枕流亭・本館

陳慶之伝


このページは、南朝梁の将軍・陳慶之の事績を調べたページです。

目次
i).序論−『奔流』の生み出した奔流
ii).本論−陳慶之の生涯
   1.梁の武帝に仕え
   2.兵を死地に置き
   3.元を洛陽に送り
   4.僧形で落ちのび
   5.再び前線で活躍

iii).結論−史料と小説のはざま
iv).おまけ−人物簡介
v).追記−参考文献・史料

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序論−『奔流』の生み出した奔流
  中国の南北朝時代は、またまだ知名度の低い時代で、一般においても、またかなり中国史好きな人の間においても、それほど知られていない時代だろうと思う。(筆者も実はよく知らない時代だ!)
  しかし陶淵明や謝霊運、爾朱栄や高歓は知らないけれど、南朝・梁の陳慶之の名に聞き覚えがあるという人はいないだろうか。
  もしかして、そういうあなたは小説家・田中芳樹氏の読者ではないだろうか?(笑)

  現在これを書いているのは2001年なのだが、ほんの5年ほど前には陳慶之は全く無名といっていい歴史人物だった。(実際、自分も知らなかった!)
  ところがどうして、今やネット上の(瀧さんの家頁「水龍公司」の)
ランキングで、中国史名将4位に挙がるほどのメジャー級の人物になってしまったようだ。
  これというのも、田中芳樹の小説『奔流』の影響があったればこそであり、小説の力とはまさにおそるべしというべきだろう。

  筆者は、この田中『奔流』をハードカバー初版発売直後に買って読んで、当時は田中ファンらしく感銘を受けたものだ。いつか歴史側からアプローチしてこの陳慶之を調べてみようと思っていたが、延び延びになって今にいたってしまった。
  というわけで、以下に公開するのは小説ではない「陳慶之伝」、(あえて史実とは言わないけども)歴史書(正史)から見えてくる陳慶之像を探るものだ。



本論−陳慶之(484〜539)の生涯

1.陳慶之、梁の武帝に仕える

  陳慶之は、字は子雲、義興郡国山(現・江蘇省宜興西南)の人である。
  慶之は、幼いときから南朝の皇族にあたる
蕭衍という人物に近侍していた。
  蕭衍という人は、たいへんな碁好きで、熱中すると毎晩夜中から朝にいたるまで中断することはなかったそうな。
  こういうとき同僚たちがみな疲れて眠ってしまっても、ただ慶之だけが寝ずに、呼ばれるのが聞こえるとただちに蕭衍のもとにいたったので、たいそう賞讃されたという。
  蕭衍は雍州刺史として襄陽に駐屯していたが、その兄が斉の皇帝の蕭宝巻(廃帝/東昏侯)のために殺されたため、南康王の蕭宝融を奉じて叛旗をひるがえした。蕭衍の軍は東下して、斉の都・建康を平定し、蕭宝巻を廃殺した。
  蕭衍は、蕭宝融を斉の皇帝(和帝)として擁立したが、まもなく禅譲を受けて新王朝を開いた。(西暦502年)
  新王朝の国号をといい、のちに初代の蕭衍は諡(おくりな=死後の名)武帝と呼ばれることとなった。だから、これからは蕭衍のことを武帝と呼ぶこととしよう。
  武帝に従った慶之は、主書となり、奉朝請に任ぜられた。
  かれは財産を散じて軍士を集め、一朝事あれば功績を立てたいと念願していた。

  さて、ここから正史における陳慶之の記述は20年ほどすっ飛んでしまうので閑話休題。
  小説『奔流』では、陳慶之と武帝が碁を打って5勝2敗となる話や、武帝の兄・蕭懿が蕭宝巻のために殺されたときに陳慶之がその伝令となる話が描かれているが、これらの挿話がどこからきたものやら、どうも分からない。 (正史にはないようだ。『南北朝通俗演義』にでもあるのだろうか?調査中!)
  なにより強烈なのは、正史の列伝では陳慶之が鍾離の戦いで戦ったようなことを一言も書いていない!ということに注意されたい。

  話を正史に戻そう。
  普通六年(525)、北朝北魏の徐州刺史・元法僧が彭城に拠って叛した。元法僧は帝を称したが、北魏の追討を受け、梁に臣属を求めてきた。慶之は武威将軍となり、胡龍牙、成景雋らとともに諸軍を率いてその応対にあたった。
  無事帰還して宣猛将軍・文徳主帥に任ぜられた。
  また慶之は二千の軍を率いて、豫章王・蕭綜が徐州に駐屯するのを送った。北魏は安豊王・元延明、臨淮王・元ケらを派遣して、兵二万(『南史』によると兵十万)を率いてこれをはばませ、陟□に拠らせた。元延明は、部将の丘大千を先遣させて潯梁にとりでを築かせ、近境に兵威を示させた。慶之はその防塁の薄いのを見て、すばやく攻めつぶした。のちに豫章王が軍を捨てて北魏に帰順すると梁軍は総くずれとなったが、 慶之は関所を斬り破って、夜のうちに退却して軍士を保全した。

  普通七年(526)、梁の郢州刺史・安西将軍の元樹らが北道より黎漿を攻め、豫州刺史の夏侯亶らが南道より寿陽を攻めると、慶之は夏侯亶に従って仮節・総知軍事に任ぜられた。北魏の揚州刺史の李憲は、その子の長鈞を派遣してふたつのとりでを築いて慶之の進軍を阻もうとした。慶之はこれを攻め破ったため、李憲は力尽きてついに降伏し、慶之は寿陽城に入って拠った。北魏側の五十二のとりでを降し、七万五千人の男女(人口)を獲得した。
  官は東宮直閤に転じ、関中侯の爵位を賜った。


2.兵を死地に置いてこそ…

  大通元年(527)、梁の領軍・曹仲宗が渦陽を攻め、慶之はこれに従った。たいして北魏は、征南将軍・常山王の元昭が率いる騎歩合わせて十五万の軍勢を来援させ、前軍が駝澗にいたり、渦陽を去ること四十里に迫った。
  慶之は、これを迎撃したいと考えていた。だが、同僚の韋放がいった。
「敵軍の先鋒は軽兵で、戦いにもし勝ったとしても功績となるには足りず、もし不利となれば我が軍の勢いをそぐこととなる。兵法(孫子軍争篇)のいわゆる『佚を以て労を待つ』(自軍の疲労を少なくして敵の疲労を待つ)策を取るべきで、出撃しないにしくはなしだ」
  こたえて慶之は、
「北魏の兵士は遠方からやってきて、みな疲れ倦んでいる。全軍が集結しないうちに、ぜひとも前軍の士気をくじき、その不意のときに出撃するなら、負けないことは間違いない。諸君らがもし疑惑をもつなら、この慶之ひとりででもこれを取るとしよう」といった。
  かくして慶之は麾下の二百騎とともに出撃し、北魏の前軍を破った。このため、北魏の兵はこれに震撼した。慶之は帰還すると諸将とともに陣営を連ねて西進し、渦陽近郊のとりでに拠って北魏軍と対峙した。
  春から冬にいたるまで、両軍の衝突は数十百戦に及んで、梁軍の士気も衰えた。北魏の援兵は梁軍の後方にとりでを築こうとした。曹仲宗らは腹背に敵を受けることを恐れて、軍隊を後退させたいと考えた。
  慶之は、軍門の旗印を取っていった。
「ともにここまでやってきて、一年になろうとしています。兵糧と兵器の多くを浪費していますが、諸軍ともに闘争心がなく、みな戦線の後退縮小を議論しています。どうして功績を立てたいと思っているのに、集まり縮こまりながらかすめ暴れたりすることができましょうか。わたしは兵を死地に置いてこそ、はじめて生きる道を求めることができると聞いています。あえて敵兵を糾合させて、しかるのちに戦いましょう。軍を分けたいときには明らかにするよう、わたしは別に密勅をいただいています。今日僭越を申し上げるのは、主上の詔によっているからです」
  曹仲宗はその壮計に従うこととした。
  北魏の兵は掎角を十三のとりでに設けていたが、慶之は馬に枚をふくませて夜中に出撃し、四つのとりでを落とし、渦陽城主の王緯を降伏させた。
  余す所九つのとりでは、北魏の兵甲がなお盛んであった。だが梁軍が、陣中で魏兵の俘虜を首切り、軍鼓の喧噪とともに攻め立てると、ついに魏軍は潰え、ことごとく斬られるか捕らえられるか渦水の流れに呑まれるかに終わった。渦陽城中の男女三万余人を降伏させた。
  武帝の詔により渦陽の地に西徐州が置かれた。梁軍は勝ちに乗じて、にわかに城父にまで進んだ。武帝はこれを嘉して、手ずから慶之に詔を賜っていった。
「もとは将軍の家系でなくとも、また大豪の生まれでなくとも、風雲をこいねがえば、これほどまでに昇進することができる。深思奇略があるとはすばらしいことだ。困難を克服して終わることができる。朱門を開いて賓客を待ち、声名は竹帛に垂る(つまり顕官に上り、名声がとどろく)にいたる。なんと立派なますらおではなかろうか」


3.慶之、北海王・元を洛陽に送る

  大通初年、北魏の北海王・
が爾朱氏の専横に悩んだ末に自ら梁に来降して、魏主として立てられることを求めた。
  武帝はこれを納れ、慶之を仮節・飆勇将軍に任じて、元を北に送るよう命じた。元は渙水において魏帝の号を称し、慶之に持節・鎮北将軍・護軍・前軍大都督の位を授けた。銍県より発して,進んで滎城を抜き、ついに睢陽にいたった。
  北魏の将・丘大千は七万の兵を率いて、九城を分築して進撃をはばもうとした。
  慶之はこれを攻めて、朝から夕方までで三つのとりでを陥落させ、丘大千を降伏させた。
  ときに北魏の征東将軍にして済陰王の元暉業が羽林庶子の軍二万人を率いて、梁(河南省の地名で王朝名ではない)と宋(これも王朝名ではない)の地を救うために来援した。暉業が考城に進んで駐屯したため、考城の四面は縈水に守られて、守備は強固になった。慶之は水に浮く防塁を築くよう命じ、これをもってその城を攻め落とした。暉業を生け捕りにして、兵糧を積んだ車七千八百両を鹵獲し、大梁におもむいた。元は慶之を衛将軍・徐州刺史、武都公に位を進めた。さらに兵を率いて西に向かった。

  北魏の左僕射・楊c、西阿王・元慶、撫軍将軍・元顯恭らが御仗羽林宗子庶子の兵およそ七万を率いて、睢陽に拠り、元と慶之の前途をはばんだ。魏兵は精強であり、城はまた険固で、慶之は攻めても抜くことができなかった。
  北魏の将・元天穆の大軍がまた今にも到着しようとし、驃騎将軍・爾朱兆の領する胡騎五千、騎将・魯安の領する夏州歩騎九千が先遣されてきて、楊cらを救援した。また右僕射・爾朱世隆も遣わされ、西荊州刺史・王羆の騎兵一万が虎牢に拠った。元天穆は、爾朱兆らと前後して睢陽近郊に到着し、梁魏両軍の旗鼓が相望めるようになった。
  時に睢陽は未だに抜けず、梁軍の士衆は皆恐れおののいた。慶之は馬の鞍を解いて、まぐさをやり、たとえ話をしていった。
「わたしはここに至るまで城を屠り地を略し、実入りは少なくない。君たちは魏人の父兄を殺し、魏人の子女を略奪し、またその数を数えることもない。元天穆の兵とは、ともにこれかたきである。わたしたちはわずか七千であり、敵兵は三十余万にいたる,今日のことで、道とは生存を図ることではない。われらには異民族の騎兵と平原を争う力はない。だが前に進む道はまだ尽きていない。かならず眼前の城塁(睢陽城)を平らげる必要がある。諸君には逡巡しているいとまはないのだ。とにかく自ら屠ったなます肉を取るのみだ」
  一鼓の間に全兵力を城に攻め上らせると、東陽の宋景休、義興の魚天愍という壮士が城壁のひめがきを乗り越えて討ち入り、ついに睢陽城を打ち破り、楊cを捕らえた。ほどなく元天穆率いる魏の大軍は城を囲んだが、慶之は騎兵三千を率いて城を背にして迎撃し、これを大いに破った。
  魯安は陣において降伏を請い、元天穆、爾朱兆は単騎で逃れた。睢陽の魏軍の備蓄を接収すると、牛馬穀帛が計りきれないほどだった。虎牢に進軍すると、爾朱世隆は城を棄てて逃げ去った。北魏の孝荘帝(元子攸)は恐懼して并州に奔った。臨淮王・元ケ、安豊王・元延明は、百官を率い、府庫を封じ、法駕を備えて,元を奉迎し、洛陽宮・御前殿に入れた。改元し、大赦を行った。元は慶之を侍中・車騎大将軍・左光禄大夫に任じ、一万戸の邑を増封した。
  北魏の大将軍上党王・元天穆、王老生、李叔仁らは、四万の兵を率いて大梁を攻め落とし、王老生、費穆らの兵二万を分遣して虎牢に拠らせた。刁宣、刁雙らが梁、宋二州に入ったが、慶之が奇襲をかけると、みなともに降伏した。元天穆と十余騎は北に渡河した。武帝は手ずから詔を賜ってこれをたたえた。慶之の麾下はことごとく白袍であることで名高く、向かうところなびき従わないものはなかった。先に洛陽ではやった童謠の歌うことには、
「名師大将で固く守らないものはなく、千兵万馬の大軍であっても白袍(陳慶之の部隊)を避ける」と。
  銍県より発して洛陽にいたるまで百四十日間、三十二城を平らげ、四十七戦して向かうところ敵なしであった。


4.元は洛陽を保てず、慶之は僧形で落ちのびる

  北魏の孝荘帝が単騎で逃走してから、宮衛嬪侍はをかつてのまま洛陽に残された。これを得た元は、酒色にすさみ、日夜宴楽にふけって、また政務をとりおこなうことがなかったので、朝野の人々は失望を重ねるばかりだった。安豊王、臨淮王らとともに姦計を立てて、今にも梁朝の恩に背こうとし、賓貢の礼も絶えていた。情勢がまだ安定しないので、慶之の力を利用していたが、裏では陰口をたたき、ひそかに猜疑していた。
  慶之は元の考えを知ってひそかに計を立てた。それで元に説いていった。
「今遠くここまでいたりましたが、いまだに屈服しない勢力がなお多くあります。もし敵が我が軍の兵が少ないことを知れば、さらに兵を連ねてやってきましょう。どうして危険を忘れてその対策を用意しておかないことがあるでしょう。天子(武帝)に申し上げて、さらに精兵を請いましょう。諸州を抑えるためにも、南人で役にたっていない者はことごとくまとめて送ってもらいましょう」
  元はこれに従おうとした。しかし元延明が元に説いていうには、「陳慶之は兵数にして数千を出ないというのに、すでに制することが難しくなっています。今さらにその兵を増やすことになれば、どうしてまたわれわれのために働かせることができましょうか。われわれの権勢は去り、北魏の宗社はここにおいて滅びましょう。」
  元は、このために慶之を疑いを起こし、しだいにふたごころを抱くようになった。
  元は、慶之が兵勢を増すことを心配して、ひそかに武帝に上表した。
「河北と河南は一時のうちにすでに定まり、ただあえて
爾朱栄が跋扈するのみです。これは臣と慶之の力で討ち捕らえることができましょう。今、州郡は新たに服したばかりで、ぜひとも安んじいたわる必要があります。人民を動揺させないためにもさらにまた兵を加えるようなことはしないほうがよいでしょう」
  このため武帝は詔を発して、軍兵をみな国境にとどめた。洛陽城下の南人は一万を越えることがなく、異民族はその十倍に達していた。軍の副将の馬仏念が慶之にいった。
「功績が高くても賞されず、軍主の身に危険が迫っていて、疑わしいことがらがすでにあるのに、将軍はどうして対処されないのでしょう。いにしえより危地を助けて難事を定めた者が、無事な終わりを迎えた例は少ないのです。現今、将軍の兵威は中原を震わせ、名声は河塞を動かすほどでありますし、元を殺して洛陽に拠るのに、これは千載一遇の機といえるでしょう」
  しかし慶之は、この自立のすすめに従わなかった。
  以前に元が慶之を徐州刺史に任じていたため、慶之は任地を固めるためといって赴任させてくれるよう求めた。元は、慶之を自由にさせないために、ついに派遣させなかった。
「主上(武帝)は洛陽の地の全てをわれわれにお任せになったのだ。にわかにこの洛陽の朝廷を捨てて彭城に行きたいというのなら、君は富貴を取って、国家の計をなさないということだ」
  こう言われたため、慶之はふたたびこのことを口にしなかった。
  北魏の天柱将軍・爾朱栄、右僕射・爾朱世隆、大都督・元天穆、驃騎将軍・爾朱兆、栄の長史高歓、鮮卑、芮芮ら、百万を号する大軍勢が、孝荘帝を擁して元に攻めかかってきた。
  元は洛陽に拠ること六十五日。およそ得た城のほとんどは、瞬く間に彼のもとから離反した。慶之は渡河して北中郎城を守り、三日のうちに十一戦しておびただしい兵を殺傷した。そのため爾朱栄は退いた。
  ときに劉霊助という天文をよくするものがいて、爾朱栄に告げた。
「十日を出でずして、河南はみな定まるでしょう」
  爾朱栄は木を縛っていかだを作り、z石より渡河して、河橋で元と戦った。元は大敗して、敗走して臨潁にいたり、敵に遇って捕らえられた。このため洛陽は陥落した。
  慶之は、騎兵歩兵合わせて数千、陣を整えて東に転進したが、爾朱栄自らの追撃を受け、嵩高山で洪水にあい、軍は四散してしまった。慶之はひげと髮を剃り落として僧の姿となり、間道を抜けて豫州にいたり、豫州の人・程道雍らにひそかに汝陰まで送ってもらった。都・建康に帰還して、北伐の功によって右衛将軍に任ぜられ、永興県侯に封ぜられ、邑一千五百戸を領した。


5.ふたたび前線に

  慶之は、ふたたび前線に出て、持節・都督縁淮諸軍事・奮武将軍・北兗州刺史をつとめた。
  ときに仏僧の強なる人物が帝を自称し、また土豪の蔡伯龍(蔡伯寵ともいう)という人が起兵してこれに呼応した。僧強は幻術に知悉し、民衆扇動に長けていて、衆三万を集めて北徐州を攻め落とした。済陰太守の楊起文が城を棄てて敗走し、鍾離太守の単希宝が殺害されるにいたったので、武帝は慶之にこの反乱軍を討たそうとした。
  武帝はみずから車駕に乗って幸して、慶之にいった。
「江淮の兵は強勁で、その鋭鋒は当たりがたい。卿は策をもってこれを制するべきで、当然のやりかたで決戦すべきではない」
  慶之は命を受けて戦場におもむいた。十二日間に及ばずして、蔡伯龍と僧強を斬り、その首を持ち帰った。

  中大通二年(530)、慶之は都督南北司西豫豫四州諸軍事・南北司二州刺史に任ぜられ、任地にいたって県城を囲んだ。北魏の潁州刺史の婁起を攻め、揚州刺史の是云宝を溱水で破り、また行台・孫騰、大都督・侯進、豫州刺史・堯雄、梁州刺史・司馬恭らを楚城に討った。
  義陽鎮の兵を罷めさせ、水陸の交通を止め、江湖の諸州はひとしく休息をえた。あらたに田六千頃を開き、二年の後には倉廩が充実した。武帝はたびたびこの労をねぎらった。また南司州に安陸郡を復活させ、上明郡を置いた。

  大同二年(536)、東魏
侯景率いる兵七万を遣わして梁の楚州を攻めさせ、刺史の桓和を捕らえた。侯景は淮上に進軍し、慶之に書を送って降伏させようとした。武帝の勅命により湘潭侯・退や、右衛・夏侯虁らが援軍に赴き、軍が黎漿にいたると、慶之は侯景を撃破した。ときに大寒の雪の中で、侯景は輜重を捨てて敗走し、慶之はこれらの敵の物資を收めて帰還した。
  この功により、慶之は仁威将軍に号を進めた。この年,豫州は飢餓に襲われ、慶之は官倉を開いて飢民に給したので、多くの民衆が救われた。州民の李昇ら八百人が上表して樹碑にその頌徳を刻むことを請うたため、武帝は詔でこれを許した。五年(539)の十月に、慶之は没した。時に享年は(数え年で)五十六。散騎常侍・左衛将軍の官を追贈された。諡は武。勅命により、慶之の故郷の義興郡に喪が発せられた。

  慶之は性格が慎み深く、贅沢な衣服をまとうこともなく、管弦音楽を好まず、弓射をすれば的に当たらず、馬には習熟しなかった。しかし、軍士をよくいたわったので、死力をつくしてむくいさせることができた。長子の昭が後を継いだ。

  『梁書』の評するところでは、「陳慶之は将略があり、戦えば勝ち攻めれば取った。思うに廉頗、李牧、衛青、霍去病に次ぐ人物であろうか。慶之は悟りが早く、若いうちから武帝に近侍していた。もとより旧恩に預かっていたが、うやうやしく態度をつつしみ、蝉の冠をつけ組み紐に玉を下げ(つまり顕位高官に上り)、また一世の栄光を得たのだ」と。
  『南史』が論ずるところでは、「慶之は初め燕雀の遊びに興じていたが、ついには鴻鵠の志をいだき、ひとたび大任をまかせられると、長駆して伊水(河南省西部の河)、洛陽にいたった。進んで敵の強陣はなく、攻めて敵の堅城をなびかせた。南風競わずといえども(南方の国の勢力が弱いというけれども)、ついにはくつがえすこともある。慶之の戦勝は、そう称するに足るものである」と。


結論−史料と小説のはざま

  陳慶之の生涯を正史をもとに俯瞰すると、田中芳樹『奔流』の小説部分が見えてくる。寡をもって衆を撃つ(少数の兵で多数の兵を撃つ)ことを得意とする戦術の天才であったこと、個人としては弓射も乗馬も下手であったこと、白袍を着た部隊を率いていたことなどは、たしかに正史にも描かれている。
  しかし、韜晦が多く茫洋としたところのある小説の陳慶之像と比べて、正史の陳慶之の人物像はなかなか激越な性格で、その間にはかなりの乖離がみられる。
  正史の陳慶之の言動をみると、やたらと勇ましいものが多い。諸将が慎重論を唱えるときに積極的攻勢を説き、兵を死地に置かせ、あたかも韓信の背水の陣のような戦いを連発してなぜか勝ってしまっている。知将なのやら猛将なのやら実際よく分からない。
  そもそも『奔流』のクライマックスは鍾離の戦い(506〜507年)に置かれているが、陳慶之の生涯のクライマックスはずいぶん後で、北海王・元を洛陽に送った一連の戦い(529年)にあったといっていい。なにより正史の鍾離の戦いで陳慶之が登場しないことは前述したと思う。
  筆者の勝手な想像だが、『奔流』の主人公はほんらい陳慶之ではなかったのではないかとも思う。田中氏が書きたかったのは鍾離の戦いであり、そうすると
韋叡曹景宗中山王・元英楊大眼か、そのあたりの人物の誰かがもともとの主人公であり、陳慶之は場違いな物語に駆り出されたかりそめの主人公だったのではないか。
  だが、それも田中氏の計算ずくのことだったかもしれない。氏は同じく中国を舞台にした小説『紅塵』で、抗金の戦いを描きながら、ふつうなら華となるだろう岳飛・韓世忠らを脇に追いやって見事に描ききった。陳慶之もあえてメインの時代をずらして描いて、別の側面から光を当ててみたのかもしれない。
  いやしかし、筆者はこの作品にたいへん感謝している。この作品がなければ、陳慶之にも曹景宗にも楊大眼にも興味をもつことはなかったと思えるし、その魅力に気づくこともなかっただろうからだ。

  最後に本当の蛇足だが、『奔流』に登場する梁山泊・祝英台のふたりは、民間説話の人物であり、歴史上の人物ではない。当然、陳慶之とからむわけもありえないことを言い添えて、無粋きわまりない駄文をしめておく。


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人物簡介

蕭衍(464〜549)
  梁の初代高祖武帝。在位502〜549。斉の皇族、竟陵八友の一、雍州刺史。兄が斉の廃帝に害されると挙兵。建康を落とし、梁王朝を開いた。沈約、范雲らの名族を登用して政治に精励したが、晩年は仏教に傾倒し、朱异らを重用。東魏の降将・侯景の乱を招き、幽閉の末に没した。

蕭宝巻(483〜501)
  斉の六代廃帝。東昏侯。在位498〜501。明帝の子。乱行はなはだしく、雍州刺史・蕭衍の挙兵により廃殺された。

蕭宝融(488〜502)
  斉の七代和帝。在位501〜502。明帝の八男。南康王。蕭衍に擁立され、兄の廃帝・蕭宝巻を廃して即位。蕭衍に禅譲して没した。

蕭懿(?〜500)
  梁の武帝・蕭衍の兄。はじめ斉の安南邵陵王行参軍。梁州・南秦州刺史をつとめ、北魏の侵攻を防いだ。豫州刺史・裴叔業の乱を鎮圧。崔慧景が広陵で叛して首都を囲むと、軍を率いて救援して慧景を平らげた。尚書令・都督征討水陸諸軍事に上った。廃帝に忌まれて殺された。

元法僧(454〜536)
  北魏の皇族。孝明帝のとき、光禄大夫・兗州刺史・徐州刺史に上った。彭城に拠って叛したが、征討を受けると梁に奔った。梁武帝により侍中・司空・始安郡公に封ぜられた。

蕭綜(502〜532)
  梁の武帝の次男。豫章郡王。母が斉廃帝の宮人から武帝に寵されたため、武帝の子ではない可能性を疑い、父に隔意をいだいた。彭城に鎮していたが、北魏に奔った。南斉宗室の蕭宝寅が長安で叛したときは、おそれて逃亡した。のち孝荘帝のとき、太尉・斉州刺史をつとめた。

元延明(?〜530?)
  北魏の皇族。安豊王。孝明帝のとき、豫州刺史・侍中をつとめた。元法僧の乱を討って、徐州刺史となった。孝荘帝のとき、尚書令・大司馬を兼ねた。北海王・元が洛陽を落としたとき、これに加担したため、元が敗れると梁に奔った。江南で没した。多くの著述も残した。

元ケ(?〜531)
  北魏の皇族。臨淮王。宣武帝のとき、前軍将軍。侍中・尚書右僕射に累進した。六鎮の乱の平定に失敗した。爾朱栄が河陰の変を起こすと梁に逃亡した。北海王・元の北帰とともに尚書令に任ぜられ、司徒に上った。爾朱兆が洛陽に攻め入ると、殴殺された。

元(495〜530)
  北魏の皇族。北海王。車騎大将軍。爾朱栄が孝荘帝を擁立すると、太傅に上った。爾朱氏の横暴に耐えかねて梁に奔った。武帝はかれを魏主として立て、陳慶之に兵を率いて送らせた。城南で即位し、洛陽に入った。驕奢淫佚で朝野の失望を買い、爾朱栄に敗れ臨穎で殺された。

元暉業(?〜551)
  北魏(東魏)の皇族。父の濟陰王の爵位を叔父の元麗に奪われたため、上訴して復爵した。東魏のとき、司空・太尉・領中書監・録尚書事に累進した。ときの丞相・高澄に逆らい、曹操・司馬懿に喩えて批判した。東魏の彭城王元韶が北斉の文宣帝に屈したことを痛罵して殺された。

楊c(?〜531)
  はじめ広平王・元懐の左常侍。元義を弾劾してかえって誣告を受けたが許された。のち北鎮飢民二十余万を分散して食を与えた。北海王・元が梁兵に擁されて洛陽に入ると、南道大都督として滎陽に鎮した。城を陥され、元に捕らえられた。元が敗れると前官に復した。のち爾朱天光に殺された。

元天穆(?〜530)
  六鎮の乱のとき太尉掾として北討諸軍を慰労した。并州刺史・太尉を歴任し、上党王に封ぜられた。大将軍に上った。北海王・元が梁兵に擁されて北上すると、孝荘帝を河内に迎えて保護した。のちに爾朱栄とともに孝荘帝に殺された。

爾朱兆(?〜533)
  契胡族。爾朱栄の甥。北魏の中軍将軍・驃騎大将軍に上った。爾朱栄が誅されると、晋陽にいたり、洛陽に取って返して孝荘帝を弑した。節閔帝が立つと、侍中・柱国大将軍・都督十州諸軍事となる。高歓と韓陵山に大戦して敗れ、囲まれて自縊した。

爾朱世隆(500〜532)
  契胡族。北魏の孝明帝・孝荘帝に仕えた。爾朱栄が誅されると、建州に逃げ、長広王・元曄を擁立して晋陽に都した。元曄を廃し、節閔帝を擁立した。尚書令として朝政を専断した。のちに部将の賈智・張勧らに殺された。

王羆(?〜541)
  北魏に仕え、氐・羌の反抗を鎮圧して、冠軍将軍となった。梁州に鎮して、梁将・曹義宗が荊州を攻めたのに対して援軍を率いて撃退し、荊州刺史・撫軍将軍となった。車騎大将軍・霸城県公に上った。西魏のとき、華州に鎮し、東魏の丞相・高歓もあえて進攻しなかったという。

元子攸(507〜530)
  北魏の十代敬宗孝荘帝。在位528〜530。彭城王・元勰の三男。長楽王・侍中・中軍将軍。孝明帝が胡太后に殺害されると、爾朱栄により擁立された。爾朱栄が朝政を専断したため、これを除くため殿中で誅殺した。爾朱兆が復仇の軍を起こしたため、これに敗れて三級仏寺で縊り殺された。

爾朱栄(493〜530)
  契胡族。北魏に仕え、六鎮の乱の平定に活躍。太原に鎮して勢威を張った。孝明帝の密詔を受け、挙兵して洛陽に侵入、胡太后を殺害した。孝荘帝を擁立し、都督中外諸軍事・大将軍を自称した。北海王・元を破って洛陽を恢復した。専横きわまり、孝荘帝により殿中で誅された。

高歓(496〜547)
  六鎮の乱に参加し、杜洛周、葛栄に従った。爾朱栄に降り、晋州刺史。爾朱栄が殺されると、信都に拠って自立した。爾朱一族の内紛を契機に山西を奪い、爾朱兆を討って洛陽に攻め入った。孝武帝を擁立して、大丞相を称し、北魏の実権を握った。帝が長安の宇文泰のもとに逃げると、孝静帝を鄴に擁立して東魏を建て、その専権を握った。西魏の宇文泰と対峙したが、河東奪回の作戦中、陣中に没した。北斉の高祖神武帝と追尊された。

劉霊助(?〜531)
  北魏の人。陰陽占卜を好んだ。爾朱栄に仕え、卜筮を的中させて功曹参軍となり、撫軍将軍・幽州刺史に上った。爾朱栄が孝荘帝に殺されると燕王を称して自立した。のちに叱列延慶らに固城で斬られた。

侯景(503〜552)
  はじめ爾朱栄に属す。のち高歓の麾下で爾朱氏誅滅に従った。東魏のとき、兵十万を擁して河南に鎮した。高澄にうとまれ、河南を挙げて梁の武帝に帰順した。しかし東魏と梁は和平したため孤立し、叛乱を起こして建康を包囲した。建康を陥落させ、武帝を幽閉し、簡文帝を擁立。のち漢帝を称した。王僧弁・陳覇先らに敗れて、海上に逃れ殺された。

韋叡(442〜520)
  斉末に建威将軍・上庸太守となり、蕭衍と親交を結んだ。蕭衍が起兵すると、郢州の留守をつとめた。梁初には輔国将軍・豫州刺史。北伐し、合肥を攻め落とした。北魏が反攻して中山王・元英率いる大軍が鍾離を囲むと、豫州の兵を率い、征北将軍・曹景宗の軍と合して、北魏軍を火攻し大勝を博した。永昌侯に封ぜられ、散騎常侍・護軍将軍にまで上った。体が弱く騎馬に乗れず、輿に乗って督戦し、北魏の人は「韋虎」と畏称した。

曹景宗(457〜508)
  宋末に天水太守。陳顕達の北伐に従い、北魏の援軍四万人を破る。斉の明帝のとき竟陵太守。蕭衍の起兵に従い、散騎常侍・右護衛軍。郢州刺史に進む。北魏の中山王の軍が鍾離を囲むと豫州刺史・韋叡とともにこれを大いに破った。侍中・領軍将軍に上る。江州刺史として赴任途中に没した。妓妾数百人をかかえ、財貨には貪欲だったという。

元英(?〜510)
  北魏の皇族。南安王を継ぐ。孝文帝のとき南征の軍に従軍して、安南大将軍に進み、荊州に鎮した。斉の陳顕達に敗れて免官された。宣武帝のとき、持節・仮鎮南将軍となって南征。中山王を封爵。勝ちに乗じて鍾離を囲んだが、梁軍に大敗を喫した。死罪となったが罪一等を減じて庶民に落とされた。のち復爵。征南将軍として南征し、梁将二十六人を捕らえた。尚書僕射に任ぜられた。

楊大眼(?〜518)
  氐族。北魏に仕えた。対斉の南征軍に従軍し、武勇は三軍に冠絶。妻の潘氏も騎射に通じ、ともに戦場にあった。宣武帝のとき、直閣将軍・征虜将軍・東荊州刺史を歴任。樊秀安を平定し、梁将・王茂先を破って、平東将軍。梁の鍾離を囲み、梁の豫州刺史・韋叡に敗れた。営州に移され一兵卒に落とされた。のち再び起用されて太尉長史・平南将軍。孝明帝のとき、荊州刺史。任地で没した。



参考文献・史料
田中芳樹『奔流』(祥伝社)
『梁書』巻三十二「列傳」第二十六
『南史』巻六十一「列傳」第五十一
『資治通鑑』巻一百五十「梁紀六」から巻一百五十七「梁紀十三」
『中国歴史大辞典−魏晋南北朝史』(上海辞書出版社)


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