枕流亭・本館

遼の淳欽皇后述律氏と3人の皇子たち


  今回は、ある烈女とその息子たちの史話をば。
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  淳欽皇后述律氏は、遼の国母であり、契丹の女傑である。

  契丹は、中国から見て北方民族にあたり、東胡から出たという。南北朝の北魏のころ、はじめて歴史に姿を現わし、八部に分かれて今の遼河(遼寧省)あたりを遊牧していた。
  10世紀のはじめに、耶律阿保機が出て、諸部を統合し、渤海国を滅ぼし、契丹国を建国する。
  のちに改称したその王朝の名を「遼」(916-1125)という。
  建国の祖の耶律阿保機は、廟号で遼の太祖と呼ばれる。

  述律氏は、その太祖・耶律阿保機の妻たる人である。
  名は平。祖先は西方のウイグル人だったと伝えられるが、確かなところでは契丹の右大部の出身とされている。
  太祖が勢力を拡大し、契丹の皇帝に即位すると、その妃であった述律氏は皇后に立てられ、応天大明地皇后と尊号をたてまつられるにいたった。
  しかし述律皇后は、たんに深閨の人ではなかった。
  太祖が党項族を討つため出撃し、彼女が留守を守っていて、黄頭・臭泊の二つの室韋族が虚をついて襲撃をかけてきたことがあった。皇后は、このとき近侍の兵を率いて戦い、室韋族をおおいに破った。
  このため、その名は諸族に大きく鳴り響いたのだった。

  この女傑が持ち合わせていたのは、勇武のみではなかった。
  太祖に無礼を働いた韓延徽を礼遇し、用いるように勧め、太祖の謀主となしたのも彼女のはたらきであった。
  またあるとき、呉の李昪が猛火油という兵器を太祖に献上してきたことがあった。水をかければむしろ火の勢いが強くなるというすさまじい火器である。太祖はこのことを喜んで三万騎を編成し、いっきに幽州を攻めようとした。
「油を試すのに人の国を攻める者がいるのでしょうか?」
  このとき述律氏はそう言って、帳の前の一本の樹を指さした。
「あの樹がもし皮がなくなったら、生きていられるでしょうか?」
「生きてはいられまい」太祖は答えた。
「幽州には土地があり、民があります。三千騎をもってその四方の野を掠めれば、数年とたたずに皮をはがれた樹のように衰えて帰順してくることでしょう。なにをこのように大げさなことをする必要があるでしょうか?乾坤一擲の大いくさをやって万が一にも勝てなければ、中国中の笑いものになるだけでなく、わたしの部落もばらばらになってしまうでしょう」
  皇后の話に太祖はいたく感服したという。
  このように渤海国を平定するときにも、述律皇后の智嚢は役立ったのだった。

  太祖が亡くなったとき、述律皇后は称制し、軍事と国事をつかさどった。
  太祖のなきがらが葬られるにいたって、皇后は殉死を望んだ。親族や宮廷の百官は力を尽くしてこれを諫めたため、やむなく自分の右腕を切って柩に納めたにとどめたという。
  太祖と彼女の間の次男の耶律徳光が即位すると、皇太后に上った。

  さて、ここで太祖と彼女の間に生まれた3人の息子を紹介したい。

  長男の名は倍、次男の名は徳光、三男の名は洪古という。三男の洪古は、史書で幼名の李胡と呼ばれることが多いので、ここでも李胡としておこう。


  長男の耶律倍は、幼いころから聡明で、学問を好んだという。太祖が皇帝に即位すると、皇太子に立てられた。
  あるとき、太祖が臣下に問うたことがある。
「天命を受けた君主は、天に仕え神をうやまうという。大きな功徳のあるものをわしは祀りたいと 思う。どの神を先にすべきであろうか?」
  これに対して、諸臣はみな「仏を先にすべきである」と異口同音に答えた。
「しかし仏教は中国本来の教えではない」太祖が口にすると、
「孔子は万世に尊ばれている聖人です。これを先にするのがよろしいでしょう」
  皇太子倍がそう答えると、太祖はおおいに喜んで、孔子廟を建て、太子には『春秋経』をおさめさせたという。
  なにやら儒教宣伝くさく、出来過ぎた話のようだが、耶律倍がじらいの契丹人と異なり、中国古来の学問をおさめた知識人であったことをうかがわせるエピソードである。

  皇太子倍は、烏古・党項などの異民族への遠征に従った。太祖が西征したときには,留守を守った。東北の強国であった渤海に遠征したときは、弟の徳光とともに先鋒をつとめた。渤海の都城・忽汗を囲んで陥落させ、滅ぼすことに成功した。渤海国は東丹国と改名され、皇太子倍は人皇王としてここに封じられて遺民の統治にあたった。太祖は「おまえを得て東土を治めさせるのだ。わしは何の心配もいらない」と言い残した。倍は感動して号泣したという。この言葉が太祖の遺言となってしまった。
  遼太祖・耶律阿保機は、渤海征服からの凱旋の途中、扶余府で亡くなった。

  父の訃報が届くと、耶律倍は祖陵にかけつけた。倍は、母の皇太后述律氏が弟の徳光を帝位につけたいと考えているのを知っていた。倍は群臣や太后にはかって、弟に譲位を申し出たという。
  このあたり、やたらあっさりと正式な後継者だった長男は引き下がっているが、本当に母を憚っただけの話なのであろうか。もしかしたら、書かれざる兄弟の暗闘があったのかもしれない。またもしくは世俗的欲望に乏しい兄が、弟に統治の責任を押しつけたのかもしれない。
  かくして、耶律徳光が帝位についた。遼の太宗と、死後に廟号で呼ばれることとなる二代目皇帝である。

  帝位継承の権利を譲った兄は、かえって弟・太宗に疑われて、東平に身柄を移された。衛士が置かれてその動静は監視を受けた。内心穏やかではなかったと思われるが、そんなそぶりも見せず、石碑の文章を撰し、書筆をふるい、田園詩を創作するなどまったくの文化人としての生活に耽溺していた。

  北方の遼の興隆に対して、このころの中国内地は五代十国の戦乱のさなかにあった。遼の二代目太宗が即位したころは、華北に建てられた五つの王朝のうちの二番目の王朝の時代に当たっている。その華北政権は唐を自称し、後世「後唐」と称される。
  その後唐の皇帝・明宗(李嗣源)が、耶律倍に目をつけた。
  明宗は、ひそかに海上経由で使者を送って、耶律倍を召し出そうとした。
  倍は決心をかためて、
「わたしは天下を主上にお讓りしたのに、今はかえって疑われている。かくなる上は他国に生きる道を求めるしかない。呉の太伯の故事にならおうと思う」
  近侍のものたちに言い渡した。
  ここにいう呉の太伯とは、古代の周の古公亶父の長子であり、末弟に国を譲って出奔し、呉の建国者となった人物のことである。
  倍は船に女官と書物を載せてひそかに出港し、後唐に亡命した。

  後唐の宮廷は、契丹のもと皇太子を天子なみの儀礼で迎えた。明宗は先帝の後宮の女官だった夏氏を倍に妻として与えた。姓を賜って東丹とし、名を慕華と改めさせた。
  さらに懐化軍節度使・瑞慎等州観察使に任じ、再び姓を賜って李とし、名を賛華とした。

  耶律倍改め李賛華は、異国にあっても故国の肉親たちのことを忘れなかったようである。
  時は流れ、後唐の明宗が亡くなり、その子の閔帝の時代となっていた。明宗の養子にあたる李従珂が閔帝を殺害し、国を奪ったのである。このとき倍は故国の太宗に密報を送り、「従珂がその主君を弑したので、この機会に後唐を討ちなさい」と勧めた。
  遼の太宗は、石敬瑭を晋主として立てることで大義名分をえて、兵を発して洛陽を占領し、後唐を滅ぼした。
  この功労者の耶律倍はというと、後唐滅亡に際して李従珂が殉死を要求した。それを拒んだため、従珂に遣わされた李彦紳という壮士に殺されてしまったのである。
  享年は三十八歳。遼の皇族として、亡命者として、文人として、多くの人に惜しまれた死であった。
  のちに世宗のとき譲国皇帝と追尊され、さらに興宗のときには文献欽義皇帝と諡され、義宗という廟号も与えられた。太宗の死後、倍の子が帝位を継ぎ、その系統が続いたこともあって皇帝なみに扱われたのである。

  耶律倍は、太宗即位のときのエピソードが語るように、実母である述律氏に疎まれていたようだ。
  その確かな理由は分からないが、それを推測させる材料はある。
  かれは外に対しては寛弘な人であったが、内に対してはたいへん厳しく、それどころか暴君でさえあったらしいのである。
  家の中の婢や妾にわずかな過失でもあればヤキゴテを当てるなどして咎め、殺すこともあったという。妻の夏氏は、これを恐れて剃髮し、尼になってしまったのだそうだ。
  述律氏は、長男のそうした部分を嫌ったのかもしれない。


  太祖と述律氏の間の二番目の息子・徳光については、簡単にすませたい。前述のような事情で、かれは兄を差し置いて皇帝として即位するにいたる。即位以前にも、兵馬大元帥として太祖の征旅に従うことが多かった。
  これまた前述のような経緯で、太宗皇帝は南征の軍を起こし後唐を滅ぼした。石敬瑭による後晋の建国を助け、「燕雲十六州」の割譲を受けたことは世界史でも有名である。
  後晋朝も二代・少帝の時になって、契丹に叛くようになったため、ふたたび太宗は南征し後晋を滅ぼした。契丹軍は華北を占領したが、漢人に対する統治のノウハウがなかったため叛乱が続出し、退却を余儀なくされる。
  父太祖と同じく、太宗も本国帰還の中途で亡くなった。享年は四十六。


  さて最後の三番目の李胡は、母親の述律皇后にもっとも愛された人である。
  しかし溺愛されたのが良くなかったのか、その性格は残酷で、思いやりに欠けるところがあったらしい。たいした理由もなく、人の顔面に入れ墨を彫ったり、人を水の中や火の中に投げ入れたり、ということをしていた。このあたり、長子の倍とは性格が逆だったのかもしれない。李胡は内に甘く外に暴虐の性質を示したのだろう。

  三兄弟について面白いエピソードがある。
  ある年の冬にたいそう寒い日があって、父太祖は三兄弟に薪を取ってくるように命じた。
  最も早く帰ってきたのが次男の徳光で、木の種類も選ばずにただ取ってきた。
  次に帰ってきたのが三男の李胡で、なにやら少しだけ取ってきて、多くを捨ててきていた。
  遅く帰ってきたのが長男の倍で、乾いた木を選びとり、束にまとめて帰ってきた。
  太祖はあとで批評して、「長男は巧妙で、次男はまあまあだ。末っ子はダメだな」

  李胡は、太宗のとき皇太弟に立てられ、兵馬大元帥に任ぜられた。太宗が親征するときには、常に都城の留守をつとめていた。

  太宗が遠征帰還中に没して、耶律倍の長男にあたる阮が鎮陽で三代皇帝(世宗)として擁立されると、述律太后は憤激した。太后は李胡に兵を率いて攻めさせたが、泰徳泉で李胡の軍は敗れてしまった。 そこで太后はみずから軍を率いて出馬する。述律太后の軍と世宗の軍は潢河をはさんで対峙した。
  世宗陣営も国祖の妻で現皇帝の祖母たる人を討つのを憚った。もしくは往年の女傑の底力を本気でおそれたのかもしれない。耶律屋質という人物を派遣して、話し合いによる決着をはからせた。
「主上がすでにお立ちになったのです。これを認めていただきたい」
  耶律屋質は太后を諫めた。
  このとき、李胡がそばにいたので、
「おれが正統な後継者としているのだ。兀欲(耶律阮の幼名)がなぜ立つことがあるんだ!」
と、色をなしてわめいた。
「残虐で人心を失った者がどうなさろうというのか」
  屋質は遠慮容赦もなく言い返した。
  太后は李胡のほうを振り返って、
「太祖とわたしは、おまえを諸子の中でことのほか愛してきました。しかし『偏愛された子は功業を保つことはない』と言います。わたしはおまえを立てたいとは思いません。おまえには無理でしょう」
  こうして世宗陣営と太后陣営の間に和約が成り、世宗皇帝が認められた。
  李胡と太后は祖州に身柄を移された。

  述律太后は応暦三年(953)に七十五歳で亡くなった。諡は貞烈。興宗のとき、淳欽皇后と追尊された。
  太后がもっとも愛した李胡は、穆宗のときに息子の喜隠の謀反に連座して逮捕され、獄中で死んだ。 享年は五十。聖宗のときに欽順皇帝と追尊され、さらに興宗のときに章粛皇帝と諡された。

淳欽皇后述律氏の息子たちは、三人三様の人生を送りながら、ともに死後は皇帝の格式で追慕されたのである。


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