功臣を封じた。 劉晟は兄を殺して順を踏まずに即位した負い目もあったので、人々が服従しないのをおそれて、 峻厳な刑法でもって人々を威伏させようとした。
 かつてから皇弟の洪杲はしばしば賊を討つことを願い出ていたのだが、外征に反対する劉思 潮らを誅するようひそかに劉晟に勧めた。劉晟は大いに怒り、使者をつかわして夜中に洪杲を召し だした。洪杲は逃れられないことをさとった。使者をとどめて沐浴して体を清め、仏前に詣でて祈った。
「洪杲は誤って王宮に生まれてきてしまいました。今殺されようとしています。 来世はぜひ民家に生まれて、殺されることだけはごめんこうむりたいものです」
 涕泣して家人と訣別し、しかるのち召しに応じて宮殿に赴いた。しかしてやはり洪杲は殺された。
 冬、劉晟は南郊に天を祀り、乾和と改元した。群臣は「大聖文武大明至道大光孝皇帝」と 尊号を奉った。

 乾和二年(944)夏、洪昌を派遣して海曲で襄帝陵をまつらせた。昌華宮にいたったところで、劉晟は 盜人に洪昌を刺殺させた。劉晟は洪杲を殺してからというもの、諸弟に隙あらばこのようにしていた。 とくに洪昌は最も賢く、父の劉龑が後継者に立てようとしていた者であるので、劉晟はもっとも これを嫌っており、ゆえに先に害したのである。
 鎮王の洪沢は
邕州におり、善政をしいていた。この年、鳳凰が邕 州で見られるという瑞祥があった。劉晟は怒って、人をやって洪沢を毒殺させた。

 三年(945)、その弟の洪雅を殺し、また劉思潮ら五人を殺した。劉思潮らが死んだので、陳道庠は おそれおののき、不安でならなかった。その友人のケ伸は、荀悦の『漢紀』をかれに手渡した。陳道庠は なんの符丁か分からなかったので尋ねると、ケ伸は罵った。
「愚かもの!韓信は誅され、彭越は塩辛にされたと、みなこの書にあるとおりじゃないか!」
 陳道庠は悟って、ますますおそれた。劉晟はこれを聞いて大いに怒り、陳道庠、ケ伸ともに獄に 下し、みな斬ってさらし者にし、その一族も殺した。
 右僕射の王翻を英州刺史としたが、人をやってこれも路上で殺させた。

 五年(947)、劉晟の弟の洪弼、洪道、洪益、洪済、洪簡、洪建、洪暐、洪昭が、同日に みな殺された。

 六年(948)、工部郎中、知制誥の鍾允章を楚に派遣して通婚のよしみを求めた。しかし楚はそれを 許さなかった。鍾允章がむなしく帰国してきたので、劉晟はいった。
「馬公はまた南の地を経略できる力をたくわえたのだろうか?」
 この時、馬希広(廃王)があらたに立ち、馬希萼(恭孝王)が武陵で起兵して、 湖南(楚)は大乱となっていた。鍾允章は、楚を攻めることができることをことこまかに申し上げた。 そこで劉晟は、巨象指揮使の呉cと内侍の呉懐恩を派遣して賀州を攻めさせ、ほどなくこれに勝利した。 楚の軍がおくれて救援にあらわれたが、呉cは城下に大きな落とし穴を掘って、その上を簾でおおって 土を敷いて偽装した。楚の兵が城に迫ったところ、ことごとく落とし穴の中におちいり、死者数千を 出して楚軍はみな敗走した。
 呉cらは、桂州および連、宜、嚴、梧、蒙の五州を 攻め、いずれも勝利した。さらに全州で掠奪をおこなって帰還した。

 九年(951)冬、内侍の潘崇徹をつかわして郴州を攻めた。 南唐李m(元宗)の兵がいたので、潘崇徹の兵と遭遇し、 戦いとなった。宜章において李mの兵をおおいに破って、ついに郴州を取った。これにより 南漢の版図は最大となった。
 劉晟はますます図に乗り、巨艦指揮使の曁彦贇を派遣して兵をもって海に入らせ、商人を襲っ て金帛を掠奪して、離宮を作り遊猟するための資金に充てた。このためときに劉氏は南宮、大明、昌華、 甘泉、玩華、秀華、玉清、太微といった諸宮をおよそ数百有しており、そのすべてを記録することはでき ないほどであった。
 劉晟は気性がはげしく猜疑心が強かったので、臣下たちを信任することができず、このころは 宦官の林延遇や、宮人の盧瓊仙などといったこびへつらう側近たちのみを信任していた。林延遇や盧瓊仙 は、宮廷の内外をとわずに殺戮をほしいままにしていたが、劉晟はかえりみることがなかった。 劉晟は夜ごとに飲んでは泥酔していた。
 ある晩、芸人の尚玉楼のうなじに瓜を置き、剣を抜いて試し切りだといってこれを斬り、 あわせてその首も斬ってしまった。翌日酒の酔いが醒めると、またはべらせて飲むために尚玉楼を 召そうとしたが、左右の側近が「すでに殺してしまわれました」と申しあげると、劉晟はただ歎息 するのみであったという。

 十年(952)、湖南の王進逵が谿洞蛮を率いて兵五万で郴州に攻めてきた。 郴州を守っていた潘崇徹の軍は、王進逵を蠔石において破り、一万余の首級を斬った。

 十一年(953)、劉晟は病が重くなったので、その子の継興を衛王に、璇興を桂王に、 慶興を荊王に、保興を祥王に、崇興を梅王にそれぞれ封じた。

 十二年(954)、劉晟はみずから籍田の礼をおこなった。
 この年、交州の呉昌濬が使者を送ってきて臣と称し、節鉞(天子が将軍に下す旗と斧) を求めてきた。呉昌濬は、呉権の子である。呉権は劉龑のとき、交州に拠った (越呉朝)。劉龑は息子の洪操を派遣してこれを攻めたが、 洪操は戦死してしまった。その後劉龑は交州を放棄して、二度と攻めようとしなかった。 呉権が亡くなると、子の昌岌が立ち、昌岌が亡くなると、弟の昌濬が立った。呉昌濬のときになって はじめて南漢に対して臣と称したのである。
 劉晟は給事中の李璵に天子の旗を持たせたうえ、呉昌濬を招くために交州に派遣した。 李璵は白州までいたったが、呉昌濬が人をつかわして李璵をとどめさせた。
「海賊が乱をはたらいていて、道が通じておりません」
 李璵はこのため行くことができなかった。
 またこの年、劉晟はその弟の洪邈を殺した。

 十三年(955)、劉晟はその弟の洪政を殺したので、これによって劉龑の諸子は劉晟自身を 除いて尽きてしまった。

 後周の顕徳五年(958)つまりは南漢の乾和十六年の二月に、 柴栄(世宗)が江北を平定した。劉晟は恐れおののきはじめ、京師に使者を派遣して修貢しようとした。 だが楚人が道をはばんだので、使者は行くことができなかった。劉晟は憂いのために顔色なく、 星占いに耽溺していった。
 六月、月蝕が牽牛星と織女星の間であったので、自ら占書に出ているものを調べたところ、 よくない卦が出ていたので嘆いていった。
「いったい誰が不死でいられるだろうか」
 このためまた甘泉宮で長夜の飲をなした。
 城北において葬域となるべき場所を占い、敷き瓦を運んでつかあなを工事するのを,劉晟は親しく 監督した。この年の秋八月に亡くなった。享年は三十九。謚は文武光聖明孝皇帝、廟号は中宗、陵墓は 昭陵といった。子の劉eが立った。




3.劉氏を滅ぼす者は龔なり

 後主劉eは、はじめの名を継興といい、衛王に封じられた。
 劉晟が亡くなると、長男であるということで立てられ、大宝と改元した。このとき十七歳であった。
 劉晟は、「群臣にはみな家に妻があり、また子孫のことを気にかけているので、かれらは忠義を尽 くすということができない。妻も子孫もない宦官だけが信任できるのだ」といって、その政治を龔 澄枢、陳延寿といった宦官たちにゆだねていた。群臣で任用されたいと思うものは、本心をかくして宦官 たちに媚びへつらうしかなかった。
 龔澄枢らが政治を専断しており、劉eは宮婢のペルシア人の女たちとともに 後宮でみだらな遊びにふけって、国事をかえりみることがなかった。あるとき陳延寿が巫女の樊胡子という 者を宮中に上げて、玉皇大帝がみずから胡子の身に降りてくるのだと称して劉eに勧めた。劉eは内殿に テントを設けて宝貝をならべさせた。樊胡子は冠が遠遊冠で、衣が紫がすみのすそという姿(つま り神仙の姿)で、とばりの中に座って禍福について述べた。彼女は劉eのことを太子皇帝と呼び、 国事はみな彼女によって決せられるにいたった。そこで盧瓊仙、龔澄枢らは争って彼女にへつら った。そのため樊胡子は劉eに言った。
「龔澄枢らはみな太子をお助けしに来た上天の使いです。罪があっても問うことはできません」
 尚書左丞の鍾允章が国政に参画するようになると、このありさまを深く憎んだ。しばしば宦官を誅殺 するように請願したので、宦官たちはみな目をつりあげた。

 大宝二年(959)、劉eは南郊に天を祀った。その三日前、鍾允章は礼官とともに壇上に登り、 四方に向かって指図していた。宦官の許彦真がこの様子をのぞみ見ていった。
「これは謀叛である!」
 かれが剣を抜いて昇壇したところ、鍾允章がこれを叱りつけたのだった。許彦真は宮殿に駆け 走って、鍾允章が叛乱したと告げた。劉eは鍾允章を獄に下して、礼部尚書の薛用丕をつかわして これを調べさせた。鍾允章と薛用丕は古い友情があったので、ともに泣いた。
「わたしは今罪なくして誣告によって死刑になろうとしている。しかしわたしの二子はともに幼く、 父のぬれぎぬを知らない。二子が成長するのを待って、君がこのことを告げてくれないか」
 許彦真はこのことを聞くと罵っていった。
「謀叛の賊がその子に仇を報いさせようというのか!」
 ふたたび宮中に入って劉eに申し上げ、あわせて鍾允章の二子を捕らえて獄につなぎ、ついに一族 を誅殺した。

 あるとき陳延寿が劉eにいった。
「先帝が陛下に国を伝えることができたのは、ことごとく弟君たちを殺したからです」
 こうして劉eに諸王を誅殺して除くよう勧めた。劉eはそれでその弟の桂王璇興を殺した のである。
 この年は、宋の建隆元年(960)にあたる。将軍の邵廷琄が劉eに述べた。 「わが漢が唐の乱れに乗じて、この地に拠って五十年になりますが、さいわい中国は自分たちのことで 手一杯で、戦禍をわが朝に及ぼしてきませんでした。漢は安泰無事であることにますます驕り、いま 兵たちはいくさの旗鼓というものを知らず、人主も国の存亡というものを知りません。しかし天下の乱れが 長くなれば、安定した治世に向かおうとするのは、自然の勢いというものです。いま宋に真の天子が 出現したと聞きますが、必ず海内ことごとく手中におさめようとし、その勢いは天下をひとつにせずには いられないほど激しいものとなるでしょう」
 邵廷琄は劉eに軍を整備して備えるように勧めたが、劉eはしたがわなかった。漢室の珍宝を 宋朝にたてまつって、使者を送ってよしみを通じた。 劉eは愚かで思慮がなかったので、邵廷琄の直言を憎んで、これを忌避した。

 四年(961)、霊芝のきのこが宮中に生え、野獣が皇帝の寝室近くを徘徊し、宮中の庭園で羊が 珠を吐き、井戸のそばの石が自ら立って、百余歩行って倒れるというような不思議な出来事が続いた。 樊胡子はこれらのことをみな符瑞であるとしてほのめかしたので、群臣は入朝して祝った。

 五年(962)、劉eは宦官の李托の養女を貴妃とし、もっぱら寵愛した。李托は内太師となり、 宮中の政務を専断した。
 (鍾允章を殺した)許彦真は、龔澄枢らが自分の上の地位にいるのを 憎んで、殺そうとはかった。しかし澄枢は人を使って許彦真が謀叛をたくらんでいると劉eに告げさせ、 これを返り討ちにした。

 七年(964)、宋の王師が南伐をおこない、郴州で勝利し、劉晟のころに派遣していた将軍の 曁彦贇と刺史の陸光図はともに戦死した。残兵は退却して韶州を保った。劉eは邵廷琄のことばを 思い出し、邵廷琄を派遣して舟兵を洸口に出して王師に抵抗させた。 宋の王師がいったん退却したのにあわせて、邵廷琄は兵士たちに教育し、戦を準備させたので、 嶺南の人々はかれを良将として信頼を寄せた。かれを貶めようとする者が、邵廷琄が謀反したと 匿名の怪文書を宮廷に流したので、劉eは使者を派遣してかれに死を賜った。軍中の兵士たちは 使者に会って、邵廷琄に謀反の事実がないことを訴えたが、けっきょく救うことができず、 邵廷琄は亡くなった。洸口に祠が立てられてかれの魂がまつられた。

 八年(965)、交州の呉昌文が亡くなって、その補佐官の呂處[王平]と峯州刺史の喬知祐が争って 立ち、交趾は大乱となった。驩州の丁lが挙兵してこれを撃破したので、劉eは丁lに交州節度使の位を 授けた。
 広州法性寺に一株の菩提樹があり、高さが一百四十尺という巨大なものだった。伝説によると 南北朝の梁のときに西域の僧の真諦が手ずから植えて、四百余年たったものだったという。 この年の夏に、大風が起こってこれが抜けてしまった。またこの年の秋に、劉eの寝室がしばしば雷の ために震えた。こうした異変を見て、識者は南漢が近く必ず滅亡することをさとったという。

 九年(966)、南海の民の妻にふたつの首と四本の腕をもつ子が生まれたと伝えられた。
 この年、宋の趙匡胤(太祖)は、李Uに詔して劉eをさとし臣と称させるように 命じた。劉eは怒って、李Uの使者の龔慎儀を捕らえた。

 十三年(970)、宋の潭州防禦使の潘美が詔を受けて出陣し、その軍隊が白霞に宿営した。 劉eは龔澄枢をつかわして賀州を守らせ、郭崇岳に桂州を守らせ、李托に韶州を守らせて宋の進攻に 備えた。この年の秋、潘美は
賀州を平定し、十月に昭州を平定 し、また桂州を平定した。十一月には連州を平らげた。劉eは喜んでいった。
「昭、桂、連、賀の四州は、もともとは湖南(楚)に属していたものだ。いま北の軍隊がこれを取って いったが、べつにこちらとしては結構だ。そんなところはまた返ってこなくてもかまわない」
 かれの愚かさというのはこんな具合であった。
 十二月に韶州が平定された。

 大宝十四年(971)つまりは宋の開宝四年の正月、英、雄の二州が平定されたので、南漢の将軍の 潘崇徹がまず降伏した。宋軍が瀧頭に宿営したので、劉eは使者を送って講和と軍隊進攻の緩和を求めた。
 二月、宋軍が馬逕を過ぎたので、劉eは右僕射の蕭漼を派遣して、降伏の表を奉った。 蕭漼は宋の陣営に行ったが、劉eが恐慌におちいって、麾下の軍隊にまた戦闘準備をさせたため、 降伏は拒否された。潘美らはさらに軍隊を進めたので、劉eはその弟の祥王保興を派遣して文武官を 率いて潘美軍に詣でて降ろうとしたが、容れられなかった。龔澄枢、李托らが謀っていうには、
「北の軍隊が来れば、わが国の宝貨はやつらを利するだけだ。焼き払って空城にしてしまえば、 軍隊が駐屯することができないので、みずから帰還するしかないだろう」
 こうしてかれらはことごとく府庫、宮殿を焼き払った。
 劉eは十隻余の海船に珍宝や嬪侍をことごとく乗せて、海上に逃れようとしたが、宦官の楽範が その船を盗んで逃げたため、引き返さざるをえなかった。
 宋の軍が白田に宿営していたので、劉eは白衣で白馬に乗った姿でこれに降伏した。宋の京師 (開封府)に捕虜として連行された。劉eは許されて左千牛衛大将軍となり、恩赦侯に封じられた。




4.南漢の特異性

 ひととおり南漢の建国から滅亡まで書いたところであるので、お目汚しなネタばらしや筆者の妄想 もふくめて、南漢国の特徴をここでまとめておこう。
 南漢はまずひとつに天下の覇権を争う気のなかった国であったといえるだろう。
 南漢は中原から遠く離れた南に位置していたので、後唐が前蜀を滅ぼした一時期を除いて、中原王 朝と直接に境を接することがなかった。もちろん後周・宋が南征してくる末期には、いやおうなく中原王 朝の直接の脅威にさらされたわけだが。
 直接境を接していたのは、閩と楚と蜀の三国。さらに南唐と接したのは中期以後である。 しかし南漢はかれらと本気で戦ったことがなかった。言い方がまずければ、総力戦とか存亡を賭けた戦い とか乾坤一擲の大いくさといったものをしたことがなかったと言いかえてもいい。
 建国期には湖南の楚の馬殷と抗争したが、勝敗あい半ばして和解し、婚姻を結んでいる。 のちに湖南大乱のどさくさでいくらかの領土をえたが、これも総力をあげて北伐したものとは思えない。
 高祖劉龑のときに、福建の閩と争うが、これも一敗地にまみれると、ふたたび争おう としなかった。蜀(前蜀・後蜀)とは一度も争った形跡がなく、積極的に通交していた痕跡が残るだけで ある。 
 南漢は地方の刺史に文官をあて、いっさい武官を使わなかった。これは宋の文人政治を先取りした ような統治手法であるが、戦乱の最中にこれを断行したというのはむしろ異様なことではなかろうか。 つまりは本気で戦争をする気はない−中原の天下を狙うつもりはない−ということを如実に示していない だろうか。
 しかし、ここから謎が生まれる。天下を狙うつもりのない国の主が、なぜ皇帝を名乗ったのか。 なぜ中原王朝と断交したのか。

 ここから筆者の妄想になるが、鍵は南漢劉氏の出自にあると思う。南漢劉氏の出身地がどこである かははっきりしないが、少なくとも太祖劉安仁の代からの商人であったことはまちがいない。しかも海を わたる交易商人であった。かれは潮州長史などという官位ももらっているが、やはり本業は商業であって、 官位は顔役としての箔つけ程度のものであったにちがいない。
 安仁の後を継いだ代祖劉謙は、やはり交易商人だったはずだ。かれが黄巣軍とどのように戦ったか は分からない。しかしいきなり刺史にまで出世できる武功というのは、一介の牙校には立てられないだろ う。たとえ韋宙の引き立てがあったにしろである。おそらくかれの所有していた武力は別にあり、それは 商人の自衛のための武装力であったと推測される。海上の交易商人には海賊から身を守るための武装が 必須であるし、また場合によっては商人自身が海賊化してしまうことすら、古今東西よくあることだ。 かれは封州刺史などという官位に上ってしまったが、余慶もあった。一万人の武装兵と百余隻の船が 公然と手に入ったのである。「これは新しい商売になる」とかれも気づいたはずだ。
 烈祖劉隠は波瀾もあったがなんとか父の事業を受け継いだ。いくさ上手というよりも陰謀家の かれは、父のはじめた新しい商売を軌道に乗せるために知恵をひねる。代々の広州の節度使におべっかを 使ってその副官におさまり、中央にも賄賂を重ねて箔のつく官位をいただく。そう!賄賂とはもともと 商人の得意芸だ。かくして節度使へ、さらには王に封じられるにいたった。 
 兄を継いだ高祖劉龑は商売の順調さに気をよくしたが、同時に悩んだ。王にまでなってしま うと、商人としてつけるべき箔として上のものはひとつしかない。それは「皇帝」だ。しかし皇帝は天下 にひとりだから、偽の皇帝を否定しなくてはならない。つまり中原王朝と断交しなくてはならないし、 これまでの中原への投資(賄賂)が無駄になる。しかし、かれは勇断を下した。後梁は弱体化しているし、 呉・楚・蜀を飛び越えて攻めてくることはありえない。かれの家の商売の邪魔になることはありえない。 こうしてついに皇帝を称したのだ。
 
 南漢の特異性は、このような武装商人の王朝であることに由来する。だから、海の上のこと にはとくに強い。ひとたびは交州を落とし、また占城(チャンパ)まで攻めて、財宝を掠奪して帰る。 長期的な占領にはこだわらない。これは国家による海賊行為、エリザベス朝のドレーク艦隊のようなやり 口だ。いや、武装商人国家としてはしごくまっとうな所業なのかもしれない。中宗劉晟の代になっても 商人たちの船から掠奪したりしている。これは商売がたきから奪ったという意味合いもあるのであろう。
 劉龑といい、劉晟といい、劉氏の諸帝は財宝を集め、宮殿を建てることに狂奔した。商人に とって成功とは、版図疆域を広げることではない。販路を広げ(諸国と通交し)、利潤を生みだし、地上 に富を積み上げることである。戦争が利益をもたらす場合にはおこなうが、それによって家運を傾けるな ど愚かなことである。 
 
 南漢末期の宮廷は、大商人劉氏のドラ息子の放埒と異国趣味とオカルトとに満ちている。 中華王朝の末期らしく宦官の専横があったりするが、その宦官すらなにやら神秘主義のベールをかぶって はたして中国の産かアラビア・イランの産か怪しく見えてくる。
 後主劉eは国の最後に、宋軍に追われて海上に逃れようとした。かれも武装商人の王朝の国主 として、王朝の元来の本拠がどこにあったか知っていたのだろう。
 もしかれが海上に逃れていれば、克Rの悲劇を三世紀早く再現していたであろうか?それとも 海上の覇権をもとに捲土重来を図り、いずこかの地に劉氏の国を再建したであろうか?


[五代十国要図]
五代十国要図
A.彭城(江蘇省徐州市)
B.上蔡(河南省上蔡県)
C.閩中(福建省福州市)
D.洛陽(河南省洛陽市)
E.汴州(河南省開封市)
F.黔州(重慶市彭水県)
王朝の配置は五代初期のもの。

[嶺南地方要図]
嶺南要図 潮州(広東省潮州市)
循州(広東省竜山県)
英州(広東省英徳県)
広州(広東省広州市)
連州(広東省連州市)
新州(広東省新興県)
韶州(広東省韶関市)
封州(広東省封開県)
高州(広東省高州市)
梧州(広西壮族自治区梧州市)
賀州(広西壮族自治区賀県)
昭州(広西壮族自治区平楽県)
全州(広西壮族自治区全州県)
桂州(広西壮族自治区桂林市)
容州(広西壮族自治区容県)
象州(広西壮族自治区象州県)
宜州(広西壮族自治区宜州市)
邕州(広西壮族自治区南寧市)
蒙州(広西壮族自治区蒙山県)
嚴州(広西壮族自治区来賓県)
虔州(江西省贛州市)
郴州(湖南省郴州市)
交州(ヴェトナム北部のハノイ市)
峯州(ヴェトナム北部の永富省越池)
愛州(ヴェトナム北部の清化市)


南漢国主劉氏世系
 太祖劉安仁−代祖劉謙−烈祖劉隠−(1)高祖劉龑−(2)殤帝劉玢−(3)中宗劉晟−(4)後主劉e


[参考文献]
『新五代史』巻六十五 南漢世家第五
『旧五代史』巻一百三十五 僭偽列傳二
『資治通鑑』巻二百五十三〜巻二百九十四
『陳舜臣中国ライブラリー別巻中国五千年史地図年表』(集英社)

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