枕流亭・本館

『新唐書』列女伝


 ヒマねたとして、『新唐書』列女伝をテキトーに訳してみようというだけの試み・・・たぶん誤訳のオンパレードです。
 いちおう解題しておくと、『新唐書』は北宋の欧陽脩・宋祁らの撰による唐(618〜907)一代の歴史書です。正史のひとつとして列せられてます。「列女伝」はその中の一巻で、女性たちの伝記の部分です。別に后妃伝があるので、韋后とか楊貴妃とかはここには出てきません。また別に諸帝公主の伝があるので、平陽公主とか太平公主とかも出てきません。
 内容は、劉向『列女伝』の系列と同様に賢母・貞婦・烈女を賞讃しているので、現代的女性観にはそぐわないものです。その点はご注意を。まあひと続きで読んでると変な気分になります。あまりに自分を大事にしない人たちばかりなので・・・。
 質は、無保証・無保障・無補償です。利用はご自由ですが、万が一にも損害が発生した場合、責任は一切負いかねますので、あしからず。
 底本は中華書局版『新唐書』です。ではでは。

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唐書卷二百五
列傳第一百三十

  列 女
李コ武妻裴淑英 楊慶妻王 房玄齡妻盧 獨孤師仁姆王蘭英 楊三安妻李 樊會仁母敬 衛孝女無忌 鄭義宗妻盧 劉寂妻夏侯碎金 于敏直妻張 楚王靈龜妃上官 楊紹宗妻王 賈孝女 李氏妻王阿足 樊彦琛妻魏 李畭母 汴女李 崔繪妻盧 堅貞節婦李 符鳳妻玉英 高叡妻秦 王琳妻韋 盧惟清妻徐 饒娥 竇伯女仲女 盧甫妻李 鄒待徴妻薄 金節婦 高愍女 楊烈婦 賈直言妻董 李孝女妙法 李湍妻 董昌齡母楊 王孝女和子 段居貞妻謝 楊含妻蕭 韋雍妻蕭 衡方厚妻程 鄭孝女 李廷節妻崔 殷保晦妻封絢 竇烈婦 李拯妻盧 山陽女趙 周迪妻 朱延壽妻王


 女子之行,於親也孝,婦也節,母也義而慈,止矣。中古以前,書所載后、妃、夫人事,天下化之。後彤史職廢,婦訓、姆則不及於家,故賢女可紀者千載間寥寥相望。唐興,風化陶淬且數百年,而聞家令姓窈窕淑女,至臨大難,守禮節,白刃不能移,與哲人烈士爭不朽名,寒如霜雪,亦可貴矣。今采獲尤顯行者著之篇,以緒正父父、子子、夫夫、婦婦之懿云。

 女性の道とは、親に対して孝行であること、妻にとって節を守ること、母にとって義(ただ)しく慈しみ深いこと、これらに尽きる。中古以前は、書に后妃や夫人の記録が載っていて、天下の女性は教化されていた。のちに女性の史官職が廃止されて、婦人の教えや、乳母のきまりは家庭に及ばず、そのため賢女として記されるべき者も千年の間に数が少なくなって、あい望まれるようになっていた。唐が興って、教化が行われて数百年、名誉ある家の立派な姓を持つしとやかな淑女たちは、大きな困難にのぞんでも、礼節を守り、あたかも抜き身の刃を移すことができないように、しぜんと哲人烈士たちと不朽の名を争って、まるで寒中の霜雪のようであった。また貴ぶべきではないか。今もっとも著名なものを取りあげて、もって父、子、夫、妻たちの賞讃すべきところを尋ねただすものである。

 李コ武妻裴,字淑英,安邑公矩之女,以孝聞郷黨。コ武在隋,坐事徙嶺南,時嫁方踰歳,矩表離婚。コ武謂裴曰:「我方貶,無還理,君必儷它族,于此長決矣。」答曰:「夫,天也,可背乎?願死無它。」欲割耳誓,保姆持不許。夫姻[女胃],歳時朔望裴致禮惟謹。居不御樅V。讀列女傳,見述不更嫁者,謂人曰:「不踐二廷,婦人之常,何異而載之書?」後十年,コ武未還,矩決嫁之,斷髮不食,矩知不能奪,聽之。コ武更娶尓朱氏,遇赦還,中道聞其完節,乃遣後妻,為夫婦如初。

 李徳武の妻の裴氏は、字を淑英といい、安邑公の裴矩のむすめであって、孝行であることで、村里に聞こえていた。夫の徳武は隋にあって、事件に連座して嶺南に左遷された。ときに嫁いでちょうど一年を越えていなかったので、父の裴矩はむすめを離婚させた。
 徳武が裴氏に述べていうことには、
「わたしはちょうどおとしめられ、本道に帰れない。君はぜひほかの者とつれあいとなって、長い道をまっとうなさい」
 裴氏が答えていうことには、
「それは天命ということでしょう。めぐりあわせにそむくことができましょうか?願わくはほかのところへ行くことなく死にたいものです」
 彼女は耳を割いて誓おうとしたが、守役の女性がまもって許さなかった。既婚の女性のように、歳月を重ねても裴氏はただただ礼節を守ってつつしんだ。家にいて香りつやを用いようとはしなかった。『列女伝』を読み、再婚せず節を全うした伝記が述べられているのを見て、人にいうことには、
「ふたつの庭を踏まないのは、婦人の常の道です。何がこの書物に載っていることと異なりましょう?」
 のち十年たっても、徳武はまだ帰ることができず、裴矩はむすめを別に嫁がせることに決めた。裴氏は髪を切って食事を絶ったので、裴矩はむすめの志を奪うことができないことを知って、これを聞きいれた。李徳武はさらに爾朱氏をめとっていたが、大赦にあって帰るとき、中途で裴氏が節義を全うしていることを聞き、そこで後妻を遣わして彼女を迎え、もとのように夫婦となった。


 楊慶妻王者,世充兄之女。慶以河間王子為郇王,守滎陽,陷於世充,故世充妻之,用為管州刺史。太宗攻洛陽,慶謀與王歸唐,謝曰:「鄭以我奉箕箒者,綴公之心,今負恩背義,自為身謀,可若何?至長安,則公家婢耳,願送我還東都。」慶不聽,王謂左右曰:「唐勝則鄭滅,鄭安則吾夫死,若是,生何益?」乃飲藥死。慶入朝,官宜州刺史。

 楊慶の妻の王氏は、鄭主の王世充の兄のむすめにあたる。楊慶は唐の河間王(李孝恭)の子を郇王として擁し、滎陽を守っていたが、王世充に陥されて鄭に降伏した。そのため世充は王氏を楊慶にめあわせて、管州刺史として用いたのだった。太宗(李世民)が洛陽を攻めると、楊慶は王氏とともに唐に帰順しようとはかった。王氏が夫に謝っていうことには、
「鄭はわたしを妻とし、あなたの心をつなぎとめ、恩義にそむかせています。もとより謀りごとをなす身の私は、どうすべきでしょうか?長安にいたったなら、わたしはあなたの家の婢(はしため)となるのみです。そうなる前に願わくは私を東都(洛陽)に送りかえしてください」
 楊慶は聞き入れなかった。王氏が左右に言うことには、
「唐が勝つことはすなわち鄭が滅ぶこと、鄭が安んじることはすなわちわが夫が死ぬこと、こういうことなら生きていて何の益があるだろうか?」
 こうして彼女は毒を飲んで死んだ。楊慶は唐に入朝して、官は宜州刺史となった。


 房玄齡妻盧,失其世。玄齡微時,病且死,諉曰:「吾病革,君年少,不可寡居,善事後人。」盧泣入帷中,剔一目示玄齡,明無它。會玄齡良愈,禮之終身。

 房玄齢の妻の盧氏は、その出身経歴が伝わらない。
 玄齢の身分が低かったころ、病にかかって瀕死の状態になったことがあった。玄齢はこれにかこつけて言った。
「わたしの病気がいよいよとなったら、君はまだ年も若いことだし、ひとり住まいをさせるわけにいかない。よい人をみつけて再婚しなさい」
 盧氏は泣いてとばりの中に入り、片目をえぐって玄齢に示し、よそに嫁ぐ道のないことを明らかにした。たまたま玄齢の病は快方に向かったので、夫婦の道は終身のものとなった。


 王蘭英者,獨孤師仁之姆。師仁父武都謀歸唐,王世充殺之。師仁始三歳,免死禁錮,蘭英請髠鉗得保養,許之。時喪亂,餓死者藉藉,游丐道路以食師仁,身啖土飲水。後詐為採薪,竊師仁歸京師。高祖嘉其義,詔封蘭英永壽郷君。

 王蘭英は、独孤師仁の乳母である。 師仁の父の武都が唐に帰順しようとはかったため、王世充は武都を殺した。
 師仁はこのとき三歳で、死を免じられて禁錮とされた。蘭英はかれを養うために髪を剃り首枷をはめて仕えることを願い出て、許された。ときに隋末唐初の争乱にあって、餓死者が多々散らばっているような食糧事情の悪いなかであったが、師仁には優先的に食べさせて道路に遊ばせ、彼女自身は土を食らい水を飲んで耐えた。
 のちに薪を取りにいくといつわって王世充のもとから脱出し、ひそかに師仁を京師(長安、つまり唐)に帰順させた。高祖(李淵)は彼女の義をたたえて、詔により蘭英を永寿郷君に封じた。


 楊三安妻李,京兆高陵人。舅姑亡,三安又死,子幼,孤窶,晝田夜紡,凡三年,葬舅姑及夫兄弟凡七喪,遠近嗟涕。太宗聞而異之,賜帛三百段,遣州縣存問,免其繇役。

 楊三安の妻の李氏は、京兆高陵の人である。
 舅と姑が亡くなり、三安もまた死に、子は幼く、ひとり貧苦し、昼は田畑に出て、夜は機を紡いだ。およそ三年で、舅姑および夫と兄弟ことごとく七回の葬喪をおこない、遠きも近きも同情の涙を流した。
 太宗(李世民)は、この話を聞いて普通でないと思い、帛三百段を賜い、州県に安否を問わせ、その夫役を免じた。


 樊會仁母敬,蒲州河東人,字象子。笄而生會仁。夫死,事舅姑祥順。家以其少,欲嫁之,潛約婚於里人,至期,陽為母病,使歸視。敬至,知見紿,乃外為不知者,私謂會仁曰:「吾孀處不死者,以母老兒幼,今舅將奪吾志,汝云何?」會仁泣,敬曰:「兒毋啼!」乃伺隙遁去,家追及半道,以死自守,乃罷。會仁未冠卒,時敬母又終,既葬,謂所親曰:「母死子亡,何生為!」不食數日死,聞者憐之。

 樊会仁の母の敬氏は、蒲州河東の人であり、字を象子という。成人して会仁を生んだ。夫が死んで、舅や姑につかえて忌みあけにしたがった。
 家は彼女がまだ若く、再婚させたかったので、ひそかに里の人に対して結婚の約束を結んだ。 時が来ると母が病気であるといつわって、敬氏を実家に看病に帰させた。
 敬氏はやってきて、あざむかれていたことを知ったが、外づらでは知らないふりをして、 こっそりと会仁に告げて言うことには、
「わたしはやもめだが、母が老いていて子であるおまえも幼いものだから、まだ死ぬわけにいかない。ところが舅がいま私の志を奪おうとしている。おまえはどうしようか?」
 会仁は泣きだしたが、敬氏は言うことには、
「我が子よ、泣いてはいけない!」
 敬氏は隙を見て再嫁先から逃げ去った。家は彼女を追及したが、中途で断念した。というのも、彼女が死をもって自分の志を守ったからである。
 ときに会仁はまだ成人しないうちに亡くなり、ときに敬氏の母もまた亡くなって葬られたので、彼女が身内に告げて言うことには、
「母が死んで子も亡くなって、何の生き甲斐があるだろうか!」
 絶食して数日して死に、聞いた者はこれをあわれんだという。


 衛孝女,絳州夏人,字無忌。父為郷人衛長則所殺,無忌甫六歳,無兄弟,母改嫁。逮長,志報父仇。會從父大延客,長則在坐,無忌抵以甓,殺之。詣吏稱父冤已報,請就刑。巡察使褚遂良以聞,太宗免其罪,給驛徙雍州,賜田宅。州縣以禮嫁之。

 衛孝女は、絳州夏の人で、字を無忌という。彼女の父は郷里の衛長則という人に殺されたが、無忌はやっと六歳になったばかりで、頼りになる兄弟もおらず、母もやむなく再婚してしまった。無忌は成長するにおよんで、父の仇に報ずることを志とした。
 あるとき、たまたまおじに引き合わされた客のなかに仇の長則がいたので、無忌は瓦をうちつけてこれを殺した。父のうらみに報じたと称して役人のもとに出頭し、刑罰を受けられるように頼んだ。
 巡察使の褚遂良が奏聞したので、太宗(李世民)はその罪を免じ、彼女に宿場を給して雍州に移し、田宅を賜った。州県は彼女に敬意をはらって嫁ぎ先を世話した。


 鄭義宗妻盧者,范陽士族也。渉書史,事舅姑恭順。夜有盜持兵劫其家,人皆匿竄,惟姑不能去,盧冒刃立姑側,為賊捽捶幾死。賊去,人問何為不懼,答曰:「人所以異鳥獸者,以其有仁義也。今隣里急難尚相赴,況姑可委棄邪?若百有一危,我不得獨生。」姑曰:「歳寒然後知松柏後凋,吾乃今見婦之心。」

 鄭義宗の妻の盧氏は、范陽の士族である。五経や史書を広く読み、舅や姑につかえてうやうやしくしたがっていた。
 ある夜、盗賊が武装して彼女の家を襲ったことがあった。家人はみな逃げ隠れたのに、姑だけが逃げ遅れてしまった。盧氏は姑のそばに立って刃に立ち向かい、賊にむち打たれてあやうく死ぬところであった。
 賊が去ったので、ある人がなぜ恐れなかったのかと彼女に尋ねると、答えていうことには、
「人が鳥や獣と異なっているのは、仁義の心をもっているからです。今もし隣の村で急な難事が起こったら、お互い助けに行こうとするでしょう。それが姑のことであるならなおさら捨てておくことなどできましょうか?もし万が一にも姑の身になにかあったら、わたしひとり生きているなんてことはできません」
 姑が言うには、
「季節が寒くなってから松や柏がしおれているのを知ると言いますが、私はいまごろになって貴女の心意気というものに気づきましたよ」


 劉寂妻夏侯,滑州胙城人,字碎金。父長雲為鹽城丞,喪明。時劉已生二女矣,求與劉絶,歸侍父疾。又事後母以孝稱。五年父亡,毀不勝喪,被髮徒跣,身負土作冢,廬其左,寒不綿、日一食者三年。詔賜物二十段、粟十石,表異門閭。後其女居母喪,亦如母行,官又賜粟帛,表其門。

 劉寂の妻の夏侯氏は、滑州胙城の人で、字を碎金といった。父の夏侯長雲は塩城の丞となったが、失明してしまった。ときに劉家ではすでにふたりの娘が生まれていたが、彼女は劉家と絶縁を求めて、実家に帰って父を看病した。また継母につかえて孝行と称された。五年して父が亡くなると、悲しみのため衰弱し、服喪に耐えないほどであったが、ざんばら髪に裸足で歩き、みずから土を背負って墓塚を作り、その左に庵を結んで、寒くても綿を着ず、一日一食を三年つづけた。
 詔により二十段の織物と粟十石を賜り、彼女の行為を村里の門に掲示して表彰させた。
 のちにその娘も、母の喪にあってまた母の行いのとおりであったので、官はまた粟帛を賜り、門に掲示して表彰した。


 于敏直妻張者,皖城公儉女也。生三歳,毎父母病,已能晝夜省侍,顏色如成人。及長,愈恭順仁孝。儉病篤,聞之,號泣幾絶。儉死,一慟遂卒。高宗懿其行,賜物百段,以状屬史官。

 于敏直の妻の張氏は、皖城公の張倹のむすめである。生まれ三歳にして、父母が病になるたびに、昼夜かいがいしく世話を焼き、その容貌はあたかも成人のようであった。成長すると、ますます父母にうやうやしく従い、優しく孝行であった。張倹の病が重くなり、これを聞くと、号泣して幾度も絶叫した。張倹が死ぬと、ひどく嘆き悲しんでついに亡くなった。高宗はその行いをたたえて、百段の織物を賜り、なりゆきを史官に文章につづらせた。

 楚王靈龜妃上官者,下邽士族也。靈龜出繼哀王後,而舅姑在,妃朝夕侍奉,謹甚,凡珍美,非經獻不先嘗。靈龜卒,將葬,前妃無近族,議者欲不舉,妃曰:「逝者有知,魂可無託乎?」乃備禮合葬。聞者嘉歎。喪除,兄弟共諭:「妃少,又無子,可不有行。」泣曰:「丈夫以義,婦人以節,我未能殉溝壑,尚可御粧澤、祭他胙乎?」將自劓刵,衆遂不敢彊。

 楚王霊亀の妃の上官氏は、下邽の士族である。霊亀が哀王(高祖李淵の子の李智雲)のあとを継いだ後、舅や姑がいたので、妃は朝から夕までそばに仕えて、 たいへん慎み深かった。およそ珍美な食べ物があると、先に毒味をせずに献じるということがなかった。
 霊亀が亡くなったので、葬られることとなったが、霊亀の亡くなった前の妃に近しい一族がおらず後ろ盾がなかったので、葬儀の段取りを議論する者たちは(今の妃の上官氏に遠慮して)取りあげようとしなかった。しかし妃が言うことには、
「亡くなった人を知る人がいるのに、魂を託さないことができましょうか?」
 そこで礼を備えたかたちで霊亀と前の妃が合葬された。聞いた者は賛嘆を禁じえなかった。服喪の期間が終わったので、兄弟たちがともに妃をさとして言うには、
「妃は年若く、また子もいない。再婚する準備をしないことがあろうか」
 彼女は泣いて言うことには、
「りっぱな男性は義をもって、りっぱな女性は節をもって殉ずると言われています。私はいまだに困難な境遇に殉ずることができないのに、なお化粧やつやを利用して、他の男性に祭肉をささげなければならないのですか?」
 自ら鼻削ぎ耳を落とそうとしたので、人々はついにあえて強いようとしなかった。


 楊紹宗妻王,華州華陰人。在褓而母亡,繼母鞠愛。父征遼歿,繼母又卒,王年十五,乃舉二母柩而立父象,招魂以葬,廬墓左。永徽中,詔:「楊氏婦在隋時,父歿遼西,能招魂克葬。至祖父母塋隧,親服板築,哀感行路。」因賜物段并粟,以闕表門。

 楊紹宗の妻の王氏は、華州華陰の人である。赤ん坊のころに母が亡くなったので、継母がたいせつに彼女を養育した。父は高句麗遠征で亡くなって(遺体がもどらず)、継母もまた亡くなった。
 王氏は年が十五だったが、ふたりの母の棺を出し、父をかたどった人形を立てて、死者の魂を呼び返してとむらい葬った。彼女は草廬を墓のそばに建てて喪に服した。
 高宗の永徽年間に詔が出されて、
「楊氏の夫人が隋にあったとき、その父が遼西で戦没したが、夫人はうまく招魂してとむらいかつ葬った。祖父母の墓の隧道にいたっては、みずからその板築仕事をおこなったので、哀情が道を動かしたのである」
 このため織物と粟を賜り、彼女の行為を宮殿の門に掲示して表彰させた。


 賈孝女,濮州鄄城人。年十五,父為族人玄基所殺。孝女弟彊仁尚幼,孝女不肯嫁,躬撫育之。彊仁能自樹立,教伺玄基殺之,取其心告父墓。彊仁詣縣言状,有司論死。孝女詣闕請代弟死,高宗閔歎,詔并免之,内徙洛陽。

 賈孝女は、濮州鄄城の人である。年が十五のとき、父が族人の玄基に殺されてしまった。孝女の弟の彊仁はまだ幼かったので、孝女はよそに嫁ぐことを承知せず、みずから弟を育てた。彊仁が自立できるようになると、玄基をねらって殺させ、仇を討ったことを父の墓に告げた。彊仁は県の役所に出頭して仇討ちのありさまを自白したので、役人は死刑の判決を下した。孝女は宮殿に出頭して弟の代わりに死罪を受けられるよう請願した。
 高宗は彼女らをあわれんで、詔によりふたりともに罪を免じて、ひそかに洛陽に移させた。


 李氏妻王阿足,深州鹿城人。早孤,無兄弟。歸李氏數歳,夫死無子,以嫠姊高年無供養,乃不忍嫁。晝耕夜織,能辦生事,餘二十年,姊乃亡,葬送如禮。郷人服其義,爭遣女妻往師其風訓。壽終于家。

 李氏の妻の王阿足は、深州鹿城の人である。早くから孤児となり、兄弟もいなかった。
 李氏にとついで数年で、夫が死んで子もなかったが、やもめの姉が高年で養うものもなかったので、放ったまま再婚するのも気がとがめて耐えられなかった。昼は耕し夜は機織りをして、よくつとめて仕えること二十年あまり。姉はかくして亡くなり、葬送は儀礼にしたがっておこなった。
 村人はその節義に感服し、あらそって妻女を遣わして、その精神に学ばせようとした。彼女は家において長寿をまっとうした。


 樊彦琛妻魏者,揚州人。彦琛病,魏曰:「公病且篤,不忍公獨死。」彦琛曰:「死生,常道也。幸養諸孤使成立,相從而死,非吾取也。」彦琛卒,値徐敬業難,陷兵中。聞其知音,令鼓箏,魏曰:「夫亡不死,而逼我管絃,禍由我發。」引刀斬其指。軍伍欲彊妻之,固拒不從,乃刃擬頸曰:「從我者不死。」魏弱゚曰:「狗盜,乃欲辱人,速死,吾志也!」乃見害,聞者傷之。

 樊彦琛の妻の魏氏は、揚州の人である。 彦琛が病になったので、魏氏が言うことには、
「あなたは病がいよいよ重くなってしまいましたが、あなたをひとり死なせることはできません」
 彦琛が言うことには、
「人の死ぬ生きるは、世の常のことだ。さいわいなことに養っていた多くの孤児たちを一人前にさせることができたし、夫婦があい従って死ぬなどというのは、わたしの取るところではないよ」
 彦琛は亡くなったが、ちょうど徐敬業の乱にあって、魏氏は兵乱の中におちいってしまった。彼女が音楽に通じていることが徐敬業らの耳に入り、琴や太鼓を演奏させようとした。魏氏が言うには、
「夫が亡くなったのにわたしは死なずにいる。音楽を演奏するようにわたしにせまられるというのは、禍がわたしの不義により発しているからだろう」
 その指を刀で引いて斬り落とした。徐敬業の軍隊の者たちは彼女を無理強いしてめとりたいと思ったが、彼女は固く拒んで従わなかった。そこで刃を彼女の頸に当てて言うには、
「おれに従えば死なずにすむだろう」
 魏氏が激昂して言うには、
「狗盜めが、おまえがひとを辱めたいというなら、いますぐに死ぬことがわたしの願いだ!」
 かくして害され、聞いた者は彼女を悼んだ.


 李畭母者,失其氏。有淵識。畭為監察御史,得稟米,量之三斛而贏,問于史,曰:「御史米,不概也.」又問車庸有幾,曰:「御史不償也。」母怒,敕歸餘米,償其庸,因切責畭。畭乃劾倉官,自言状,諸御史聞之,有慚色。

 李畭の母は、その姓氏が伝わらない。彼女は深い見識をもっていた。 李畭が監察御史となると、扶持米を得て、量ると三斛にあまったので、記録官に問いただしたところ、官はいった。
「御史の扶持米を量るのに、ますをならしていません」
 また李畭が車引きの雇い人が何人いるのかたずねたところ、官はいった。
「御史は賃金を支払っていません」
 母はそれを聞いて怒って、余りの米を返却させ、雇い人にも賃金を払うよういましめ、李畭を厳しく叱った。李畭はそこで倉官を弾劾し、自らそのありさまを言上すると、御史たちはこれを聞き、恥じ入るようすをみせた。


 汴女李者,年八歳父亡,殯于堂十年,朝夕臨。及笄,母欲嫁之。斷髮,丐終養。居母喪,哀號過人,自庀葬具,州里送葬千餘人。廬于墓,蓬頭,跣而負土,以完園塋,蒔松數百。武后時,按察使薛季昶表之,詔樹闕門閭。

 汴州の女性の李氏は、年が八歳のときに父を亡くし、御堂に遺体を安置して十年、朝に夕に棺にとりすがって泣いた。成人の年を迎えて、李氏の母は彼女をよそに嫁がせようとした。彼女は髪を切って、終身まで供養しつづけることを婉曲に示した。
 母の喪中にあっても、泣き叫ぶありさまは尋常ではなかった。自ら葬具をととのえ、州里の人千人あまりが墓地まで送って埋葬した。墓地に庵をむすび、髪は乱れ放題にし、はだしで足を汚して、墓苑を完成させるため、数百本の松を植えかえた。
 武后のとき、按察使の薛季昶がこのことを上表したので、詔して村里の門に台を建てて掲示し表彰させた。


 崔繪妻盧者,鸞臺侍郎獻之女。獻有美名。繪喪,盧年少,家欲嫁之,盧稱疾不許。女兄適工部侍郎李思沖,早亡。思沖方顯重,表求繼室,詔許,家内外姻皆然可。思沖歸幣三百輿,盧不可,曰:「吾豈再辱於人乎?寧沒身為婢。」是夕,出自竇,糞穢衊面,還崔舍,斷髮自誓。思沖以聞,武后不奪也,詔為浮屠尼以終。

 崔絵の妻の盧氏は、鸞台侍郎の盧献のむすめである。盧献は美名があって世に知られていた。崔絵が亡くなると、盧氏はまだ年少であったので、家は彼女を再婚させようとした。しかし盧氏は病と称して許さなかった。
 盧氏の姉が、工部侍郎の李思沖にとついでいたが、早くに亡くなっていた。思沖はちょうど貴い身分であったので、上表して盧氏を後妻に求めたところ、詔により許された。家の内外はみな、結婚するものだと思っていた。思沖は、ぬさ三百と輿を贈ったが、盧氏は拒絶していった。
「わたしがどうして再び二夫に辱められましょうか?むしろ死ぬまで端女(はしため)となったほうがよい」
 この夕方、実家を出た。糞や汚血で顔面を汚し、崔家に帰って、断髪して自らに誓った。思沖がこのことを奏聞したところ、武后も彼女の志を奪うことはできないだろうと、尼僧となって生涯を全うするよう詔した。


 堅貞節婦李者,年十七,嫁為鄭廉妻。未踰年,廉死,常布衣蔬食。夜忽夢男子求為妻,初不許,後數數夢之。李自疑容貌未衰醜所召也,即截髮,麻衣,不桴,垢面塵膚,自是不復夢。刺史白大威欽其操,號堅貞節婦,表旌門闕,名所居曰節婦里。

 堅貞節婦の李氏は、年が十七のときに、嫁いで鄭廉の妻となった。
 その年を越えないうちに鄭廉が亡くなったので、いつも粗末な服をきて質素な食事をして身を慎んでいた。夜うつろな夢のなかに男子があらわれて妻にしたいと求められた。初めはそれほどでもなかったが、後にはしばしばこれを夢みた。
 李氏は容貌がまだ衰え醜くなっていないので召されるのだと自ら思案し、ただちに髪を切り、麻の着物に着替え、香も焚きしめず、垢まみれの顔に塵まみれの肌にすると、これによって再び夢みることはなくなった。
 刺史の白大威は、彼女が心がけをつつしんでいるので、堅貞節婦と号させ、上表して宮中の門に掲示して顕彰し、住所を名づけて節婦里と言わせた。


 符鳳妻某氏,字玉英,尤姝美。鳳以罪徙儋州,至南海,為獠賊所殺,脅玉英私之,對曰:「一婦人不足事衆男子,請推一長者。」賊然之。乃請更衣,有頃,盛服立於舟,罵曰:「受賊辱,不如死!」自沈於海。

 符鳳の妻の某氏は、字を玉英といい、とりわけあでやかで美しかった。符鳳は、罪によって儋州に移され、南海にいたった。符鳳は獠の賊に殺され、 賊は玉英を私しようと脅したので、彼女は答えていった。
「ひとりの婦人は多くの男子につかえることはできません。年長の人に譲られるようお願いします」
 賊はこれを了承した。そこで着替えさせてくれるよう願い出て、わずかの間に、晴れ着で舟の上に立ち、ののしっていった。
「賊に辱めを受けたら、死ぬしかないのよ!」
彼女は自ら海に身を沈めた。


 高叡妻秦。叡為趙州刺史,為默啜所攻。州陷,叡仰藥不死,至默啜所,示以寶帶異袍,曰:「降我,賜爾官;不降,且死。」叡視秦,秦曰:「君受天子恩,當以死報,賊一品官安足榮?」自是皆瞑目不語。默啜知不可屈,乃殺之。

 高叡の妻の秦氏。高叡は趙州刺史となったが、黙啜の軍に攻撃された。趙州が陥落したので、高叡は毒薬をあおったが死ななかった。黙啜のところに連行され、宝飾の帯と異俗の上着を示していった。
「おれに降伏しろ。おまえに官を賜おう。降伏しなければ、死ぬだけだ」
 高叡は秦氏を見つめたので、秦氏は言った。
「あなたは天子の恩を受けました。死をもって報いるべきで、賊の一品官がどうしてその栄誉に足りましょうか?」
 ここからふたりは目をつむって語らなかった。黙啜は屈服させることができないと知ったので、高叡を殺した。


 王琳妻韋者,士族也。琳為眉州司功參軍,俗僭侈盛飾,韋不知有簪珥。訓二子堅、冰有法,後皆名聞。琳卒時,韋年二十五,家欲彊嫁之,韋固拒,至不聽音樂,處一室,或終日不食。卒年七十五,著女訓行於世。

 王琳の妻の韋氏は、士族の出身である。
 王琳が眉州司功参軍となり、世の風俗が身にすぎてぜいたくに装飾が盛んになるなかで、韋氏はかんざしや耳飾りがあるのも知らなかった。二子の堅と冰におきてがあるのを説いて、後にふたりは名声をえた。
 王琳が亡くなったとき、韋氏は年が二十五だったので、家は彼女を再婚させようとしたが、韋氏は固く拒んだ。音楽を聴かず、一室にとじこもり、終日食べないこともあった。
 享年は七十五で、生前に『女訓』を著して世に行われた。


 盧惟清妻徐,淄州人,世客陳留。惟清仕歴校書郎。徐女兄之夫李宜得以罪斥,惟清坐僚姻,貶播川尉。徐還郷里,糲食,斥鉛膏,采絺不御。會大赦,徐間關迎惟清,至荊州,聞惟清死,二髯奴將劫徐歸下江,徐知之,數其罪,奴不敢逼,劫其貲去。徐倍道行至播川,足繭流血,得惟清尸,以喪還,閲歳至洛陽。既葬,以無子,終服還陳留。汴州刺史齊澣高其節,頌而詩之。

 盧惟清の妻の徐氏は、淄州の人であったが、代々陳留に住んでいた。盧惟清は役人となって校書郎となった。
 徐氏の姉の夫の李宜得が罪をえて官をしりぞけられたので、盧惟清は身内の役人として連座して、播川の尉に左遷された。徐氏は郷里に帰って、玄米を食べ、化粧をやめ、派手で高級な布を使わなかった。おりしも大赦があって、徐氏は惟清を迎えようとけわしい道をたどった。荊州にいたったところ、惟清が死んだのを聞いた。
 ふたりのひげ男が徐氏をさらって下江に連れ帰ろうとした。徐氏はこれを知り、その罪を数えたので、男たちはあえて迫ることをせず、彼女の財貨だけを奪って去った。徐氏は道を急いで播川にいたったので、足にできたまめから血が流れていた。惟清の死体を引き取ると、喪を守って帰途につき、歳月をかけて洛陽にいたった。葬ったのち、子どもがなかったので、服喪を終えると陳留の実家に帰った。汴州刺史の斉澣は、彼女の節義が高いのをたたえて、詩に詠んだ。


 饒娥字瓊真,饒州樂平人。生小家,勤織紝,頗自脩整。父勣,漁于江,遇風濤,舟覆,屍不出。娥年十四,哭水上,不食三日死。俄大震電,水蟲多死,父尸浮出,郷人異之,歸賵具禮,葬父及娥鄱水之陰。縣令魏仲光碣其墓。建中初,黜陟使鄭淑則表旌其閭,河東柳宗元為立碑云。

 饒娥は字を瓊真といい、饒州楽平の人である。ちっぽけな家に生まれて、機織りして働くうちに、人格態度がけっこうおのずと形よく整っていた。
 あるとき父の饒勣が、江へ漁にでて、嵐にあって舟が転覆したため、死体があがらなかった。そのとき饒娥は年が十四で、水上で慟哭し、三日間絶食して死んだ。突然の雷が大いに震わし、水の生き物たちが多く死に、父の死体が浮かび出た。
 郷里の人々はこれを奇妙に思って、死者への贈り物をささげ、礼儀にのっとって、父と饒娥とを鄱水の南の地に葬った。県令の魏仲光がその墓に石碑を建てた。
 建中初年に、黜陟使の鄭淑則が村里の門に掲示して表彰し、河東の柳宗元がここに彼女の石碑を建てて顕彰した。


 竇伯女、仲女,京兆奉天人。永泰中,遇賊行剽,二女自匿山谷,賊迹而得之,將逼以私。行臨大谷,伯曰:「我豈受汙於賊!」乃自投下,賊大駭。俄而仲亦躍而墜。京兆尹第五g表其烈行,詔旌門閭,免其家繇役,官為庀葬。

 竇伯女と竇仲女は、京兆奉天の人である。
 永泰年間(765-766)中に、賊に遭遇して道をおびやかしたので、二女は自ら山谷に隠れた。賊が彼女らを得ようと後をたどり、私しようと迫ってきた。
 行く手に大きな谷をのぞんで、伯女は言った。
「わたしがどうして賊の汚れを受けたりいたしましょうか!」
 みずから下に身を投げたので、賊はおおいに驚いた。にわかに仲女も身を躍らせて墜死した。
 京兆尹の第五gが彼女らの烈行を上表したので、詔して村里の門に掲示して表彰し、その家の夫役を免じ、官葬がおこなわれた。


 盧甫妻李,秦州成紀人。父瀾,永泰初為蘄令。梁、宋兵興,瀾諭降劇賊數千人。刺史曹昇襲賊,敗之。賊疑瀾賣己,執瀾及其弟渤,兄弟爭相代死,李見父被執,亦請代父,遂皆遇害。
 又有王泛妻裴者,亦俘賊中,欲汙之,罵曰:「吾,衣冠子,豈愛生受汙邪!」賊臨以兵,罵不止,乃支解焉。
 宣慰使李季卿聞状,詔贈李孝昌縣君、裴河東縣君,瀾、渤並贈官。

 盧甫の妻の李氏は、秦州成紀の人である。父の李瀾は、永泰初年に蘄県の令となった。
 梁、宋の地に兵乱が起こると、李瀾は勢いさかんな賊数千人に降伏するようをさとした。刺史の曹昇が賊を襲い、賊を破った。賊は李瀾が自分たちをだましたのではないかと疑い、李瀾とその弟の李渤を捕らえたところ、兄弟はおたがいに身代わりに死ぬことを争った。
 李氏は父が捕らえられたのを見て、これまた父の身代わりになることを頼んで、ついにみな害にあってしまった。
 また王泛の妻に裴氏という人がいて、また賊中に捕らえられて、けがさそうになった。ののしって言うことには、
「私は貴人の子だ。どうして命を惜しんでけがれを受けることがあろうか!」
 賊は武器をもって脅したが、裴氏がののしることをやめなかったので、そこで両手両足を切りはなして殺した。
 宣慰使の李季卿がそのなりゆきを奏聞したので、詔によって李氏に孝昌県君の位が、裴氏に河東県君の位が贈られ、李瀾、李渤もともに官位を贈られた。


 鄒待徴妻薄者,從待徴官江陰。袁晁亂,薄為賊所掠,將汙之,不從。語家媼使報待徴曰:「我義不辱。」即死於水。賊去,得其尸。義聲動江南,聞人李華作哀節婦賦。

 鄒待徴の妻の薄氏は、夫の待徴の赴任に従って江陰にいた。 袁晁の乱のとき、薄氏は賊軍に拉致され、いまにも身が汚されそうになったのを拒んだ。家の召使いの老婆に託して待徴に報告させたことには、
「私の節義ははずかしめられなかった」
 すなわち水に身を投げて死んだのである。賊が去ると、彼女の屍が上がった。彼女の節義の評判は江南じゅうにとどろいた。
 この話を聞いた李華は、「節婦を哀しむ賦」を作ってささげた。


 金節婦者,安南賊帥陶齊亮之母也。常以忠義誨齊亮,頑不受,遂絶之。自田而食,紡而衣,州里矜法焉。大暦初,詔賜兩丁侍養,本道使四時存問終身。

 金節婦は、安南の賊の将軍の陶斉亮の母である。
 いつも斉亮に忠義をさとし教えていたが、斉亮はかたくなに受けつけなかったので、ついにこれと絶縁した。自ら田を耕して食し、糸を紡いで衣としていたので、州里の人々は彼女を模範として法をうやまった。
 大暦初年に、帝が詔してふたりの壮丁を賜って彼女のそばに仕えて養わせ、本道の使が彼女の終身の間たびたび安否を問わせた。


 高愍女名妹妹,父彦昭事李正己。及納拒命,質其妻子,使守濮陽。建中二年,挈城歸河南都統劉玄佐,納屠其家。時女七歳,母李憐其幼,請免死為婢,許之。女不肯,曰:「母兄皆不免,何ョ而生?」母兄將被刑,徧拜四方。女問故,答曰:「神可祈也。」女曰:「我家以忠義誅,神尚何知而拜之!」問父在所,西嚮哭,再拜就死。コ宗駭歎,詔太常謚曰愍。諸儒爭為之誄。
 彦昭從玄佐救寧陵,復汴州,累功授潁州刺史。朝廷録其忠,居州二十年不徙,卒贈陝州都督。

 高愍女は名を妹妹といい、父の高彦昭は李正己に仕えていた。 (李正己の子の)李納は命令を拒まないよう、彦昭の妻子を人質として、濮陽を守らせていた。建中二年、高彦昭は城をひっさげて河南都統の劉玄佐に帰順したので、李納はその家族を処刑した。 ときに愍女は七歳だったので、母の李氏は彼女が幼いのを憐れみ、死を免じて端女(はしため)とするよう願い出て、これを許された。愍女は納得せずいった。
「母と兄がみな死を免れないのに、どうして人に頼って生きられましょう?」
 母と兄がいまにも処刑されようというとき、四方すべてを拝んだ。愍女が理由を尋ねたので、答えていった。
「神は祈るべきものなのです」
 愍女はいった。
「我が家は忠義のために殺されようとしています。神がまたどうして拝んでいることを知るものでしょうか!」
 父のいる場所を尋ねると、西にむかって声を上げて泣き、重ねて拝礼して死についた。徳宗は驚き感心して、太常に詔して謚を愍といった。諸儒は争って彼女のために生前の徳行をたたえた。
 高彦昭は劉玄佐に従って寧陵を救い、汴州を恢復し、功績をかさねて潁州刺史を授かった。朝廷はその忠義ぶりを品定めして、州に居させること二十年も移さず、亡くなると陝州都督を贈った。


 楊烈婦者,李侃妻也。建中末,李希烈陷汴,謀襲陳州。侃為項城令,希烈分兵數千略定諸縣,侃以城小賊鋭,欲逃去,婦曰:「寇至當守,力不足,則死焉。君而逃,尚誰守?」侃曰:「兵少財乏,若何?」婦曰:「縣不守,則地賊地也,倉廩府庫皆其積也,百姓皆其戰士也,於國家何有?請重賞募死士,尚可濟。」侃乃召吏民入廷中曰:「令誠若主也,然滿歳則去,非如吏民生此土也,墳墓存焉,宜相與死守,忍失身北面奉賊乎?」衆泣,許諾。乃徇曰:「以瓦石撃賊者,賞千錢;以刀矢殺賊者,万錢。」得數百人。侃率以乘城,婦身自爨以享衆。報賊曰:「項城父老義不下賊,得吾城不足為威,宜亟去;徒失利,無益也。」賊大笑.侃中流矢,還家,婦責曰:「君不在,人誰肯固?死于外,猶愈於牀也。」侃遽登城。會賊將中矢死,遂引去,縣卒完。詔遷侃太平令。
 先是萬歳通天初,契丹寇平州,鄒保英為刺史,城且陷,妻奚率家僮女丁乘城,不下賊,詔封誠節夫人。默啜攻飛狐,縣令古玄應妻高能固守,虜引去,詔封徇忠縣君。史思明之叛,衛州女子侯、滑州女子唐、青州女子王,相與歃血赴行營討賊,滑濮節度使許叔冀表其忠,皆補果毅。雖敢決不忘於國,然不如楊烈婦忼慷知君臣大義云。

 楊烈婦は、李侃の妻である。建中年間の末年、李希烈が汴州を陥れ、謀って陳州を襲った。李侃はこのとき項城の県令であった。李希烈は兵数千を分かって諸県を攻略平定しようとした。李侃の籠もる城は小さく、賊の軍が精強であるので、逃げ去ろうとしていた。そこで烈婦は言った。
「敵がいたって守るにあたり、力が不足していて、県城は死に瀕しています。あなたが逃げたりすれば、誰が守るのでしょう?」
 李侃は言った。
「兵が少なく財が乏しいのに、どうしろというのだ?」
 烈婦は言った。
「県を守らなければ、この地は賊の土地となります。倉廩と府庫はみな賊のものとなり、百姓もみな賊の戦士となります。そうなれば国家に何が残るでしょうか?賞与を重ねて決死の武士を募ってくだされば、救うこともできましょう」
 李侃は官民を召し出し、県の役所に入って言った。
「令誠若主也、然滿歳則去、非如吏民生此土也、墳墓存焉、宜相與死守、忍失身北面奉賊乎?」
 人々は泣いて、承知した。そこで布告していった。
「瓦や石をもって賊を撃つ者は、賞として千銭を取らせる。刀や矢をもって賊を殺す者には、万銭を取らせる」
 こうして数百人の義兵を得ることができた。李侃はかれらを率いて城に乗り込んだ。烈婦は自ら炊飯して人々に供した。報を知って賊は言った。
「項城の父老は賊の下風に立たないのを義とするのだという。やつらはわが城を得るのに威とするに足りないし、とっとと追い出してしまおう。いたずらに利を失って、無益なことだ」
 賊は大いに笑った。李侃は流れ矢に当たって、家に帰ってきた。烈婦は夫を責めて言った。
「あなたがいなければ、誰が城を固めたりいたしましょうか?外において死ぬのも、床の上で傷を治すのも同じことです」
 李侃は急いで登城した。ちょうど賊将が矢に当たって死んだので、ついに賊軍は引き揚げていったので、県城を守りぬくことができた。詔により李侃は太平の県令に遷された。
 これに先だって万歳通天の初年、契丹が平州に進攻した。鄒保英が刺史となり、城が落とされそうになったが、妻の奚氏が家僮女丁を率いて城に乗り込み、賊に下らなかったので、詔により誠節夫人に封ぜられた。黙啜が飛狐を攻めたとき、県令の古玄応の妻の高氏がよく堅守し、胡人が引き揚げて去ると、詔により徇忠県君に封ぜられた。史思明の叛乱が起こると、衛州の女子侯氏、滑州の女子唐氏、青州の女子王氏は、相與歃血赴行營討賊、滑濮節度使の許叔冀が彼女たちの忠義を上表して、みなの勇気と決断力にむくいた。雖敢決不忘於國、然不如楊烈婦忼慷知君臣大義云。


 賈直言妻董。直言坐事,貶嶺南,以妻少,乃訣曰:「生死不可期,吾去,可亟嫁,無須也。」董不答,引繩束髮,封以帛,使直言署,曰:「非君手不解。」直言貶二十年乃還,署帛宛然。及湯沐,髮墮無餘。

 賈直言の妻の董氏。賈直言は事件に連座して、嶺南に左遷された。 妻が幼かったので、別れようといった。
「生死不可期、吾去、可亟嫁、無須也」
 董氏は答えず、縄を引いて髪を束ね、帛で封をして、使直言署、いった。
「あなたの手でなければ解きません」
 賈直言は左遷されてから二十年して返り咲いたので、署帛宛然。及湯沐、髮墮無餘。


 李孝女者,名妙法,瀛州博野人。安祿山亂,被劫徙它州。聞父亡,欲間道奔喪,一子不忍去,割一乳留以行。既至,父已葬,號踊請開父墓以視,宗族不許。復持刀刺心,乃為開。見棺,舌去塵,髮治拭之。結廬墓左,手植松柏,有異鳥至。後,母病,或不食飲,女終日未嘗視匕箸,及亡,刺血書于母臂而葬,廬墓終身。

 李孝女は、名を妙法といい、瀛州博野の人である。安禄山の乱のとき、被劫徙它州。父が亡くなったのを聞いて、欲間道奔喪、一子不忍去、割一乳留以行。既至、父已葬、號踊請開父墓以視、宗族不許。復持刀刺心、乃為開。見棺、舌去塵、髮治拭之。墓の左に庵を結び、手ずから松や柏を植えて、有異鳥至。後に母が病となると、或不食飲、女終日未嘗視匕箸、及亡、刺血書于母臂而葬、廬墓終身。

 李湍妻某氏。湍籍呉元濟軍,元和中,自拔歸烏重胤,妻為賊縛而臠食之,將死,猶號湍曰:「善事烏僕射!」觀者歎泣。重胤請以其事屬史官,詔可。

 李湍の妻の某氏。李湍は呉元済の軍に籍を置いていた。元和年間中に、自ら抜け出して烏重胤に帰順した。妻は賊に縛られてずたずたにされて、今にも死のうというとき、なおもあえぎながら叫んでいった。
「烏僕射によく仕えてください!」
 見る者は感嘆して泣いた。烏重胤はそのことを史官につづらせるよう願い出て、詔により許可された。


 董昌齡母楊,世居蔡。昌齡更事呉少陽,至元濟時,為呉房令。母常密戒曰:「逆順成敗,兒可圖之。」昌齡未決,徙郾城,楊復曰:「逆賊欺天,神所不福。當逆降,無以我累。兒為忠臣,吾死不慊。」會王師逼郾城,昌齡乃降。憲宗喜,即拜郾城令兼監察御史,昌齡謝曰:「母之訓也,臣何能!」帝嗟嘆。元濟囚楊,欲殺者屢矣。蔡平而母在,陳許節度李遜表之,封北平郡太君。

 董昌齡の母の楊氏は、代々蔡に住んでいる家柄の出身だった。董昌齡は呉少陽に仕えて、呉元済の代にいたった時、呉房の県令となった。母の楊氏はいつもひそかに戒めていっていた。
「逆順成敗、兒可圖之」
 董昌齡未決、郾城にうつったので、楊氏はまたいった。
「逆賊が天を欺くのは、神の祝福しないところです。當逆降、無以我累。子どもが忠臣となるなら、わたしは死んでもいといません」
 おりしも王師が郾城に迫ったので、昌齡はそこで降伏した。憲宗は喜び、すぐさま郾城令に任じて、監察御史を兼ねさせた。昌齡が拝謝していうには、
「母の教えに従っただけです。臣ごときに何ができましょうか!」
 帝は嗟嘆。元済が楊氏を捕らえ、欲殺者屢矣。蔡平而母在、陳許節度使の李遜がこのことを上表したので、彼女は北平郡太君に封ぜられた。


 王孝女,徐州人,字和子。元和中,父兄皆防秋屯州,吐蕃寇邊,並戰死。和子年十七,單身被髮徒跣縗裳抵屯,日丐貸,護二喪還,葬于郷,植松柏,翦髮壞容,廬墓所。節度使王智興白状,詔旌其門。

 王孝女は、徐州の人で、字を和子といった。 元和年間に、父兄はみな州に駐屯して夷狄を防いでいたが、吐蕃が辺境に侵攻したので、そろって戦死してしまった。和子はこのとき年が十七で、単身で髪をふりみだし、徒歩素足に喪服ともすその姿で、州の駐屯地にいたった。日々ほどこしを請うて、ふたりの喪をまもって帰還し、郷里において葬儀をおこない、松や柏を植え、髮を切ってすがたを変え、墓所にいおりを建てて住んだ。節度使の王智興がそのことを帝に申し上げたので、詔してその善行を掲示して表彰させた。

 段居貞妻謝,字小娥,洪州豫章人。居貞本歴陽侠少年,重氣決,娶歳餘,與謝父同賈江湖上,並為盜所殺。小娥赴江流,傷腦折足,人救以免。轉側丐食至上元,夢父及夫告所殺主名,離析其文為十二言,持問内外姻,莫能曉。隴西李公佐隱占得其意,曰:「殺若父者必申蘭,若夫必申春,試以是求之。」小娥泣謝。諸申,乃名盜亡命者也。小娥詭服為男子,與傭保雜。物色歳餘,得蘭于江州,春于獨樹浦。蘭與春,從兄弟也。小娥託傭蘭家,日以謹信自効,蘭寖倚之,雖包苴無不委。小娥見所盜段、謝服用故在,益知所夢不疑。出入二稘,伺其便。它日蘭盡集群偸釃酒,蘭與春醉,臥廬。小娥閉戸,拔佩刀斬蘭首,因大呼捕賊。郷人牆救,禽春,得贓千萬,其黨數十。小娥悉疏其人上之官,皆抵死,乃始自言状。刺史張錫嘉其烈,白觀察使,使不為請。還豫章,人爭娉之,不許。祝髮事浮屠道,垢衣糲飯終身。

 段居貞の妻の謝氏は、字を小娥といい、洪州豫章の人である。 段居貞はもとは歴陽のやくざな少年で、気骨を重んじた。謝氏を娶って一年あまりが経ち、謝氏の父とともに川と湖の上で商売していたとき、そろって盗賊のために殺されてしまった。小娥は川におもむいて流され、頭を傷つけ足を折ったが、人に救われて命が助かった。轉側丐食至上元、父と夫を殺したものの名を夢に見たが、離析其文為十二言、持問内外姻、莫能曉。 隴西の李公佐がひそかにその意味するところを占っていった。
「おまえの父を殺した者は必ず申蘭であり、おまえの夫を殺したのは必ず申春である。試以是求之」
 小娥は泣いて礼を言った。ふたりの申氏は、名だたる盗賊で亡命者だった。 小娥は服をいつわって男子のふりをし、與傭保雜。 物色すること一年余り、申蘭を江州で、申春を独樹浦でみつけた。申蘭と申春は、従兄弟であった。 小娥託傭蘭家、日以謹信自効、蘭寝倚之、雖包苴無不委。 小娥見所盜段、謝服用故在、益知所夢不疑。出入二稘、伺其便。它日蘭盡集群偸[酉麗]酒、 蘭與春醉、臥廬。小娥は戸を閉めて、佩刀を抜いて申蘭の首を斬り、因大呼捕賊。 郷人牆救、申春を捕らえ、盗んだ品物千万とその仲間数十人を得た。小娥が悉疏其人上之官、皆抵死、乃始自言状。
 刺史の張錫嘉は彼女の烈行をよみして、観察使に申し上げ、使不為請。豫章に帰ると、人は争って彼女をめとろうとしたが、彼女は許さなかった。髪を短く切って仏の道につかえ、垢で汚れた衣に玄米を食して一生を終えた。


 楊含妻蕭,父歴,為撫州長史,以官卒,母亦亡。蕭年十六,與[女胃]皆韶淑,毀貌,載二喪還郷里,貧不能給舟庸,次宣州戰鳥山,舟子委柩去。蕭結廬水濱,與婢穿壙納棺成墳,蒔松柏,朝夕臨,有馴烏、縞兔、菌芝之祥。長老等為立舍,歳時進粟縑。喪滿不釋緮,人高其行。或請昏,女曰:「我弱不能北還,君誠為我致二柩葬故里,請事君子。」於是,含以高安尉罷歸,聘之,且請如素。蕭以親未葬,許其載,辭其采。已葬,乃釋服而歸楊云。

 楊含の妻の蕭氏。父の蕭歴は撫州長史となったが、在職中に没し、母もまた亡くなった。蕭氏は年が十六で、與[女胃]皆韶淑、毀貌、載二喪還郷里、貧不能給舟庸、次宣州戰鳥山、舟子委柩去。蕭結廬水濱、與婢穿壙納棺成墳、蒔松柏、朝夕臨、有馴烏、縞兔、菌芝之祥。長老等為立舍、歳時進粟[糸兼]。喪滿不釋[糸衰]、人高其行。ある人が結婚を願い出たが、彼女はいった。
「我弱不能北還、君誠為我致二柩葬故里、請事君子」
 於是、含以高安尉罷歸、聘之、且請如素。蕭以親未葬、許其載、辭其采。已葬、乃釋服而歸楊云。


 韋雍妻蕭。張弘靖鎮幽州也,表雍在幕府。朱克融亂,雍被劫。蕭聞難,與雍皆出,左右格之,不退。雍臨刃,蕭呼曰:「我苟生無益,願今日死君前。」刑者斷其臂,乃殺雍。蕭意象晏然,觀者哀歎。是夕死。大和中,楊志誠表其烈,詔贈蘭陵縣君。
 雍字和叔,擢進士第.

 韋雍の妻の蕭氏。張弘靖が幽州に鎮していたので、韋雍はその幕府にいた。
 朱克融が乱を起こすと、韋雍は身柄を拉致された。蕭氏は難を聞いて、韋雍とともに皆出てきて、左右がこれを止めたが、退かなかった。韋雍が斬られるのに臨んで、蕭氏は呼んでいった。
「わたしはもはや生きていても無益です。願わくは今日あなたの前で死にましょう」
 刑はかれの臂を断ち、そして韋雍を殺した。蕭氏の心かたちは静かに落ちついたようすで、見たものは悲しみ嘆いた。彼女はこの夕方に死んだ。
 大和年間に、楊志誠が彼女を烈婦として上表したので、詔によって彼女に蘭陵県君の位を追贈された。
 韋雍は字を和叔といい、進士に及第しえらばれていた。


 衡方厚妻程。大和中,方厚為邕州録事參軍。招討使董昌齡治無状,方厚數爭事,昌齡怒,將執付吏,辭以疾,不免,即以死告,臥棺中。昌齡知之,使闔棺甚牢。方厚閉久,以爪攫棺,爪盡乃絶。程懼并死,不敢哭。昌齡恬不疑,厚遣其喪。程徒行至闕下,叩右銀臺門,自刵陳冤,下御史鞫治有實,昌齡乃得罪。文宗詔封程武昌縣君,賜一子九品正員官。

 衡方厚の妻の程氏。大和年間中に、衡方厚は邕州録事参軍となった。招討使の董昌齡は統治がでたらめであったので、衡方厚はしばしばいさめて争った。董昌齡は怒って、かれを捕らえて裁判に付そうとした。病を理由に辞職したが、許されないので、死んだと告げて、棺の中で寝転がっていた。董昌齡はこれを知って、棺にふたをして頑丈に閉じこめさせた。衡方厚は閉じこめられること長く、爪で棺を引っかいたので、爪はすべてなくなってしまった。程氏はともに死ぬことを恐れて、あえて声を上げて泣くことをしなかった。董昌齡は静かなのを疑わず、厚くその喪をとむらわせた。程氏は徒歩で宮城までいたり、右銀台の門を叩いて、自ら耳を切って夫の冤罪を述べた。御史に下して事実を取り調べさせると、董昌齡はそこで罪をえた。文宗は詔して程氏を武昌県君に封じ、一子に九品正員官を賜った。

 鄭孝女,兗州瑕丘人。父神佐,為官兵,戰死慶州。時母已亡,又無兄弟,女時年二十四,即翦髮毀服,身護喪還郷里,與母合葬。廬墓下,手樹松柏成林。初,許適牙兵李玄慶,至是,謝不嫁。大中中,兗州節度使蕭俶状于朝,有詔旌表其閭。

 鄭孝女は、兗州瑕丘の人である。父の神佐は、官軍の兵となり、慶州で戦死した。ときに母はすでに亡く、また兄弟もなく、孝女はこのとき年が二十四であったが、すぐに髪を切って服をぼろぼろにし、父の遺体を守って郷里に連れ帰り、母とともに合葬した。墓のそばに庵を建てて、手ずから松や柏の木を植えて林を作った。かつて、牙兵の李玄慶を許嫁としていたが、このときになって、謝絶して嫁がなかった。大中年間に、兗州節度使の蕭俶が朝廷に報告したので、詔が下って村里の門に掲示して表彰された。

 李廷節妻崔。乾符中,廷節為郟城尉。王仙芝攻汝州,廷節被執。賊見崔姝美,將妻之,詬曰:「我,士人妻,死亡有命,柰何受賊汙?」賊怒,刳其心食之。

 李廷節の妻の崔氏。
 乾符年間中に、廷節は郟城の尉となった。
 王仙芝が汝州を攻めたとき、廷節は捕らえられた。賊は崔氏がみめよく美しいのを見て、いまにも彼女をめとろうとした。彼女がののしって言うことには、
「私は士人の妻です。どうして命を惜しんで賊のけがれを受けたりしましょうか?」
 賊は怒って、彼女の心臓をえぐって食べた。


 殷保晦妻封,敖孫也,名絢,字景文。能文章、草隸.保晦歴校書郎。黄巣入長安,共匿蘭陵里。明日,保晦逃.賊ス封色,欲取之,固拒。賊誘説萬詞,不答。賊怒,勃然曰:「從則生,不然,正膏我劍!」封罵曰:「我,公卿子,守正而死,猶生也,終不辱逆賊手!」遂遇害。保晦歸,左右曰:「夫人死矣!」保晦號而絶。

 殷保晦の妻の封氏は、封敖の孫であり、名を絢、字を景文といった。文章や草書・隸書をよくした。保晦は校書郎などを歴任していた。黄巣が長安に入ると、夫婦はともに蘭陵里に隠れた。次の日、保晦は逃げ、封氏は賊の手に落ちた。
 賊は封氏の容色をよろこんで、彼女を欲しがったが、封氏は固く拒んだ。賊は言葉をつくして説いて誘ったが、答えなかった。
 賊は怒って、顔色を変えて言うことには、
「従えば生かしておいてやるが、そうでなければ、まさに我が剣のサビにしてくれよう!」
 封氏はののしって言うことには、
「私は公卿の子です。正道を守って死ぬことはあっても、生きるために逆賊の手に辱められることは絶対にありません!」
 このためついに害せられてしまった。保晦が帰ってくると、左右のものが言うことには、
「夫人は死んでしまいました!」
 保晦は号泣した。


 竇烈婦者,河南人,朝邑令畢某妻。初,同州軍亂,逐節度使李瑭走河中,令匿望仙里,不知所舍乃仇家也。夜半盜入,捽令首,欲殺之,竇泣蔽捍,苦持賊袂,至中刀不解,令得脱走不死,賊亦去。京兆聞之,歸酒帛醫藥,幾死而愈。

 竇烈婦は、河南の人であり、朝邑令の畢某の妻である。 かつて、同州の軍が乱を起こして、節度使の李瑭を追って河中に敗走させ、令匿望仙里、不知所舍乃仇家也、夜半盜入、捽令首、これを殺そうとしたので、竇氏は泣いて蔽捍、苦持賊袂、至中刀不解、令得脱走不死、賊はまた去っていった。京兆聞之、歸酒帛醫藥、幾死而愈。

 李拯妻盧者,美姿,能屬文.拯字昌時,咸通末擢進士,遷累考功郎中。黄巣亂,避地平陽,僖宗召為翰林學士。帝出寶鷄,陷于嗣襄王熅。熅敗,拯死,盧伏尸哭。王行瑜兵逼之,不從,脅以刃,斷一臂死。

 李拯の妻の盧氏は、美形で、文章をつくるのがうまかった。李拯は字を昌時といい、咸通末年に進士にえらばれ、累進して考功郎中に上った。黄巣の乱が起こると、乱を避けて平陽にうつったが、僖宗に召されて翰林学士となった。帝が宝鶏に出ると、嗣襄王熅に落とされた。熅が敗れると、李拯は死に、盧氏は屍体の上に伏して声を上げて泣いた。王行瑜の兵が彼女に迫ったが、従わなかった。刃で脅しつけたところ、片ひじを断って死んだ。

 山陽女趙者,父盜鹽,當論死,女詣官訴曰:「迫飢而盜,救死爾,情有可原,能原之邪?否則請倶死。」有司義之,許減父死。女曰:「身今為官所賜,願毀服依浮屠法以報。」即截耳自信,侍父疾,卒不嫁。

 山陽のむすめの趙氏は、父が塩を盗み、死刑に相当すると論告されたので、むすめは官を訪れて訴えていった。
「飢えに迫られて盗みをし、死を救っただけです。情状は酌量されるべきで、許すことはできませんか?できないならともに死ねるようお願いします」
 役人はこれを義とし、父の死を許して減刑した。むすめはいった。
「身はいま官の賜ったところとなりましたが、願わくは服を粗末なものに変え、仏法に従ってご恩に報いようと思います」
 そこで耳を切って自ら言ったとおりにし、父の病床にはべって、嫁がないまま亡くなった。


 周迪妻某氏。迪善賈,往來廣陵.會畢師鐸亂,人相掠賣以食。迪飢將絶,妻曰:「今欲歸,不兩全.君親在,不可并死,願見賣以濟君行。」迪不忍,妻固與詣肆,售得數千錢以奉。迪至城門,守者誰何,疑其紿,與迪至肆問状,見妻首已在枅矣。迪裹餘體歸葬之。

 周迪の妻の某氏。周迪は商売をよくし、広陵地方を往来した。あるとき畢師鐸の乱に遭遇して、人々が食物を掠奪していった。このため周迪は飢えて今にも息絶えんばかりであった。そこで妻は言った。
「いま帰ろうとしても、ふたりともに無事ではおれません。あなたには親があり、二人ともに死ぬわけにはいきません。願見賣以濟君行」
 周迪は耐えられず、妻固與詣肆、售得數千錢以奉。迪至城門、守者誰何、疑其紿、與迪至肆問状、見妻首已在枅矣。迪裹餘體歸葬之。


 朱延壽妻王者,當楊行密時,延壽事行密為壽州刺史,惡行密不臣,與寧國節度使田頵謀絶之以歸唐。事泄,行密以計召延壽,欲與揚州,延壽信之。將行,王曰:「今若得揚州,成宿志,是興衰在時,非繋家也,然願日一介為驗。」許之。及為行密所殺,介不至,王曰:「事敗矣。」即部家僕,授兵器。方闔扉而捕騎至,遂出私帑施民,發百燎焚牙居,呼天曰:「我誓不為讎人辱!」赴火死。

 朱延寿の妻の王氏。楊行密が勢力を持っていたころ、朱延寿は楊行密に仕えて寿州刺史となった。かれは楊行密が唐朝の臣としての道を尽くさないのをにくみ、寧国節度使の田頵とともに謀って楊行密との関係を絶って唐に帰順しようとした。事は楊行密の側に洩れていて、楊行密は一計を案じて朱延寿を召しだし、揚州をあずけたいと伝えた。延寿はこれを信じた。今にも行こうとしたので、王氏は言った。
「いまもし揚州を得たとしても、成宿志、是興衰在時、非繋家也、然願日一介為驗」
 許之。及楊行密に殺されて、介不至、王氏は言った。
「事敗れたり」
 即部家僕、授兵器。方闔扉而捕騎至、遂出私帑施民、發百燎焚牙居、天の名を呼んで言った。
「わたしは仇の辱めを受けないことを誓う!」
 彼女は火の中に飛び込んで死んだ。




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