枕流亭・本館

夏商周三代の紀年について


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  中国は、古代文明発祥の地のひとつで、文字による古代の歴史記録も比較的多く残されている。そのため、その遡りうる歴史はとにかく古く、一般にも「三千年の歴史」とか、「四千年の歴史」とか「五千年の歴史」とかいわれる。
  その古い歴史を遡って中国史の年表を作成するとき、どこまで確実な紀年が定められるだろうか。まず文献史学では、西周の共和元年(841B.C.)までとされている。
  それ以降の歴史では、王朝の画期が確定され、王・皇帝の在位年代も判明しているのだから、これは世界史的にもみても大したものである。
(※近年、平勢隆郎『新編史記東周年表』のような異説も出ているが、ここでは混乱を避けるため、言及を避ける.)
  逆に言えば、紀元前841年より前では、王の在位年代も王朝の画期となる年代も判然としておらず、年代の概数を挙げることができるにすぎない。
  しかし、歴史学はその概数を実際の紀年に近づける努力をおこたってはいないようだ。去る2000年11月9日、中国の「夏商周断代工程階段成果学術報告会」が、《夏商周断代工程1996-2000年階段成果報告》を発表した。これは、中国古代の夏・商・西周の三王朝にわたる年代を確定しようという試みの中間報告である。中国の文献史学・考古学・天文学によるこれまでの成果を、総動員したものであるらしい。

  さて、筆者は歴史好きのアマチュアに過ぎないし、この「断代工程」の成果報告の内容を逐一検証するような能力も持っていない。よって、「断代工程」の報告の結論の要旨を紹介するにとどめ、少し自分なりのオマケをつけて、関心のあるかたのご批評を請うことにしたい。

  下の表は、「夏商周断代工程」の成果による「夏商周年表」に、
1.『史記』や『竹書紀年』による諸王の在位年数(&王朝の総年数)
2.『世界史年表』(吉川弘文館)による年代
3.日本での一般的な説による年代
  〔貝塚茂樹・伊藤道治『古代中国』(講談社学術文庫),水野清一編『中国文明の歴史1中国文化の成立』(中公文庫)などを参照した. 〕
の3項目を加えた表である。
朝代「断代工程」年代「工程」
年数
『史記』年数
(『竹書紀年』)
吉川弘文館年表日本での一般的な説
2070B.C.─1600B.C.471年(17王,471年)
商(前期)1600B.C.─1300B.C.300年(29王,496年)1400B.C.─1300B.C.1550B.C.頃─1300B.C.頃
商(後期)1300B.C.─1046B.C.255年1300B.C.─1027B.C.1300B.C.頃─1050B.C.頃
盤庚1300B.C.─1251B.C.50年
小辛
小乙
高宗(武丁)1250B.C.─1192B.C.59年
祖庚1191B.C.─1148B.C.44年
祖甲
廩辛
康丁
武乙1147B.C.─1113B.C.35年
文丁1112B.C.─1102B.C.11年
帝乙1101B.C.─1076B.C.26年
帝辛(紂王)1075B.C.─1046B.C.30年
西周1046B.C.─771B.C.276年(257年)1027B.C.─771B.C.1050B.C.頃─771B.C.
武王1046B.C.─1043B.C.4年2年以上1027B.C.─1025B.C.
成王1042B.C.─1021B.C.22年40余年1025B.C.─1005B.C.
康王1020B.C.─996B.C.25年1000B.C.─967B.C.
昭王995B.C.─977B.C.19年(19年)967B.C.─948B.C.
穆王976B.C.─922B.C.55年55年948B.C.─928B.C.
共王922B.C.─900B.C.23年928B.C.─908B.C.
懿王899B.C.─892B.C.8年908B.C.─900B.C.
孝王891B.C.─886B.C.6年898B.C.─888B.C.
夷王885B.C.─878B.C.8年(7年)888B.C.─858B.C.
脂、877B.C.─841B.C.37年37年858B.C.─842B.C.
共和841B.C.─828B.C.14年14年841B.C.─828B.C.841B.C.─828B.C.
宣王827B.C.─782B.C.46年46年828B.C.─782B.C.828B.C.─782B.C.
幽王781B.C.─771B.C.11年11年782B.C.─771B.C.782B.C.─771B.C.
  さて、以下は全くの蛇足である。
  夏商周三代のうちの最初の夏王朝については、中国では既にその実在を前提に議論が進められているが、欧米や日本では懐疑的な論調がまだ支配的である。たしかに夏王朝に相当する年代に、河南省二里頭遺跡に代表される高度な文化があったのは間違いない。しかし、その二里頭文化が、『史記』などの文献史料が言及する「夏」と同等のものであるかは、まだ確実な証拠がないのである。「断代工程」の「夏」の2070B.C.─1600B.C.という年代も、龍山文化後期から二里頭文化の年代として捉えるとするなら、ほぼ間違いないものといえよう。
  次の商(殷)王朝を前期・後期に分けた年代については、概数として妥当ではないか。考古学的にも、1300B.C.頃を境に二里岡文化期と安陽(殷墟)文化期とに分かれることにほぼ異論がなく、その比定年代もおおよそ正しいはずだ。商王朝の諸王の在位年代については、筆者には知識がないので判断を保留させていただく。
  西周の1046B.C.─771B.C.という年代も概数としては良いと思うが、諸王の在位年代を含めて完全に年単位で確定しまうとすると、細かい点で異論が出るのではないだろうか。
  いずれ仮説にすぎないとしても、こういう試みは古代史を整理する上で貴重なものとなるだろう。今後の研究と議論の進展に期待したい。


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